The taxi which goes to the cafe of mama in 2014
1980年、冬。激しい雨の降りしきる朝方の4時、僕は寂びれた車体を持つタクシーに乗り込んだ。タクシーの運転手は寡黙な男で、特段喋ることはなかったが、独り言のように目に映る情景を描写していくのが癖のようだった。僕はタクシーの運転手の言葉を、子守唄代わりにして、タクシーで目的地へと旅立つ。静かな振動を繰り返す車体に、揺り籠のように揺られながら。
タクシーは雨の中、駆け抜けて行く。心地よいリズムが僕の体を揺らし、夢とも現実ともつかない世界へと運んでくれるようだった。タクシーは一昼夜を掛けて目的地へと辿り着くだろう。そのことを僕はなぜか知っていた。行く宛てのない旅路のように思われたけど、それはやがて終わりが来るということを僕自身、知っていたからかもしれない。
タクシーがトンネルを抜けてすぐの場所で、若いカップルが歩いているのを、僕は目に留めた。カップルは幸せそうで産まれたばかりの赤ん坊を抱き抱えている。彼女達はとても嬉しそうだ。母親と思しき女性の口元から白い歯が零れるのを僕は見逃さなかった。そう。それだけで良かったのに、それだけで幸せだったのに、なぜ「あの赤ん坊」はあんなどうしようもない冒険に出掛けたのだろう。不思議でならない。それがその子の運命だったとしても、余りにあの家族が可哀そうだ。僕はそう思わずにはいられなかった。運転手が誰に向けるでもなく口にする。
「綺麗な風景。綺麗なカップル。何も申し分ない」
本当にそうだ。僕は俯いて微笑むしかなかった。タクシーは朝靄のかかる路地裏を抜けて、小学校の近くに車体を走らせていく。そこで車に、ちょっとしたトラブルが起きたのだろうか。運転手は車を止めて、タイヤをチェックする。僕はその間に、母親と手を繋いだ子供たちが、小学校の門から出て来るのを見た。門の傍には「卒業式」と書いてある。みんな幸せそうだ。何も過不足なく。欠けるところなど何もない。今しがた、さっきの赤ん坊にも似た、卒業生の男の子が、わざとカメラに背を向けてクラスメートを笑わせたような気がしたが、一瞬の錯覚だったのだろうか。
僕が軽い感傷に浸っていると、運転手は車のトラブルを解消したのか、運転席に乗り込む。「すみませんね。お客さん」と一言運転手は断ると、また車を走らせる。こう言葉を添えて。
「素晴らしい人生。素晴らしい門出」
本当だ。僕は運転手の言葉に納得して、ただただひたすらに頷くだけだった。タクシーは昼間頃には、草原が車道沿いに真っ直ぐに続く場所へと辿り着いた。そこでは若い10代中頃の子達が、それぞれにカップルを作って、草原の向こうに叫び声をあげたり、踊るようなマネをしてふざけ合っている。その中に赤いジャンパーを着て、紺のジンーズを履きこなした少年が、恋人だろう女の子にからかい半分にちょっかいを出している。僕は声を出さずにはいられなかった。
「ああ、勿体ない。今、人生で最高のひと時を過ごしてるって言うのに。素直になれないなんて。あの子のことが大好きなのに、彼がこれからやるのは彼女を派手に振って、他の女の子と遊ぶことなんだ」
僕のため息交じりの感想を、運転手は聞いているのか、それとも聞き流しているのか、心地よさそうにハンドルを切るだけだった。僕は思わず両掌を合わさずにはいられなかった。どうかあの子がこれから犯す失態をみなが許してくれるようにと。タクシーは、そんな僕の懺悔の思いさえ置き去りにして、走り抜けていく。運転手の気持ち良さそうなハミングが、僕にとってはむしろ痛々しくも切なく響いていた。
タクシーは、2時過ぎにはガソリンスタンドに立ち寄った。運転手が楽しげにガソリンを入れていると、近くのコンビニから10代後半の青年たちが、万引きでもした「もの」だろうか、たくさんの「荷物」を車に入れて、走り去って逃げようとしている。バカな奴だ。無免許運転なのに本当に仕方がない。あの頃は無茶をやって、悪さを働くのがカッコいいと思ってたんだ。本当に救いようがないよ。僕がそう思うと、その青年達のリーダー格、あの小学校の卒業式で見たような子、草原で見た、赤いジャンパーを着こなした男の子にも似ている青年が、追ってくる店長に舌を出して、車のハンドルを切る。
よく覚えてる。あの子達はこれから事故に遭うんだ。そしてリーダー格のあの子は右足を大きく骨折して、2か月も歩けなくなるんだ。本当にバカな男だよ。僕が繰り返し、そう零していると運転手は全てを許すように口にする。
「全て、ママの掌の内。ママは何でも知っている」
そう、そうだった。僕は思い出した。あのリーダー格の男の子は、あのあと、母親にこっぴどく叱られるんだ。母親の看病が必要な病院生活を送りながら。それでもあの子は母親へ、時に悪態をつくんだ。信じられないだろう? 僕がそうやって笑みを浮かべるとタクシーは次の目的地へと向かって走り出す。
高架線を抜けた先にあったのは大学だ。時間は午後の3時を過ぎた頃だ。大学の構内から何やら経営関係の本を読んでいる青年が出て来る。彼はこの頃から母親と折り合いがつかなくなった。カフェショップを夫婦二人で切り盛りしてきた苦労を知るからか、普通のサラリーマン人生を送って欲しい母親と、起業家を志す彼との間に溝が出来始めたんだ。起業家。響きはカッコいいが、向き、不向きがあるんだ。そのことにまだ彼は気づいていない。これから大きな負債を抱えて、母親を困らせるっていうのにね。
大学の景色は瞬く間に遠のき、タクシーは大都市圏内へとその車輪を踏み込ませる。タクシーは、ビルの一角でちょっとした渋滞に巻き込まれた。停車したタクシーの車窓から、高いビルを仰ぎ見ると、窓越しに少しカッコをつけて起業家振ってる彼がいた。彼は自分のアイデアが世界に、そしてマーケットに通用しないのに悶々としているようだ。そう。僕はもう知っている。彼は広大なビジネスの世界で袋小路に迷い込み、大失敗を仕出かすんだ。
タクシーは、ようやく渋滞から抜け出したのかさらに車を走らせる。時間は午後5時頃だ。雨が少し激しくなって来て、視界が遮られたのを機に、タクシーは路傍に一旦停車した。そこでは傾きつつある夕陽を背に、携帯で電話をする彼の姿があった。そう。彼の事業計画は失敗に終わったんだよ。彼は多額の借金を抱えて、カフェショップを営む両親、特に母親に、その借金の一部を肩代わりして貰わなければならなくなったんだ。何て不運な男。何て不運な人生。男が降りしきる雨に濡れながら、同時に涙を流していたのを僕は知っている。身につまされる。世の中には分相応、分不相応があるってのをわきまえなきゃいけない。そのことに彼は気づいていなかっただけだ。そう。それだけのこと。やまない雨の中、男が走り去って行くのと同時にタクシーもまた走り出す。
タクシーは、今度は少し賑やかな繁華街へと、車輪を走らせる。人々の行き交う交差点では、必死に一人のセールスマンとして働く彼の姿があった。どうしようもない過ちばかり犯した男だけど、そんな彼にも天は幸運を恵んでくれる。そう。彼はこの交差点で生涯の伴侶と出逢うんだ。ほら見てみろよ。彼がスマホ片手によそ見をしている間に、俯きながら歩いていた小柄な女性とぶつかった。彼女は平謝りしているけど、悪いのはどう考えても彼の方だ。二人は落としたスマホを取り違えて持って帰ってしまった。それが二人の交際の始まりになるんだけどね。
さぁ、タクシーはいよいよゴール、目的地へと近づいているようだ。時間は夜の7時を回っている。タクシーが信号で一時停止したのは、病院、それも産婦人科の前だった。そこから彼とあの子、小柄なあの女性が、小さな赤ん坊を連れて出てきている。人生の答え、ゴールはこんなに身近なところにあったなんて、それに気付きもせずによく頑張ったものだ。ある意味賞賛に値するよ。本当に。僕は微笑ましい家族三人の姿を目に焼き付けながら、思い返す。ちょうどこの旅路、この旅の始まりに見たのも、同じような若いカップルが赤ん坊を抱き抱えてるところだったと。みんなスタート、原点は同じ。そしてゴール、終わりも同じなわけか。何だか分かったような気分だが、少し恨めしく、悔しくもある。僕は、彼ら三人から離れて行くタクシーに揺られながら、そう歯がゆく思い返してもいた。
やかでタクシーは閑静な住宅街へと入って行く。静かで、長閑な雰囲気の場所。二人が共働きで、ローンを組んだとはいえ30代半ばで家を持つなんて立派なものだ。彼もよくやったよ。僕はそう思いながらも、ある一軒の家に灯るリビングの灯を覗き見た。そこでは父親になった彼が、悔しげに、切なげに電話に出ている。そう、母親が亡くなったのは昨日のことだ。彼は母親の死に目に会えなくて、しかも仕事もキャンセル出来なくて、出張先からタクシーで母親の葬儀へと駆けつけたってわけさ。本当にどこまでも間抜けで、親不孝な男だよ。「僕」は。
タクシーは、目的地の家族葬が行われる母のカフェショップに着くと、静かに車体を止める。タクシーの運転手は会計を手早く済ませて、一言「お疲れさま」と言うと僕を労ってくれた。長かったようで短かった旅路もようやくここで終わる。僕は一つの物語が完結したのに万感の想いでいた。僕は口にする。
母さん、ゴメンよ。そしてありがとう。僕は母さんの営むカフェに帰ってきた。そこにもう母さんはいないけど、僕は戻って来れて良かったと思う。ただひたすら思うのは後悔と感謝の気持ちだけだ。ありがとう。さようなら。僕は彼女の棺に花を手向ける。棺の中で眠る彼女、母親の姿はどこまでも健やかで、穏やかだ。本当にありがとう。僕は運ばれていく彼女、母親の棺を見送る。僕はふと思い返す。この1980年から始まり、この2014年に終わる一人の男の半生は、彩り鮮やかだが、母親に支えられたものだったと。小雨へと成り変わっていた空模様を見上げて、父が僕に話し掛ける。
「さぁ、これで一つの旅は終わりだ。ただ……」
そう言って言葉を切る父親の髪は、真っ白に染まっている。
「お前の人生には続きがある。母さんのためにも懸命に、生きなさい」
その言葉を背に、うなだれる僕は涙を流すしかなかった。母さん、こんな男だったけどどうか許しておくれ。そして安らかに眠ってくれるように。そんな願いの言葉を胸に呟く僕のもとに、妻と息子が駆け寄ってくる。息子の瞳は泣きはらして、赤らんでいるが、どこか輝いてもいた。さぁ。君は僕にどんな物語を見せてくれるんだい? 二人して共に歩もうじゃないか。君のお母さんも一緒に。そう誓う僕達家族三人を、ママのカフェショップから差し込む仄かな光が照らし出していた。