小倉明美の事情
死を覚悟した少年は、恐怖から一変して安堵した。死に場所が恋愛シミュレーションゲームの世界で良かったと。仮想空間内のヒロインに殺されるのなら、死に関する後悔も残らない。そんな思想が頭に浮かび、波留は再び瞳を開けた。その瞬間、冷酷な小倉明美の顔が飛び込んでくる。
2人の距離が3センチまで縮まり、少女は抵抗しない彼の顎を掴む。
「あなたは……」
ヒロインの目の前で死ねると少年は思った。だが、目の前の少女は突然言葉を詰まらせる。そして、彼女は悔やんだ表情を彼に見せる。
「命拾いしたね」
冷酷な少女が呟く。その後、操り人形の糸が切れたように、彼女の体は脱力する。死神だった少女は瞳を閉じて、前方に立つ波留に向かって倒れた。
何が起きたのか。岩田波留や他の男子生徒は理解できない。いつの間にか、割れた窓ガラスや散乱するガラス片、3人の男子生徒の遺体と床に飛び散る血痕が消え、何事もなかったような普通の教室の風景が蘇った。
嵐が過ぎ去り、何とか生き延びたと波留は思った。しかし、その恐怖を忘れさせる出来事が起きる。
波留がその出来事に気が付いたのは、惨劇が終わって数秒が経過した時だった。最初の違和感は、胸に大きく柔らかい物が当たっていること。何が起きているのかと思い、少年が自分の顔を真下に向けると、そこには小倉明美の姿があった。少女は体を波留に預けている。
その光景は、遠くから見れば抱き合っているように見える。この状況はマズイのではないかと思った波留は、慌てて彼女から手を離そうとする。しかし、それよりも先に、小倉明美は目を覚ました。
「岩田君?」
少女は顔を上に向け、少年と視線を合わせる。その距離が異常に近いことに気が付いた彼女は思わず赤面して、咄嗟に彼から離れた。
「大丈夫ですか? 小倉さん。突然倒れたから、体を支えたんですよ。別に嫌らしいことはやっていません」
同様に顔を赤くした波留が正直に弁明した後で、明美は明るく微笑む。
「ありがとう」
その言葉からは、先程の冷酷な少女の雰囲気は漂っていないと波留は思った。 だが、教室の雰囲気は最悪だった。無慈悲に男子生徒を言葉で殺してきた小倉明美のことを、他の男子生徒は忘れない。極度に彼女を恐れる空気が教室に漂い始める。
その変化に気が付いた明美は、教室の周りを見渡してみた。観察で判明したのは、何人かの男子生徒が軽傷を負っている事実。改めて波留の顔を見た明美は、思わず絶句してしまう。彼の右頬からは血液が垂れている。
「何かしたんだ」
恐怖によって身を震わせた少女は暗い表情で呟き、教室から飛び出した。
このまま彼女を追いかけなければ、後悔することになる。そういう思いに駆られた波留は、咄嗟にメインヒロインを追う。
数秒のタイムラグが生じ、脅える少女と波留の距離は10メートル程離れた。その距離を埋めるため、波留は廊下を全力で走る。
この状況で、マニュアル人間の三橋悦子に捕まれば、大きな遅れを生むことになるが、そんなことは今の彼には、どうでもいいことだった。
妙に静か過ぎる廊下を走り、少年はやっと彼女に追いつく。そうして彼は、脅える少女の右腕を優しく掴んだ。
「どうして逃げるんですか?」
波留の問いかけに対し、明美は涙を流しながら、彼と視線を合わせた。
「怖いから。多分私は、クラスメイトを傷つけてしまったんだと思う。その傷は、私が付けたんだよね?」
明美は躊躇することなく、波留の右頬に残る傷を触る。その大胆な行動に、少年は赤面して、首を横に振った。ここで真実を打ち明ければ、絶命してしまうのではないかという恐怖に襲われながらも、彼は答える。
「だから、この傷は他の男子とふざけて付けた傷……」
「嘘」
小倉明美は岩田波留の言葉を遮る。それから暗い表情になった少女は、言葉を続ける。
「岩田君と二人きりで話しがしたい。一緒に来て」
唐突に始まったイベント。波留は断る理由が見つからないと思い、了承する。
「分かりました」
体育倉庫の前に岩田波留は連れてこられる。
「この場所は人気が少ないから、安心して話せる」
小倉明美の言葉通り、靴を履き替えなければ踏み入れることができないその場所は、異常に人通りが少ない。
「それで話というのは?」
一瞬逆プロポーズでも始まるのではないかと期待しながら少年は尋ねる。その期待に反し、明美は深呼吸してから事実を打ち明けた。
「私のこと。私って二重人格なんだよ」
「二重人格?」
波留は予め知っていたことを、今知ったように演技した。それが演技だとは疑わない少女は、首を縦に振る。
「うん。ちゃんと診断も受けているから間違いない。突然目の前が真っ暗になって、気が付いたら誰かが傷ついていたってことが多いの。それで身に覚えのないことで酷い仕打ちを受けたり、怒られたりすることもあった。だから怖いんだよね。知らない所でワタシが何をやったのかが分からないから」
「それで怖くなって逃げ出したと」
「クラスメイトに聞いても、何も知らないの一点張り。多分私のことを守ろうとしているんだろうけれど、それが逆に辛い。私は何をやったのかが知りたいだけなのに……」
明美の言葉を聞いた瞬間、波留は違和感を覚えた。女子生徒は小倉明美の奇行を知っているはずなのに、見て見ぬふりをする。悲鳴すら出さずに、いつも通りなガールズトークを行っている。何かがおかしいと思いながら、波留の頭には、別の疑問が浮上した。
「ところで、何で僕のその話をしたのですか? 態々人目を気にして」
思わず疑問をぶつけた波留に、少女は涙を流しながら微笑む。
「このことを知っているのは、先生と悦子だけのつもりだったけれど、岩田君にも話さないといけないのではないかって思ったから。それと人目を気にしていたのは……」
少女の答えは、波留の耳には届かない。なぜなら少女は、再び冷たい視線を少年に向けたのだから。その顔は、数分前に3人の男性生徒を殺した冷酷な少女と同じ。
ここで会ったら殺されるという思考が少年の頭を支配する中で、悪魔のような少女は意外な言葉を口にした。
「警戒心が強い小倉明美に、事実を打ち明けさせるなんて流石ね。久しぶりに楽しめそう。でも、小倉明美を裏切ったら、問答無用で殺すから」
「何の用ですか?」
波留が恐る恐る尋ねると、少女はニヤっと笑った。
「小倉明美を孤立させないと約束してほしい。それと……」
それは突然の出来事だった。小倉明美は呆気に取られている少年に抱き着く。大きな胸が上半身に当たり、性的興奮を覚えた彼は顔を赤くする。
それから少女は、艶やかな声で少年の耳元に囁く。
「第1回イベントゲームクリアおめでとう」
その言葉の後で、明美の瞳に光が戻る。状況を理解できない彼女は目を丸くして、なぜか抱き着いている彼に尋ねる。
「どうして岩田君は、私に抱き着いているの?」
慌てて手を離しながらも、赤面した波留は狼狽えつつ答えた。
「もう一人の小倉さんが、いきなり抱き着いてきて……」
「そう。何か知らないけれど、もう一人のワタシも気を許してくれたってことかな?」
何故か急に笑顔を取り戻した明美は、鼻歌混じりに教室に戻るため歩き始めた。




