ノブデス・オブリージュ
1534年の尾張の国に、転生者が一人生まれ落ちた。 この赤子、見た目は全くもってごく普通であったのにどういう訳か、前世の知識と筋力をそのまま引き継いで生まれてしまったのである。 それも過去の世に。
死んだと思った男は、突然再び視界が広がったことに驚き泣き喚いた。 それも母にあやされている内に疲れて眠ったようである。
目を覚ました赤子は空腹でまたしても泣き喚いた。 じたばた暴れると、赤子とは思えぬ力で掛けていた夜着(綿を入れた着物型の掛け布団)を放り投げるほどだった。
慌てた乳母が抱き上げると少しは落ち着き、胸をはだけて乳を吸わせようとしたときのこと。 力加減がまるで分からず、生きるために懸命に乳を吸おうとした赤子は勢い余って乳母の乳首を噛み切ってしまったのである。 無論、歯も生えていないような赤子のしたことであるから幾分かの血が流れただけであったが、怯えた乳母は暇を願い出た。
次の乳母も、その次の乳母もである。 しばらく経ってようやく力加減に慣れた赤子は、ちゃんと乳を飲めるようになり、すくすく育った。
もう一度少年時代に戻りたいと願っていた男はそれが叶い、自由奔放な少年時代を送った。 産まれつき、大人並みの膂力があった彼は喧嘩に明け暮れ、次第に負かした者を自分の家来などといって引きつれ遊び呆けた。 これを諌める者も居たが聞かず、実の父から折檻を受けること数知れず。
元服した男の名は信長、この日初めて自分が織田信長に転生したと気付いた男は喜んだ。 自分が天下を統一できるんだ、と。
男はその後も自由奔放な生活を続け、あるとき隣国の大名の娘を嫁に貰うこととなる。 娘の名を帰蝶と言った。
そして、父が死んだ。 自分を何度も折檻し痛めつけた父であるから親子の情などある訳もない。 あろうことか葬儀の場で焼香をむんずと掴むや位牌に投げつけ立ち去った。
これに次期当主が務まるものかと憤った家臣らは真面目な弟君を当主に据えようと決心した。
時は流れ、弟を擁立させようと反旗を翻した者達を、自前の悪仲間と共に打ち破る。
ここから先は俺でも知っているさ。 と自信満々の信長は桶狭間に今川を沈め、浅井に妹をやって京へ上洛。 足利義昭を将軍に立てて、畿内を制圧。 その後も順風満帆で歴史の波に乗り、次は中国・四国と意気込む信長であったが、ふとした折に記憶にかかっていたモヤが消えていることに気がついた。 そして……。
本能寺にて側近、明智光秀が謀反を起こすと気付いた信長は大慌て。 その足で戦勝を祝う宴会の場へ踏み込み、明智光秀を「貴様、本能寺でよくも俺を!」 と半狂乱になりながら散々に蹴り飛ばした。
そして刀を抜いたところで、家臣たちもこれは尋常ではない、まさか狐憑きかと信長を取り押さえたのである。 その後もうなされたように「本能寺が……」 と呟く信長に困り果てた家臣たちは、万が一錯乱して自害でもせぬようにと縄を巻いて、信長が執着していると思われる本能寺に預けてきた。
それから数日、いまだ具合の良くならぬ信長の元に現れた将が一人。 先日の件で命の危機を感じ取った光秀が手勢を率いてやってきたのだ。
このとき、ようやく信長は自分の死期を悟った。 それは今だ、と。
自分が信長として生まれた意味はなんだったのか、為すべき責務があったとすればそれは果たせたのかと自問する。
そして迫り来る刃を前に、一つの答えを導き出した。
信長の死によって責務は果たされる。
1534年の尾張の国に、転生者が一人生まれ落ちた。
しかし未来が変わることは無い。
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