170 すべてを譲る
「モルギア殿……! 『鞘鳴らし』を聞きつけてくれたんですね……!」
エイジは取り出した解毒剤を飲みつつ言った。
周囲は濃霧で立ち込め。敵のキマイラどころか味方同士の顔も確認できない。
「のんびりしている暇はないぞ。『粗飛沫』で作った霧の目くらましはすぐ解ける」
「そうですね。今はとにかく分が悪い。この霧を利用して退却しましょう」
「いや……!」
モルギアの放つ気配が濃霧越しにもハッキリ感じられた。
それは戦いに向かう男の闘気だった。
「戦う気ですかモルギア殿!? せめて僕の毒が抜けきるまで待っては……!」
「必要ない。オレ一人で戦う」
決然とモルギアは言った。
「キマイラは、こっちの弱点を見つけてしまった。これからはそこだけを執拗に狙い続けるだろう。それを防ぎながら戦うのは不利すぎる」
少年は、毒に冒されるエイジを支えながら、小刻みに震えていた。
恐怖からではない。自責と後悔からだった。
モルギアの言う、キマイラの見つけた弱点とは、彼自身に他ならなかった。
少年はたった今、自分が取り返しのつかないミスを犯したことに気づいたのだ。
「だからここで一気にケリをつける。戦略を整え直す時間を与えず、キマイラを葬り去る」
「しかし、今のアナタの体は……!?」
「エイジは、コイツを守っててくれ。毒が残っててもそれくらいは動けるだろ?」
モルギアは本気で、一人でキマイラを片付けるつもりだった。
「待ってください! やはり逃げましょう! 勇者二人の全力を逃走に注げば、お荷物一人抱えても逃げ切ることができるはずです」
「そこまで力いっぱい『逃げる』を選択できるとはな。その思い切りのよさ、成長しても大事にしろよ」
「茶化してる場合ですか! 安全圏まで逃げ切ったあと、コイツを置いて改めて二人で挑めばいい。それが最善手です!」
「それこそダメだ」
モルギアは言った。
「この戦いに、コイツを除くことだけは絶対にできない。コイツを置き去りにしてキマイラに挑むことはできない」
「何故です!?」
「見ておいてほしいからさ。コイツに、オレの戦いを……!」
霧の向こうから、ウガウガと傲慢な唸り声が聞こえる。
キマイラが濃霧の中を闇雲に暴れ回っていた。
用心深いあの獣が逃げを打たないとは、向こうもこちらを倒せる千載一遇の機会と判断したのだろう。
「……すまんな」
それは、今は名もなき少年へと向けられた謝罪だった。
「オレは、お前に対してずっと『すまない』と思っていた。オレのミスで、お前の大事なものが全部壊されてしまったから。オレはお前に対する罪の意識で溢れ返っていた」
それはこれまでのことでも充分以上にわかる、モルギアの悔恨だった。
「しかしその罪の意識がお前との間に壁を作り、お前が本当に何を求めているか知らないままにしていた。本当に不甲斐ない。オレは、お前と向き合うことを恐れて逃げていたんだ」
しかしそれに気づいた以上。
「オレは恐れない。これでも一応勇者だからな。『勇ましい』というのは、恐怖を乗り越えることだ」
「あ、ああ……」
少年は何かを言おうとした、しかし言葉を忘れて久しい彼の口からは、思いをそのまま形にする言葉を選び取ることは難しかった。
「お前が、力を得たいと思うなら、どうかこれから起こることを一瞬も逃さず見届けてくれ。オレの持っているものを、お前に全部やる」
霧が晴れた。
ソードスキルで不自然に作り上げた霧は、適さぬ環境でそう持続することはない。
晴れ渡った森に、古豪の剣士と三顔の魔獣が向かい合った。
「勝負は一合……!」
毒で痺れる体を無理やり立たせて、エイジは言った。
「それ以上長引けば、狡猾なキマイラは必ず弱った僕たちを狙いに来る。モルギア殿がそれを封じるには、一撃必殺で仕留めるしかない」
そして覇王級相手に勇者一人が立ち向かうに。
許される手段はたった一つしかない。
「使うのか……、『方円随器』を。あの体で……!?」
モルギアの体は、充分すぎるほどに磨り減っている。
引退を決意するほどの消耗の上に、覇王級でも上位の強さを持つキマイラに奥義は成功するのか。
「目を逸らすなよ……!」
エイジがそう言ったのは、傍らにいる少年に対してだった。
「この戦いはお前のための戦いだ。あまねくすべての人々のために戦う勇者が、お前のために戦うんだ」
その戦いを通じて伝えようとしているものを。
「一つも取り逃すんじゃないぞ。あの人が許しても僕が許さん。半端に臨むなら斬り殺すぞ!!」
エイジも気づいていた。
この戦いの意味を。
この戦いは。
継承の儀式だった。
* * *
ソードスキル『方円随器』は、返し技。
襲い来る敵あってこそ成立する。
みずから害をなすのでなく、害ある邪悪に対してのみ威を振るう因果応報の技は、それこそ人類種を守る使命を持った勇者に相応しい技だろう。
多大な代償を要求しながら。
勇者の器は、自身に随って収まるか否かを試すのだ。それを目指す者たちへ向けて。
勇者と魔獣は真っ向から対峙し、互いに視線を逸らさない。
双方が悟っていた。これが正面からぶつかり合って敵を倒す勝負だということに。
モルギアの発する気迫。それを素通りして弱者を狙うのは死を意味すると、モンスターですら理解させる、その気迫。
キマイラは、威嚇の唸りすらやめて、我が身を弓のようにたわませた。
余計な動作一切なく、必殺の瞬間を見極めんとしていた。
緊張が最高潮になる中、先に動いたのはキマイラだった。
ただしそれは必然だった。
モルギアの流儀からすれば、彼の方から先に動くことはあり得ない。
気迫とフェイントと、あらゆる技術と気力によってキマイラは先に動かされた。
「ソードスキル『方円随器』!!」
血飛沫が上がった。
モルギアのただでさえ短くなった左腕が、根元から刎ね飛ばされた。
「モルギア殿!!」
彼の名を呼べない少年に代わって、エイジが叫んだ。
『方円随器』の失敗は、見た限り明らか。
キマイラは、傷ついたモルギアにとどめを刺そうと追撃を加える。
「かかったな……!」
その時だった。
左腕のあった部分から血を撒き散らしつつ、モルギアの瞳に必殺の眼光が灯った。
「お前は、心底卑怯だからな。正々堂々の一騎打ちに持ち込んでも、まだガキどもを隙あらば襲おうとしているだろう?」
そうして浮気心があるうちは『方円随器』で返すに足る必殺の一撃はやってこない。
「だからこそあえて手傷を追い、ガキどもよりオレの方が殺しやすいと判断すれば、そこで初めて遠慮せずこっちに全力を注ぐ。事実来た!」
待ち受けた渾身の一撃が。
今度こそ偽りなく放たれる……。
「――ソードスキル『方円随器』!!」
これまで敵の攻撃を捌く役割に徹してきた、モルギアの左腕はもうない。
しかしその程度の不足で使用不能になるほど水の奥義は不完全ではない。
左腕がなくとも足で、腹で、頭で、因果応報の走りを受け取ればよい。
モルギアはその腹で、キマイラ必殺の爪撃を受け取り、その勢いをそのまま回転に加えて。
黒の聖剣を放った。
同時に、首が一つ飛んだ。
『ギャアアアオオオオオオアアアアアアッッ!?』
モルギアが刎ねたのは、キマイラの三つある頭のうちの一つ、山羊の頭だった。
三つの頭が二つに減じ、キマイラは痛みに悲鳴の雄叫びを上げる。
そして同時に、キマイラの爪を受けたモルギアの腹部が破れ。
血と内臓をバラ撒いた。





