177 海神
〝槍の塔エル・アルマ〟の崩壊を食い入るように見つめていたザスパール。
ハッと我に返ると、主人の姿がない。
慌てて周囲を見回すと、ジュノーは本陣を出て、北に向かって歩いているところだった。
「どこへ行くんだ、ジュノー!」
ザスパールが叫ぶと、ジュノーは彼をキッと省みて、言った。
「海ひとひらを使う!」
「!」
ジュノー本陣のすぐ北側には湖が広がっている。
ジュノーは水辺まで来ると靴を脱ぎ捨て、水の中にジャブジャブと入っていった。
「本拠地を留守にするなんて。それどころか団長ですらない? 私なんて眼中にないと? なめられたものね……!」
遠浅の湖をしばらく歩き、膝のすぐ下まで水面がきたところでジュノーは止まった。
携えていた布巻きの剣を掲げ、布をくるくると剥ぎ取る。
それは剣身が珊瑚製の奇妙な剣だった。
――ドーフィナ家伝来の魔導騎士剣〝わだつみの樹〟。
海の魔導が仕込まれた魔剣で、その剣身は鮮血色の珊瑚でできている。
魔封じの布を剥ぎ取った瞬間から、小刻みに震え、ざわめいている。
「ああァァ……うゥるるぅ……」
ジュノーが言葉ならぬ言葉で祈る。
その祈りには節があり、歌声となって湖に染み込んでいく。
そのうちにジュノーは、魔剣を逆手に持って舞い始めた。
くるりくるりと舞う動きで、繰り返し波紋が起きる。
「……来た」
ジュノーの耳の奥に潮騒が響いてきた。
彼女の長い髪の毛先が固く節くれ立って、珊瑚のようになっていく。
そしてついに、ジュノーの瞳に海が宿る。
「海、ひとひらッッ!!」
ドッ!! と湖が膨れ上がった。
圧倒的な水量がジュノーの周りを大蛇の群れのようにのたうつ。
そのうちにひとつの波が彼女を持ち上げ、水辺のほうへ運んだ。
水辺で見守っていたザスパールが慌てふためく。
彼から見れば、大津波が自身のほうへ押し寄せてきている格好だ。
海の女神と化したジュノーが言う。
「大丈夫よ、怖がらないで。同士討ち禁止があるでしょう?」
「そうは言うが!」
「えいっ」
ジュノーが魔剣をひと振りすると、波がザスパールを攫う。
ザスパールは水の中で流れに翻弄されながら、ジュノーの乗る波のところまで運ばれてきた。
「ッ! ブハッ!!」
「ね? 大丈夫だった」
「よくもやったな、ジュノー!」
「感想は?」
「……妙な感じだった。溺れているのに苦しくない。息ができてるわけじゃないんだが……」
「そう、よかった。仲間でないと、ああして逃げることになるから」
ジュノーが指し示したのは、本陣近くの草むら。
小柄な誰かが必死に逃げている。
「あれは……ルークか! 近くにいたとは!」
「ふふ、ネズミがいたなんてちっとも気づかなかったわ」
人知れず草むらに隠れていたルークは、否応なしに〝海ひとひら〟に巻き込まれた。
ジュノーが何をやるのか気になって、水辺近くの草むらに移動したのもよくなかった。
湖からあふれ出す海は際限なく増え続け、もはや高みを目指すことすら難しい。
「ああ、うう、もう! ど、こ、が、ひとひら!」
喚きながら逃げるルークの足を、小さな波がすくった。
「あっ! いちち……」
転んで腕から落ち、傷んだ場所を擦るルーク。
ハッとして視線を上げると、目の前に迫るは大波であった。
「ちょっ、こんなのありぃ!? ぶくぶくぶくぶく……」
数分後。
〝魔女ミシュレの温室〟の迷宮跡地は荒れた海と化していた。
荒れ狂う波が高地の崖を削り、時おり起こる強い波が崖を登って頂上まで打ち寄せている。
「まだ水が増えてる……いったいどこまで増えるんだ?」
そうザスパールが尋ねると、ジュノーが微笑んだ。
「あと少しだけよ。一片だもの」
「ひとひらって量じゃないだろう」
「海のひとひらだもの。それだけ海は偉大ってこと。それにしても……あれはいいかもね?」
ジュノーの言うあれとは、仲間たちの行動のこと。
波に慣れてきたジュノー騎士団の団員たちが、波乗りしながら高地を登ろうと試しているのが見える。
「高地を削るのを待たずに突入するか?」
「ええ。でも、その前にギョームに連絡して?」
「わかった。何を伝えるんだ?」
「火の精霊騎士は、海の中では戦力にならない。本拠地に戻ってロザリーに備えるように」
「……対死霊戦ならギョームに分があるな!」
「それと周囲の者に、手持ちの魔導充填薬をギョームに渡すようにと」
「わかった!」
そうしてザスパールが巻き貝に語る横で、ジュノーは思っていた。
(こんなのズルい、なんて言わないでよね? ロザリー……)
(なんたって、あなたは存在自体がズルいんだから!)
高地の上、〝魔女ミシュレの温室〟。
「ドームが崩れるぞッ!」
炎の虎に焼かれ、次はジュノーの大波に晒された土のドームは、ついに限界を迎えた。
至る所にヒビが入り、やがて卵の殻のように割れて落ちていく。
「旗を守れ! 立て直すぞ!」
ウィリアスを中心にロザリー派の面々が走り回る。
温室にあった机や棚、樽や土嚢を集め、本拠地旗の周囲に積み上げていく。
だがそれは、命運を賭けた決戦の盾としては、あまりに頼りなかった。
「ギムン君! 私たちの出番ですっ!」
魔導充填薬強制摂取で魔導を取り戻したポポーが、ギムンの手を引き、温室の外へ出る。
「おいおい、何をする気だよ、ポポー」
「私たちで温室の周りに防波堤を作るんです!」
「防波堤?」
「もう、ドームを作る猶予はありません! 私が土で土台を作りますから、ギムン君は外側を石でコーティングしてください! できますよね!?」
「やるよ、やるがよ……お前、成り行きでこっち来たわけじゃないのか?」
「こっち?」
「ロザリー派だよ。いやにやる気あるからよ。俺みたく仕方なしにこっち付いたわけじゃないのかって思ってよ」
「昨日からですっ! 防波堤の位置、ここでどうでしょう?」
「いいと思うぜ。……昨日? ずいぶん土壇場で鞍替えしたんだな。何があった?」
「それは……昨晩、雨が降ってて……オズ君が――」
――最終試練、前夜。旧校舎前。
びしょ濡れのポポーは、オズの胸ぐらを掴んだ。
「オズ君も嫌! ロザリー派だって言ったじゃない!」
「っ、ポポー……」
「ロザリー派ならなぜアイシャさんを!? 脱落したラナさんを利用したのも許せない!」
オズが苦しそうに答える。
「それは、違うんだ」
「違う? じゃああれは嘘なんですか!? どっちが本当!? オズ君は嘘ばっかりでわかんない!」
ポポーが投げ捨てるように手を離し、オズが泥濘の中に尻餅をつく。
そのオズへ向かって、ポポーは大声で罵った。
「嘘つきは大嫌い! だって嘘つくもん!!」
雨がいっそう強まった。
うるさいほどの雨音の中、オズがぼそりと言った。
「――だから」
「……何? 聞こえない」
「俺は! 嘘つきだから!」
「知ってます」
「だから……俺が何言ったって信じないだろう?」
「開き直るんですか」
「ちげーよ。……本人に聞けばいい、って言ってる」
「本人? ロザリーさんですか?」
「ちげえって。いいよ、もう。付いてこい」
そう言うとオズは立ち上がり、尻餅をついて濡れた尻を気にしながら歩き出した。
しばらく行って、ついてこないポポーを振り返る。
「何が本当か、知りたいんだろ!」
オズが向かったのは旧校舎棟にある備品倉庫だった。
ポポーもここがロザリー派の作戦本部であることは知っていて、だから無言でオズの後ろに付いてきた。
「……よかった、合言葉は変わってない」
備品倉庫の扉を開けると、向こう側の壁に奇妙な扉の絵画が描かれている。
「そうか、悪魔鎧は本部の中か」
「オズ君、あの扉って」
「いいから。黙って付いてこいって」
そう言ってオズは扉の絵の元まで行き、その絵の扉の取っ手を掴み、扉を開け放った。
そして扉を開けたまま、ポポーを手で招いた。
「ようこそ。ロザリー派の作戦本部へ」
恐る恐る、ポポーが扉の中へ入る。
「なっ、なんてこと! 絵の中にお屋敷があるなんて……!」
その直後。
「裏切り者め―!!」
罵声と共に厚手のクッションが飛んできて、ポポーの顔面を直撃した。
「ぶへっ!?」
「あれっ? ポポさん?」
投げたロロが、うずくまるポポーに慌てて駆け寄ってきた。
「あうぅ。ポポーですぅ」
「ああ! 重ね重ねすいません、ポポーさん!」
そこへ扉の外に隠れていたオズがひょっこり顔を出す。
「危ねえ、危ねえ。ポポー先に行かせて正解だったな」
「出たな、裏切り者!」
憤るロロの手をひょいと躱し、オズがリビングのソファへ飛び込んだ。
そしてポポーを見つめて言う。
「ほら、本人いるから聞けって」
「本人?」
ポポーはリビングを見回した。
元々そこには何人もいたが、騒ぎを聞きつけてロザリー派のほとんど全員が集まってきていた。
ポポーはその中に本人たちを見つけた。
「アイシャさん、ラナさんも……!」
積もる話は、雨に濡れた二人をどうにかしてからという事になった。
「ふわ、おっきなお風呂……」
ロザリー派作戦本部内、浴場。
聞けばこの絵の中の屋敷には、この大浴場を含め複数の風呂があるのだという。
湯船に浸かり、体温と共に落ち着きを取り戻したポポーは、今夜の出来事を思い返していた。
鼻の下まで顔を沈めていると、脱衣所に人の気配がある。
「はっ! まさかオズ君!?」
すると女性の笑い声がして、相手が悪戯っぽく言った。
「ざーんねんでした。オズじゃありませーん」
「ラナさん!」
ラナは浴場の扉に背をもたれて話しているようだ。
「……ポポー、私やアイシャのために怒ってくれたんだってね?」
「オズ君、もう話したんですか。嘘つきの上に口が軽い……」
「あはは。今も話してるよ? あいつ、風呂は慣れないからってすぐ上がってきたから」
「それはいけません! 止めないと!」
「だーめ。私の話、聞いてからにして」
「……わかりました」
ラナがふーっと息を吐くのが聞こえた。
しばらく無言の時間があって、それからラナは語り出した。
「私さ、試験落ちたんだ」
「知ってます。卒業できなくなったんですよね」
「それでロザリー、怒っちゃってさ。私も落ち込んだけど」
「はい……」
「でも、ロザリーやみんなが諦めないって言うからさ、私も諦めないことにしたの」
「諦めない……? 留年して卒業を目指すってことですか?」
「ううん、今年の話」
「ええ? そんなの無理でしょう?」
「無理じゃないの。最終試練があるから」
「それってどういう――」
「詳しくはお風呂上がってから説明する。私がポポーにここでちゃんと言いたいのはね?」
「はい」
「ポポーに、ロザリー派じゃなくてラナ派に入ってほしい、ってことなの」
数分にわたる、長い沈黙。
やっと口を開いたポポーの声は、とてもたどたどしいものだった。
「ラナさん」
「なに? ごめんね、そんなに困らせちゃうなんて」
「ちが……気が、遠くなってきました……」
「大変! のぼせちゃった!?」
――再び高地の上、〝魔女ミシュレの温室〟。
「って感じです」
話を聞いていたギムンは、防波堤を作る手を止めて目を見開いた。
「……ちょっと待て」
「何です?」
「それって……じゃあ俺らの団長ってまさか」
ちょうどそのとき、温室跡から悪魔鎧の人物が出てきた。
その手には奇妙な形の、棍棒のような剣が握られている。
二人の視線に気づき、悪魔鎧の人物は兜のバイザーを上げた。
「ジュノーが乗り込んで来る! 迎え撃つよ!」
その顔と声を聞いて、ギムンが戸惑いの叫びを発した。
「俺らの団長って、ラナ=アローズ!?」