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「もしや薩摩の密偵なのでは」


 わだかまる疑念を桑二郎は口にした。


「つまり奴の正体は武士で、江戸の世情を探る為、吉原の女衒に身をやつしたと言うのか」


「そう思う根拠なら、あるぞ。先程、貴様と立ち会った奴の動き、噂に聞く示現流と似ておるのだ」


 示現流と聞き、伊助はさもありなんと大きく頷いた。女衒に負けるより密偵の策にはまったと思い込む方が、多少、気が楽なのであろう。


「お主が吉原に泊まり、明日、あの下郎を懲らしめてくれるなら、諸々の費用は全て俺がもつ」


 伊助の申し出に桑二郎はほくそ笑んだ。

 

 実は元より、そのつもりだったのだ。

 

 他人の金で一晩遊んだ後、くだんの女衒が只の荒くれなら成敗し、真に薩摩の密偵であった暁には、彰義隊に加わる前の肩慣らしをさせて貰う。


 桑二郎は胸が久々に高鳴るのを感じ、猪牙船の心地よい揺れにしばし身を任せた。






 その日の夕刻、再び吉原に足を踏み入れた桑二郎は、汐路の所へ行き、情報の収集にあい努めた。


 その結果、わかったのは、田吾作が実に風変わりなはぐれ者と言う事である。


 吉原には女衒を束ねる大きな勢力が在り、同業者はその傘下にあるのだが、田吾作に限って何処の組織にも属していない。


 敢えて言うなら、遊郭・左之屋の専属。


 大見世の格を持つ一流の廓は地方の農村に伝手を持つ場合があり、時として、口減らしの必要に迫られた百姓から娘を売りたいとの申し出を受ける。


 その際、出向いて話をまとめ、10両ほどが相場だという金子を支払った上、娘を連れ帰るのが田吾作の仕事で、普段は廓の男衆に混じり、雑用に勤しんでいるという。






「して、その田吾作とやら、何か剣術を齧りおるのかな?」


 桑二郎が訊くと、汐路は首を捻った。


「暴れる姿を見た事は無いのか?」


「そりゃまぁ、気安く格子の外へ出られない身の上ですから。長い棒を振り回すって噂が耳に入る位で」


「馬鹿力以外、特に取柄が無いと」


「あい」


 今度は桑二郎が首を捻る。一夜の酒色に溺れた後とは言え、力任せで封じられる程、武士の剣は甘くない筈。


「けど、並大抵の力じゃないの、あの人」


 これも噂、と念を押してから、汐路は吉原で囁かれる田吾作の逸話を語った。






 先年、ある地方の農村へ娘を受け取りにいった時の事だ。


 折からの豪雨で川が氾濫し、百姓達は家畜を引き連れて小高い丘へ避難したのだが、生まれて間の無い子牛二頭が逃げ遅れた。

 

 それを知った田吾作は二頭を一気に肩へ引っ担ぎ、勢いを増す水の流れを突っ切って、丘まで運んだのだと言う。






「子牛と言えど、牛は牛。それを激しい雨の中、たった一人で一度に二頭も」


「あい。息も切らさず、軽々と」


 余りに荒唐無稽な話である上、身の危険を冒し、子牛を助けた理由も桑二郎の腑に落ちなかった。


 百姓が娘の身売りで金を得たとして、虎の子の家畜を失ってしまえば、結局、夜逃げの憂き目にあう。だから、廓行きが決まった娘の願いを聞き入れ、命懸けで牛を運んだと言うのである。

 

「きっと自分がお百姓だった分、そういう辛さが良くわかるのでしょうね」


「だが、田吾作というのは、元々百姓を卑しめる呼び方だろう。それを敢えて名乗る性根が解せん」


「田が吾を作る」


 ぽつんと汐路が口ずさんだ言葉に、桑二郎は目を丸くした。


「それが田吾作という名の本当の由来。田んぼで土と語らいながら育った事を、あの人は何より大切にしていて」


「ほう」


「廓暮らしで忘れないよう、そう名乗るんだそうです」


「しかし、そも百姓が女衒になる事自体、まず有りえない筈だぞ」


「詳しい話は存じません。噂だったら、色々聞いたわ」


「おいおい、又、噂かよ」


「元は江戸へ直訴に来たお百姓とか、一揆の生き残りだとか、言われてます。仲間に裏切られて簀巻きにされ、左之屋の誰かが川から助けたって話もある。訊ねても、ただ笑うばかりで、何が本当か教えてくれないけれど」


 汐路は感じ入った口調で言う。


 だが、人を……女の命を売り買いする稼業の男が、そんな甘い心根でやっていけるものだろうか。


 それならむしろ密偵が正体を隠す為、都合よくでっち上げた身の上話と考えた方が、まだ真実味がある。


「曲者め、俺は騙されぬ」


 口の奥で呟く桑二郎の顔を、汐路は不安な眼差しで覗き込んだ。


「主様、もしや今朝方、往来で田吾作さんに喧嘩を売った侍って言うのは」


「ああ、俺だ」


「何で、そんな真似!?」


「つまらぬ浮世の気晴らしよ」


「怪我でもしたら、どうなさいます?」


「下郎相手に怪我などせんわい。それに、どの道、先行きは短い。俺はもうすぐ上野へ行くでな」


「上野と言うと、彰義隊ですか」


「おう、他に何がある」


 快活に言い放とうとして、桑二郎は閉口した。彼を見つめる汐路の頬に、一筋流れる涙を見たのだ。


「お、おい、汐路、何故に泣く!?」


「だって、主様が死に急ぐような事を言いなさるから」


 俯く女の肩が揺れ、すすり泣く声が漏れ始めた。


「ええぃ、もう廓の手管は使うな。偽りの駆け引きなど、とうに飽いたわ」


「廓にもまことは有ります」


 汐路は涙を指先で拭った。


 目尻の白粉が剥げ、現れた小皺が燈明の光に浮び上る。

 

「あちき、ここしか生きる場がない。廓に入ったが最後、野たれ死ぬまで籠の鳥。積み重ねてきた夜が、まんま嘘なら、あんまり寂し過ぎるじゃないですか」


「俺は……騙されん」


「二日続けてお出での主様、嬉しゅうて、嬉しゅうて、あちき、今宵は夢心地だったのに」


 桑二郎は汐路の言葉を遮り、力づくで引き止せ、押し倒した。


 荒く、優しさの欠片も無い抱擁。


 身を任す汐路は、最後には桑二郎の背に爪を立て、甘い声を上げる。


 騙されぬ。これも所詮、廓の手管……。


 事を終えた後、微睡む汐路への愛しさを胸の内でねじ伏せ、桑二郎は彼女に背を向けて眠った。


読んで頂き、ありがとうございます。

次回で完結となります。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 薩摩の示現流には、独特の練習法があるとか?小学校の時読んだ漫画の本に書いてありましたね。地面に打ち付けた杭を、木刀でただ上から、何千、何万と打ち付けるとか。田吾作は、示現流の使い手なのか?…
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