182 激痛
ロザリーは〝魔女ミシュレの温室〟への移動に苦戦していた。
中央エリアまではグリムで瞬く間に踏破したのだが、そこから彼女を阻んだのは〝海〟だった。
豪脚を誇るグリムであっても、うねる波に脚を取られては敵わない。
「ジュノーね! 厄介なことを……!」
白波がロザリーに打ちつける。
波飛沫で顔まで濡れるが、海水を嫌がるグリムを手綱を引いて制御するので精一杯。
「もうっ! こうなったら大喰らいを泳がせて渡ってやる! 浅すぎるかもだけど何とかバタフライっぽく……んっ?」
海が、引いていく。
まるで風呂の栓が抜けたかのように水かさが減っていき、みるみるうちに海が縮んでいく。
うるさいほどだった波音も遠ざかっていき、ものの数分のうちに海は消えた。
「いったい何が……」
ロザリーはハッと気づき、道具袋から折りたたんだ地図を取り出した。
「そっか……オズね?」
――ロザリーとグレンの決着がつく、少し前。
ベル一行はやっとのことでジュノー本拠地〝樹上の麗舘エンプレス〟の手前にある西の森に到着した。
「きひぃ」
森に入るなりギリアムが奇声を上げ、荷物を放り出して座り込む。
いつもならそれに文句をつけるか蹴りのひとつでも入れるであろうレントンも、彼に倣って木の根にどっかと腰を下ろした。
「ほら、二人とも。もう少しだから、本拠地まで行って降参してから休みましょう?」
ベルがそう言って立たせようとするが、二人は一言も返さず座ったままだ。
「しょうがねぇって。俺らだけ、まるで行軍訓練だもん」
オズがそう言うと、ベルは彼をジトッと睨んだ。
「やたら遠回りしたのはあなたのせいな気もするけど?」
「俺のせいで構わないぜ? それでベル団長の気が少しでも晴れるなら」
「ったく、もう」
ベルは森の中を見渡した。
入り口のこの場所はまだ明るいが、森の中は鬱蒼と暗い。
「……ジュノーはいないのよね?」
「ああ。地図で確認済みだ」
「やっぱり湿地帯にもどるべきだったかも」
「冗談はよそうぜ。遠目に見たろ、海の召喚術。湿地帯を行ってたら今頃は海の藻屑だ」
「……かもね」
「とりあえず、俺らだけで行こうや」
そう言って、オズが森の奥に目配せした。
ベルが座り込んだギリアムとレントンを見る。
二人は疲れ果てていて、顔も上げない。
「そうね。誰か残ってるでしょうし」
そうしてオズとベルは、森の中に入っていった。
森は暗く、霧がかかっている。
人の気配はおろか、獣や鳥の気配も不自然なほど感じない。
「……こりゃあ、術がかかってるな」
「ええ、たぶん。アランでしょうね」
「アラン……ああ、幹部にいたな」
「彼は森の精霊騎士だから」
「なるほどね~」
木のない場所をずうっと歩いていくと、開けた場所に出た。
そこだけは少し明るく、大きな針葉樹が立っている。
「でっけ……森の主か?」
「かもね。……アラン! アラン、いるんでしょう?」
少しの間をあけて、大樹の陰からアランが姿を現した。
彼だけではない。
周囲の草むらや岩陰から、ぞろぞろとジュノー派が姿を現す。
総勢二十名ほどで、二人を隙間なく包囲した。
殺気立っていて、すでに抜剣している者もいる。
「アラン! これはどういうこと!?」
アランは薄く笑って答えた。
「怪しい連中が本拠地に近づいてきたから包囲してるだけだが?」
「私たちに敵意はないわ! 降伏しに来たの!」
「どうかな。呼びかけに応じて来たにしては遅すぎやしないかな?」
「それは……仕方なかったの! 事情があるのよ……」
「知っているだろうが、ジュノーが不在だから今すぐ降伏を受け入れることはできない」
「知ってるわ。彼女が帰るまで大人しくしてる」
「ベルムはもう終盤だよ? 今さら四人ぽっちを仲間にする利点がないし、ジュノーだって帰ってくるかわからない。だったら今ここで君らをやっつけてしまったほうが、僕らにとって安全ではないかな?」
「それは……私たち、同じ幹部じゃない! そりゃ、あなたは最高幹部で私とは違うと思ってるかもしれないけど。……でも! ずっと一緒にジュノーを勝たせるために頑張ってきたじゃない!」
「そうだねぇ……」
ベルが自分の胸に手を当て、訴える。
「アラン! 信じてくれないの?」
アランが微笑を浮かべながら、ベルの顔をじっと見つめた。
「……ベルは信じるよ。でも一人、とても信用ならない奴がいる」
アランの視線がオズに向かう。
「オズを差し出せ。そうすれば他の三人は受け入れよう」
ベルが目を細める。
「オズをどうするつもり?」
「愚問だね」
アランは親指を立て、首を掻っ切る仕草をした。
「え~っ、俺だけ処刑されんの? 不公平じゃね?」
オズが不満げに口を尖らせるが、ベルが彼を手で制する。
「オズ、黙ってて」
「へ~い」
ベルが一歩出て、弁明を始めた。
「オズは私の騎士団の団員よ。胸のリボンを見て」
「見たよ。だがそれは保障にならない。今この瞬間、僕らを襲うことに何ら支障はないからね」
「ジュノーが帰るまでオズを拘束しておくわ。それならどう?」
「ダメだね。話にならない」
「拘束の仕方によるでしょう? 手足をバキバキに折るの」
するとオズが驚き大きな声を上げた。
「うえぇ!? マジで言ってんの!?」
「オズ、黙って」
「……はぁ~い」
「どうかな、アラン?」
アランは笑いながら首を横に振った。
「まるで取り引きになってないよ、ベル。僕はオズを差し出せば、三人は助けると言っている。飲めないなら四人もろとも、だ」
「~~っ、アランっ」
「睨んだってダメさ。僕は門番なんだ。ベルたちを受け入れるってだけでも、けっこう譲歩しているんだよ? これ以上の譲歩は役目を果たせなくなる。……っていうかさあ」
アランの目が侮蔑を含んだものへと変わる。
「なぜそこまでオズをかばう? 君はむしろ、オズを疑っていたはず。信頼関係なんてないはずだ」
「それは……」
「そいつはオズだよ? ほら吹きオズ。底辺貴族のオズ。ヘタレのオズだ。みんな、そうだよな?」
すると包囲している二十名余りのジュノー派たちから、口々に嘲る声が上がる。
「底辺ってか最底辺?」
「だな、底辺に失礼だ」
「私の中ではしったかオズだけど」
「こいつんち、川で身体洗うんだぜ?」
「プハッ! ガチで?」
アランがわざとらしく「うん、うん」と頷いてから、ベルに語りかける。
「騎士には格というものがあり、生まれつき運命られている。実習でちょっとばかり魔導が増えたからって、本質は変わらないのさ」
ベルは無言で、こぶしを震わせている。
オズはベルの顔が険しくなっていくのを見て、小さく呟いた。
「……この辺りか」
「オズ? 何か言った?」
「もういい。そう言ったんだ、ベル」
オズは腰の剣を投げ捨て、ベルから離れて歩み出た。
そして地面に両膝をついた。
「オズ!」
「いいんだ、ベル。これでいい」
「でも……!」
「そんな顔すんなって」
アランが訝しそうに問う。
「オズ。ずいぶん諦めがいいね?」
「ベルには世話になったからな。困らせたくない」
「へぇ。そうかい」
アランは剣を抜き、膝立ちのオズに近づいた。
「待て」
オズがアランを止め、アランは首を傾げる。
「なんだ? 怖気づいたか?」
「手は借りない。自分で始末をつける」
アランの肩眉が上がる。
「いっぱしの騎士気取りか。……まあいい」
アランは剣を納め、元の位置に戻った。
オズは道具袋からナイフを取り出し、鞘を捨てた。
「オズっ。やっぱりダメだよ……」
泣きそうな顔のベルに対して、オズはニッと笑いかけた。
そして次の瞬間、躊躇なくナイフを自分に突き刺した。
アランもベルも、その場の全員がぎょっとして固まった。
「え、口?」
「何してんの、こいつ?」
「うえぇ、痛そ……」
オズが刺したのは首や胸ではなく、口の中――下の歯茎だった。
ナイフは深々と突き刺さっている。
オズはそのままグリグリとナイフを動かし、瞬く間に口が血で溢れる。
「お、オズ……?」
「ンギギギ……いてぇ……グゥ。グッ!」
オズが力を込めるたび、歯茎が浮いて歯の並びが歪む。
「こいつバカかぁ?」
「自決の仕方も知らないのか」
そんなジュノー派たちの嘲りなど聞こえないのか、オズはひたすら手を動かしている。
「グ……ンギギギ……ンギギ、ギッ!!」
最後はナイフをてこのようにして、歯茎をくり抜いた。
オズの歯が数本と肉の塊が、口から飛んで宙を舞う。
ジュノー派の面々は一様に絶句して、ベルだけがオズに駆け寄った。
「いやあっ!! 何してんのよオズ! ああ、血がこんなに! 止めなきゃ!」
口からダラダラと血を垂れ流し、オズが地団駄を踏む。
「ああ、痛え……いてえいてえいてえ! 何だよクソ! なんでこんな痛えんだよ!」
「そりゃそうでしょ! 動かないで、喋らないで、傷を押さえるから……っていうか、何で喋れるの!?」
アランは大きなため息をついた。
「ったく、ポンコツが」
アランはオズに近づいていき、必死に血を拭うベルを押し退け、オズを見下ろした。
「どれ、貸してみろ」
アランはナイフを寄越せと手招きするが、オズの目は据わっていて反応がない。
仕方なくアランは腰を屈め、オズの手にあるナイフに手を伸ばし――ナイフに手が触れた瞬間だった。
オズの身体が倒れ、アランの胸に飛び込んだような格好になる。
「え? オズ?」
近くに立つベルでさえ、何が起きたかわからない。
次第にアランの足が震え出し、やがてアランの膝が落ちて、オズはアランの肩にあごを乗せて囁いた。
「……お前が不用意に近づくから。手順が狂ったじゃねぇかよ」
「オズ……貴様……」
「オズ様、な?」
アランの腹に刺さったナイフを、オズが力任せに上へと引き上げる。
「あ、あ……グ、ゲハッ」
アランは口から血を噴き、身体が脱力していく。
唖然として見ていたジュノー派のうち、一人がハッと我に返った。
「……! てめぇ、オズ!」
オズはアランの腰から剣を抜き、向かってきたその一人を振り向きざまに斬り伏せた。
「オズ様と呼べ、バカヤロウ」
オズを包囲するジュノー派たちが、次々に剣を抜く。
オズは包囲をぐるりと見渡し、それから首を捻った。
「まだ痛みが足りねぇか……フンッ!!」
オズは歯茎をえぐり取った場所に、思い切り親指を突っ込んだ。
「ぎゃああああ!! いてえ、いてええぇぇっ!!」
痛みに叫ぶオズを、ジュノー派たちは呆気に取られて見ている。
「何してんだ、こいつ……?」
「いかれてる……!」
するとオズが憎々しげに彼らを睨んだ。
「……全部お前らのせいだろうが。お前らのせいでこうなった! 許さねぇ……我が痛みと怨みを知るがいい! 【激痛】!!」
オズの吐く言葉が呪詛となり、激痛となって周囲の者たちを襲う。
「アギッ!?」
「ずああっ!」
「ギャッ!?」
「ぐげぇぇっ!」
常軌を逸した激しい痛みは、彼らの精神を侵し、肉体の自由を奪う。
ほとんどの者はその場に崩れ落ち、行動不能となった。
嘔吐する者、意識を失う者。
そのままショック死し、消えていく者すらいる。
「はっは。どうだアゴ兄さんの味は? 頭が高ぇぞ皆の衆、ってな。……ベェッ」
オズは得意げに話してから、口に溜まった血を地面に吐き出した。
同士討ち禁止によって一人無事なベルが、両手で口を覆う。
「これは……呪詛!? 歯を抉ったのは、犠牲の先払いのため!?」
動揺するベルをよそに、オズは素早く動いた。
呪詛の苦しみによって脂汗が滲み、焦点が定まらなくなっている者。
「だ~れ~が~ヘタレだってぇ~?」
身体を抱いてうずくまる者。
「最底辺にやられてかわいそう~」
卒倒して意識のない者。
「うちに風呂なくて悪かったな!」
その一人一人に小走りに駆け寄り、一言悪態をついてからとどめを刺していく。
「オズ、やめて!」
「……あん? なんでやめるんだ?」
「馬鹿にされたからってこんな……」
「いやいや。俺を殺そうとしただろ、こいつら」
「それはそうだけど! だからって、仲間にこんな!」
「まだ仲間じゃねぇ――よっと!」
背中から胸を突き刺し、また一人息絶える。
オズは道具袋から魔導充填薬を取り出し、一気に呷った。
急激な魔導の回復が、傷の状態を回復させる。
「さすがに歯は生えてこねえか。ベルも手伝え! 呪詛の効き目、あんま長くないから!」
「できないわよ、こんなこと!」
そのとき、森の入り口のほうからレントンとギリアムがやってきた。
「おお~い。何かあったのかあ」
「あっ。ギリアム。そいつ立ち上がりそうだぞ?」
「へっ?」
倒れていたジュノー派の一人が、正気を取り戻して立ち上がった。
そして近くにいたギリアムに目を止め、剣を抜いて襲いかかった。
「ひぃぃっ!」
頭を抱えてしゃがみ込むギリアム。
レントンが横から割って入り、軽々と相手の剣を弾いた。
そのまま相手を斬り伏せる。
「やめて、レントン! 味方よ!?」
「しょうがないだろ、こいつから襲ってきたんだ」
ギリアムは自分の目の前に斬り伏せられた相手を見て、顔を真っ赤にして立ち上がり、剣を抜いた。
「うぃやあああ!!」
奇声を上げて、倒れた相手を何度も斬りつける。
「お前が悪いんだ! ふじゃっけんな! ふじゃっけんな! あ、消える? 消えんな!!」
「ほら、ギリアムも同感だってよ」
「~~っ!」
ベルはギリッと歯軋りしていたが、ハッと顔色を変えてオズを振り返った。
「オズ、あなたまさか……初めからこうするつもりで私たちと……?」
オズはまるで悪びれる様子がない。
「おう。どうだ、ちっとは見直したか?」
「ふざけないで! あなたは私たち三人のことを騙したのよ!?」
「そうだ。そこは悪いと思ってる。まさかベルが俺をかばってくれるなんて思いもしなかった」
「……あなたを殺してやりたいわ」
するとオズは、人懐っこい笑顔で笑った。
「すまない、殺されてはやれないんだ。同士討ち禁止があるからな」
そのとき、ベルのそばに倒れていたジュノー派最後の一人が、膝をつき、立ち上がろうとし始めた。
ベルはそれに気づきながらも、目をぎゅっと瞑って苦悩した。
オズが言う。
「決断しろ、ベル団長」
ベルはカッと目を見開き、叫んだ。
「オズ! やっぱりあなたは信用ならない!」
そして次の瞬間、ベルは剣を抜き放ち、そのジュノー派を斬り倒した。
「ありがとよ! 最高だぜ、ベル団長!」