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◆MISSION1◆ 侵略者をやっつけよう!

 月の隠れた冬の夜に、灰と、脂のにおいが漂う。

木が焦げて白い煙を上げ、天井の下に溜まっていた。床には、大量の水。そこにベッタリ浸りながら、赤い巨躯は呟いた。


「ぜんぶ燃やしてしまった……」


 所は東京、高円寺の、コーポハルタは二〇三室。その狭いキッチンで、グリムは呆然と頭を抱えた。


 すべての事の起こりは、数日前にさかのぼる───。

 炎をかたどった巨躯の怪人、グリムはひどく悩んでいた。

 かつて人間を恐怖に落とした、異形の化け物が、何に?

 それは、この部屋の【先輩】に。


 コーポハチスカの1Kは、家賃が四万九千円。築年は半世紀にもなる立派なオンボロ物件である。

 リフォームはされているために、床はフローリングであるし、トイレも洋式にはなっている。いるのだが……、宇宙人グリムから見ても、この家は暮らしにくかった。


 バランス釜の浴槽はとれないシミに覆われているし、お湯を溜めると横から漏れる。キッチン兼洗面台の蛇口は頑として首を振らないし、しかし、なによりもグリムがイヤなのは、先住民ネズミ先輩のあれやこれやであった。


 彼らは、このアパートにおいてマシロより先輩である。天井裏や壁の中を昼夜問わず走り回り、また齧りまくるミニ・モンスター。その諸々の雑音は、ぐっすり眠っているグリムを叩き起こすほどには激しい。


 だが、肝心の家主マシロは、おおらかなのか耳が悪いのか、彼らのことをほとんど気にしていなかった。ので、グリムもここに住んで以降、なるべく気にしないように、神経質にならないよう、注意して共存してきた……のだが。


 運命の数日前。グリムは、キッチンの床板に黒い粒を見つけてしまった。鑑定人ましろの話によると、


「これは、ネズミのフンだね。ハムスターの見たことあるから、たぶん間違いないよ」


 ……らしい。

 一線を越えるとは、まさにこのことである。グリムにとって姿の見えない【ナニカ】であった先輩は、その瞬間、実体を持った侵略者に変貌を遂げたのである。


 幸いにも、そのとき先輩が見回ったのは、キッチンと玄関のフローリングだけであるようだった。部屋は1Kであるので、すなわち引き戸を隔てた(ワン)……つまりは二人の寝室兼居間部分ではなかったのだが、グリムはかなり堪えたらしい。


「これはほんのハジマリだ。侵略とはそういうものだ」と、元侵略者の見識なのか、散らばるフンを片づけながら、心なしか蒼ざめていた。


 さすがののんき者マシロも、同居人のその姿には同情を抱いたようで、


「管理会社に連絡して、なんとかしてもらおうね」


 そう言い、グリムを安心させた。ついでに、風呂釜が割れてることや、風呂の火がつきにくいことも報告すると約束した。……しかし。


 現実は無常である。悲しいことに、マシロの言が実行されることはなかった。

 もしも、マシロもグリムと同じぐらい、事態を重くとらえていれば……、悲劇は起きなかっただろう。

 けれどマシロはサービス残業上等の若きOLであり、そのうえかなり忘れっぽかった。彼女のアジェンダにおいて、ネズミの駆除計画は順調にプライオリティを下げ、今朝には頭の片隅にさえその居場所を無くしていた……南無。


 そして、悲劇が起こる十時間前。マシロを見送ったグリムは、いつものように1Kの掃除をこなしていた。ネズミのフンと足音は、相変わらず気になったが……、もはや彼らも数日の命。マシロが呼んだ管理人が、必ず彼らを始末する! と、グリムはそう信じていた。


 掃除が終われば、勉強だ。グリムは日本語に難儀しながら、【出汁からはじめるおいしい和食】をついに完読してみせた。すべてのメニューの吟味を終えると、本を抱えてキッチンに立つ。


 そう。かつてこの星を襲った手指で、マシロの夕食を作るために……。


 二畳しかないキッチンは、グリムが立つといっそう狭い。

 水道・コンロ・洗濯機……マシロが土間のまわりに積んだ靴入りの箱の面積を引くと、実際に動き回れるのはおそらく一畳あるかないかだ。グリムが方向転換するたび、棚のフックにかけられている食器や小物がガラガラ揺れる。身体にでっぱりが多いのは、この箱入り生活において、もはや悲しい個性でしかない。


「まず、二~三センチに切ったブタニクと、メントリしたダイコンを、シタ……ユデ……します」


 グリムはレシピ本を読む。キッチンが狭い関係で、切る工程はまな板を敷いた洗濯機の上で行う。


 ところで、グリムは身長二一〇センチ。体重はりんご七〇〇個分だ。人間が持てばそこそこ大きなサイズの文化包丁も、彼が握るとかわいらしい果物ナイフのように見える。

 怪人はその性質上、生活を考えた身体をしていない。人間の使う道具は、世界は、グリムにとってすべてが小さいのだ。


 とはいえ、ブロック肉を切るぐらいならあるていど容易だ。だが、切った大根をしっかり手に持ち、その角を丁寧に取るなどという作業は、彼にとっては米粒に絵を描く至難の業に等しい。


「くそ……、なんだこの作業は……。本当に意味があるのか……?」


 むなしい独り言である。

 もしもこんな姿を、星の破壊者ヤラハン=ボーグ───彼を作ったボスが見たら、さすがに嘆いたかもしれない。しかしグリムは生まれてこの方、何につけても本気である。惑星を滅ぼすにせよ、大根の面取りにせよ、彼は目標に邁進する。それができる生き物だった。


 食材を切る工程がすっかり完了する頃、時刻は十六時を回っていた。

 マシロが家に帰って来るのは、順調であれば二十時頃だ。それまでに、今日のグリムは三品の料理を作るつもりである。


①豚と大根の煮物

②豚汁(①の下茹での汁を使う)

③温野菜のサラダ


 あと、米も炊いておく。

 十六時、グリムは余裕の表情だった。これが、料理においてもっとも難しい工程……【切る】を終えた男の顔だ。いびつな形の野菜を見ながら、心は栄光の未来を見ている。


 そして、野菜を茹ではじめたとき……、グリムはふと思いついた。

 もしも完璧な夕飯を超えて、完璧な明日の朝食の準備までをも済ませていたら、マシロは驚き、喜ぶのではないか……と。

 そのひらめきは、彼には妙案に思えた。


 メニューは、冷蔵庫と相談して、フレンチトーストに決める。この手で【卵を割る】という、超繊細テクニックを必要とする難料理……それをグリムがこなしていたら、マシロはきっと感動するはずだ。


 かくして十九時。二畳のキッチンには、①~③のみならず、卵と牛乳を混ぜ合わせた卵液が完成していた。

 マシロと暮らして一年ちょっと。これほど難なく料理を作りあげたのは、これがはじめてのことだった。


「ふ……、所詮は死んだ動植物。他愛のない戦いだったな」


 興奮冷めやらぬグリムは、部屋にカメラを取りにいった。この感動、この達成感を、写真に収めたかったのである。

 パソコンを立ち上げて、マシロに送ってやろうか。それとも、帰ってからのお楽しみで黙っておくべきか……。


 このご機嫌な怪人が、キッチンに戻ったときであった。


「ヂュウ」


 それは、いつも壁や天井越しにうっすらと聞いていた声。


───キッチンの床に、茶色いネズミが立っていた。

 二本足で上体を上げて、ひくひくと鼻を動かして……。


 そこからの記憶は、正直に言うと曖昧だ。

 グリムが最初に取ったのは、①カメラを投げるという動作だった。

 同時に、危険を察したネズミは走った。走って、なんと器用に壁を登りだした。壁を登った先には、コンロ……大事な料理がある。しかも、鍋にはフタがされていない! 焦ったグリムは手さぐりに②茹でたブロッコリーを投げた。


 今度は、上手く命中した。ネズミは壁からポロリと離れ、グリムのつま先にシュタッと落ちた。声なき悲鳴が身体を駆け抜け、それからはもう、めちゃくちゃだ。


③ネズミを振り切ろうと足を振る。

④洗濯機に激突し、上に置いていた卵液入りのボウルを床にぶちまける。(ネズミ、行方不明になる)

⑤グリムの混乱、極まる。

⑥床を拭くものを探し、名案を思い付く。

 いわく、「卵はこのまま拭くよりも、焼いて固形にした方が掃除しやすいのでは?」

⑦床に向かって火を放つ。(いつでもどこでも発火できるのは、彼の生来の能力である)

⑧床、燃え上がる。(グリムの火力に弱火はない)

⑨グリムの混乱、さらに極まる。

⑩火を消すには水分がいる。と、鍋の豚汁をバシャッとかける。

⑪火、消える。

⑫ネズミ、床で豚汁の具を食らう。

⑬殺意を抱く。仕留めてやろうと一歩踏み出し……、

⑭豚汁具材のコンニャクを踏み、滑って後ろ向きに転ぶ。煮物の鍋にぶつかり、ぶちまける。

⑮怒りと絶望に囚われ、身体が自然発火する。

⑯我に返り、冷蔵庫から持ってきた水で火を消し止めるも……、


「ぜんぶ燃やしてしまった……」


 話は、冒頭に戻る。

 どうしてこんなことに。しかも、どうやらネズミは逃げたようだ。グリムは、今までにない喪失感に襲われて、味噌と出汁のにおいが満ちる床の上から動けなかった。


「こんなにも頭が真っ白なのは、最後の戦いでマシロに負けたとき以来だ……」


 と、思ったり思わなかったりで、時計が二十時を回った頃。


「あれ? カギ閉まってるの~?」


 外からドアノブを回す音、カギが開けられる音がして、ゆっくりドアが引かれていく。


「なんか、外スゴイ焦げ臭いよ。どっか火事だったりしないか……」


 な。まで言えなかったのは、惨状が目に入ったからだ。

 グリムはマシロを見上げる。喉から、かすれた声が漏れた。


「ま、ましろ……」


「うちのにおいだったか……」


 マシロはそう呟くと、靴下を脱いで部屋に上がり、換気扇の紐を引いた。最初に踏みだした一歩目で、マシロの足がさっそく濡れる。グリムの足元にも、そのかすかな波紋が届く。


「ましろ、おれは……」


 役立たずだ。ダメな奴だ。言葉がポロポロ頭に浮かぶ。

 最低だ。壊すばかりが才能で、何も生みだせない生き物だ。こんなこと考えたくはないが、どうしても思ってしまう。自分は、そう作られたせいで、と。


───きみは炎だ。滅びの風だ。


 ボーグに刻まれた言葉は、今もなお呪いのようにこの魂を焼いている。


「……おれは、何もできないな」


 床の水が大きく揺れる。マシロが腰を下ろして、グリムに寄り添って座った。


「ヘコんでるね。どうしたの?」


「どうもこうも……」


 とは思ったが、グリムは一から説明した。

 料理の話。ネズミの話。ネズミというワードが出ると、マシロは顔をしかめたが、十まで聞いて口を開く。


「ていうかさぁ。どうしてそんなにネズミがイヤなの? ただの地球の小動物、怪人グリムの敵じゃないのに……、なんか怖がってるみたい」


「それは……」


 グリムは口ごもった。だが、やがてバツが悪そうに、小さな声でこう答える。


「おまえが、しぬ。かも、しれないから……」


「……私が?」


 グリムは無言でうなずく。それは、いつかマシロが誰かとしていた、とある電話が原因だった。


『えぇ~っ!? あんたのアパート、ネズミいんのぉ~?』


 間延びした甘ったるい声が、グリムの耳に飛び込んできた。月に誓って言ってもいいが、決して盗み聞いたのではない。六畳しかないこの部屋にプライバシーがないことと、怪人の耳が良すぎるゆえに起きた自然の現象である。


『そんな部屋、引っ越しなよぉ~。

 ネズミってぇ、うちのハム助と違うよ? 超チョ~きたないんだからねぇ~?』


 強調された長音の語尾。グリムは本を読む手を止めた。

 ネズミ。あの、うるさい、姿なき生き物。あれは、きたないのか? この部屋に住み始めた頃、マシロに説明を求めたときは、そんな情報は聞かなかった。


「平気だよ。ガリガリバタバタうるさいけど、中には入ってきてないし」


『そうやって後回しにするぅ~。ヘンなビョーキになっちゃったら、どうすんのよチユキチぃ~。

 やめてよね、少女椿のママみたいに死んじゃったりすんのはさぁ~』


 びょうき……死……ましろが? グリムはもう、完全に聞き入っていた。

 そして、さりげなくそばのパソコンで少女椿を探し、ネズミの力に衝撃を受けた。


「ふふっ。現代も令和の時代に、ネズミが原因で死亡する二十代東京のおんな……」


『笑い事じゃねぇ~し!』


 まったくその通りだったが、マシロはクスクス声を立てた。

 そして、グリムは固まっていた。ネズミの足音を聞きながら……。


 ネズミはましろを殺せるのだ。そして、それは薄い壁一枚を隔てたところにいる。

 そう知ったときに抱いた気持ちは、ネズミという生き物への不安は、それからずっとグリムの胸でグルグル渦を巻いている。

 それは、出汁と野菜と卵液に身体を浸した今もなお。


「おれは強くて丈夫だ。だが、人間は全身が脆いし、簡単なことですぐに死ぬ。ネズミはおれからすれば弱いが、おまえには死を与えかねない恐ろしい生き物なんだろ?」


「グ……ッ」


 マシロは、奇怪な声を上げた。

 グリムが視線を向けたとき、マシロは両手を大きく広げて倒れてくるところだった。頭をガッチリ抱きこまれ、グリムの視界は閉ざされる。


「まし……」


「ああ! グリムグリ~ム。おまえって、どこまで繊細なんだぁ~? 蝋燭の火のごとしじゃないの? 吹いたら消えちゃうのか? んん~?」


 言ったあと、頭に口をつけられて、ブゥッと息を吹かれる。その感覚にゾッとして、グリムは肩を跳ねさせた。


「ぎあっ、や、やめろっ! 笑い事じゃないだろ。おまえたちは本当に弱い」


「私に負けたくせに」


「スーツと武器のおかげだろうが。生身のおまえらはザコだ」


「あ~……」


 ため息のような声が降る。グリムを包み込む腕に、ぎゅっと力がこもった。


「ありがとね。うれしいよ」


 グリムは……、


「なぜ、礼を言うんだ?」


 理解及ばず、首を傾げた。


「おれは、飯も作れなかったし、ネズミを逃がして部屋を汚した。これのどこがうれしい?」


 マシロは身体を離す。その顔には、喜色が満開に咲いていた。無言でこういう顔をするとき、マシロはだいたい答えを言わない。


「は~、なんだかおなかいっぱいな気分。五臓六腑が満たされたね」


「意味がわからん」


 不服そうなグリムの頬を、マシロは両側からつついた。口角を上げるように指をギュッと押しつけ……、「しかめっ面はやめろ」そういうメッセージを送る。

 グリムは笑えなかったが、そのとき。グゥ。と、どこかで腹の虫が鳴いた。グリムのものではなかったので、当然その音源は……、


「……胃袋だけは違ったみたい。この落ちてるの、洗ったら食べられないかな」


「ダメだ」


 グリムは食い気味に答えた。


「ネズミが歩いた床に落ちた、病原菌のついた飯だ。これはぜんぶ捨てる」


「ふうん。じゃあ~……」


 マシロは視線をさまよわせた。そして、洗濯機の上に置かれた、温野菜の山を見る。


「あ、野菜? 茹でた野菜がある! あれは食べられるやつ?」


「飯になるか? それだけで」


「たっぷりの野菜に、ふりかけご飯と即席味噌汁。これで一汁一菜じゃない」


 マシロは立ち上がった。濡れたその両足を、ヘドロ色の液体が滑る。


「それじゃあ……、ご飯は? もう炊けてるのかな?」


 グリムも立ち上がろうとして、はたと動きを止めた。そういえば……、


「……わすれてた。なんだ、鍋を返そうが返すまいが、そもそも失敗してたんだな」


「いいじゃない、もう過ぎたことは。私もネズミの駆除の件、連絡するの忘れてたし。おあいこだね、グリムくん」


「おいっ!」


 その日の二人の夕食は、結局、以下になった。


①野菜のピザトースト

②コーンスープ(インスタント)

③リンゴのコンポート(冷蔵庫の隅でしなびてた素材)


 そして、食後に掃除をしていた二人は、あるものを見つけた。

 煮汁をすべてふき取るため、洗濯機のパイプを外して位置をズラしてみたところ、これまで隠れていた柱に大きな穴が開いていたのだ。

 そのワイルドな切り口と、周囲にこれでもかと散らばるフンを見て察するに、これがネズミ先輩のゲートなのは明らかだった。


「管理人さんを呼ばなくても、なんとかなっちゃったね」


 マシロはニコニコ笑いながら、金網や粘土を突っ込んで穴を隙間なく塞いだ。


「いいのか? 勝手に修理して」


「う~ん、というか……」


 床にエタノールを撒きつつ、マシロは苦笑を浮かべた。


「どっちかというと、この床を見られる方が、なんかマズい気がする……」


 真っ黒な焦げ跡がついた、無残なフローリング。


「……ごめん、ましろ」


 床を拭く二人の頭上を、ネズミ先輩が意気揚々と駆け抜けていく音がした。



MISSION1:侵略者をやっつけよう!

→ CHECK?


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