194 籠の鳥、擬態した鳥
「卒業おめでとう。グレン=フェザンテール」
グレンはマントの下で左手をそっと腰にやり、親指だけを使ってじりじりと剣の鍔を押し上げた。
〝フェザンテール〟はグレンの旧姓――死んだ両親の家名だ。
鳥籠にいたときに、両親と親交があったという人がこっそり教えてくれた。
グレンに秘密があるとすれば鳥の名〝フェザンテール〟こそがそれで、ロザリーにすら伝えていない事実である。
それを目の前のこの男は知っている。
対して自分はこの男を見たこともない。
状況は夜。
路地に二人。
剣を抜くのに十分な理由だった。
しかし――。
「抜くな、フェザンテール。めでたい夜を血で穢すべきではない」
マントの下で、グレンの動きが止まる。
(かなりやる……勝てるか?)
グレンが男の力量を見定めようとしていると、男はそれを見透かしたように言った。
「今の君では勝てんよ。それでもやるというなら、やってみるがいい」
雨足が強まる。
家屋の屋根に打ちつける音がとてもうるさく感じる。
「……まあ、やってみるか」
そう口走ったグレンが、次の瞬間、恐ろしい眼光で男を射抜く。
反射的に身構えた男に対し、グレンは突進した。
「若いな、フェザンテール」
男が腰の剣に手をやり、態勢を低くして待つ。
グレンは男まであと数歩、というところで、着ていたマントを男に向かって投げ捨てた。
マントは襟のボタンだけ留められていて、そのせいで傘のように開いてクルクルと回って落ちてきた。
視界を大きく遮られた男は、決断を迫られた。
狭い路地である。
グレンが攻撃してくる方向は『下方』『マントの裏』『上方』に限定される。
どう読み、どう対処するか――。
「チッ!」
男の選択はバックステップ――距離を外すことだった。
そして風に煽られてふわりと舞うマントが地面に落ちたとき。
路地はもぬけの殻だった。
男が目を丸くして言う。
「逃げた? ……ククッ、やるじゃないか、フェザンテール。私のより、よほどいい選択だ」
グレンは王都の街を駆けていた。
路地から路地へ。
石壁を登って降りて、別の道へ。
グレンは生まれも育ちも王都である。
ミストラルは彼の庭だ。
(撒いたか? 念のため、水路の橋の下に身を隠すか?)
(いや、このまま王都守護騎士団の詰所に飛び込んでしまおう)
グレンは路地を渡り、最寄りの王都守護騎士団詰所近くまでやってきた。
詰所は大通り沿いにあり、身を潜めたまま入ることはできない。
路地から顔をわずかに出して通りを覗き見て、男の姿がないことを確認する。
そのとき、閃光が走った。
視界が一瞬、真っ白に染まる。
そして再び夜の風景に戻ったとき、グレンの目の前にあの男が立っていた。
「ッ!!」
不意を突かれながらも、急いで数歩、後退する。
(どこから出てきた!? 術だ、精霊術? わからないっ!)
グレンの思考を見透かしたように、男が言う。
「私は雷鳴と共に現れる。標的を逃がしたことはない」
「へぇ、そうかい!」
グレンは腹を括り、剣を一気に引き抜いた。
しかし男は右手のひらをグレンに向けて、首を横に振った。
「剣を納めろ、フェザンテール。私に害意はない」
「はいそうですか。……なんて言うと思うか?」
グレンは剣を構え、右手の甲に【獅子のルーン】を宿した。
暗がりに光るそのルーンを見て、男はため息をついた。
「頑固な奴だ。……仕方ない、こちらの素性を明かしてやろう」
そう言って男は懐を探り、騎士章を取り出して胸に付けた。
魔導に反応して騎士章が形を変え、背景に月が浮かぶ。
「月獅子……王国騎士か?」
「ドルク=ラニュードだ。北ランスロー騎士団に所属している」
「北ランスロー……何のために俺に近づく」
「まあ、慌てるな」
ドルクは騎士章を胸から外し、懐に押し込んだ。
そしてその手を懐から出したとき、別のバッジ状のものが握られていた。
「それは……?」
「慌てるな。そう言ったろう?」
ドルクはそれを騎士章と同じように胸に付けた。
するとバッジに変化が起こった。
バッジの上部側面から光る羽根が生えてきて、それが一枚、二枚と増えていく。
羽根は六枚で止まった。
「……六枚。つまり私は六枚羽根の騎士だということだ。ちなみに七枚は大魔導に準じる者。八枚以上は羽根が虹色に輝き、それが大魔導の証明となる」
「待て。……羽根だと?」
「想像の通りだよ。これは魔導皇国の騎士章。わかりやすく言うならば、私は皇国のスパイだ」
「!!」
「潜入して、もう二十年近くになる。素性を明かすのはこれが初めてだよ」
「っ、なぜそれを俺に」
「聞くな。わかっているはずだ」
グレンが押し黙る。
皇国のスパイからの接触。
自分の身の上。
さして考えるまでもなく、すぐに結論に至った。
「……俺にもスパイになれ、と?」
「ありていに言えばそうだ。君の素質には目を見張るものがある。精神面は少し若いが……実際若いのだ、そこはこれから学べばいい」
「考えたこともない。帰ってくれ」
「本当にそうか? スパイと聞いて私に襲いかからないのはなぜだ? もう剣は抜いているのだ、そのまま斬りかかってくればいい。違うかね?」
「……」
「代わりに答えてやろう。そうしないのは君が愛国心をほとんど持ち合わせていないからだ。差別されてきたから。皇国の子として。雛鳥として!」
ドルクが一歩、二歩と無造作に距離を詰める。
グレンは彼の胸に剣を突きつけた。
ドルクはそれをまるで気にせず、グレンの瞳だけを見つめている。
「本当の母国のために共に働かないか?」
「……それがスパイの口説き文句か?」
「かもしれない。だが私も言うのは初めてだ」
「……間違ってる」
「王国を裏切ることに罪悪感があるのか? 大丈夫だ、これは自分の母国に尽くすことであって裏切りではない」
「そうじゃない」
グレンは剣を引き、鞘に納めた。
「間違ってるのはお前の言い分だ。俺が王国に忠誠心を持っていないことと、お前を信用できるかどうかはまったく別のことだ」
「信用、か……確かにな」
ドルクは宙を見上げ、しばし何事か考えていた。
そして再びグレンに視線を戻し、言った。
「急ぎすぎたかもしれない。お前を見てたらつい、な」
ドルクは皇国の騎士章を外し、懐に入れた。
その動きをグレンが目で追っていると、ドルクが言った。
「その気になったら君にも渡すが」
グレンが苦笑する。
「皇国の騎士章をか? スパイがよくそんな物を持ち歩くな?」
「それは違うぞ、フェザンテール。これが拠り所だ。これがなければ私が皇国騎士であることを示すものは何一つない。……わかるか?」
「わからない」
グレンがそう即答すると、ドルクは「そうか」と呟き、背を向けた。
そしてグレンから離れる方向に歩き出して、ふと足を止めて振り返った。
「来年の今頃、君に贈り物をしよう。気に入ってもらえるとよいが」
「皇国の騎士章はいらない」
「フ、騎士章ではないよ」
そう言って笑い、直後に雷鳴が轟いた。
閃光のあとには、ドルクの姿は影も形もなかった。