予感
「レティーツィア姫、なにかございましたらこの鈴をお鳴らしください。人差し指を動かしていただけましたら鳴りますので。それでは失礼いたします。」
そういって扉が閉まる音がした。
「…?」
状況についていけなかった。白くて広いあの夢で見た人に触ろうとして…
あの夢にいた人と、先程私は何をした…?
混乱する頭の中で、起こったことを思い返す。
光の眩しさに、目が痛くなるほどの白さに驚いていたら夢にいた人が何か喋っていた。
その横にいたおじさんもまた、なにか喋りつつこちらをみながら何かを近づけてきた。
喋っている人の声を聞くのが、あまりにも久しぶりすぎて。内容を理解する事ができなかった。
喋っているだろうことはわかる。けれど、その音がなんの意味を持つのかはわからない。
まるで言葉の通じぬ異国に来たようだった。
そのあと…あの人が急に近づいてきて…ぬるり、と温かくて湿ったなにかが口に入ってきたと思えば、水と温かい何かが流れ込んできた。
思わず、飲み混んでしまったけど。
あれ、は何だったのだろう。
私を見ながら、優しい音を”喋った”あの人は、おじさんと消えてしまった。
その後は女の人がまた体を白いものに戻してくれて。
ああ、これはベッドというのだったか。
かつて、遠い昔にもこんな柔らかなもので眠っていたような気がする。
あたたかくて、やわらかい。
自然と、まぶたが下がってきた。
飲み込んだもののおかげか、お腹のあたりからあたたかくなってきた。
もうずっと、感じたことのないあたたかさだった。
あたたかさに身を委ねながら、まどろむ。
なぜか、あの人のことを思い出すと鼓動の音が大きくなるような気がしながら。
また、あの夢を見られたらいいのにと思いながら、目を閉じた。
「姫の様子はどうだ?」
「…まだ、目覚めません。」
「そうか。まるで眠り姫のようだな。」
姫を連れ帰ってから10ヶ月が経過した。定期的に、そっと宰相が聞いてくるのは姫の動向だった。
6ヶ月前に初めて目覚めてから、ゆっくり、ゆっくりと姫の体調は回復に向かっている。
けれど、それを目の前の男に伝えるつもりはなかった。
この男は、どうやら娘を私に嫁がせようとしているらしい。随分前から何度か打診を受けているが、はねのけ続けている。
王家と貴族のパワーバランスを鑑みてというのもあるし、なによりの理由は。
『殿下、ご無礼を承知でお願い申し上げます。どうか、私との婚約はしないでいただきたいのです。父から何度も打診をされいるかとは思いますが…今までのように、今後もお願いしたいのです。』
そう言われたのは、宰相が無理やり予定にねじ込んでセッティングしてきたお茶会…と言う名の顔合わせのときだ。その後聞いた彼女の願いは切実なものだった。
国益にも影響がないこともあって、今ではひそかに彼女の願いを応援している。
宰相は、国のために生きることができる人だ。それと同じくらい、自らの家の繁栄も願っている。それ故に娘と第二王子である私との縁結びを諦められないのだろう。
もし、仮にレティーツィア姫が目覚めたと知ったら、娘との縁談が遠くなることを危惧して、即座に私の手の内から彼女をさらっていくだろう。もっともな理由をつけて修道院にでも送るだろうことは想像できる。
「なぜ、あの姫に構うのです?」
あの日、塔に一緒に入った騎士の一人が言いづらそうに聞いてきた。
この近衛騎士ーイアンーは口が堅く、私への忠義も厚い。だからこそ、姫が養生している部屋の守りを任せている。
その彼から、ようやくこぼれ落ちた疑問だった。姫をこの部屋に匿うようにして守り始めたときから、ずっと聞きたそうにしながらも口をつぐんでいた彼は、とうとうこらえきれなくなったらしい。
「なぜ…だろうな。私でもわからない。…ただ、あの日、彼女を見たときから、守らねば、と思うんだ。」
「…それはただの庇護欲ですか」
「…さあ、な」
「恐れながら殿下。殿下ももうご婚約者を持たれてもおかしくはないご年齢です。あのようなものに…」
「口を慎め。」
「っ…もうしわけ、ございませんでした。」
思わず、威圧するような口調になる。かの姫を、あの姫呼ばわりされたくないと、そう想った心が直接出てしまったようだ。
「…ただお前の言うことも最もだ。」
そう、最もなのである。兄や姉、弟のように自らの望みのまま動こうとしない、完璧な王子。そう称されているらしい私の唯一の欠点。それが、伴侶を未だ見つけていないことだ。
幼い頃から、当然、政略的なお見合いや婚約者を見つけるためのお茶会などがあった。しかし、どれも実を結ばず、いつしか王族で唯一、未だ伴侶を持たない者になっていた。
別段、選り好みをしていたわけでもない。ただ、この令嬢がいいという執着も持ったわけではない。話がきて、顔合わせをして、いざ契約…の段になると必ず流れていただけだ。理由は様々であったが。もう思い返すことも難しいくらいにはどうでも良かった。
本当に、どうでも良かったのだ。
関心を向けることが億劫で。身につけていた王子然と振る舞うことは出来はしたが、それだけ。
どいつもこいつも、最初は私の振る舞いに熱を上げ、妻にと望む。けれど、それを過ぎた先にあるのは…自らの存在に無関心である私の姿。私がかけらも興味を持って接していないことにある日、彼女たちは気が付き絶望し…そして婚約を取りやめるのだ。
私とて、王族としての義務がある。それなりに気を使っていたつもりだった。しかし…
『臣下の身で大変恐縮ですが、私は殿下の伴侶にはふさわしいと思えません。ですのでこのお話は白紙に戻していただきたいのです。…殿下、臣下の一人として、私は、殿下の唯一の人が見つかることを、祈っております。』
みな、そう言って去っていくのだ。
一時は女をとっかえひっかえする女遊びの激しい王子という悪評が広まりかけたが…この噂を真っ向から否定したのは、私から身を引いた彼女たちであった。
曰く、『私達が王子の隣に立つものとしてふさわしくなかっただけで、臣下の一人としてこの身が朽ちるまで、お仕えする所存です。我らの主になんと不敬なことを!』だそうだ。
そう、彼女たちとは決して関係が悪いというわけではないのだ。今でも時折お茶会をしたり、夜会で会ったときにはダンスを踊る仲だ。皆、心からいまの伴侶を愛し、そして愛されているのだと幸せそうに微笑む。そして次にはこう言うのだ。
『殿下も、はやく唯一の人が見つかるといいですね、と』
唯一なんて、王族である以上見つけることは困難だろう。
ノブレス・オブリージュ
私が最上の生活をしている対価として、私は国に尽くさねばならない。
そんな私に、私だけの唯一なんて見つかるはずも無いだろうに。
「また陛下が縁談を持ってきた。…私もこれで落ち着けるだろう」
「…」
自分で話を振ってきたというのに、イアンは変な顔をした。眉をよせて、何処か困ったような、何かを言いたそうな、そんな顔の彼は、その後は無言だった。