171 モルギア誕生
三つある頭のうちの一つを斬り落とされたキマイラは、痛みと死の恐怖から一瞬のうちに戦意を失った。
脱兎のごとく駆け出し、エイジたちへ振り替えることもせず逃げ去ってしまった。
斬り落とされた山羊の頭だけを残して。
「……しくじったな」
モルギアは言った。
その腹部は三分の一がキマイラの爪によって抉り取られ、致命傷であることが一目でわかった。
まだ息があることが不思議なくらいだが、それもそう長くはもたない。
「もはや使い物にならない左腕と交換で、真っ二つにしてやろうと思ったのに。首刎ねるだけに留まったか。……普通なら充分勝ちなんだが、三つあるうちの一つじゃあな……」
「モルギア殿! もう喋るな!!」
傍らにはエイジと、少年が縋りついていた。
勇者としての務めを考えれば何より手負いのキマイラを追跡すべきだが、その選択は出来なかった。
一人の男が、自身の物語を終焉させようとしている。
それを看取ることが少年たちにとって重要なことに思えた。
次へ繋がるものを、途絶えさせてはならないと。
「やはり慣れた左手以外で攻撃を捌こうとすると、失敗するらしい。命と引き換えに敵を倒すでは、『方円随器』は大失敗だ……!」
「……ッ!!」
「水のように変幻自在。あらゆる形に随いみずからを変えるのが『方円随器』の極意だというのに。オレは『方円随器』を完成させることができなかった」
モルギアの、今にも灯消え去りそうな瞳が少年に向いた。
少年は、既に顔中が涙に濡れていた。
「……あとは、お前に託していいか?」
「?」
「『方円随器』の完成、お前の代に託す。お前の気力と工夫で、真の水にも劣らぬ自由自在の『方円随器』を完成させてくれ」
モルギアのたった一つ残った右腕が上がった。
それを少年が両手で掴んだ。
互いにブルブルと震えていた。
「強くなりたかったんだろう? すまんな、気づいてやれずに。自分に起きた不幸を、他の人に味あわせないために、守る人になりたかったのか?」
少年は、首を激しく上下に振った。
「そうか……」
モルギアは満たされたように言った。
「勇者を引退し、お前を育てる余生もあったかもしれん。だが、すまんな。オレはここで終わりだ。オレの命は、勇者として人々を守るために使われた」
それが勇者として本望の死に方であると、理解しても誰も口にはできなかった。
その真実は、この悲しみを慰めるにはあまりにも冷徹すぎた。
「……な、なりたかった……!」
少年は言った。
彼の持てる数少ない言葉を、精一杯に絞り出して。
「お、おれは、あなたみたいに、なりたかった……!」
「なれるさ、お前なら」
モルギアの瞳から、一粒だけ涙が筋を引いて落ちて行った。
「死にゆくオレには、もう必要ないものがたくさんある。それをお前に譲ろう。これからのお前にこそ必要なものだ」
モルギアの右手と、少年の両手。
握り合うその手から、黒炎が噴き上がった。
その現象は、紛れもない。
「勇者の証。人間族を守る剣。オレはもう、お前を握れない。新たにお前を振るうべき、若者の手に宿れ!」
真っ黒い刀身の剣が、少年の両手の中に現れた。
黒の聖剣が。
「バカな……! 聖剣院での儀式も経ずに、聖剣が継承された!?」
本来、聖剣は選ばれた使い手以外が触れると、実体化を解いて消え去る。
しかし黒の聖剣が、少年の中でその答申を保ち続けるということは、聖剣が彼を新たな所有者と認めたということだった。
「新たな勇者じゃ名なしじゃ格好がつかん……!」
モルギアはさらに言う。
「モルギアの名も、死に行くオレにはもう不要のものだ。お前にやろう。お前が気に入ってくれればだが……?」
少年は、泣きながら頷いた。
「気に入らないわけがない」と言いたいのだろう。
「オレの持っているものは、全部お前に譲る。オレの名前、オレの剣、オレの技、オレの役割、オレの望み。そしていつか、お前はそれらを乗り越え、お前自身の技や望みを作り上げるのだ」
いつか、新たなる者へ受け継がせるその日まで。
「黒の勇者モルギア」
黒の勇者モルギアは言った。
その日、モルギアは死に、モルギアが生まれた。
* * *
黒の勇者モルギア、戦死。
その報告を聞いて覇勇者グランゼルドは、書類仕事のために握っていたペンをとり落とした。
報告者は、現地に同行していたエイジ自身だった。
「黒の勇者の名に恥じぬ、見事な最期でした……!」
エイジ自身、今にも泣き崩れそうなのを必死に堪える様子だった。
「対して、あの見事なる先達をむざむざ死なせてしまった僕自身の不甲斐なさ。万死に値します。聖剣返上も含めていかなる罰も甘んじて受けるつもりです」
「モルギアは……、死に場所を求めていた」
エイジの自責には触れず、グランゼルドは寂しげに言った。
過去を同じくした戦友がまた一人去ったことに、彼もまた心を痛めていた。
「若い彼を襲った悲劇が、彼の心を傷つけ僻地へと追いやった。そこでもまた心に傷を負い、戦いに明け暮れる日々の終焉を、心の底で願っていた。……彼は、長い勤めを終えたのだな」
……うらやましい。
そう次へ続きそうな口調だった。
しかし世界は、まだこの偉大な老勇者を失うわけにはいかない。
「……彼のことだが」
グランゼルドの視線が、エイジの横に並ぶもう一人に移った。
エイジに肩を抱かれ、まだまだ留まらぬ涙を必死に留めようとしている少年。
彼の手の中には、戦いの中で斬り落とされたキマイラの首があった。
三つあるうちの山羊の首。
敬愛する先達の成した偉業を、証明するとばかりに。
「出撃の直前、モルギアから話は聞いていた。もしものことがあった場合、事後を頼むとも言付かっている。安心なさい。キミの将来は、この覇勇者グランゼルドが責任もって請け合おう」
「そのことですが!」
エイジが決意をもって言った。
「彼に……! この新しいモルギアに! 勇者を名乗ることをお認めくださいませんか!?」
「何を言っている……?」
「彼は先代モルギアから、あらゆるものを受け継ぎました! 技も、志も、聖剣も!」
エイジから目配せを受け、新たなモルギアは持っていた山羊の頭を放り投げると、改めてかまえをとった。
手から真っ黒な炎が上がり、その内より黒曜石のように漆黒の刀身が浮かび上がる。
「黒の聖剣……、彼が何故……!?」
「先代モルギア今わの際、彼自身の手で敬称がなされました。彼は剣だけでなくモルギアの名をも受け継ぎました。これは先代モルギアの遺志でもあります!」
様々な政治的問題が、その遺志を阻むであろう。
新勇者の選定に主導権を持ちたい聖剣院の口出しが入るのは確実だし、さらに新モルギアの風体は、世の憧憬を集める勇者からはあまりにかけ離れていた。
グランゼルドも、そのことを危惧せずにはいられなかった。
「勇者には意志だけでなく、実力も必要だ。ロクに修業を積んでいない者では……」
「ッ!?」
その瞬間、少年はグランゼルドに対して飛びかかった。
完全な不意打ちであったが、それでも難なく対応するグランゼルドはさすがの手錬。
しかしその表情は驚愕で満たされた。
「これはソードスキル『細波』!? まさか……!?」
「彼は先代から、一通りの剣技も受け継いでいます。不完全ながら『方円随器』も使うことができるでしょう」
あれこそ、モルギアが人生を懸けて完成させようとした技なのだから。
それでも新しいモルギアの剣技や、勇者としての心構えは歪な部分が多い。諸先々代モルギアの生き様を見て、目で盗んだだけのものから。
しかし。
「一番大事な望みと役目は、しっかりと譲られました。歪で足りない部分は、僕が代わって彼に叩きこみます。不肖ながら僕が彼の師となり、彼をいっぱしの勇者に育て上げてみせます。ですからどうか!!」
エイジは膝を屈し、両手と額を床に擦りつけて懇願した。
グランゼルドは困惑しかなかった。
この生意気盛りの若者が土下座してみせるなど、初めてのことだったからだ。
「お、おねがいします……!」
それに倣って、少年も頭を下げた。
新しいモルギア、信念の懇願だった。
「お、おれ、なりたい。あの人みたいな勇者に。あ、あの人みたいなモルギアに……!」
モルギアの名は受け継がれた。
先代と同じくらい不器用な少年に。
そのことを認めてしまった瞬間、グランゼルドに選択の余地はなかった。
「自惚れるな」
グランゼルドはエイジに言った。
「お前自身いまだ半人前に過ぎぬというのに、弟子を取るとはおこがましい。お前もまだ自分を必死に鍛えなければならない段階と知れ」
「で、ですが……!」
「彼は……、二代目モルギアの後見は、当然私が務める。若い新たな勇者を指導することも、勇者の上に立つ覇勇者の役目だ」
その言葉に若い二人の表情が晴れた。
「当面はエイジ、お前が兄弟子としてモルギアの指導に当たれ。他者にモノを教えるということは、自分自身の成長を促すことにもなる」
「は、はい……!」
「一定期間を置いて、私自身が彼の仕上がりを検分しよう。もし満足できなければ、お前たち二人揃って、この私直々に見習いから鍛え直してやる!」
「わかりました!」
エイジが応じ、モルギアも快活に頷き続けた。
ここに二代目モルギアは、正式に勇者として認められた。
「……ところでエイジ」
「はい?」
「モルギア。……先代モルギアの亡骸はどうした?」
「……現地にて葬りました。当人が、それを強く望んだので」
さもあろう、とグランゼルドは頷いた。
聖剣院の勇者廟に葬り去られるよりも、よっぽど彼らしいと思えた。
「……どいつもこいつも、私より先に逝ってしまう」
しかも彼ら自身が育てるべき後裔を押し付けて。
エイジもモルギアも。
本当に彼らを育てるべき人間は、他にいるのではないのか。
しかし今その養育は、グランゼルドの手に委ねられている。
気軽に死におって……。
そう、かつての友人たちに毒づかずにはいられなかった。





