287 夕紅は彼方に
度々すいません、また1話です。
なかなか作業が進まず……申し訳ないです。
「〝骨姫〟、ロザ……ッ!?」
前触れもなくそこに現れたロザリーは、冷たい目でイングリッドを見つめている。
イングリッドは恐ろしくて視線を合わせることすらできない。
彼女は叱られた子供のように視線を漂わせ、顔からは滝のように汗が噴き出ている。
(〝骨姫〟……激してる!)
ロザリーの顔つきからは感情を読み取れないが、彼女の魔導が長い黒髪に伝わり、薄く紫色に発光しながら宙を泳いでいる。
大いなる魔導が肉体に収まり切れていない証明だ。
イングリッドは絶望した。
先ほど体験したドゥカスの殺気とは、まるで別のものだったからだ。
例えるなら、迫り来る山津波を目前にして何もできず立ち竦むしかない状況に似ている。
大いなる存在を前にして、小さき者に何ができようか。
イングリッドだけでなく、包囲する王都守護騎士団も、大勢の野次馬も、アーサーや手勢ですらも、ロザリーの魔導に直面して時が止まったかのように凍りついた。
――しかし。
その空気を打ち破ったのは他ならぬドゥカスだった。
「……なぜ止めたッ!」
その声に、ロザリーがドゥカスのほうを振り返る。
(ッ! 今だ!)
振り向いた隙に、イングリッドは後方に飛び退いた。
ドゥカスに意識を向けたロザリーから攻撃は来ず、彼女は難を逃れた。
(っ、助かった。だが今のドゥカス殿の台詞は――)
「これはこれは!」
意図せぬロザリーの到来に興奮を隠せないアーサーが、彼女に向かって叫ぶ。
「今、話題の英雄様にまでおいでいただけるとは! しかし、なあ?」
アーサーがニヤリと笑う。
「残念ながら貴女も無関係だ! 何せお招きしていないからな? さ、お帰りを!」
言われているロザリーは、アーサーのほうをチラリとも見ない。
俯くドゥカスを見つめ、静かに言った。
「ドゥカス殿。私は余計なことをしましたか?」
「おい、聞けっ!」
アーサーの声を更に無視し、ロザリーが続ける。
「……やはり、死ぬおつもりだったのですね?」
(ッ!?)
これを聞いたイングリッドは肝が冷える思いだった。
彼女は主たるアーサーの命令とドゥカスへの恐れに挟まれ感情が入り雑じり、決断を誤ったのだと理解した。
(そうよ、ドゥカスの命はピーターやウォルターのような末端騎士のそれとは違う!)
(腐っても王都守護騎士団の団長。ここで死なれたら、アーサー様とて無傷では済まない!)
(だからこそ、ドゥカスだけは敷地に入れないように動いたのに……)
(意図しないタイミングで侵入されて、私は当初の目的を見失った。その上で、私自らドゥカスを殺そうと……最悪だ、未熟者め……!)
さらにロザリーが続ける。
「ユールモンの舘で死ねば、ピートが戻ってくると考えたのですか?」
ドゥカスは観念したように語り出した。
「……儂が死ぬようなことになれば王宮も注視する。ピートたちも殺されることはないだろう。それに――」
「それに?」
「――死ねば変わると」
「大貴族の特権が、ですか? それとも王都守護騎士団自体が?」
「両方だよ。治安維持を担う我らが置かれた苦しい状況すべてだ。門の外を見たまえ」
ロザリーが目を向けると、多くの王都守護騎士団たちと目が合った。
ドゥカスが続ける。
「皆、怯えているだろう? 誤解しないでくれ、彼らが恐がっているのは大貴族そのものではない。正しいことをやって、それで身を滅ぼす現実が恐いのだ。それは胸に持った矜持を打ち砕くものだからだ」
ロザリーが目を細める。
「……少々、甘い気がします」
「彼らは大魔導たる卿とは違うのだよ」
「いえ。死ぬことで彼らが変わると、そう信じるドゥカス殿のお考えがです」
それを聞いて、この場で初めてドゥカスは笑った。
「……フフッ。必ず変わるなどとは思っておらぬよ。ただ、淡い願い……一縷の望みだ」
その笑みにまったく険がなく、あっけらかんとしたものだったので、ロザリーはそれ以上何も言わなかった。
するとドゥカスがハッ、と顔色を変えた。
「それはそうと。なぜロザリー卿がここに?」
「これは昨晩の意趣返し。ピートは私の同期です」
「なんと……そうでしたか」
「ええ。ですからこの場は私が――」
そこでイングリッドが叫んだ。
「――いいや、ロザリー卿! あなたにはご遠慮願いたい!」
ロザリーが眉を寄せる。
「それはピートを解放するということ?」
「ピーター=ロスコーが卿の同期だという話は聞いた! だがそれが意趣返しだというのは卿の思い込みに過ぎない! 彼はアーサー卿に無礼を働いたためにここにいるのだ!」
「今さら何を? 話にならないわ」
「では何か? ロザリー卿の知己の者は何をしても罰せられないのか? そんな馬鹿な話があろうか! 大貴族とロザリー卿、どちらが横暴か!」
詭弁である。
しかしイングリッドにしてみれば決死の覚悟の詭弁であり、引く姿勢を微塵も見せない。
それに苛ついたロザリーが悪態をつく。
「……よく口の回る。さっきまで子犬のように震えていたくせに」
ここで、ドゥカスが叫ぶ。
「では護衛の騎士殿! これはどうか!」
ドゥカスは素早く剣を抜いたかと思うと、その場に膝をつき白刃を己の首に押し当てた。
「!!」
「儂がここで死ねば、大貴族の横暴と王都守護騎士団の苦境を多くの者に知らしめることができる! ならば殺されずとも自決すれば同じことよ! なあ!?」
イングリッドの顔が強張る。
鼻で笑って「やれるものならやってみろ」とでも言いたいが、今のドゥカスはやるに決まっている。
ドゥカスはロザリーを見上げた。
「さ、お帰りくだされ。あなたを巻き込みたくはない」
ドゥカスは笑顔だった。
その顔を見て、ロザリーもドゥカスが本気なのだと悟った。
いつの間にかロザリーは空を見上げていた。
夜がすぐそこまで来ている。
夕紅は彼方に追いやられ、夜の群青とせめぎ合った名残りが空を神秘的に飾っていた。
(私、まだ迷ってる……)
(紫の空……私の色……)
(一色ではないのね。混じり合ったまま。まだらやグラデーションがある)
(私の心と同じ……)
ロザリーは何かに追われてそうなるようで嫌だった。
でもそれが夜の訪れのように必然であるならば、必要なのは迷いや躊躇いではなく、受け入れる覚悟であろう。
ロザリーはドゥカスに言った。
「……ドゥカス殿」
「ロザリー卿。もう止めてくださるな」
「あなたのお立場、私が代わります」
「代わる? あなたが自刃することに意味はないだろう」
「そうではなく。昨夜のお申し出、まだ活きていますか?」
ドゥカスは剣を首に当てたまま固まり、しばらくしてから何を言われたのか悟った。
ドゥカスは剣を投げ捨て、ロザリーを見上げる。
「……もちろん! もちろんだとも!」
「では、今この場でくださりませ」
「――何だ、何が起きている?」
敷地のすぐ外に待機していたオパールは、ドゥカスが自決しようとするのを見て、すぐさま突入しようとした。
だがあらかじめオパールが突っ込む可能性を考慮していた彼の部下たちによって、羽交い締めにされ、手足まで押さえられて突入できずにいた。
「いいかげん放せ、シリル! タイラン!」
「できません!」「突入するに決まってます!」
「違う! 団長殿が剣を捨てたのだ!」
「「えっ?」」
部下たちの目がドゥカスとロザリーに向かう。
「あれ? たしかに剣を捨ててる……」「ビビったのか?」
「そんなわけがあるか、馬鹿者!」
「では団長殿は何を?」
「それは……わからん」
オパールたちを含む大勢の王都守護騎士団団員の見る前で、ドゥカスが自刃の姿勢から立ち上がる。
「んっ?」「こっちを見た!」
「何をなさるおつもりだ……?」
ドゥカスははっきりとこちらを見たが、何かを命じるサインなどではなかった。
団員たちが注視する中、彼は自分の肩に手をやった。
そして――。
「う、うッ!!」
「オパール様、これって!」「まさか、え? 嘘だろ?」
ドゥカスは王都守護騎士団団長の証たる青白マントを外し、それをロザリーの背に着せたのだ。
ドゥカスは団長になって二十五年にもなる。
それはオパールほどのベテラン王都守護騎士団であっても、ドゥカス以外の団長を知らないということだ。
もちろん、団長が代わる様など見たこともない。
目の前で起こった団長交代劇に、オパールは思考停止していた。
「オパール!」
そんな彼にドゥカスが叫んだ。
意識を引き戻されたオパールは、返事もせずにドゥカスを見た。
「起きたことを皆に告げよ!」
「……ハッ!」
大勢の王都守護騎士団の中には、仲間の人垣に阻まれて中の様子を見ていない団員も多くいる。
オパールは部下のタイランに目配せし、自分を担がせた。
人垣から頭一つ抜けた位置から、そこにいる仲間たちに大声で告げる。
「団長が代わった! 王都守護騎士団の団長が代わったッ!」
ざわめく仲間たち。
特に中の様子を見ていない団員は、さっきまでのオパールと同じように思考停止して首を捻っている。
見たこともない、現実味のない話を聞かされれば、誰だってこうなり得る。
そんな仲間たちに向かい、オパールが繰り返す。
「団長が代わった! 新しい団長だ!」
と、そこへ――。
「っ! オパール様!」
部下のシリルに呼ばれ、後ろを振り返る。
ロザリーが団長のマントを翻し、すぐそこまで歩いてきていたのだ。
ロザリーが言う。
「あなたは……たしかオパール卿、でしたね?」
「ハッ。オパールで結構です、団長殿!」
「わかったわ、オパール。それと――」
「――タイランです! 団長殿!」
「タイラン。オパールと二人で、私のことを持ち上げてくれる? みんなから見えるように、できるだけ高く」
「「ハッ!!」」
オパールとタイランの二人は、ロザリーをゆっくりと持ち上げた。
ロザリーの腰が彼らの肩の高さまでくると、彼女の足裏を両手で持ち、掲げるように持ち上げた。
これにより、ロザリーのほぼ全身が周囲の者たちから見えるようになった。
まず、噂の〝骨姫〟を見た野次馬たちが沸いた。
ロザリーの名が繰り返し呼ばれ、拍手が巻き起こる。
続いて、彼女が青白二色のマントを着けていることに気づいた王都守護騎士団たちがじわじわと、やがて地響きのように沸いた。
十分に間を取って、ロザリーが手を挙げて声を制す。
そして凛々しい声で告げた。
「新団長のロザリー=スノウオウルである!」
再び地響きのような唸り。
それをもう一度手を挙げて制し、ロザリーが続ける。
「今、王都守護騎士団は苦境にある。辞めていく仲間も多いと聞く。諸君らの中には今まさに思い悩んでいる者もいよう。……私は諸君らを止めない。辞めるなら辞めればいい。私は困らぬ。なぜなら――」
ロザリーが手をかざす。
するとそれを合図に、夕闇の暗がりから具足を着けた死霊が無数に這い出てきて、ユールモンの舘の壁の上や外周、はては館の屋根にまで布陣した。
アーサーや手勢、イングリッドの顔が強張る。
「――私には死者の軍勢がいる! 彼らは決して裏切らず、何者にも怯えない! ……だが、もしも!」
ロザリーが王都守護騎士団たちの顔をゆっくりと見回す。
「もし、諸君らが王都守護騎士団に残り、その信念を捨てぬなら! 私は諸君らの盾となろう! もう何も怯えることはない! どんなに高い地位にいても悪人は悪人だ、そうだろう!?」
団員たちが足を踏み鳴らし、地面が揺れる。
「諸君らが権威に怯めば、その陰で泣く者がいる。それは民草かもしれない。仲間かもしれない。もしかしたら諸君らの家族かも。下層で物乞いする名も知らぬ孤児かもしれない。……本質的に、王都守護騎士団は逃げられないのだ。例え負け戦に見えても、そこに罪あらば立ち向かわねばならない」
そしてロザリーがバッ! とユールモン邸のほうを指差す。
「今! 仲間が不当に捕らわれている! 二人は辱められている! 本当に彼らに罪があるのか、諸君らはもう知っていよう! この状況を受け入れるのか? 見て見ぬふりをすると? ――あり得ないッ! 我々は王都守護騎士団である! 罪に背を向けたりするものかッ!」
「「おおおおお!!」」
王都守護騎士団、その一人一人の心の内で煮えくり返っていたものがついに溢れ、雄叫びとなってミストラルに響き渡った。
最後にロザリーが告げる。
「ユールモン? 大貴族? 知ったことか! 私が許す! ――総員突入!」
ロザリーの命令に、団員たちは弾けるようにしてユールモンの敷地に雪崩れ込んでいった。





