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「ほう、こりゃ厄介だな」
桑二郎は一人ごちた。
あの棒は、容易に受けきれない。よしんば刀で受けようと試みても、一つ間違えば刀身を折られ、そのまま強烈な打撃を食らう羽目になるだろう。
鍔迫り合いは無謀。受け刀さえ禁物。距離を縮めた最初の一手で、相手に何もさせず、切り捨てるのが最上の応手だ。
しかし棒は刀より遥かに長いから、振り回されると容易に近付けない。
実際、伊助は途方に暮れていた。
時折り大声で奇声を放つ程度が関の山。剣の間合いへ近付きたくても、踏み出す一歩がままならない。
引きつる横顔に汗が滲んでいる。
春らしい爽やかな気候にも関わらず、脂汗が次から次へと玉を成し、血の失せた額を撫でていく。
「ふむ、生半可な腕で剣術の定石通り立ち向かっても、歯が立つまい」
桑二郎の胸に、ふと左之屋での汐路の言葉が蘇った。
もしや、侍より強い廓の男というのは、あやつか?
桑二郎が一層強く興味を惹かれ、野次馬の輪の内側へ踏み込んだ時、辺りに裂帛の気合が響いた。
伊助の声ではない。
廓の男が先手を取った。
大きく頭上へ振りかぶった天秤棒を、鈍重そうな見かけからは想像もつかない素早さで打ちおろし、相手の手前の地面へ深々と食い込ませている。
桑二郎は、伊助が背後へ退いてかわしたかと思ったが、そうではなかった。
打ち込みの気迫に呑まれ、棒を振った直後に生じる隙を突く事もできず、その場へ尻餅をついている。
ふっと笑う男の、細く底光りする目を見て桑二郎は確信した。
奴め、わざと外しおったな。
伊助は無様に腰を抜かし、すぐ立ち上がれぬ様子だった。
野次馬の町人達から失笑が漏れる。
伊助も屈辱に顔を歪めたが、対する廓の男は先程までの気迫が嘘の様な呑気さで、
「お侍さん、もう懲りたっぺ」
天秤棒を軽々と肩に担ぎ、上から相手の顔を覗き込む。最早、喧嘩をする気も消え失せたらしい。
「一晩、良い夢を見て、次の朝には水も濁さずってぇのが、吉原の流儀。随分と悪いお酒を召したみてぇだが、女への狼藉を許す訳にいかねぇンだよ」
伊助は俯き、唇を噛んでいた。
「何も命まで取るとは言わねぇ。けんど、この先、吉原には出入り禁止だ。ほら、侘びの印に有り金残らず、そこへ置いていきなっせ」
男の声に挑発の色は無い。
客と喧嘩になった際の口上を型通り述べているだけだと、桑二郎は察した。むしろ問題なのは、それを言われている側がどう受け止めるかという事。
伊助の手が脇差に伸びる。
腹を斬る気だ。そう思った瞬間、桑二郎は野次馬の群れから抜け出し、男と伊助の間に割って入った。
「戸倉、しっかりせい! ここで死んだら、恥の上塗りだぞ」
「能谷、貴様か」
悄然と佇む伊助の胸元から、桑二郎は丸く膨らんだ財布を強引に掴み出し、男の方へ投げつける。
「それだけ渡せば、文句はあるまい」
「あんれまぁ、面倒じゃのう。又、別のお侍さんが来たかね」
飄々と言う横顔に、桑二郎は激しい苛立ちを覚えた。
「この男は我が朋友でな。受けた恥辱、俺が代りに晴らしてやろうと思うが、如何?」
「余計な喧嘩は御免だに」
男は路上の財布を拾い、桑二郎に背を向けて歩き出す。
「待て、下郎」
「おらが懲らしめるのは、廓の決まりを破った奴だけ、だぁよ」
「ほぉ、左様か。ならば明日、俺が友と同じ振る舞い、狼藉の類に及べば良いと言う訳だな」
野次馬がざわめき、伊助も座り込んだまま息を呑んだ。
桑二郎が唇を歪めて笑うと、男は頭をかきながら面倒臭そうに振り返る。
「他ならともかく、廓の中じゃ、おら、お侍には負けねェよ」
「何だと!?」
「負けねェ理由が三つ有る」
余りに淡々とした口調は、只のはったりとも思えない。だが、その真意を訊ねる間も無く、男は桑二郎の前から去った。
吉原を出た桑二郎は、日本堤からの帰途に猪牙船を使い、船上で戸倉に喧嘩の成り行きを聞いた。
「いや、すまん。全くもって、忝いのう。お主があそこで来てくれなんだら、今頃、俺は三途の川で別の船に揺られておるわ」
伊助は何度も頭を下げ、船底が狭い猪牙船を揺らした挙句、危うく水面へ落ちそうになった。奇声を上げて船縁へしがみ付く姿に、桑二郎は溜息を漏らす。
これもまた、醜態。
本当の所、伊助を助けたくて喧嘩に介入したと言うより、忘八者を相手に武士が恥を晒す姿を見たくなかった、と言う方が正しい。
脇差を抜いた伊助が万一途中で怖気づき、腹を切れず逃げ出したとあれば、それこそ天下の笑い者。只でさえ武家の威信が地に堕ちた昨今、伊助一人の恥辱で済むまい。
だが、そんな友の冷やかな思惑を知らず、伊助は問われるままに語り続けた。
事の起こりは前夜の深酒である。
二日酔いで目をさまし、居心地の良い床から追い出そうとする遊女を、鬱陶しいと力任せに蹴飛ばしたのが運の尽き。
女郎が泣き、やり手婆が騒ぎ、しばらくすると女衒だと言う男が現れて、伊助を路上へ連れ出したと言う。
「先程の男が女衒か」
「ああ、田吾作と名乗りおった。どうせ廓の通り名で、本名ではあるまいが」
「廓の住人にしては、何とも土臭い」
「下総の百姓の出らしい」
「まぁ、何にせよ、郭に住まう飼い犬……町人にまで蔑まれる下郎中の下郎に、貴様は後れを取った訳だな」
桑二郎の毒舌に伊助は帰す言葉も無い。
女衒とは、要するに、女郎となる娘を遊郭が買い入れる際の仲立ちである。
人身売買が建前上はご法度である為、娘を十年の年季奉公に出し、その給金を家族が前払いで受け取る形になるのだが、貧乏人と遊郭の間を行き交う女衒の実態は人買いそのもの。
女賤という呼び方もあり、文字通り極めて賤しい者がつく汚れ仕事とみなされている。
だが、廓の掟を破った客に制裁を加えるのは、普通は忘八者の職分で、女衒がしゃしゃり出るのは異例だ。
それに侍とまともに渡り合う力を奴は何処で得たのだろうか?
読んで頂き、ありがとうございます。
田吾作なる妙な女衒に付いて、次回から描いていきます。




