105 チェンジリング――3
タペストリーをめくると、そこにも絵があった。
原寸大の、精巧な扉の絵だ。
「まさか、ね……」
絵の扉を引くことはできないので、恐る恐る押してみる。
すると、扉はゆっくりと開いた。
できた隙間から、白い煙がもうもうと漏れ出てくる。
「湯気? なんで――うそっ!?」
そこは二坪ほどのバスルームだった。
真ん中にバスタブが置かれ、部屋じゅうが煙っている。
薬草の束が浮かぶ湯の中で、裸のロザリーがくつろいでいた。
「フフッ。そんなに驚くこと?」
「いや、だって! 間取り的におかしいですし」
タペストリーの掛かっていたこの壁は、扉側の壁。
つまり壁の向こうはさきほど歩いてきた廊下であり、バスルームを挟む空間的余裕はない。
ロザリーはバスタブの中で体をくねらせ、ヴィルマに裸体を向けた。
「ふぅん。この術も知らないのね?」
「ええ、ええ。知りませんとも」
そう言って、ヴィルマはふいっと視線を逸らした。
「フフ、おかしい。自分の裸を見るのがそんなに恥ずかしい?」
「だって、なんだか見てはいけない気がするし」
「あらあら。さては私の肉体を楽しんだわね?」
「してません!」
「そうなの? それは残念だわ。けっこう自信あるのに」
ヴィルマは気を落ち着けようとして、ふーっと息をついた。
「……なんでこんなことしたんですか?」
「もちろん、授業の一環よ」
「これで何を学べるっていうんです」
「魔女術の恐ろしさ。知らないことの恐ろしさを教えたつもりよ。伝わらなかった?」
ヴィルマはしばし黙り、それから頷いた。
「……いえ、伝わりました。まさか、魔導ごと入れ代わる術があるなんて」
「【取り替え子】という。効果が強力なぶん、制約も多いわ。両者間の合意が必要なのもその一つ」
ヴィルマが眉間に皺を寄せる。
「合意なんかしてません」
「したわ。私の問いかけに、ルール通りに答えた。それが合意の証であり、あなたはその結果なにが起こるかを知らなかっただけ」
「……途中で否定をやめていたら?」
「術は成らない。儀式は失敗ね」
「知っていれば簡単に防げるんですね」
「そういうこと」
ロザリーは天井を見上げ、耳まで身体を湯に沈めた。
「……でもそれは、術をかけた理由の半分」
「半分? もう半分は?」
「私の個人的な欲求。あなたの魔導を体感してみたかった」
そう言って、ロザリーは自嘲じみた笑みを浮かべた。
天井に両手を伸ばし、宙をぎゅっと掴む。
「素晴らしいわ。こんな体験したことない。神になったかのごとき万能感。力を試したくて堪らない。今すぐにでも何かを壊したい。そんな欲求が溢れて止まないの。……だから、湯に浸かって気を鎮めているってわけ。ロザリー、よくこの魔導で正気を保っていられるわね?」
「うーん。まあ、自分の身体ですから慣れてますし」
「……そう。慣れって恐いわね」
ロザリーは、ザバッと湯から上がった。
タオルで髪を拭き、まだ濡れた身体で扉のほうへ歩いてきた。
ヴィルマは居心地悪そうに目を逸らす。
その耳元で、ロザリーが囁いた。
「ずっとこのままでいようかしら?」
ヴィルマが勢いよく振り向き、目を見開いてロザリーを見つめた。
ロザリーが笑う。
「冗談よ。制約の中に制限時間もあるの。じきに戻るから、それまでここにいなさい」
ほっと安堵するヴィルマの横を、裸のロザリーが通り過ぎる。
「あら?」
ロザリーは、床に落ちた鳥の折り紙を拾った。
「なるほど、【手紙鳥】。それでこんなに早く居場所がわかったのね。対策しておくべきだったわ」
「対策なんてあるんですか?」
「んー。街で小鳥を買って、ロザリー=スノウオウルと名前を付けるとか?」
「そんなことで対策できるんですか!?」
「さあ? 試したことないから。でも魔女術対策って、シンプルなほうが案外うまくいくものよ」
ロザリーは暖炉の前のソファに濡れた身体を投げ出した。
彼女が指を弾くと、暖炉に火が灯る。
ヴィルマが、彼女の背中に尋ねた。
「あのバスルーム。あれはなんて術なんですか?」
「【隠し棚】。任意の場所に収納空間を作るまじないよ」
「収納空間? 部屋じゃなくて?」
「術者の魔導量によって広さは変わる。だから〝魔女の隠れ家〟なんて表現されたりもするわ」
「そうか、隠れ家にはもってこいですね」
「〝はじまりの騎士〟ユーギヴは、【隠し棚】の中に自分の都を持っていたという。あなたの【隠し棚】は、はたしてどれほどの広さを持つのかしらね?」
ヴィルマの瞳に、ありありと好奇の色が現れる。
「どうやるんですか?」
ロザリーはソファから仰け反って、逆さまにヴィルマを見た。
「生徒には教えないことにしているのだけど。……ま、いいわ、素直さに免じて教えてあげましょう」
ロザリーは宙に向かって指先で、何かを書き始めた。
指の軌跡がほのかに光り、古代魔導語の文字となる。
「……私の名前?」
「素晴らしいわ、古代魔導語も勉強してるのね。なら、あとは簡単。自分の名前の繰り返しで、扉の形を作るだけ」
ロザリー=スノウオウルの光文字の繰り返しで、宙に小さな扉の形ができあがった。
みるみるうちに扉は色づき、精巧な扉の絵へと変化する。
「書くときに込めた魔導量に比例して、扉の奥に空間ができる。大きな空間を作るときは、扉の形を大きくしたほうがいいわね」
「簡単ですね。注意点は?」
「一人一つしか作れないわ。新しいのを作ると前のが消える」
「ふむ」
「あと、扉を構成する名前の文字列が消えたり汚れると、術も消滅するわ」
ロザリーは扉の絵の一部分を光文字で塗りつぶした。
すると扉の絵はぐにゃりと歪み、空気に滲むように消えていった。
「本人でなくとも、消し方を知っていれば消すことができる。うっかり消してしまうこともあるわね。消えると、中に入っている物は永遠に失われる。大事なものはいれないようにするか、決して見つからないように扉を隠すことね」
「なぜ授業で教えないんですか? すごく便利そうなのに」
「面倒ごとの種だから。あなたたちの年頃は、悪さをして嬉しがるものだもの」
「ああ、誰かのものを隠したり――」
「――あるいは自分で隠したものを失ったり。取り返しのつかないこともあるから」
「なるほど」
(古い術っぽいのにヒューゴに教わってないのも、同じ理由かな)
と、そのとき。
部屋の扉がコンコン、とノックされた。
「ロザリー、出てくれる?」
「えーっ」
「今、私はロザリーだもの」
「そりゃ、今は私がヴィルマ教官ですけど。ルナール教官でもうこりごりです」
「ちょっと待って。その姿でルナールと会ったの?」
「会ったというか、出くわしたというか」
「何を言われた?」
「はしたないと」
「はあっ!? なんであんなはしたない顔した奴にそんなこと言われなきゃいけないのよ!」
「あ、よかった。やっぱりそう思ってたんですね」
「待って待って。よかったってどういうこと?」
そのとき、また扉がノックされる。
ロザリーが声を落として言った。
「ルナールかもしれない。出なくていいわ」
「ですね」
そう声を潜める二人の前で、ドアノブが回された。
そしてゆっくり、扉が開いていく。
それを認めたロザリーは、弾かれたようにソファから立ち上がった。
強引にヴィルマを引っ張り、ソファの陰に彼女を引き込んだ。
(あなた! 【鍵掛け】しなかったの!?)
(他人の部屋でそんなことしませんよ!)
囁き声で口論する二人をよそに、扉を開けた人物が部屋に入ってきた。
「ヴィルマ教官? いらっしゃいますか?」
入ってきたのはロロだった。
書類の束を両手で抱えていて、恐る恐るといった様子で部屋の中へ足を進める。
(そうだ、調査票をロロに頼んだんだった!)
(ロザリー! 早く追い返して!)
(ロロなら平気でしょう? わけを話せば――)
(――この状況で何を言っても言い訳にしかならないわ!)
その言葉の意味をヴィルマもすぐに理解した。
ロザリーは裸。そのすぐ側にヴィルマ。二人はソファの陰で息を潜めている。
教官室で逢瀬を重ねる、禁じられた愛。
ロロのことだ、間違いなくそう受け取るだろう。
そして彼女はこの手の話が大好物である。
(追い返さないなら仕方ないわ。呪詛で何も見えなくするしか……二度と視力は戻らないかもしれないけど)
(わーっ! ちょっと待って! すぐに追い返しますから!)
ヴィルマは血相を変えて、ソファの陰から躍り出た。
「ロロ!」
「うわあっ!?」
ロロは跳び上がって驚いた。
ずり落ちた眼鏡を直しながら、ヴィルマに言う。
「ヴィルマ教官、いらっしゃったんですか?」
「私の部屋だもの。いたら悪い?」
「いや、そんなことは」
「あなたはどう? なぜ私の部屋にいるの?」
「えっと、調査票です。持ってこいと言われたので――」
「――そんなことは聞いてない。なぜ! 勝手に! 私の部屋に! 入っているのかと聞いているの!!」
ヴィルマのものすごい剣幕に、ロロは身体を硬直させた。
「す、すいません! 扉の前に置こうかとも思ったのですが、調査票を置き去りにはできないと思い」
「言い訳はいらない! すぐに立ち去りなさい!」
「は、はいっ! えっと、調査票はどこに……」
「す、ぐ、に! ……呪い殺すわよ?」
「ひっ! あわわ……」
ロロは調査票を抱えたまま、部屋から逃げ去っていった。
(うぅ、ごめん、ロロ)
ヴィルマはそう心の中で呟き、扉を閉め、しっかりと【鍵掛け】したのだった。