280 晩餐会―下
「アーサー卿……!」
「覚えていてくれたか。嬉しいぞ、ロザリー卿?」
アーサー=ユールモン。
二十代中頃の、貴公子然とした外見の大貴族。
その見た目とは裏腹に極めて残虐な男。
ロザリーはこの男が苦手というより嫌いだった。
アーサーが話す声を聞けば聞くほど、嫌いになっていく感触があった。
「……忘れるわけがありませんわ」
「そう睨むなよ、クク……西方ではご活躍だったそうで?」
「幸運に恵まれただけです」
「重要なことだ。運がなければ戦には勝てぬ。そうだろう?」
「仰る通りです」
「だからこそ、だ。私は考えを改めたのだ」
「改めた……?」
するとアーサーは握手の手を引き、ロザリーの身を強引に引き寄せた。
「ロザリー卿。我がユールモンへ輿入れされよ」
周囲の者たちがざわめいた。
特に四大貴族家の当主たちは、はっきりと顔色を変えた。
「……ご冗談を」
ロザリーは距離を取ろうとするが、アーサーは手を離さない。
「何が冗談なものかよ。卿の幸運をユールモンに欲しいのだ。それに――」
アーサーはロザリーの肩に腕を回し、首筋のすぐそばで囁いた。
「――毎晩かわいがってやるぞ?」
周囲のざわめきが収まらない。
四大貴族家の当主たちの視線は、席に戻ったエイリス王に集まっていた。
アーサーの発言に最も心中穏やかならぬのは、他ならぬエイリス王であった。
十六年前、王家のためにと持ち帰った皇国大魔導の血。
それを臣下がかすめ取ろうというのだ。
これまでもロザリーに婚姻を申し入れようとする貴族がいるにはいたが、順序を守っているかぎりは見逃してきた。
正式に婚姻が成るには順序があるもので、順序を守れば相応に時間がかかる。
つまり順序を守るならば、王の意に沿わない婚姻は妨害することができるのだ。
しかし、目の前の申し入れは順序も礼節もない。
それを王の目前で、それも多くの臣下がいる前でやられては面目が立たない。
アーサーは、王としても尊重すべき四大貴族家の次期当主である。
ではあるが――。
凪いでいた獅子王の気配が急激に不穏なものへと変わり、察しのよい者たちがこれに気づく。
シャハルミドは静かに席を立ち、そのまま広間を出た。
デファンス家とドーフィナ家の当主は静かにロザリーとアーサーから距離を取り、唯一アーサーを諫めようと機を窺っていたウォチドー家のジュリア卿も、危うさを感じ身を引いた。
そして先王弟は――ロザリーに口外できぬ感情を抱く彼は、エイリス王に輪をかけて恐ろしげな表情でアーサーを睨んでいた。
この異様な状況を解決すべく、いち早く動いたのはミスタ卿であった。
「おお、アーサー卿!」
席から急いで駆けつけ、トレードマークの皇帝髭をピン! と立てて微笑んだ。
「ロザリー卿にばかり構われては嫉妬してしまいますぞ? どうか私にもご挨拶させてくださいませ!」
ミスタ卿の台詞は明らかなごますりで場にそぐわないものだったが、彼が言うとどこか憎めず、見ているほうも思わず笑ってしまいそうになる滑稽さがあった。
これでどうにか収まる。
周囲がそう思った矢先。
貴族スマイルを満面に浮かべるミスタ卿の足を、いきなりアーサーが払った。
思わぬことにミスタ卿は避けることもできず、両足揃って宙に浮き、身体から床に落ちて這いつくばる形となった。
「ミスタ卿!」
ロザリーが駆け寄ろうとするが、握手した手をグッ! と引かれる。
アーサーが彼を見下ろして言った。
「今、ロザリー卿と話している。空気を読めぬ輩はそこで犬のように待っておれ」
「……いや、ハハハ。参りましたな」
公衆の面前で膝をつかされるなど、騎士にとって屈辱以外の何物でもない。
しかしそれでもミスタ卿は態度を崩さず、服の汚れを払いつつ、立ち上がろうとした。
しかし。
「うッ!?」
立とうとしたミスタ卿の背をアーサーが激しく蹴りつけた。
ミスタ卿は再び這いつくばる形となる。
アーサーはそれを見下ろし満足そうにしてから、ロザリーに笑いかけた。
「さあ、ロザリー卿。今夜は我が屋敷に――」
「――加虐趣味」
ロザリーが冷たく呟いた言葉に、アーサーの顔が曇る。
「あァ?」
「毎日あなたにかわいがられては、傷だらけになってしまいそうね?」
「……フッ。心配することはないぞ、ロザリー卿。君が俺を怒らせなければ――」
「――鈍いわね。貴様のような生まれがいいだけの残忍で幼稚な男に、誰が嫁いでやるかと言っているの」
アーサーは一瞬ぽかんとしたが、みるみるうちに顔が紅潮していく。
「……ッ、何だとッ!?」
「呆れた。断られないと本気で思っていたの? ありえないわ、あなたはユールモンであること以外、何の取り柄も魅力もない。ああ、それと――」
ロザリーがズイッと身を寄せ、アーサーの耳のすぐ近くで唇を動かす。
「――南ランスローの一件のことは悪かったわ。あれは私にも落ち度はある。でも……あんまりしつこいと南ランスローの一件あなたの首まで取っておくべきだったかも、と思ってしまう」
そう言ってロザリーは、空いた手で彼の首を爪先でピッ! と切りつけた。
首に赤い線が走り、雫が垂れ流れる。
痛みがないので初めは気づかなかったアーサーだったが、周囲の目にハッとなり、首に手を当てる。
手で血を拭ったアーサーは、目を剥いてロザリーを睨みつけた。
「……骨、姫ェッ!!」
ロザリーは握手している手をダンスのように握り直し、その手に力を込めた。
「踊りましょうか、アーサー卿。一年前の続きです」
「……ッ!」
「フッ!」
ロザリーは握った手を思い切り、振った。
アーサーの身体が人形のように飛ばされる。
「うがッ!?!?」
ロザリーが手を離さないので投げをうったような形になり、アーサーは大きな音を立てて床に背を打った。
彼の背骨が悲鳴を上げ、振られた拍子に右肘と右肩が外れる。
「う、ぐうぅぅ……」
痛みに呻くアーサーに、ロザリーが冷たく言う。
「アーサー卿。ミスタ卿に謝罪を」
ロザリーにそう言われても、アーサーがやるわけがない。
憎々しげに見上げるだけだ。
ロザリーは微笑みつつアーサーの腕を引っ張って、強引に立ち上がらせた。
「ではもう一度」
ドガンッ!!
今度は椅子の上に落ち、式典用の頑丈な椅子がバラバラに壊れた。
「ロッ、ロザリー卿!」
ミスタ卿が慌てて止めに入り、ロザリーにすがりついた。
「私は大丈夫ですぞ! どうか! どうかここまでに……」
「そうは参りません。戦勝を祝う場で功労者のミスタ卿が恥をかかされては、西方争乱で命を落とした者たちに申し訳が立ちません」
「それは! ごもっともですが……」
「実際、戦った私たちのことなど何とも思われていませんよね、アーサー卿?」
アーサーは二度の投げのダメージで言い返す余裕もない。
なおもロザリーを睨みつけるだけ。
ミスタ卿が声を荒らげる。
「それでも! ここはエイリス王陛下が用意された場! 臣が王に恥をかかせてはならぬのです!」
言われて確かにそうだと思い、ロザリーはエイリス王に目を向けた。
彼は席に肘をついて、無表情にこちらを眺めていた。
ロザリーの視線に対し特に言葉は発さず、ただ顎で「好きにせい」と示した。
ロザリーは小さく頷き、アーサーの腕を引いて無理やり引き起こし、三度目の投げを放つ。
アーサーはもう受け身すら取れず、後頭部を強かに打った。
ぐったりとしたアーサーを見て、ロザリーが言う。
「あら? 眠ってしまわれたの? 夜はこれからなのに」
「ロザリー卿! もう、ここまでに!」
ミスタ卿は今度は握った手にすがりつき、どうにかそれを引き離した。
そして広間の入り口に立つ衛兵に叫ぶ。
「ユールモンの家人を入れてくれ!」
しばらくして四、五人の家人が入ってきて、気を失ったアーサーを抱えて運んでいった。
アーサーがいなくなった今もざわめく広間をロザリーが見渡す。
多くの視線が自分に集まっていて、いつの間にかエイリス王の姿は消えていた。
(やってしまった……って感じもしないのよね、正直)
(なんでかな、昔なら絶対そう思ってた状況なのに)
(戦争を経験したから?)
(ヴラド様もきっと、同じように行動した気がする)
(じゃあ、このあとヴラド様ならどうする?)
ロザリーはスッと背中を伸ばし、周囲の貴族たちの顔を一人一人眺め、それから口を開いた。
「皆様、大変失礼いたしました。騒がせたこと、ここに謝罪いたします」
言い終わると深く頭を下げた。
(ヴラド様ならもっと柔らかく謝意を伝えるけど。私にはこれしかできない)
頭を上げて周囲を見ると、非難するような目は向けられていなかった。
ふとロザリーの背中を触る人がいて、振り向くとウォチドー家のジュリア卿だった。
彼女はわずかに微笑んで、立ち去っていった。
(心配しなくていい、ってことかな?)
エイリス王が退室したことで会はお開きとなった。
列席者は雑談しつつ、それぞれに退室していく。
ロザリーはそれらを見届けてから去るつもりであった。
まっすぐに立ち、列席者たちが帰るのを眺めていると、後ろから声をかけられた。
「ロザリー卿」
「あ、ドゥカス団長殿」
話しかけてきたのは王都守護騎士団団長のドゥカスだった。
白髪を短く刈り上げ、同様に刈られた口髭と顎髭も真っ白。
対して肌は日焼けしていて、深く刻まれた皴に紛れて歴戦の古傷もいくつか見える。
(どことなく、ロデリック様と感じが似てるな)
老齢の武人、という意味で似通った様子の彼は、難しい顔でロザリーを見つめている。
(……怒ってる?)
厳しい顔を向けるドゥカスだが、次の言葉を発しない。
だからロザリーは先手を打つことにした。
「これはご挨拶が遅れました。せっかくの宴の場があのようなことになり……平にご容赦を」
「ああ、うむ」
「もし、私の行動がお気に召さなかったのであれば、改めて謝罪いたします。しかし、私は過ちを犯したとは思っておりません。謝罪は騒がせたことに対してであり、ああせねばミスタ卿は元より――」
「――ああ、違うのだ、ロザリー卿。儂は説教しようと声をかけたわけではないのだ」
ロザリーはキョトンとしてドゥカスを見上げた。
「そう、なのですか?」
「王の御前であの愚行ですからな。ロザリー卿がやらずとも、誰かが力尽くで諫めねばならぬ状況まできていた。とはいえアーサー卿もかなりの魔導者ですからな、実行役は儂か、ジュリア卿か……まあ立場を考えれば儂であろう。そんなときにロザリー卿が代わってやってくださったわけでな。感謝こそすれ、説教などするわけがない」
「そうでしたか。これはとんだ勘違いを」
「いや。……実は卿に頼みがあってな。それを言い出せずに苦慮していたから、その顔がこれから説教を始めるような顔に見えたのだろう」
「頼み、ですか?」
「初対面で頼みなど厚かましいことこの上ない……しかも、これは頼みというより願いなのかもしれぬ。だから言い出せず……断ってくれてもいい、聞くだけ聞いてもらえぬだろうか?」
今も迷っているのが言葉の節々から読み取れる。
どれほどの頼みなのかわからないが、聞くだけなら構わないだろう。
そう思い、ロザリーは言った。
「お聞かせください、ドゥカス団長殿」
ドゥカスはなおも迷った様子で、だがついに意を決し、ロザリーに言った。
「儂が務める王都守護騎士団団長の任。ロザリー卿が引き継いではくれまいか」
ドゥカスの思いもよらぬ頼みに、ロザリーは驚いて固まるしかなかった。