114 最後の授業
一週間後。
赤のクラスでは、最後の魔女術の授業が行われていた。
教壇に立つヴィルマが、愛弟子たちを見回す。
「さみしいけれど、何事にも終わりは来るもの。今日が最後の授業よ」
しん、と静まり返る生徒たち。
ヴィルマが続ける。
「最後だから一番大切なことを教える。とはいえ、今日の授業内容はテスト範囲には含まれないから、そこは安心していいわ」
ヴィルマは生徒たちに背を向け、珍しく黒板に板書し始めた。
カツ、カツ、とチョークの音がしばらく響き、それから書き終えたヴィルマは振り返った。
「みんな、このわらべ歌を知っているかしら?」
生徒たちの視線が黒板に集まる。
山のふもとのある村に
かわいい娘が暮らしてた
今年、五つのその娘
笑えばまるで花のよう
ある日、娘は森に用
そこに生える常夜草
母の病に効くのだそう
ところがそれは罠だった
人を騙す悪い魔女
優しい子どもが大好物
残念、娘は食べられた
骨の髄までしゃぶられた
生徒たちの反応は、知っている、と頷く者がほとんど。
それを見てヴィルマも頷く。
「有名だものね。元々は魔導皇国の歌だけれど、王国でも広く知られている。子ども一人で森に入ることの危険性を歌っているのだ、と言われたりもするけれど――私たち魔女騎士にとってはいい迷惑よね? とんだ風評被害だわ」
教室のあちらこちらから、クスクスと笑いが起きる。
〝悪い魔女〟という言い回しは昔からあって、それが魔女騎士は狡猾で卑怯だというイメージに繋がっている。
そのことはここにいる若き魔女騎士たちも当然知っている。
しかしあくまでそれは、おとぎ話の中のこと。
もちろん魔女騎士だって人間であるから性悪もいるが、だからといって魔女騎士=〝人を騙す悪い魔女〟ではないし、ましてや子どもを食べる者などいない。
「でもね」
ヴィルマが静かに言った。
「〝悪い魔女〟は実在するの」
生徒たちはヴィルマの言っていることが冗談なのかわからず、ただ彼女を見つめることしかできないでいる。
そんな中で、ヴィルマが立て続けに言葉を連ねる。
「魔女は若い娘を食べることで、若さを吸い取るの」
「だから彼女は、ずっと若い姿のまま」
「〝悪い魔女〟は生きてる」
「今も、この国でね」
教室は怪談話でもしているかのような雰囲気となった。
後ろのほうの席の、女子生徒たちがひそひそと囁き合う。
(グウィネスのこと?)
(あ、そうかも)
(たぶん、そう)
(裏切りの魔女だっけ)
(禍ツ魔女じゃなかった?)
(不老不死なのよね。本当かな)
(でもでも、誰もグウィネスを見たことないって)
(ほんとにいるのかな)
「そこまで」
囁き合っていた女子生徒たちが教壇のほうを見ると、ヴィルマが唇に人差し指を当てて、彼女たちを見ていた。
「〝悪い魔女〟は恐ろしく地獄耳だという。とても嫉妬深いとも。若い娘に違いないあなたたちが、彼女の噂をしていると……今夜、あなたたちのベッドの横に立つかもしれない。名前は出さないほうが賢明よ」
女子生徒たちは顔を青ざめさせて、コクコクと頷いた。
ヴィルマはその様子に微笑み、それから生徒たちを見回した。
「私がこの話をしたのはね、〝悪い魔女〟がどうやって若さを保っているか、それをみんなに知っておいてほしいからなの」
思わず、オズが大きな声で言った。
「どうやってって、若い娘を食べて、だろ? ヴィルマ教官、そう言ったじゃん」
「じゃあ、オズ。隣のアイシャを食べてごらんなさい」
名指しされた赤い髪の女子生徒――アイシャが、ジロッとオズを睨む。
オズがアイシャに向かって両手を振る。
「い、いやいや。食わねえよ、食わねえって。だから、そんな睨むなよ……」
そんなオズに、ヴィルマが不思議そうに尋ねる。
「どうして? それで不老不死になれるなら安い代償ではないかしら?」
「え、いや、それは。う~ん……」
オズは頭を掻いて、俯いた。
「そうよね。冷静に考えれば誰にでもわかる。若い娘を殺して食べたからって、若いままでいられるわけがない。では、〝悪い魔女〟は何をしたのかしら。……オズ、わかる?」
オズは俯いたまま視線だけを上げ、ヴィルマに答えた。
「そりゃあ魔女だから……魔女術?」
「その通り。〝悪い魔女〟は魔女術を使い、若さを保っている。その術の過程で〝若い娘を殺し、その肉体を食す〟という行為が必要なのだと推測できる。このように邪悪で、強力な魔女術を――」
ヴィルマの指先がほのかに光った。
指の軌跡が光の筋となり、光文字となる。
「――呪詛という」
ヴィルマが〝呪詛〟の光文字を手のひらでなぞる。
すると光文字が解れ、糸のように垂れ下がった。
「人の運命は布に例えられる。生まれ育つ環境、大事な人との出会い、心を打たれた光景、ある日のたわいもない出来事……様々な事象が糸となり、模様となって布は織られてゆく。そして私たち一人一人の布も、歴史という、より大きな布の一部である」
ヴィルマが指を波打たせると、光の糸が動き出した。
光の糸は絡み合い、やがて小さな女性のシルエットを作り出す。
「このシルエットが、一人の女性の人生を表す布。呪詛とは不当に因果に介入し、運命を歪ませる術を指す」
シルエットの腰の辺りを、ヴィルマが指先でピッと払う。
するとシルエットは大きく歪み、腰を折って苦しむような姿となった。
「毛ほどの傷もつけずに、耐え難い苦痛を与えたり。人の言葉がすべて罵詈雑言に聞こえるようにし、人を信じられなくしたり。そうそう、いつかオズが私に使った【惚れ薬】のまじないも呪詛に含まれるわ。……ロザリーとやった、例の儀式もね」
ヴィルマと目が合ったロザリーは、小さく頷いた。
「では〝悪い魔女〟の使う呪詛の術理は、どういったものか。詳しくは知らないし、知りたくもない。けれど、これも推察することはできる」
ヴィルマは黒板に目を向けた。
「おそらく〝悪い魔女〟は老いていく自分の運命の布に、うら若き娘の未来を縫い合わせることで若さを継ぎ足している。肉体を食らうのは、布の継ぎ目を滑らかにする工夫だと思う。実際に取り込むことで、運命の同一化を促進させるというわけ。他人の運命を奪い自分の運命とするなんて、並の方法では無理だから」
ヴィルマは黒板のわらべ歌をゆっくりと消して、それから生徒達のほうを振り向いた。
「呪詛の定義は、人を呪い、多大な影響を与える悪しき魔女術とされる。……でも、これってずいぶん曖昧な定義よね? 私でも『これは呪詛? それとも違う?』と判断に迷う術もあるわ。一方、間違いなく呪詛である――これこそが呪詛である、という術も存在する」
ヴィルマは黒板に向かい、勢いよく字を書きなぐった。
記されたのは――〝呪殺〟。
「文字通り、人を呪い殺す魔女術よ。呪殺はソーサリエでは教えない、そう決められている。理由は単純、まだ早いから。未熟な魔女が呪殺を知れば、みだりに使って世に混乱を起こすに決まっている。だからやり方はおろか、呪殺の存在さえテキストには出てこない。……しかし、本当にそれでいいのだろうか?」
ヴィルマは目を伏せて、言葉を続ける。
「呪殺とは呪詛の筆頭、魔女の本領ともいえるもの。自分が使わずとも、他者が使ってくることは十分にあり得る。そのときあなたたちは、いかにして身を守るのか。呪殺の存在さえ知らない状態で何ができる? 何もできはしない、それは穢れを知らぬ生娘のようなもの。疑いもせず、たやすく転ぶ。死が訪れるその瞬間に至っても、それが呪殺だと気づかないだろう」
生徒たちから目を背ける様子とは裏腹に、ヴィルマの語気が次第に強くなっていく。
「言った通り、ソーサリエでは呪殺を教えることができない、そう決まっている。しかし私は、偏屈でねじ曲がった模範的魔女。よって規則を知りながら、あえて踏み外してみようと思う」
ヴィルマが顔を上げた。
「これより、呪殺を披露する」
教室にざわめきが起きる。
「今、なんて言った!?」
「披露するって……」
「ここで?」
「ヴィルマ教官がやるの!?」
ヴィルマは何も答えず、窓辺に向かった。
窓を開け、空に向かって何やら手招きをする。
しばらくすると、一羽の小鳥が飛び込んできた。
ヴィルマは小鳥を胸で受け止め、愛おしそうに手で抱え、教壇に戻った。
ざわめきが次第に収まっていく。
ヴィルマがこれから何をするのか、生徒たちは察したのだ。
彼らが固唾を飲んで見守る中、ヴィルマが小鳥を宙に放った。
小鳥はパタタッと忙しく羽ばたき、それから教室をぐるぐる飛び回った。
やがて誰かの机に降り立ち、ピョンピョンと跳ねて、他の誰かの机へ。
最後にロザリーの後ろの席――ロロの机の上で止まった。
くちばしで羽を繕っている。
ヴィルマは左手の小指を噛んだ。
口から離すと、血が滲んでいる。
その血を広げるように両手をすり合わせ、そのまま両手を口元へ運ぶ。
ヴィルマの視線は小鳥に固定され、合わせた両手の後ろで唇が動いている。
呪文を唱えているに違いない。と、生徒たちは推測するが、声は聞こえず唇は両手に隠れてよく見えない。
小鳥の体が、ビクッと跳ねた。
異変に気がつき、すぐさま飛び立とうと机を蹴る。
が、酔っぱらったかのように足を滑らせ、横倒しに倒れた。
ヴィルマの唇は動き続けている。
小鳥は起き上がることができない。
ビクン、ビクンと痙攣し、小枝のような脚が宙を掻いている。
そして最期が訪れた。
「ピイィィィーーッ!!」
悲鳴にも似た、甲高い鳴き声。
小さな体からは想像もつかない、大きな声だった。
小鳥の体からゆっくりと生気が抜けていき、それっきり動くことはなかった。
「……ッ」
目の前で見たロロは、苦渋の表情で目を背けた。
同じような顔つきの生徒たちも多い。
小鳥の絶命の叫びが、生徒たちの耳の奥でこだましていた。
ヴィルマが静かに語り出す。
「運命は布」
「私はこの小鳥のかわいらしい布を、呪殺という鋏で断ち切った」
血の残る小指を掲げて見せる。
「呪殺は成った。代償はわずか」
「では、この小鳥の死は、もはや私の人生に影響しないだろうか」
ヴィルマが首を横に振る。
「わからない。もしかしたら、この小鳥のささやかな生は、世界にとって重大な使命を帯びていたかもしれない」
「もしそうなら、私は否応なくそのツケを払うことになる」
「……その可能性は限りなく低いけどね」
「では、小鳥が人であったなら?」
ヴィルマがゆっくりと生徒たちを見回す。
「代償を払い、呪殺を成しても、それで終わりではない」
「その人物が死んだという事実は残り、その影響からは逃れようがない」
「因果は巡る」
「思わぬ形で巡ってくる」
「時には、抗いようのない大きなうねりとなって」
そして、ヴィルマは微笑んだ。
「私の願いは、あなたたちが今見た光景をいつまでも忘れないこと」
「呪殺を正しく恐れ、浅はかな使い方をしないこと」
「それを心得た魔女こそが、優れた魔女であると私は思う」
「私の呪殺を見たことが因果となって、その一助とならんことを願ってやまない」
「これにて、すべての魔女術の授業を終わる」
ヴィルマはくるりと向きを変えて、そのまま教室から出ていった。
ヴィルマが去っても、生徒たちはぼんやりと座ったままだった。
ロザリーもだ。
(呪殺、か)
(私はいくつかのやり方を【葬魔灯】でヒューゴから受け継いでる)
(でも、まだ一度も試したことない)
(ヒューゴが『まだ早い』って。私だって使いたいと思わないけど)
(いつか使うことになるのかな)
(因果、か……)
そんなことをぼんやり考えていた、そのとき。
大きな声が教室に響いた。
「みんな、聞いてくれ!」
声の主はウィリアスだった。