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147 寒じ

 驚くほど自然に抜刀できた。


 そんな感想がエイジの中で起こったのはすべてが終わった時だった。

 その瞬間のことをエイジは覚えていなかった。


 斬るべきものを斬った瞬間の感覚がまるでなく、記憶からも抜け落ちていた。


 鞘から剣を引き抜く動作と一体化させて斬る。


 実はその発想は、聖剣院が保有しているソードスキルの中には一切存在しなかった。

 百種以上のソードスキルがあると言われているにもかかわらず。


 それは剣の頂点に立つ聖剣が実体と霊体の間を行き来して鞘を必要としない構造なのも理由の一つだろう。


 しかし今、本来聖剣の勇者にとって必要としないものを必要とすることで、新たな境地が現れた。

 覇勇者になってなお満足することのない絶人の手によって。


              *    *    *


『お、お、おおおおおおおおお……!』


 鞘の内より解き放たれた斬閃は、たしかに女神イザナミを両断した。

 切断の線はどこにも入っていなかった。しかし彼女は斬られた。その身を構成する霊的な部分のもっとも細かい段階に、一つ一つ幾千億にも渡って斬閃が刻み付けられていた。


『おおおおおおおおおおおおおおッッ!! 汚汚汚汚汚汚汚汚汚汚汚汚汚穢穢穢穢穢穢穢穢穢穢穢穢穢穢ッッ!!』


 イザナミ神の下半身を構成していた液状腐土が、崩れ解かれていく。

 液体と固体の中間というべきヘドロ状のものが、どんどん分解され不純物を失い、サラサラの純粋となっていく。


「イザナミ様! イザナミ様!? お気をたしかに!!」


 この異常に、随一のイザナミ信奉者であるオニ族の大長老は狼狽えるばかりだった。

 そしてすぐさまエイジに向けて、炎のような敵意を向ける。


「おのれ無礼者! イザナミ様に何をした!? 返答次第によっては生かしておかぬ!!」

「恐らく、男神イザナギが望んだことを」


 改めての疑問。

 天人族の集落で交信したイザナギ神は、どうしてエイジたちをイザナミ神の下へ寄越したのか。

 彼の妻であり妹だったという配偶神の、こんな哀れな現状を夫神が知らぬとも思えない。


『イザナミに直接会い、イザナミから祝福を貰え』


 そう勧めたイザナギ神だったが、他にも本当に望むことがあったのではないか。


「イザナギは、僕たちなら彼の妻を解放できると信じたのかもしれない」

「何を詭弁を!?」

「事実、この鞘から放たれた『一剣倚天』は、本来の『一剣倚天』を超える凄まじいものだった」


 剣にとってもっとも自然な形は、鞘の中に収まっている状態。

 その状態から放たれる剣閃こそ、余計なものをすべて削ぎ落とし、『斬』のみに純化される。


 その状態から成される『一剣倚天』は真水のごとく純粋化して、あらゆる場所に染み込みながら斬り刻む。


 生と死をすべて滅却するだけでなく、生と死をすべて滅却しながら創造する。


「繋がらなかった感覚がやっと繋がった。物凄くいい気分だ。誰に対してでもいいから祈りたくなってくる」


 だがしかし。


「真の完成にはまだ至らなかったようだな」


 エイジはみずからの足元を見下ろした。

 そこには鞘の破片が無秩序に散らばっていた。

『一剣倚天』を超える『一剣倚天』の衝撃に、いかに大魔導士エメゾが魔法の粋を凝らし、ギャリコが匠を駆使して作り上げた鞘でも耐えきれなかったのだ。


『汚汚汚汚汚汚汚汚汚汚汚汚汚ッ! 穢穢穢穢穢穢穢穢穢穢穢穢穢穢ッッ!! 怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨ッッ!! 忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌ッッ!!』


 イザナミ神はのたうち回りながら、どんどんその体積を小さくしていった。

 今までひたすら穢れを拡げようとしたのが、逆に収縮していく。


 その過程がしばらく続き、やがて収まった時、目を背けたくなるヘドロはすべて構成する霊子から斬り刻まれて純水に分解し、地面に吸われ消えていった。

 あとに残ったのは、頭からつま先までキッチリ人間然とした美女が倒れるのみ。


 その美女もやがて目を覚まし、立ち上がる。

 最初は全裸であったのが、いつの間にやら虚空から発生する衣をまとって、艶やかな天女装束となっていた。


 美麗、清純、妖艶、豊満の上に、さらに神々しさが加わった。


 それこそが新たなる女神イザナミだった。


『アナタたちですね、私を呪縛から解き放ってくれたのは?』

「呪縛?」


 女神の言葉に、エイジは首を捻った。


「申し訳ないが、アナタの言ってることがよくわかりません。僕たちは、このままでは全員殺されると思って必死でアナタを止めただけです」

『そうですか……!? げにも恨めしいのは女神たちの呪い。この私が生み出した可愛い子らを、私自身の手で滅ぼさせようとしていたなんて……』


 かつて汚濁に塗れたイザナミが繰り返すように言っていた『うらめしや』の言葉。

 それを投げかける相手は、彼女と同類の……。


『我が子らよ、アナタたちは知っていますか? この世界の始まりに起きた神々の揉め事を……!』

「アナタの夫であるイザナギ神からいくらかは……」

『そう、アナタたちはお兄様が送ってくださった救いなのね。あの方はいつでも私を想ってくれている……!』


 惚気はいいので早く本題に入ってほしいと思うエイジ。


『生み出した人の子らを競わせ、誰がもっとも優れた女神であるか決めるなど愚劣極まりない。そう思って話に乗らなかった私を、他の女神たちは陥れました。それぞれが一種ずつ呪いを浴びせかけ、多種の呪いが複雑に絡み合った結果、私はタタリ神と化してしまったのです』


 それがあの汚濁に塗れた姿。


『そこから先は私も意識を呪いに蝕まれ、記憶が判然としません。でも……』


 どこからか光り輝く杖が飛来し、宙を滑りながらイザナミ神の前に寄る。

 それは間違いなく『千引の岩』を打ち砕いた。イザナギ神の祝福を受けた杖だった。


 イザナミ神は、その杖を手に取り。


『……そういうことでしたか』


 すべてを得心した顔になった。


『我が夫、イザナギお兄様は、この世界で唯一封印を免れた男神として、タタリ神となった私を封じました。他の男神が配偶者によって次々封じられる中、自分自身は妻たる私を封じなければならない』


 それはどれほどの痛苦だったでしょうと、イザナミ神は沈痛な面持ちとなった。


『ですが私の子らを殺める悲痛を私に味あわせないためには他に方法がなかった。お兄様は、ここに私を封印したあと、その守り部という名目で私たちの子らを住まわせました。我が子オニ族を、他の女神たちの厄害から遠ざけるという意味もあったようです』


 さらにイザナギ神は、単独で天人族を生み出し、オニ族の住み処と他種族の勢力圏の境界となるべき位置に置いた。

 隠れ住むオニ族が女神たちの興味を引かぬよう防衛線を張りつつ、人類種のほとんどが知らぬ世界の真実を語り継ぐ役割を託した。


『お兄様は長く長く待ち続けたようですね。女神たちの暴政を許すこの世界。そこに変革をもたらす兆しを。そしてアナタたちが現れた』


 エイジ、ギャリコ、セルンを見回す女神。


「僕たちにできるというのですか? 女神たちの遊びを止めることが?」

『少なくともアナタたちは、私に掛けられた呪いを解くことができました。それは我が夫イザナギお兄様にもできなかったことです』


 だからイザナギは、妹にして妻であるイザナミを封印するしかなかった。


『神にできなかったことをアナタたちは成し遂げた。それは人類種が神の支配から脱する兆しと見て間違いないでしょう』


 長い長い時間の流れの末に、人類種は進化を遂げた。


 イザナミは、イザナギの祝福が宿った杖を掲げる。


『この杖にはお兄様の伝言があります。アナタたちを助けてやれと。私の出来ることならいかなる助力も惜しまず行いましょう』

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