たとえば、オナニーしあうみたいな偽恋。
レモンエロウのパインアメを舌の上で転がしたら、夏の残り香がした。焼き蜜柑みたいな空の下。まだ熱い九月のアスファルトをお気に入りの靴で踏んでいく。こんなに暑いなら飴よりアイスを買えばよかった。
時間が経つにつれ、飴はやせていく。指輪くらいに細くなったから舌の先っぽでつついてみると、パリーンと小さく割れてしまった。
「ちぇっ」
九月一日。
夏休みと二学期の境目みたいな今日だから、どうにもくだらないことでいじけてしまいたくなる。不機嫌というよりゴキゲンじゃないと形容した方が正しいように思えた。
そういえば、今日は一年で若者の自殺が一番多いんだっけ。長い夏休みを超えて、学校に行くのが辛くて死を選びたくなるらしい。その気持ちに共感しなくて済むくらいには俺の人生は充実している。けれども今日だけはどうしても胸がじくじくと痛むのだ。
友達はいて、彼女はいて、勉強も運動も人並み以上にはできる。
そんな『持ってる側』の人間だと思っていたのに……一番大切なものがこんなにも容易く失われてしまうだなんて思いもしなかった。
彼女――東雲和香は明るい女の子だった。あまりこういう言い方は好まないが、スクールカースト上位にいる陽キャといった感じ。
そんな東雲と付き合い始めたきっかけは、一学期終業式に彼女に告白されたことだった。
東雲のことが好きだったかと言われればそれは分からない。多分違うのだろう。でも恋愛なんてお互いが好き合って始まるものばかりじゃない。そんなのは小学校くらいまでの話だ。
実際、いざ付き合ってみたら東雲のことは大事に思えた。夏休み中に行った何度かのデートは記憶に残っている。
――たとえば、プールに行ったとき。
『どう? 似合うっしょー!』
なんて、自慢げに胸を張っていた東雲は眩しかった。
――たとえば、夏祭りに行ったとき。
『着物とか着るの苦手で……普通の服でごめんね?』
なんて、申し訳なさそうにしていた東雲はちっとも場違いじゃなかった。
秋物の服のショッピングにも付き合った。夏休みの宿題も一緒にやった。メールだって毎日交わした。
これが恋人ってやつなのか、と胸が躍った。恋人がいる生活はそれだけで虹色のビー玉みたいに輝いていた。
【気にすんなよ。よくあることだろ】
ぶるる、とスマホの通知が友達からのラインを報せてくれる。
歩きスマホをできるほど器用でも厚顔無恥でもないので一度道の隅に寄った。
【よくあることなのか?】
【多いだろ。夏休み限定の恋人とか】
――っ!
こうして自分以外の口から(ラインだけど)言われると、心の奥からぐちゃぐちゃな泥が這い出してくる。
自分の口角が情けなく歪むのを自覚して、電柱に寄り掛かった。
俺は今日、東雲に呆気なく振られたのだった。
◇
付き合い始めて最初の学校。登校する時間は色んな事情があって合わせられないからせめて下校くらいは一緒に、と期待に胸を膨らませて東雲の教室に向かったのが数時間前のこと。
まだ友達と話していたのでスマホを弄りながら待っていると、教室から東雲たちの話し声が聞こえてきた。
『そういえば和香って彼氏と上手くいってるの?』
『彼氏? 和香って彼氏いたんだ⁉ うそ、誰?』
『あれだよ。B組の学級委員』
俺のことだ、と思った。まぁここで俺以外の影が見えていたら速攻で泣いていた自信があるけど。
『あー……藤宮くんのパチモンだ! よく空回りしてる』
『そうそう! ……って和香の前で言うことじゃないよ」
『あ、ごめん』
遠慮がちな声。そりゃそうだ。彼女の前で彼氏をけなしたんだから。
というかその前に俺は空回ってたのか……? 苦みが口の中に広がっていく。ただ、自己評価と他者評価が違うなんて当たり前のことだ。
きっと東雲なら分かってくれている。分かってくれる人に分かってもらえているならそれで充分だろう。
――そのはずだった。
『全然気にしなくていいよー。ぶっちゃけ私も思うし。ちょっと痛いよね』
……え?
思考の栓が根詰まりを起こす。自分の聞き間違いを疑ってみるが、やっぱりその声は夏休みに幾度と聞いたものだった。
指の先がつららみたいに凍っていく。嫌な予感が脳裏によぎったのだ。
『ちょっ、彼氏のことそんな風に言っちゃうの?』
『まぁねー。っていうかどうせ今日か明日には別れる予定だもん』
『えっ、そうなの? なんか嫌なことでもあった?』
『んー、別に何もないよー。元々夏休み限定のつもりだったの。顔は好きだから』
幻聴であることを願うけれども、下手に現実的な自分が逃避を許してはくれなかった。これは現実に起きていることなのだからちゃんと受け止めろ。そう、心臓が拍動と共に強制してくる。
『ひどっ。でも気持ちは分かるかも。顔は割といいよね。妥協できそう』
『でしょー。本当は藤宮くんと付き合いたかったけどそれは無理そうだったし。なら一人寂しく過ごすより目の保養がいた方がいいじゃん?』
藤宮というのは、うちのクラスの人気者の名前だ。藤宮も俺もどことなく顔のタイプが似ており、しかも同じ学級委員に属しているので、何となく俺の上位互換感がすごい。自覚してはいたが、それでも俺なりの個性に惚れてくれたんだと思っていた。
――でも、違ったらしい。
『けど付き合ったら意外といい、とかあったんじゃない?』
『んー、ない! なんか暗いし、ラインとかすぐに返信帰ってきて鬱陶しいし。距離感がちょっとムリ。重いんだよね』
『あー……』
危うくスマホを落としそうになる。何とか持ち直した俺は、自分の手が震えていることに気付いた。
怖かったのだ。他に何かを言われてしまうのだろうと思うと、体がそこにいることを拒絶していた。
どんなに現実を受け止めることを強いられても人間には限界がある。
だから逃げた。あっさりと。
【ごめん。今の話聞いてた。
別れよう】
【あ、聞いてたんだ。なんかゴメンね。
おっけー、ちょうどよかった!】
兎のキャラがOKマークを出しているスタンプが送られてきたのを見て、俺は自分と東雲の温度差に気付いた。
自分と他人で見えている世界が違う。東雲が悪いわけじゃないのだろう。いわば音楽性の違いだ。それで別れるなんて幾らだってあるのだし、いちいち傷ついてなんていられるべきじゃないのかもしれない。
それでも俺は傷ついてしまったのだった。
◇
【ひと夏の恋ってことでいいんじゃねぇの?
そもそもギャル系苦手だったわけじゃん】
【そうだけど】
【それでもキツイか?】
【キツイ】
正直な気持ちだった。
恋はしていなかったはずなのに、いつの間にか恋をしていて、ぷつんと一瞬で失恋した。ゲリラ豪雨みたいに身勝手な失恋が、頭をどろどろでぐしゃぐしゃにしていく。
「はぁ……暑い」
自動販売機でスポドリでも買おう。
家には十分もすれば到着する。喉の渇きを堪えるくらいはどうってことない距離だが、どうせ今後は東雲とデートに行かないのだ。必要なお金もグッと減る。だから多少は金遣いが荒くなってもいい。というか、荒くしてしまおう。
【ならまた恋してみりゃいいんじゃね?
顔はいいって言われたんだし、チャンスはあるだろ】
男同士だと、どうもこういうときの慰めが乱暴だ。他の恋とか、すぐに行けるわけないだろ……。
なんて返そうかと考えながら、ちょうど通りすがった小さな公園に入る。ここには自動販売機があるのだ。
公園は土の匂いがした。小さい頃に来たのを思い出し、自動販売機がある広場の方へと向かう。
「ああ、あった」
普段は買わないスポドリ、百二十円。
がたんと落ちてくるそれを拾い上げる。
そのときだった。
「ぐすっ……う、うぅ」
誰かが泣いているのが聞こえた。
いや、泣き声が聞こえること自体はおかしいことではない。辛いとき、公園で泣きたくなることだってあるだろう。
問題は広場を見渡しても、泣いているであろう誰かさんの姿が一切ないことだった。
「ひっく……ぐず」
やはり声はすれども、姿は見えず。
びゅうるりと吹いた一陣の風はやけに涼しい。
――幽霊?
昨日までは夏だった。幽霊くらい、幾らだって出てきそうな気がした。いざそう考えてみるともうそうとしか思えなくなり、一斉に鳥肌が立つ。
「逃げよう」
ただでさえ今日はやってられないんだ。この上、更に幽霊に憑かれるようなことになったらもう、バイクを盗んで走り出すしかなくなってしまう。
ひんやり冷たいペットボトルを握り、俺はその場を後にす――
「藤宮、くん」
――ることができなかった。
「なにやってんだ、お前」
幽霊の正体見たり枯れ尾花。
枯れ尾花代わりのクラスメイトは、自動販売機と木とベンチの影で蹲っていた。
彼女を見つけることができた理由は、分からない。
◇ ◇ ◇
「なにやってんだ、お前」
どうして見つけられたのかも、どうして声をかけたのかも分からない。けれども気付くと俺はその少女に声をかけていた。
自動販売機と木とベンチの集まった陰に隠れているその少女はうちの制服を着ており、しかも驚くことに俺のクラスメイトでもあった。
こげ茶色のミディアムヘアーと三日月の髪留めがトレードマーク。
うちのクラスでひときわ異彩を放っているのが彼女、来海彗夢だ。
こうして蹲っているところを見れば分かるのだが、来海はかなり小柄である。クラスの中でも一番小さく、ついでに無胸に近いくらい貧乳だった。顔はかなりよく、ぶっちゃけてしまえば美少女だ。
――が、そんな理由で異彩を放っているわけではない。そもそもうちの高校は美少女が多く、可愛い程度では目立たない。
来海が目立っている理由はずばり、ちょっとヤバい――あるいはヤヴァい――からだ。
「……藤宮、くん?」
ヤヴァい理由その一は、声をかけた俺を見上げる来海の顔を見れば分かる。
来海は右目に眼帯をつけているのだ。特に目の病気ってわけじゃないことは、以前に来海が先生に眼帯について咎められたときに判明している。では中二病かと言えば、『邪眼!』的なことを口走ったり、『右腕が疼くぜ』と嘯いたりはしないので多分違う。
多分、とわざわざつけたのにはヤヴァい理由そのニが関わってくる。
「違う。火宮だ」
「……パチモン」
「…………」
軽い調子で返せたらよかったのだが、その言葉は今の俺にはクリティカルヒットすぎた。
蹲ったままの来海はまたすぐに俯き、ぎゅっと脚を抱く。夏服の袖から伸びる色白な両腕のうち右の腕だけが、手首から肘の上あたりまで包帯に巻きつかれていた。
その包帯がヤヴァい理由そのニ。来海は日頃から必ず右腕だけ包帯を巻いているのだ。体育のときですら解かないため、来海の右腕がどうなっているのか知る者はいない。でも、やっぱり怪我ではないらしい。
ヤヴァい理由その三についてはお察しの通り。
当然の如く『パチモン』とか言いやがったみたいに、来海は人間関係の構築と持続の能力に決定的な欠陥がある。そのせいで来海はクラスの中で孤立していた。
俺はお優しい聖人じゃない。だから来海とは関わりたくないというのが本音のはずなのだが……今は関わりたいと思っていた。
――どうして?
考えるのをやめて、再度声を掛ける。
「で、どうして泣いてたんだ?」
「…………」
「話したら楽になるかもしれない。口外とかしないから話してみろよ」
「善意の押し付けは悪意よりよっぽど悪い」
ぐさりと胸に突き刺さる重苦い返答だった。ノールックでこれだけの攻撃力を持っているあたり流石はヤヴァい女だ。
けれどももうこっちは最初の『パチモン』で最大ダメージを受けて、耐えきっている。他の生半可な言葉じゃ陥落はしない。
「藤宮くん、とか言ってたか」
「うるさい」
低い声。
「かなりの猫なで声だったな?」
「うるさいっ」
低くて大きい声。
明らかな拒絶と嫌悪を感じ取ったからこそ、やたらと舌が回る。潤滑油でも差し込まれたみたいだ。
「これだけ条件が揃えば分かる。来海、藤宮に振られたんだろ」
「……ッ、うるさい!」
「やっとこっちを見た。目つきは酷いけどな」
ぎりぎりと射殺さんばかりに睨んでくる。左目だけだからこそ、その眼力は凄まじい。息が止まりそうだった。
それでも――。
「図星、か」
「……さっきからうるさいって言ってるじゃん、このパチモン!」
「ああそうだ、パチモンだよ。そんなこと知ってるっつうの」
もう流石に慣れた。そもそも藤宮のパチモンチックな部分があるのは自覚していたから傷つかないわけじゃないが我慢はできる。
受け入れてしまえばどうってことはなかった。むしろ来海の方が驚いているようだ。『パチモン』と言えばそれで俺が引くとでも思っていたんだろう。
「俺は藤宮のパチモンだ。もうそれでいいから、話を聞かせろ。このまま帰ったら夢見が悪いんだよ」
嘘、というわけではない。このまま帰れば来海のことを思い出す。今しがた東雲にフラれたばかりなのに、だ。
それは避けたいと思った。ここで話を完結させたい。
けれどもこれは完全に自分勝手な俺の都合だ。来海が従う必要はない。だが同時に、来海になら都合を押し付けても別に構わないように思えてしまった。
「自分勝手じゃん」
「だからなんだよ。それが嫌なら公共のスペースでこれ見よがしに泣くな」
「女の子が泣いてるのにそんなことしか言えないわけ? これだから非モテは」
「お前が言うな、お前が。っていうか俺は彼女いたし」
というか、俺が非モテなのか判断できるくらいにはこっちのことを認識してたんだな。クラスは同じだがそんなに話したことはないっていうのに。
当の来海はぱちぱちと瞬きをしていた。
「嘘……パチモンにも彼女ができるんだ」
「夏休み限定かつ藤宮の代わりだったけどな」
「それなら納得」
「スポドリ頭からかけてやろうか?」
ほぼ初対面の相手にこれだけ毒舌を吐けるのだからつくづく来海はヤヴァい女だ。もっとも今回に関しては俺の方が失礼だし言いたい放題しているので文句は言えないのだけれど。
眼帯の位置を直す来海は、渋々と言った感じで苦笑する。
「まぁそれでも付き合えたならよかったじゃん。私は全然だし」
「結局振られてるんなら変わらないだろ」
「そうでもないよ。私の場合、もう十年目だもん」
「十年目?」
思わぬ言葉が飛び出し、つい聞き返してしまう。
来海はこくりと小さく頷くと深い溜息を吐き、地面に転がった小さめのペットボトルに目を遣った。
「藤宮くんと私は幼馴染なの。小学校の頃からの付き合いで、私は初めて会ったときからずっと恋してた」
「幼馴染なのに『藤宮くん』なのか?」
「それは今日、そう呼べって言われたから」
晩夏の尻尾が見える秋の夕暮れは、来海の表情を照らしはしなかった。哀しさのせいか、唇が震えている。
それでも言葉を紡ごうとしているのを見て、来海が自分のことを話してくれるのだと察した。
――話は単純なことだった。
来海は小さい頃からずっと藤宮のことが好きで、いつからかストーカーのようになっていた。そのことに対する自覚は来海にもあったらしい。だがその上で、好きな人のことを知りたいのは当たり前だと彼女は考えていた。
中学に入ってもその関係は変わらず、むしろそれは過激になった。藤宮がモテ始めたからだ。それでも何とか彼女ができないように祈りつつ、同じ高校へ入学した。
だが問題は深刻化するばかりだった。藤宮はうちの学年――すなわち一年生――の中ではアイドル的人気を誇っているし、上級生の中にも好意を抱いている者は多い。告白された回数だって数えきれないほどだと聞く。
それでも来海はアプローチをやめはしなかった。毎日ラブレターは下駄箱に入れ、ラインだってする。お弁当も作るし、毎朝家の前で待って一緒に登校しようとした。
恋人にそんなことをしてもらえたらそりゃ嬉しいだろう。でも好きでもない奴にそれをやられたら、それは気持ち悪い以外の何物でもない。
そして――。
「『もう付きまとわないでくれ。正直重いんだ』って。今までは『ひぃくん』って呼んでたんだけど、それもやめろって言われた」
藤宮朝陽だから『ひぃくん』。何とも幼馴染っぽい呼び名だ。高校で出会ってそんな呼び方をしていたら痛いしあざとい。というか幼馴染だったとしても二次元じゃなきゃ許されないレベルな気がする。
来海は確かに可愛い。可愛いが、それはあくまで外見の話。中身もとい中見は、ヤヴァい。
「なるほどな。気持ちは分からんでもない」
「……同情はいらない」
「同情じゃねぇよ。同情するほどお前のことを好きじゃないし、気遣いたいとも思ってない」
「最低じゃん」
「パチモンだからな」
善く在りたいとは思う。でもそれは自分が『持っている側』だという余裕を持てていたからこそのものだった気がする。
今は善く在りたいと思う以上に、強く在りたいと思っていた。
「ねぇ。なんでパチモンは振られたの?」
「パチモンで、んでもって夏休み限定のつもりだったらしいからだ……って言わなかったか?」
「言ってたけど、それだけじゃないでしょ」
言わんとしていることは分かった。
最初は夏休み限定のつもりだったとしても、ひと夏を共に過ごしたんだから心を掴むことができたんじゃないか。
そう尋ねられているのだ。
「こっちが話してもフェアじゃないもんな。話すよ」
あるいは懺悔、あるいは弱音。
空はまだ、焦げていなかった。
◇ ◇ ◇
えたいの知れない不吉な塊を吐露できたのならば、福の塊を呑み込むよりもずっと幸せになれる気がする。
いつもなら来海なんかに胸中を吐露したりなんかしなかった。
ふと、かの作家の短編小説を思い出す。檸檬を見つけるまでの彼はこんな気持ちだったのかもしれない。振られたことよりも、今は不吉な塊の方が問題に思えた。
「――で、俺は重いんだとよ」
俺の話はそれほど長くはならなかった。元々たくさん話すタチではないし、大っぴらに何でもかんでも話す内容ではないので重要なところだけを話したのだ。
おそらく、あそこで聞いた話だけが振られた理由というわけじゃないと思う。東雲の胸の内には友達にも話さないレベルの不満が幾つも貯まっていたのだろう。その中でも代表的だったのが『重い』ということ。
「距離感の見定めが下手っていうのは自覚してたんだ。ラインの即レスも一応迷ってはいた。でも返信見たらすぐ返したくなるだろ、普通」
情けなく漏らした言葉がどこまで来海に届いているのかは分からない。また俯いてしまっているから、隠れて居眠りされていても気付けないのだ。
話したら楽になるかと思ったが、なかなかどうして難しい。
「重い……」
呟いたのは来海。
来海も『重い』って言われたんだし、考えてみればそういう意味で共通点がある。
「重いってずるい言葉だと思わない?」
そう問いかけてきたのも来海。左目を見つめ返して質問の意図を探ると、彼女は付け加えた。
「人との接し方なんて人それぞれじゃん。ラインを返す頻度も、返してほしい頻度も。好きになるまでの時間とかなってからの消費期限とか、そういうのって皆違う。なのに一方的に『重い』って言葉で烙印を押すんだ。そんなのさ、ずるいじゃん」
見えない右目を幻視するくらいには、来海の言っていることが分かる気がした。
多様性――その言葉は今やあらゆることで使われる。人種、性別、職業に生き方。何でもかんでも多様性だ。
その中には人間関係だって含まれている。
ステレオタイプに言えばリア充とぼっち、という二項対立は分かりやすい。
誰かと仲良くすることを是とする人もいれば、一人でいる方が楽しいという人もいる。ボディタッチが激しい人もいるし、パーソナルスペースが広い人だっているはずだ。
そこにだって多様性があるはずなのにある一定のラインを超えると『重い』だの『軽い』だのと烙印を押され、まるで異常者のように扱われてしまう。
そして俺は前者だったのだ。
それは東雲の言葉からも分かるし、振り返ってみればこれまでの人生に幾らでも気付けるヒントはあった。
たとえばクラスライン。自分だけレスが早かった。
たとえば友人関係。仲がいい友達が他の奴と仲良さげにしていると妙に心がざわついた。
たとえば、たとえば、たとえば――。
「もし私たちが重いなら、それは皆から貼られた『お前たちはおかしい』っていうレッテルの重さなんだよ」
「……そうだな」
存外、ヤヴァいくせにいいことを言う。もしくはヤヴァいからこそ言えることなのか。いずれにせよ来海の言葉が俺の心に響いていることは確かだった。
「不服だけど、私たちは同類なのかもね」
「らしいな」
であるなら、俺もまたヤヴァい奴ということになる。
なるほど、存外間違ってはいない。彼女に振られてすぐにこうして別の女子と恋の話をしているのだから、多分どこかおかしい。
風が吹き、来海の前髪がそよそよと揺れる。三日月の髪留めはそんなことまるで気にも留めない様子で鎮座していた。
綺麗だな、と思う。
こんな公園で夕方、体育座りをしている女の子。左腕の白い素肌と右腕の包帯はどちらも等しく人間味を感じる。
絵画みたいな現実ってやつが世の中にはある。この光景はまさしくその筆頭だ。
「はぁ……辛いなぁ」
俺への言葉ではなく、口から無意識に零れた独り言だろう。膝にこてんと顎を乗せたまま、つま先を見つめている。感触を確かめるかのように動かすとローファーが枯れ葉っぽい音を生む。
さっきまでの友達とのやり取りを思い出す。
【ならまた恋してみりゃいいんじゃね?
顔はいいって言われたんだし、チャンスはあるだろ】
他の恋にすぐ行けるわけがない、と思っていた。それは今も変わらない。たとえ東雲への想いがあの瞬間に冷めていたとしても心の傷が癒えるまでには時間が要る。
何より、俺は誰かを主体的に好きになったことがない。東雲への想いだって後だしじゃんけんみたいなものだ。そんな状態で次の恋に進めるわけがない。
だが恋に満たない欲求は、どうしたってくすぶり続けている。本当は俺は『持っていない側』だったはずなのに、『持っている側』だと勘違いしてしまった。そのせいで生まれてしまった自分に不似合いな欲求が山ほどある。
「なぁ来海。俺に提案がある」
「……提案?」
来海がこちらを見上げる前に俺の方がしゃがむ。同じ高さで話したい内容だった。
「…………目、潰すよ」
「見ないようにしてんだろうが」
「どうだか。急にしゃがんでくるし。弱ってる女の子につけこむとか最低」
自覚してるよ、と口の中で呟く。
「それで提案って?」
「ああ、それなんだが……」
口ごもってしまうのは、こうして自分から踏み込むことはほとんどなかったからだと思う。自分の歪さを自覚しながら、土の匂いのする空気を吸い込んだ。
「俺と付き合わないか」
「…………パチモンが急に何言ってるの? 話を聞いたのもこれが目的? それともこの会話で私に惚れたわけ?」
「残念ながらどれも違う。話を聞いたのは『自分より酷い奴がいるんだ』って安心したからだ。それに俺はお前みたいなヤヴァい奴を好きだと思わねぇよ」
「は? 喧嘩売ってる?」
「売ってない。お前が勘違いするからだ」
今にも殴りかかってきそうなほどに睨んでくる。華麗に避けてから話を続けた。
「俺が提案したいのは、互いにとって都合がいい彼氏彼女にならないかってことだ。そこに恋愛感情は介在しない。まぁ介在させたきゃそれでもいいがな」
「……どういうこと?」
「お前が言ってたように俺は藤宮のパチモンだ。外見は何となく似てるし、声も結構同じ系統だと思ってる。下位互換にはなるだろうが……でも、絶対に藤宮と付き合えないお前にとって妥協できるとしたら俺しかいないはずだ」
「妥協……それはそうかもだけど。だからって好きにはならない。私が好きなのは藤宮くんだもん」
「知ってる。だから火宮夕陽という人物と付き合う必要はない。ただあいつに似ている俺という体を代わりに使えばいい。性格とかは違うだろうが……そんなのは妄想で補えるだろ」
何しろ片思い期間十年、若干ストーカーチックな部分があるくらいだ。顔さえ似ていれば幾らだって妄想できるに決まっている。
とはいえ流石にこの案は突飛だったみたいだ。来海は口をぱくぱくとさせている。
「なに、それ……なんのためにそんなことするのか全然分からない。私を慰めようとしてるなら要らないから」
「違ぇよ。言っただろ。お互いにとって都合がいいようになるんだ。こっちの欲求だって満たしてもらう。彼女がいなきゃ、喪失感でおかしくなりそうなんだよ」
家に帰っても彼女にラインできない。デートにだっていけない。それが辛くてしょうがない。
昨日まであったものが今日から崩れ去るだなんて、そんなのは耐えきれない。だから俺は好きでも何でもない来海を利用する。その代わりに来海だって俺で自慰みたいな真似をすればいい。
「……意味分かんない。ないでしょ、それ。そんな風に付き合うとかおかしいでしょ」
「おかしいかどうかは知らん。けど俺とお前が付き合えば、たとえ重くたって『重い』だなんて言われない。ラインは即レスし合える。通話だって基本いつでもOKだ。お前が藤宮に捧げたかった愛を全部受け止めてやれる」
「でもパチモンじゃん」
「パチモンだな。でもどうせお前は妄想の中の藤宮にしか愛を捧げられない。ならそこに肉体があるのとないのとじゃ、全然違うんじゃないか?」
とんでもないことを言っている自覚はある。良心をぎゅうぎゅうと絞めつけるみたいに息苦しい夜の気配がだんだんと公園を包み始めていた。
来海と目が合う。
ニ対一。やっぱりこいつはヤヴァい奴だと思った。思ったからこそ、胸の淵で安堵がその姿を現していく。
そして――来海が笑った。
「…………分かった。付き合おっか、ひぃくん」
「ああ。よろしく、来海」
握手でもすべきかと一瞬考えて、すぐにやめる。
手を取り合うようなお優しい関係性になったつもりはない。もっと独善的で都合がいい関係だ。
セフレよりもずっと不純で、浮気よりもずっと醜い。そんな関係の始まりは軽々しい笑顔くらいでいいように思えたのだ。
◇
――五年後、どこかの街のどこかの帰り道で。
「ねぇひぃくん。そろそろ……たいなって思うんだけど」
「……まぁ、そうだな。でも就職したばっかだし、会社に迷惑かけないか?」
「私の方はね、多分大丈夫。元々本名出すことが少ない仕事だし、今はそんなに仕事多くないもん」
「そりゃいいな」
二人は足を止める。
そこには小さいというには些かサイズがあり、二人暮らしには不釣り合いな家がある。表札には、今はまだ二つの苗字が書かれていた。
「ここもシンプルになるな」
「かも。これはこれで隣にいるーって感じがして好きだったけど」
「端から一生隣にいるのなんて決まってるんだし、別にいいだろ」
「……うん。そうだねっ」
夕陽を、たとえば爆弾にでも見立ててみる。
あれが沈み終えたが最後、世界がどかんと爆発する。息苦しくて鬱屈な全てのものが弾け飛んでしまう。
その想像をするだけで不吉な塊は、コップの中の氷みたいに溶けていく。
「愛してる」
「知ってる」
「そっちは?」
「愛してるよ。大好き」
「ありがとな」
これはたとえば、オナニーしあうみたいな偽恋の物語。
オナニーしあった男女が一線を越えないはずがないんだっていう、そんな物語だ。




