119 無頼勇者
『青鈍の勇者』
その名は、人間族の間にこそ広く深く知れ渡っていた。
聖剣を振るう人間の勇者において最強格。就任してからもっとも多くのモンスターを倒し、もっとも多くの人類種を救ってきた。
救済の対象は人間族だけでなくドワーフ、エルフ、ゴブリン、竜人など、人間以外の人類種も分け隔てなく守り抜く。
普通勇者には同族以外を守る義務はなく、目の前でモンスターに襲われる者がいても他種族なら黙って見過ごす勇者すらいるというのに、それでも彼は躊躇なく助けに入る。
それゆえ種族の垣根を超えて慕われ、いつの間にか人間族全体の誇りにまで育まれていった。
『青鈍の勇者』。
誰もが憧憬を抱き、揃って讃え上げたいと思うその真勇者は、しかし一度として人前に出ることはなかった。
その点について理由は定かならず、様々な憶測が飛び交っていた。
恐ろしいほどの人嫌いである、とか。
他種族を分け隔てなく助けるという行為が聖剣院の方針と反発して、冷遇されている、とか。
社交や政治などを汚らわしく思っている、とか。
ただの変わり者である、とか。
実際同じ聖剣の勇者でも白の聖剣フュネスや赤の聖剣スラーシャはやかましいほど社交界に露出するため、そのギャップからなおさら『青鈍の勇者』の不在はクローズアップされ、様々な憶測を呼んだ。
時には『青鈍の勇者』が姿を現さない理由について丸々一冊考察された本が出版されたり、それ専門の評論家まで現れる始末。
それほどに人々の耳目を誘う『青鈍の勇者』。
それがエイジのことだった。
* * *
エイジの存在が、公の場で大々的に発表されたのは、無論その時が最初だった。
リストロンド王国のディルリッド王は、自分の国を救ってくれた勇者に最大限の謝意を表明すると同時に、人間族にとってもっとも興味深い謎の一つをみずからの手で暴露したいという願望もあったのだろう。
政治的思惑もどことなく匂わせる。
ともかくエイジは、このリストロンドの騒乱を収めた功労者として逃げも隠れもできず、本来とても嫌いな社交的対応を取らざるを得なかった。
「えー、このたびご紹介に預かりましたエイジと申します。先のディルリッド陛下の仰られた通り、僕がフォートレストータスを倒しました」
前より遥かに大きな動揺が会場に広がっていった。
そこからエイジは、事件の顛末を軽く話して参列者と真相を共有し、聖剣院への非難もしっかり織り交ぜつつ、最後に一番大切なことを言った。
「僕は今、聖剣院を辞めてフリーで活動しています。もう勇者でもないので『青鈍の勇者』の名は相応しくないでしょう。聖剣院とも、一切何の関係もありません」
その言葉に、また別種類の困惑が広がる。
「僕が以前使っていた青の聖剣も、今ではこのセルンが引き継いでいます。彼女が今の青の勇者です。そういうわけで、皆さんこのセルンを今後ともご贔屓にお願いします。僕については何の地位もないので、そっとしておきましょう。それでは!」
言うだけ言って、エイジは疾風のごとく駆け去ってしまった。
もちろんセルンとギャリコを一緒に引きずりながら。
取り残された人々は、式典を放り出して追うわけにはいかず、残りのプログラムを消化していった。
しかし皆、後に来た誰が何を喋ったかなど完全な上の空で、ついに姿を現した『青鈍の勇者』エイジへの興味に取り付かれるばかりだった。
* * *
「何てことをしてくれたんですか?」
式典から三日後。
リスロトンド王国はすっかり日常を取り戻していた。存亡の危機に陥りながらも、その後の混乱がまったくなかったのはエイジによる圧倒的な勝利と、ディルリッド王が類稀なる統率力で、避難から復帰までの流れに滞りを見せなかったからだろう。
式典でエイジの正体が大暴露されてから今日まで。
各国の大使から一ファンを名乗る者まで多くの人々がエイジのことを追い回した。
やれ我が国の招待を受けて王と謁見してくださいだの。
記事を書くので取材させろだの。
サインしてくださいだの。
弟子にしてくださいだの。
子どもの名付け親になってくださいだの。
エイジは首都中を逃げ回る羽目となり、今は暴露の犯人ディルリッド王の私室に匿われていた。
改めて、存在を大々的に発表されたことに抗議するエイジだった。
「アナタが口を滑らせたせいで、こちとら気の休まる暇もありませんよ。大勢で追いかけてくるし。逃げるしかないって点ではモンスターより厄介だ」
「逃げる必要などなかろう。受け止めて相手をしてやればいいのだ。『青鈍の勇者』エイジこそ人間族の誇りそのもの。誰もが交流を持ちたいと思うものだろう」
ディルリッド王は、モンスター災害を解決させて心労から解放されたせいか、顔色もぐんとよくなり王の威厳がすっかり戻っていた。
今はメイドに茶を運ばせて、エイジと差し向かいで話している。
「人間族の誇りというなら、グランゼルド殿こそそうでしょう? 僕は聖剣院を辞めて無役の身。誰からももてはやされる謂れなどありませんよ」
「たしかにグランゼルド殿は完成された人格の持ち主で、これまで成し遂げてきた戦功も数え切れぬ。尊敬すべきというなら、彼以上にそれにふさわしい者はおるまい」
「持って回った言い回しですね?」
「しかしそれは、グランゼルド殿個人に限っての話だ。この世界には、グランゼルド殿に泥を塗り、足を引っ張ることしかできない連中もいる」
聖剣院。
今回の一連の事件は、聖剣院の腐敗ぶりを改めて見せつけられるきっかけにもなった。
聖剣を占有している優位性。誰もが聖剣に頼らなければモンスターを相手に生き残れないことを知っていて、その弱みに最大限付け込んでいる。
いくらグランゼルドが高潔で厳正であろうと、もはやそれだけで覆い隠しきれないほどの腐臭を放ちまくっているのが聖剣院だ。
「グランゼルド殿は聖剣院を改革すると仰っていたが、それとは別に我々も何かしなければならない。聖剣院がものの役に立つか立たぬかは、我ら人間族全体にとって死活問題だ」
「それは……、そうでしょうが……!?」
エイジは、いきなり趣旨の変わったこの話がどこに向かおうとしているのか、少し不安になった。
「『青鈍の勇者』エイジよ。そなたは繰り返し言っているな、自分は無役、何処にも所属していないと。ならばあえて提案したい」
エイジの不安は見事的中した。
「余に……、このリストロンド王国に仕えぬか?」
「…………」
「そなたは、勇者を辞めたと言いながらも、その行いは勇者そのものだ。モンスターと戦い、人の命と生活を守ろうとしておる」
しかし戦いは大きくなれば大きくなるほど、一人では限界も早く訪れる。
聖剣院から飛び出し、たった一人になったエイジでは、モンスターと戦い続ける生にも早々と悲劇的結末が訪れるのではないか。
「余は、そなたにつまらぬ終わり方はしてほしくないと思っている。だからこそ聖剣院の代わりに、我がリストロンド王国を頼ってくれまいか?」
「そのために、ギャリコに魔剣を作らせえたんですね?」
王の私室からは、窓越しに騎士たちの訓練場を見下ろすことができた。
そこでは既に、ギャリコ謹製・鼈甲の剣(量産型)を素振りしている騎士たちの姿があった。
モンスターを倒せる武器を手に入れた以上、鍛え上げられた騎士団は団結すれば勇者級とも互角にやり合えるだろう。
聖剣院のお株が奪われる。
「余はそなたのために、リストロンド騎士団長の席を用意したい。我が国の心ある者たちを率いモンスターと戦ってくれぬか? その目覚ましい活躍を見聞きして、惰眠貪る聖剣院の盲を啓いてやるのだ」
「…………」
「そしてゆくゆくは、我が娘サラネアを添わせ、そなたにリスロトンド王位を譲ってもいいと思っている。どうだ?」
「その申し出を受け入れるなら……」
エイジは、言っている自分自身が驚くような枯れた声で言った。
「僕は最初から、聖剣院を去っていないでしょう」
「しかし……」
「わかっています。聖剣院は悪です」
他者を見下し、自分の利益しか考えない。
その度合いは、もう見過ごしておけるレベルをとうに越えている。聖剣院が人間族にとって必要不可欠な組織である以上、誰かが正さねばその存在は人間族全体の存亡にかかわる。
「でも、それは聖剣院だけが悪いんでしょうか?」
そう尋ねられて、ディルリッド王は困惑した。
話が見えてこなかったからだ。
「聖剣院が持つ悪は、人類種なら誰もが持っている悪です」
人間なら誰もが自分が特別だと思い込みたいし、何かにつけて人を見下したくもなる。
役得は欲しいし、自分さえよければ他人が死のうがどうでもいいと思う時もある。
「聖剣院の悪は、人類種ならば誰でも持っている悪なんです。人のために正しいことをしようとするならば、その事実と向き合い。みずからのうちにもその悪を抱えて、本当に何が正しいのか思い悩まなければならない」
あのグランゼルドのように。
「僕は、それができなかった人間です。人が本来善性と共に持つ悪性を人間諸共否定してしまった。だから僕は組織を出た」
人の性としての悪を許容できない人間に、人の集団を御することはできないから。
「アナタ方のお世話になったところで、どうせ同じことにしかならないでしょう。どうかご容赦いただきたい」
「そなたは、人に完璧に求めすぎるがゆえに、人とも歩めぬと申すか? 自分自身それがわかっていながら性を曲げられぬと申すか?」
厚意を無碍にされたのだから、王は怒ってもよかった。
しかし、深いため息をつくばかりで、それ以上食い下がってくることはなかった。
「やはり真の勇者だな。人智を超える強さを得るには、どこかに歪みを持たなければならぬということか」
「そんな大層なものじゃありません」
「辛くはないのか? 人に完璧を求めすぎ、人と交わることできずに孤独を味わい続けることは。途中で疲れはしないか?」
「今のところは。いずれは妥協し、孤独を癒すために人の群れに戻る日も来るのかもしれません。でもとりあえず今は……」
ギャリコや、セルンがいた。
「彼女らと共に、自分がどこまでできるかを試してみたいと思います」