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空の華

作者: 朧夢

 ――とうとうこの時が来たか。

 梶山宏樹(かじやま ひろき)はため息を一つついて、自室のベッドに寝転んだ。

 そして、天井を眺めながらふと呟く。

「十二年か……」

 ゆっくりと瞼を閉じた。




***




 流石にまずいんじゃないのか?

 かれこれ三回くらい兄貴を起こすのを躊躇っている。こんなに気持ち良さそうに眠る人類が他にいるのだろうか。兄貴の寝顔を見下ろし、声をかける。

「兄貴ー。まだ起きなくていいの?」

「ん……何時だ……?」

「八時」

 兄貴は、ベッドから物凄い勢いで飛び起きて時計を見た。

「あー……しまった」

 頭を抱えてから、焦って準備を始める。どうやら、もっと早く起きなければならなかったらしい。

「今日、なんかあった?」

「ああ、バイトだよ。まったく……店長怒ってるかなぁ」

 兄貴は頭をかきむしりながら汚い部屋から必要最低限のものを掘り出し、思い出したように歯を磨き始めた。

「そんなこと言ってる余裕ないんじゃない?」

 歯磨きを五秒で片付け、なぜか枕の下から鍵を取り出し小走りで玄関へ。

「わかってるよ。じゃあ行ってくるわ」

「はーい」

 バタバタと足音を立てて、ほぼ寝起きの状態の兄貴は出ていった。




 今日は休日。俺は仕事が休みである。休みだからといって、何か特別にしたいことがある訳ではない。

 暇だな。

 手元に丁度リモコンがあったので、テレビを付けてみる。朝のニュース番組がやっていた。まぁ休日のニュースなので、エンタメ的なものばかりなのだが。

 どうやら天気予報らしい。お天気お姉さんが変わっていた。結婚でもしたのか?

 新人のお天気お姉さんがたどたどしく喋っていた。

『えーと、今日は全国的に雲ひとつない快晴となるでしょう』



***



 今日はとてもよく晴れている。よく晴れすぎている。汗が止まらない。だが俺の気持ちはそれとは対照的に沈んでいた。

 とぼとぼと街を歩いていると、後ろから声がした。

「おーい、雅樹ー」

 振り返るまでもなく、声の主が判った。

「……おぅ、江梨子か」

「どうしたの? 今日バイトなんじゃないの?」

 いきなり核心を突く江梨子。

「もしかして……またクビになっちゃった?」

 やっぱり訊いてきやがった。まったく無神経なやつだ。でも、まぁここで嘘をつく必要もないかな。

「あぁ、そうだよ」

俯いたまま答えた。我ながら情けない。

「……まぁそんなこともあるって。落ち込むんじゃないよ?」

「今まさに落ち込んでんだよ」

「あっ、そっか」

 江梨子はちょっと気まずそうな顔をした。

「江梨子何でこんなとこにいるんだ?」

 何故か彼女は目の色を変えた。

「何?私が一人で街にいちゃいけないわけ?理由なんて何だっていいでしょ」

 いや、別に一人を強調したつもりは無いんだが。

「まぁそうだけど……」

「じゃあそんなこと言わないで」

「はーい……」

 江梨子が思い出したように手を叩いた。彼女が興奮した時の癖だ。

「あ、そうだ。聞いてよ。この前私すごい発明したんだ」

 江梨子は研究所で働いている。彼女は俗にいう天才科学者というやつだ。見た目からすれば美人でスタイルもよく、どこから見ても科学者には見えない。しかし、彼女は小学校の頃から異常なまでに頭が良かった。俺は彼女と小学校からの仲だから知っている。当然のように学年トップを取り続け、呼吸でもするかのように名門大学に入学した。

 彼女が何を研究しているか俺にはさっぱり解らないし、説明されても全く解らない。とりあえず結構すごいことをやってると本人からよく聞かされる。

 まあ俗に言う『自慢』をいつも聞いているわけだだ。

「ねぇ、聞いてんの?」

「ん? ああ……ごめん」

「せっかく説明してあげてんのに何ボーッとしてんのよ。まったく、雅樹そんなんだからモテないんだよ。顔はいいんだからもっと中身を磨けばいいのにさあ」

 余計なお世話だ。江梨子にだって同じことが言えるはずだ。

 まぁ確かに俺は中学生の頃に一ヵ月だけ付き合ったっきり、彼女なんていたことがない。どうしてもその子を好きになれなかった。

 そもそも、彼女なんて作る必要なんてなかったんだ。

 なぜなら――。

「あ、どうせ雅樹今日暇なんでしょ? カラオケ行こうよ。ストレス発散ってことで」

 どうせ断ったら怒られるんだろ。だけど、確かにどこかでストレス発散しておきたい気もしないでもない。とまぁ、自分の中で江梨子の誘いを受け入れる理由を作ってみた。上出来じゃないか。自分の気持ちが少し高ぶっているのを感じて、心の中で苦笑した。

「……行くか」

「よし来たっ」

 なぜなら――。

 俺の想う人は昔から、正確にいえば小学生の頃からただ一人だったから。




***




 兄貴はなかなか帰ってこない。十二時を回ろうとしているのに、どこほっつき歩いてるんだまったく。ため息をついたちょうどその時に玄関が開く音がした。

「ただいま」

「おかえりー。どうしたんだよこんなに遅くまで」

 テレビを見たまま言った。これで、ちょっと不機嫌な感じが出るんじゃないか。だが、兄貴は俺の期待とは全く違うことを口にした。

「それはあとで説明するからさ、こいつが寝る場所作ってくんない?」

 こいつ?

 振り返ると、兄貴の横に女の人がいた。しかしその女の人は兄貴に支えられて立っているのがやっとのようで、うなだれたまま、うーうー唸っていたので誰だかよく解らなかった。

 だがまぁ、兄貴が連れてくる女の人っていったら……。

「兄貴それ、江梨子さん?」

「そうだよ」

 やっぱり。兄貴が江梨子さん以外の女を連れてきたりしたら、次の日は多分大雪で交通網完全麻痺だ。

「江梨子さん随分酔ってるみたいだね。布団敷いてくるからちょっと待ってて」

 そう言って、和室に布団を敷きに行った。

 今まで何度も彼女はここに来ていた。最近はいつも決まって江梨子さんが酔い潰れてそれを兄貴が連れてくる。

 どうやら研究者という職業は大変なようだ。

 布団を敷いて居間に戻ると彼女がさっきまで俺が座っていた場所にうつ伏せで寝ていた。

「……いや、ここで寝るっていって聞かなくて」

「いいよ別に。しばらく寝かしといてあげなよ」

 ああ、と小さく返事をしてから兄貴は何かを言いたさそうにしている。が、なかなか言い出さない。いや、言い出せないのかもしれない。

「どうしたの?」

 すると申し訳なさそうに小声で言った。

「いや、それが……その……バイト、クビになっちゃって……」

「え? クビになったの? そっか……」

 かける言葉が思い付かなかった。何度この報告を受けただろう。

「あぁ……すまん。それだから、家賃また払えないかもしれない」

「気にしないでいいよ。それより兄貴は明日から新しいバイト先探さなきゃでしょ」

 とりあえず今回は励ますことにした。

「そうだな……」

「あ、風呂出来てるけど入る?」

「いや、あとで入るよ」

「じゃあ俺先入るから」

 風呂に入ってから自分が不意についたため息。

「チッ」

 自分に嫌悪感を覚え、舌打ちをした。




***




「ん……」

 目を開くと見慣れた景色だったので少し安心した。雅樹の家だ。まだ頭は少し痛かったがまぁなんとかなる痛みだろう。どうやら私は酔い潰れてしまったらしい。

 雅樹が運んでくれたのかな。

「おう、目ぇ覚めたみたいだな」

 雅樹が居間から歩いてきた。

「うん。なんか悪いね。いつも泊めてもらっちゃって」

「今さらそなこと言われてもなぁ、だってこれ何回目だよ」

「だっ……「しかもさぁ、」」

 まだ続けるらしい。

「しかも昨日はお前をこの部屋に運ぶのも結構大変だったんだぞ。全然起きないんだもんな。参ったよ」

「うっさい。珍しく私がお詫びの言葉を口にしてるんだからありがたく受け取りなさいよ」

「はいはい」

「はいは一回」

「……はーい」

 雅樹は手を口にあて、笑いを堪えていた。

「何よ?」

「いえ。何も……ぷっ」

 彼は堪りかねたようで、いきなり吹き出した。

 何で笑われてるかよく解らなかったが、何故か私も笑えてきた。

「今日は研究所行かなくて大丈夫なのか?」

「問題ない」

 私は研究所で研究をしている。昔から理科が大好きで、小さい頃から大きくなっても理科に関わり続けたいと思っていた。

 私が所属する『自然科学研究機構生理学研究所』での私の研究。解りやすく言えば、『見えないもの・聴こえないもの』という夢に溢れたものについてである。

 その研究で、つい先日大きな成果が得られた。今まででは空想でしかなかったことが現実になる。そんな物が出来た。

 しかし昨日、研究所からそれの処分を命じられた。

 捨てる前に雅樹に自慢してやろうかと思っていたのにすっかり忘れていた。忘れないうちに自慢してやろう。きっと雅樹もびっくりするんだろうなぁ。

 しかしこの時、なぜだろう。一種の悪寒のような、嫌なものを感じた気がしないでもなかった。

「ねぇ雅樹、面白いものがあるんだけど」




***




 『いいものみせてあげる』。そう言われ、俺たちは、居間で向かい合って座った。また自慢か、と少し辟易したが、江梨子の子供のような笑顔を前にそんな感情はすぐに消し飛んだ。

 江梨子が無言で差し出したそれは、コンビニなんかでよく売ってるような清涼菓子に似ていた。容器には『Qooge』と書かれている。

「こー……げ?」

「いや、なんで『こーげ』て読めちゃうのよ! 『クウゲ』だよ『クウゲ』!」

「なかなかカッコいいな」

「でしょ?」

「で、どういうものなんだ?」

 彼女は口の端に笑みを浮かべ少し間をおいてからいった。

「これの正式名称は『思考受信制御剤』。これを飲めば、文字通り一時的に他人の思考を受信出来るようになるのよ」

「……え?」

 んなバカな。いくら天才だからってそんな非現実的な話があるもんか。江梨子、頭がおかしくなったのか?そう疑うほどの衝撃だった。さらに説明は続く。

「飲んで思考を受信したい人に触れると、その人が触れられた時に頭の中でイメージしていること。まぁ風景とか人の顔とかもう何でも。それを受信することが出来るの。しかもぼんやりとじゃなくてはっきりと。ただまあ発明した私でも、まだよくわからないことがあるんだけど」

「江梨子……一人でこれ作ったのか?」

「……そうだけど?」

「……すげぇ」

 思わず口にしていた。

 その後江梨子は『クウゲ』の詳細を熱く語っていた。聞きながら科学も進歩しているんだなとぼんやり思った。江梨子の説明は知らない単語がたくさん出てきたので半分も理解出来なかった。それでもとりあえず理解出来たことは、この『クウゲ』がいかに素晴らしいもので、どれだけ世の中に影響を与えうるものであるかということである。

 江梨子は説明の最後にこう付け加えた。

「これは、一般に出回ることは無いよ。それどころか処分しろっていわれちゃったし」

「え? 何でだよ?」

「当然のことなんだよ。こんな、とんでもないものが出回ったら大変なことになるのは目に見えてるでしょ。世間は大混乱よ。発明した側からすれば、自分達の発明が有名になってくれれば嬉しいんだけどね」

 江梨子の顔は少し悲しげだった。

 しばらくの沈黙の後俺は恐る恐る訊いてみた。

「あのー、今の説明で大体どんな薬かはわかったからさ、実際に使ってみるっていうのは無理なのか? まだ信じきれてないんだけど」

「……やってみる?」

「おうっ」

 不意に自分が嬉しそうな声を出したことが、恥ずかしくなった。江梨子はそんな俺を見て少し笑いながら言った。

「じゃあ雅樹がそれ飲んで、私に触ってみて」

 『触ってみて』という言葉に一瞬変な想像を浮かべてしまったことは、心のなかで謝罪しよう。ごめんなさい。

 言われた通り『クウゲ』を一錠口に入れ、机に置いてあったペットボトルの水で飲み込んだ。

 飲んだ時点では何の変化もない。

 江梨子の肩に服の上から触ってみる。

 すると、

《おーい。聴こえる? どう? すごいでしょ?》

 江梨子は口を開いていない。耳から聴こえている訳でもない。ただ、言葉が頭の中に流れ込んでくる感じだった。

俺は一瞬呆けた後、慌てて手を離した。何に慌てたかは自分でもわからなかったが、きっと今まで経験したことの無い現象に体が驚いているのだろう。

「すごすぎるだろ。これ」

 江梨子は自慢げな顔だった。


 まだ昼だったのでもう少しいれば、と言ったが、江梨子は用事があるといって帰った。行き先については見当がついたので深くは追及しなかった。

 俺の鼓動はまだ速いままだった。さっきの江梨子との出来事のせいに他ならかった。目を輝かせて話す江梨子をみて、夢中になれるものがあることを羨ましく思った。

 さっきまで江梨子のいた布団に仰向けで寝転がり、『クウゲ』をスウェットのポケットから取り出して眺める。

「いらなかったら処分して。絶対他の人にあげちゃ駄目だからね」

 といって渡された。

 そんなことをして大丈夫なのかと思ったが、さっきの江梨子の話では、彼女はこれを一人で作ったということだった。誰かにこれの素晴らしさをわかってもらいたかったのかもしれない。

 まったく、あの若さで一人でこんなにもすごい発明をするなんて。

 なんだか江梨子が遠くに行ってしまう気がした。

 ふと思い出した。

 新しいバイト先を探さなくては。もうバイトなんて歳でもないのだが、仕事が見つかるまでは仕方ない。とりあえず街に行って募集してるところを探そうと、家を出る準備をした。

 家を出ようと玄関まで来たときに、机の上に『クウゲ』を置いたままにしていたことを思い出した。

 何かに使えるかもしれないし、置きっぱなしにして宏樹に見つけられるのもまずいと思い、持っていくことにした。




***




 私のお父さんは、一般的に見れば典型的な駄目親父といえるだろう。といっても今は、だ。

 以前は一流の商社に勤めながら一人で私を育ててくれていた。

 母は私が生まれてすぐ家を出ていったらしい。だから私はお父さんを尊敬していたし大好きだった。

 しかし一年前、会社は不況により大規模なリストラを実行した。

 リストラされた社員の一人にお父さんがいた。

 それからのお父さんの堕落は早かった。

 毎日のように昼からお酒を大量に飲むようになり、競馬や競艇、パチンコといったようなギャンブルに大金をつぎ込むようになった。

 借金も抱えている。

 仕事に一生懸命で人生が仕事そのものみたいな人だったので、仕事を失ったショックは計り知れないものだったのだろう。お父さんはリストラされてから今までの一年で四回の自殺を図っている。

 今ではお父さんには一切のギャンブルは止めさせたが、お父さんは未だにお酒が止められないようだ。

 お父さんはいつも家でお酒を飲んでいるので、なるべく一緒にいる時間を多くとるようにしている。

 今日も、実は特に用事などないがお父さんのことが気にかかっていて早く帰りたかったのだ。

 帰り道、晩御飯の食材を買いに行ったあと家に向かい歩いていると、ふと時計屋が目に入った。

 お父さんがいつも時計を買っていた店だ。

 お父さんのために時計を買っていくことにした。

 お父さんは時計を集めるのが趣味だった。

 これでほんの少しでもお父さんの暗い気持ちが晴れるのではないかと思った。

 それは、お父さんへの最後のプレゼントになった。


 その日、お父さんは死んだ。




***




 朝、何となくつけたニュース番組をぼんやり観ていたが、あるニュースに目が止まった。

『○○の一軒家で男性が死亡する事件が発生しました。死亡したのは三浦義弘さん五十二歳。自宅で刃物が胸に刺さった状態で倒れているところを帰宅した娘に発見されました。尚、死体には十箇所以上の刺し傷があり、警察は殺人事件とみて捜査を続けています。さて――』

「兄貴っこれ江梨子さんのお父さんじゃない?」

 洗面所の兄貴に叫んだ。

「え……、ああほんとだ」

 やけに落ち着いた口調だった。

「兄貴……? 驚かないの?」

「驚いてるよ。まさか江梨子の父さんが死ぬとはなぁ」

 どこかぎこちなかった。

「犯人まだ捕まってないらしいよ? ってことはまだこの辺にいるのかな?」

「さあ? どうだろうな」

「……兄貴、江梨子さんのお父さんと知り合いだったよね?」

「ああ、一緒に食事なんかも行ったことある」

 あまりに反応が薄いので驚いた。

「悲しくないの?」

「そりゃあ……悲しいよ」

 兄貴は半ば上の空だった。

 兄貴は会話のために中断していた行動を再開した。出かける支度をしているようだ。バイトでも探しに行くのだろうと検討をつけた。

 俺は今日の兄貴に違和感を感じたが、深くは追及せずにニュース番組に目を戻した。

「ちょっと出掛けてくるわ」

 玄関で靴を履きながら兄貴がいった。

「いってらっしゃい」

「ちょっと遅くなるかも」

「はーい」

 扉が閉まった。

 家の外で車が発進する音がした。

 俺は不思議に思った。

 兄貴は車なんて持ってない。


 不意に妙な胸騒ぎがした。




***




 目を開けた。

 知らないうちに寝ていたようだ。体がだるい。日頃の疲れがたまっているのかな。

 明日も仕事。疲れがなかなかとれないのは日々の悩みだ。

 あれから俺は仕事を転々としていた。

 住む場所も二回変えた。

 そうしなければならなかった。「殺人犯の弟」このレッテルは予想以上に俺を苦しめた。

 まず最初は事件の前からやっていた教師の仕事。

 生徒に俺が殺人犯の弟であることはすぐに知れ渡った。

 事件が起こった時は、新任教師として赴任して来たばかりだったので、評判もみるみるうちに下がっていき、職場で完全に孤立した。とはいっても、みんなが差別的目線をあからさまに送ってくるわけでも、誹謗中傷をしてくるわけでもなかった。それどころか、周りの教師達は俺に気を使っていた。

 それが俺を追い詰めていた。

 ある日、校長に呼び出されこういわれた。

「梶山先生。申し訳ない話ではありますが、この学校に保護者の方々から“犯罪者の家族が先生として働いている学校に自分の子を通わせたくはない。その先生を辞めさせろ”という苦情が多数寄せられているんですよ」

 俺はすぐに教師を辞めた。

 教師という職業に未練が無いわけではなかった。教師は俺の小さい頃からの夢だった。大学では教師になるために必死に勉強した。教師になった時、一番喜んだのは俺じゃなくて兄貴だった。

 その兄貴に、一番に喜んでくれていた兄貴に、俺は夢を奪われた。

 前のアパートの隣町に引っ越した。

 そこなら俺の兄貴を知っている者はいないはずだと思った。ほどなく、家電量販店の店員をやることになった。給料は前に比べれば少ないので、少し生活は苦しかったが独り暮らしなので、なんとかすることができた。

 やっと仕事に慣れてきたある日、いつも通り店頭で商品棚を整理していると

「あのぅ、掃除機ってどんなのがいいかお聞きしたいんですけど」

 ちょうど俺と同じくらいの歳であろう男性に声をかけられた。

 この仕事に就いてから得た知識で男性に掃除機の説明をしていると、男性は少し笑ながら訊いてきた。

「もしかして……梶山先生?」

「え……」

 ここで男性の顔をよく見ると、前に勤務していた中学校の先生だった。

「やっぱり……お久し振りですねぇ」

 その男性、牧原は太った体をゆらしながら笑っていった。

「ええ……お久し振りです」

「いやあ、梶山先生、こんなところで働いていらっしゃるとはねぇ。大変ですねぇ」

 皮肉のこもった声だった。

「は、はぁ……」

「頑張ってくださいねぇ。あ、掃除機の方、続きお願いできます?」

「あ、はい。」

 牧原は一番人気の掃除機を買って満足げに帰っていった。


 その数日後には俺は店を辞めていた。


 どうやら牧原はあの店のお偉いさんの親戚ということらしい。牧原がその親戚に俺の素性を話したということなのだろう。

 俺は店の責任者に呼び出され、その真偽を訊かれた。正直に話すしかないと思った。どこから漏れたのかはわからなかったが、瞬く間に仕事仲間に広まった。

 店の仕事を始めて二年が経とうとしている時だった。


 また一つ、兄貴に奪われた。


 俺には事件の前から付き合っている彼女がいた。

 名前は柳瀬咲。大学で知り合い、間もなく付き合い始めた。さばさばした性格で、気を使わずとも一緒にいられた。彼女は事件のことを知っても俺と別れることはなかった。

 家電量販店の店員を辞めたあと、絶望した俺は咲になげやりな調子で訊いた。

「なあ、俺と付き合ってていいのかよ?俺、犯罪者の家族だぞ?」

 自分でいっておきながら泣きそうになった。だが咲はこういった。

「私は宏樹のことを好きになったんだから、家族がどうとか関係ないでしょ」

 この言葉は俺の支えになった。


 数年後、咲は俺の子供を身籠った。俺たちは幸せの絶頂にいた。

 しかし、問題があった。

 まだ咲は、親に俺と付き合っていることを話していなかった。いきなり妊娠しましたと挨拶に行ったら印象が悪いだろう。

 俺の親には報告する必要はなかった。もう随分前、兄貴が高校の頃に死んだからだ。

 意を決して挨拶に行くことにした。

 咲は、きっと大丈夫だよ、といってくれた。

 挨拶は俺の心配をよそに、うまくいった。

 お父さんとも話が盛り上がった。お父さんはスキーを今でも好んでするらしく、偶然にも俺が高校でスキー部に入っていたためであった。

「ね、大丈夫だったでしょ?」

 咲の笑顔を見て、この笑顔を守らねば。兄貴には奪わせない。


 そう強く誓った。


 ある日の昼過ぎ、俺は部屋で寝転んでいた。店の仕事を辞めたあと俺は塾の講師をしていた。

 中学生に英語を教えていた。

 塾は夕方からなので、昼間は暇なときがしばしばあった。

 寝転がって雑誌を読んでいると、インターホンが鳴った。うちに用がある人なんて珍しいな、と思いながらドアを開けると、咲のお父さんが立っていた。

 心持ち表情が暗いのが気にかかった。

「大事な話があるんだが……いいかね?」

 お父さんの話を聞いているうちに段々といいたいことがわかった。何度か聞いたようなことを目の前でいっていた。

「――お兄さん――――殺人――だから、――……」

 無意識に唇を噛んでいた。表情も険しくなっていたかもしれない。こんなことではお父さんに嫌われてしまう、そう思うと同時にもうその必要性が無いという現実を突きつけられた。

 お父さんは最後に頭を床に押し付けながらいった。

「娘の前から消えてくれないか」



 事件から十二年、俺の後ろには常に兄貴がいた。



 ベッドに寝転んだまま昔のことを思い出すうちに、随分と時間が経っていた。ベッドから起き上がり、机の上にあるケータイを開き、カレンダーを見る。

 明日は兄貴が刑務所から出てくる日。兄貴は明日、ここに来る。 この前の面会の時に、今の住所を伝えた。兄貴は俺がどれほど苦しんだか知らない。きっと知る必要もない。

 兄貴を責めたってどうにもならないことを十二年かけて理解した。



 とうとうこの時が来たか――。

 俺はため息を一つついて、ベッドに寝転んだ。

 そして天井を眺めながら

「十二年か……」

 と呟いてゆっくりと瞼を閉じた。




***




 夕食を作りながら考えていた。

 明日は、雅樹が刑務所から出てくる日。会いに行かなければ。私には雅樹に会う義務がある。

 雅樹はどんな顔をするのだろう。

 嫌な顔をする?

 申し訳なさそうな顔をする?

 悲しい顔をする?

 何にせよ、雅樹は喜ばないだろう。それでも会いに行かなければ。

 絶対にこのままにはできない。

「江梨子ー。今日の飯何ー?」

「あなたの好きなロールキャベツよ」

「おぉ。いいねぇ」

 孝幸は満足げな顔でリビングへと戻り、息子をあやし始めた。

「直幸ー。ママがご飯作ってる間、パパと遊ぼう」

「うんっ」



――このままではいけないんだ。




***




 空が綺麗だ。

 今日は嫌というほど晴れている。俺がこの日を待ち望んでいたかと訊かれれば、首を傾げざるを得ない。

 刑務所は苦痛だった。だが、特別出たいというわけではなかった。

 自分が逃げているものが何か、俺はよくわかっている。

 俺は逃げている。弟から。

 弟が俺のせいで苦しい目にあっているだろうことは容易に想像できる。

 俺は弟の人生を歪めた。弟はきっと俺を憎んでいる。普通なら縁を切ってもおかしくはない。

 ならばなぜ、弟は俺と縁を切ることをせず逆に自分の住所を教えるようなことをした?

 俺の住む場所を心配しているのだろうか。単にそうであればいいのだが、もしそうでなければ、それは俺にとって喜ばしくないことだ。

 真実は闇に葬られるべきなのだ。


 そのための十二年。


 無駄にはできない。




***




「ふう、やっと終わったか」

 部屋を眺めて一息ついた。この1LDKの部屋は、決して広いわけではないのだが、長年住むうちに愛着が湧いてきていた。

 今日は、半日かけて部屋を片付けた。何かしていないと気持ちが落ち着かなかった。

 用意した二つの座布団のうちの片方に座り、兄貴はいつ来るのだろうか。などということをぼんやりとしながら考えた。

 ふとお茶を用意しようかと思い立った。

 小走りでキッチンに向かった時、


ピンポーン


 インターホンが鳴った。




***




 宏樹に教えてもらった住所まであと少しだ。俺が住んでいた頃とは大分離れた場所だった。恐らくはそれも俺のせいなのだろう。少し胸が苦しくなるのを感じた。

 弟は、宏樹は、俺をどう迎え入れるのだろうか。

 殺人を犯し刑務所に入っていた兄を、それでも優しく受け止めるのだろうか。

 怒りを、今までの恨みを、俺にぶつけてくるのだろうか。

 俺は、宏樹が全てぶつけてくれた方が楽になるのだろう。

 ここで、あまりにも自然に自分本意な考えに至ったことに気付き、俺は顔を歪めた。

 この十二年、俺と宏樹はどんどん遠く離れていくように感じていた。

 宏樹は苦しかったであろう人生を乗り越え、立派に生きている。

 俺はどうだ?宏樹に何かしてやれたか?俺はいつも宏樹の足を引っ張っていたじゃないか。

 今、刑務所から出てきて宏樹に迷惑をかけるわけにはいかない。


 今日を最後の日にしよう。




***




 ドアを開けると、そこには俺のよく知る女性が立っていた。

「こんばんは。久し振り」

「江梨子さん……」

 老けたな、と思った。彼女はもう三十代後半なのだ。十二年前と比べて老けているのも当然だろう。むしろ江梨子さんは年齢の割には若く見えた。

「上がってもいい?」

「あ……えぇと……」

「雅樹、いるの?」

「い、いえ……」

「じゃあ一緒に待たせてくれない?」

 予想していた展開ではあった。江梨子さんは兄貴に父を殺されているのだ。このタイミングでここに来るのはそういう理由しか無い。

「どうぞ」

 江梨子さんは少しの笑みを浮かべながら

「ありがとう」

 とだけいった。

 江梨子さんは靴を脱ぎ、リビングへと歩いていく。玄関から彼女の後ろ姿を見ながら、俺は自分の胸が苦しくなるのを感じた。

 俺の横を通りすぎる時の彼女の横顔が、悲哀に満ちていたから。



 江梨子さんと二人きりの時間は、重苦しいものとはならなかった。江梨子さんが積極的に話しかけてくれたのは、ありがたかった。

 彼女は俺を、事件以前と同じように扱ってくれた。彼女なりに気を遣ってくれたのかも知れない。

 俺と江梨子さんは互いに会うことの無かった十二年のことを少し話した。

 その話から、彼女が未だに研究者であることを知り、驚いた。しかも、同じものについて研究し続けているという。恐らくは、教授などの高い地位にいるのだろう。

 すごい人だな、と素直に思った。

 俺の十二年については、他愛のないことばかりを話した。

 加害者の家族でありながら、被害者面していると思われたくなかった。

 話が一段落すると、沈黙が訪れた。時計の針の音、外で風が吹く音、雨の音がよく聴こえた。

 外は雨か。

 兄貴は大丈夫だろうか。

「テレビでもつけましょうか?」

 俺が沈黙を破った。

「ええ、そうね」

 テレビのスイッチを入れると、お笑い番組で知らないコンビが漫才をやっていた。お笑いにあまり興味は無かったが、沈黙よりは幾分ましだろう。江梨子さんも同様のことを考えているのかも知れない。

 テレビを見る振りをしながら、何を話せばよいのだろうか、と模索していると



 ピンポーン



 インターホンが、鳴った。



 ドアを開けると、そこにはあの頃よりも幾分か痩せた兄貴が、申し訳なさそうな顔をして佇んでいた。

 その顔を見て、俺の頭は真っ白になる。

 兄貴にかけるべき言葉が見つからない。

 何故だろう。

 俺は今更戸惑っているのか。

 怖じ気づいているのか。

 覚悟したじゃないか。

 真実がどういったものであれ、受け止める覚悟をしたはずじゃないか。

 今日で、けりをつけるんだろ。

 不意に胸に何かが込み上げるのを感じた。

 しばらく俺も兄貴も目を合わせたまま動けなかった。

 俺は目を閉じ、深呼吸を一つしてからやっと、絞り出すような声でいった。

「……おかえり」




***




 俺は部屋に上がり、自分の目を疑った。

「……江梨子……どうして」

「どうして?決まってるじゃない。雅樹の顔を見に来たの。それだけよ」

 そんなわけはない。顔を見に来ただけの奴は、そんな悲しい顔はしない。

 なぜ来たんだ。

 もう、いいじゃないか。

「雅樹は、宏樹君に話すことがあるんじゃないの?」

「あぁ……」

 俺は右に立つ宏樹の方に体を向ける。

 宏樹は言葉を発することなく、俺を見つめている。

 床に正座をしてゆっくりと、そして深く、頭を下げた。

「……すまなかった」

 宏樹はただそこに佇むばかりで、声を出さない。

 何十秒かの重苦しい空気が流れた。

 俺は頭を下げ続けた。

 そうすることしか出来ないと思ったから。長い沈黙に押し潰されそうになりながらも、頭を下げ続けた。 

 ふと気付く。

 宏樹の足元の床が濡れている。

 今も俺が見えない上方から、滴が落ち続けている。

 ゆっくりと顔を上げ、その滴が何であるかを確かめた。

「見るなよ……見ないでくれよ……」

 涙で頬を濡らし、目を真っ赤にした宏樹は、その未だに流れ続ける涙を拭った。そして小さな声でいった。

「俺は……今、兄貴を憎んじゃいない」

「……え?」

「確かに俺は兄貴に人生を狂わされた。兄貴を憎んだこともあった。『兄貴に全て奪われたんだ。兄貴が悪いんだ。兄貴が殺人なんてしなければこんなことにはならなかったんだ。』なんていう悲壮感に浸ってさ」

 やめろ、やめてくれ。

 宏樹は続けて話した。

「でも、こうも時間を経ると不思議なもので、心に余裕ができて、事件について色々と冷静に考えることもできるようになっていた。そうしたら、一つの疑問が出てきた。正直にいうと、今日兄貴を呼び出したのはその答えが知りたかったからなんだ」

「……何なんだ、その疑問は」

 宏樹は、涙は収まったものの未だに充血している眼で力強く俺を見て、吐息のように小さな声でいった。



「本当に、兄貴が殺したのか?」



 やはりか……。

「何をいってるんだ……俺が殺したから、俺は捕まったんだ」

 この時、視界の端に江梨子を捉えた。彼女は俯いている。江梨子、頼むぞ。

「そうか……兄貴がそういうのなら、本当にそうなのかも知れない。何せ俺の疑問にはなんの確証もないからね。兄貴じゃなかったら誰が殺したのかもわからない。そんなことを考え出したら、俺は過去に囚われちまう」

 一瞬安堵したが、まだ話は続いた。

「だけど、兄貴は殺人なんかするような人だったのか? 少なくとも俺の前ではそんなことはなかった。人を殺すどころか俺に怒鳴ったことすらないじゃないか。ニュースでは衝動的な殺人とかいってたけど、きっとそうじゃないんだろう? 兄貴が殺したというのなら、その本当の理由を知りたい」

「宏樹、落ち着け。それはただの憶測にすぎない。俺がやったんだ」

「……でも、」

 ここで今まで俯いていた江梨子が口を開いた。

「…………ほんとに知りたい?」

「え……?」

「あの日の真実……知りたい?」

 江梨子からの突拍子もない問いに、宏樹は動揺しているようだ。

「え、えぇ……それは」

「…………視に行く?」

「な、何をいってるんだ江梨子っ」

 思わず声が大きくなる。

「よく聞いて雅樹、私はあなたがいない間考えたの。私はこのままでいいのかって……このまま真実を隠し通してもいいのかって。それで凄く悩んだんだけど、やっぱりもう一人、真実を知るべき人がいるんじゃないかって……思ったの」

 江梨子の視線の先には宏樹が呆気にとられたように立ち尽くしている。

「……駄目だ」

「何で? 雅樹は辛くないの? 本当のこと隠してこれから兄弟として上手くやっていけるの?」

「……もう、今日で兄弟じゃなくなればいいだろ……」

「え……?」

 江梨子は口を開け呆然とした。そして次には険しい表情を俺に向けた。

「何いってんの? そんなこと許されない。ここまで宏樹くんの前で話しておいて、何も話さないで兄弟の縁を切る? そんなこと、私は許さない」

 彼女の目は潤んでいた。

『なんでやねんっ』

 テレビの呑気な笑い声が部屋中に響く。

 くそっ。どうすればいい。ここでもし真実を伝えたならばどうなる?宏樹は落胆する?安心する?わからない。わからない。どうすれば――。

「教えてくれ兄貴。俺は覚悟できてるよ」

「だが……」

 次の瞬間、宏樹は土下座をしていた。

「頼むよ。教えてくれよ」

 何でそこまでするんだ。

「顔……上げろ」

 至近距離で顔を見合わせた。涙で溢れる目を近くで見た。何故だろう。宏樹との思い出、日々を思い出している。まるで、俺に真実を話すことをせがむように。

 俺は――。

 不意に何かが胸に込み上げた。

「わかったよ……。江梨子、『Qooge』使うんだろ?」

「ええ……」

「な、何ですか? クウゲって」

 宏樹は明らかに話に付いてきていない様子である。

 江梨子は十二年前のあの日、俺にしたのと同じ様に宏樹にクウゲのことを話した。

 宏樹に話し終えると、俺の方を向き、こう付け足した。

「ここからは雅樹も聞いて。十二年前と違って、クウゲは複数名による映像の共有が可能になっているから。それと本人が思い出せないことも、脳内から読み取ることが出来るようになってる」

「……なるほどな、三人で“視に行く”訳か」

 こんなときに思うことではないのだが、江梨子が研究を続けていることが素直に嬉しく思えた。

「ええ……」

「宏樹くん。大体わかった?」

「ええ……大体は」

 少し自信が無さそうな声をしていた。

「じゃあ、行こう」

 二人は頷き、静かに俺の肩に手を触れた。

 テレビでは、『昭和ノブシコブシ』がベテランコンビとしてコントを始めるところだった。まだこいつら生き残っていたんだなぁ……。

 ここで、自分の集中が逸れていることに気付き、目を強く閉じる。

 大きく息を吸い込み、吐き出す。

「二人とも準備はいいか?」

 無言で頷く二人。

「行くぞ……」

 俺は、江梨子が持参したクウゲを一粒口に入れる。


 頭の中で、あの日が始まった。




 ――ねぇ、知ってる? 「空華」って言葉。

 ――え、くうげ……?

 ――うん。

 ――わかんねぇよそんなの。

 ――私が好きな言葉なの。

 ――ふーん。どんな意味?

 ――仏教の言葉でね「実体のない存在を実体があるかのように誤ること」っていう意味なの。

 ――……なんでこの言葉が好きなの? 俺にはあんまりいい言葉には聞こえねぇよ。

 ――だってさあ、「実体がないものをあるかのように誤る」っていうのはさ、それがあるって信じることともとれるじゃない?常識を覆すにはそれくらいの気持ちが必要だと思うの。

 ――周りに間違いだ、そんなものありはしないっていわれても、自分で正しいと証明すればいい、見付ければいいの。そうすれば「誤り」だなんていわれないでしょ?


 ――よく、わかんねぇや。





 首、いてぇ……。

「ん、あぁ……」

 目を開いて、自分の首の痛みの理由を知った。

 そういえば、居間で寝てたな俺。座布団枕にしてたらそりゃあ首も痛くなるか。

 宏樹は……仕事か。

 俺と宏樹のいつもの寝室は江梨子が占領している。

そろそろ起こしてやんなきゃ怒られるかな。

「ん……」

 江梨子の声。起きたか。

 襖を開けて声をかける。

「おう、目ぇ覚めたみたいだな」

「うん。なんか悪いね。いつも泊めてもらっちゃって」

 江梨子はたまにこう素直になる。照れるからやめてもらいたいもんだ。

「今さらそなこといわれてもなぁ、だってこれ何回目だよ。しかも昨日はお前をこの部屋に運ぶのも結構大変だったんだぞ。全然起きないんだもんな。参ったよ」

ちぃ。やっぱ駄目だな。テンパってやがる。

「うっさい。珍しく私がお詫びの言葉を口にしてるんだからありがたく受け取りなさいよ」

「はいはい」

「はいは一回」

「…はい」

「何よ?」

「いえ。何も…ぷっ」

 何故だか笑えてきた。

 二人で笑ながらただ、幸せだと思った。

「今日は研究所行かなくて大丈夫なのか?」

「問題ない」

 手をひらひらさせながら答えてから、江梨子は少し考えるような顔をした。

 その横顔をじっと見つめていると、不意に江梨子は顔を上げ俺を見つめた。

 俺の視線に気付いたのかと思ったが、彼女の様子からするとどうやらそうではないらしい。

 江梨子は微笑みながら俺にいった。

「ねぇ雅樹、面白いものあるんだけど」


 居間で向かい合って座った。

 江梨子に差し出されたのはコンビニなんかでよく売ってるような清涼菓子に似ていた。

 容器には『Qooge』と書かれている。

「こー……げ?」

「いや、なんで『こーげ』て読めちゃうのよ! 『クウゲ』だよ『クウゲ』!」

「なかなかカッコいいな」

「でしょ?」

「で、どういうものなんだ?」

 彼女は口の端に笑みを浮かべ少し間をおいてからいった。

「この薬の正式名称は『思考受信制御剤』。文字通り一時的に他人の思考を受信出来るようになる薬よ。これを飲んで思考を受信したい人に触れると、その人が触れられた時に頭の中でイメージしていることを受信することが出来るの。しかもぼんやりとじゃなくてはっきりと。映像と音も感じられる。ただまあ発明した私も、まだよくわからないことがあるんだけど」

「江梨子一人でこれ作ったのか?」

「そうだけど?」

「……すげぇ」

 思わず口にしていた。

 その後江梨子は『クウゲ』詳細を熱く語っていた。

 科学も進歩しているんだな。

 江梨子の説明は知らない単語がたくさん出てきたので半分も理解出来なかった。それでもとりあえず理解出来たことは、この『クウゲ』がいかに素晴らしいもので、どれだけ世の中に影響を与えうるものであるかということである。

 江梨子は説明の最後にこう付け加えた。

「これは、一般に出回ることは無いよ。それどころか処分しろっていわれちゃったし。まあ当然のことなんだけど。こんなとんでもないものが出回ったら大変なことになるのは目に見えてるし。発明した側からすれば、自分達の発明が有名になってくれれば嬉しいんだけどね」

 江梨子の顔は少し悲しげだった。

 しばらくの沈黙の後俺は恐る恐る訊いてみた。

「あのー、今の説明で大体どんな薬かはわかったからさ、実際に使ってみるっていうのは無理なのか?まだ信じきれてないんだけど」

「……やってみる?」

「おうっ」

 不意に自分が嬉しそうな声を出したことが、恥ずかしくなった。

 江梨子はそんな俺を見て少し笑う。

「じゃあ雅樹がそれ飲んで、私に触ってみて」

 いれた通り『クウゲ』を一錠口に入れ、飲み込んだ。

 飲んだ時点では何の変化もない。

 江梨子の肩に触ってみる。

 すると、

《おーい。聴こえる? どう? すごいでしょ?》

 江梨子は口を開いていない。

 耳から聴こえている訳でもない。ただ、言葉が頭の中に流れ込んでくる感じだ。ただ、映像は見えなかった。

 俺は一瞬呆けた後、慌てて手を離した。

 何に慌てたかは自分でもわからなかったが、きっと今まで経験したことの無い現象に体が驚いているのだろう。

「すごすぎるだろ。これ」

 江梨子は自慢げな顔だった。


 まだ昼だったのでもう少しいればといったが、江梨子は用事があるといって帰った。行き先については見当がついたので深くは追及しなかった。

 俺の鼓動はまだ速いままだった。さっきの江梨子との出来事のせいに他ならかった。

 目を輝かせて話す江梨子をみて、夢中になれるものがあることを羨ましく思った。

 さっきまで江梨子のいた布団に仰向けで寝転がり『クウゲ』をスウェットのポケットから取り出して眺める。

「いらなかったら処分して。絶対他の人にあげちゃ駄目だからね」といって渡された。そんなことをして大丈夫なのかと思ったが、さっきの江梨子の話では彼女はこれを一人で作ったということだった。

 誰かにこの薬の素晴らしさをわかってもらいたかったのかもしれない。

 まったく、あの若さで一人でこんなにもすごい発明をするなんて。

 江梨子が遠くに行ってしまう気がした。

 ふと思い出した。

 新しいバイト先を探さなくては。

 もうバイトなんて歳でもないのだが、仕事が見つかるまでは仕方ない。

 とりあえず街に行って募集してるところを探そうと、家を出る準備をした。

 家を出ようと玄関まで来たときに机の上に『クウゲ』を置いたままにしていたことを思い出した。何かに使えるかもしれないし、置きっぱなしにして宏樹に見つけられるのもまずいと思い、持っていくことにした。


 街に出るのにはいつも電車を使っている。



 車なんて持ってない。そんなものを買う余裕も、免許を取る余裕も無いから。

 いつものように徒歩で駅まで歩いて電車に乗った。休日ということもあり、車両内は空席がちらほらと見受けられる。その内の一つに腰掛け、ぼんやりとしていた。ガタンゴトンと音をたてながらリズムよく電車が揺れる。

 次第に気持ちよくなり、うとうとしていると、目的の駅に到着した。

 眠い目を擦り、昇降口に向かう。

 ちょうど電車から出た時、恐らく俺と同年代であろう男にぶつかった。

 「あっ……《ちっ》」

 ん?

 今、舌打ちが……。

 ……まさか、まだ『クウゲ』の効力が続いてるのか? だとしたら今の舌打ちはぶつかった男のか?だが、電車の音に紛れた小さい音だったので、空耳かもしれない。

 もう一人、試してみることにした。

 駅を出て、近くにあるコンビニに入った。買うものは何だっていい。適当に飲み物を買ってレジに向かう。

 小銭で払えないこともないが、わざわざ千円札を出した。

 おそらくアルバイトであろう茶髪のロングヘアーの女性は、まごつきながら何とかお釣りを取り出した。

「八七五円のお返しでーす」

 受けとるときに、少し手を触れさせた。

《えっ、何触ってきてんのコイツ。きもっ》

 ……止めておけば良かった。


 コンビニを出て飲み物をさっさと飲んでゴミ箱に捨てる。

 今日は……アルバイト探しは止めておこう。正直頭の中はクウゲでいっぱいだ。

 ……あ。昼飯、食べてないな。

 コンビニで買っとけば良かった。今更もう一回入るなんて無理。少なくともあの店員がいなくなるまでは。

 仕方ないので他のコンビニに行くことにした。



 さっさと昼飯を済ませ、再び街を歩く。

 さて、どうしようか。

 あてもなく、ただぼんやりと街を歩く俺の頭はやはりクウゲのことでいっぱいであった。さっきはコンビニの女の子に試してみたが、知らない誰かに試してみるというのは、よく考えれば道徳的にどうなのかと思う。しかしだからといって友達に試すということも、俺にはなかなか出来ない。数が少ないからというのもある。

 だがそれ以上に恐い。友達が自分をどう思っているのか、知るのが何故か恐いのだ。

 そう考えた時、クウゲの恐ろしさを感じた。これは使いようによっては、犯罪にだって使えてしまう。犯罪に使わないとしても、これを使う人が増えればどうなるだろう。

 人間の『本音と建前』が消えていってしまうのではないだろうか。そしてそれはきっと、俺達の生活を息苦しくするに違いない。

 処分されるっていうのも仕方がないのかもしれないな。

 気付けば横断歩道を渡っていた。

「うおっとと」

 横断歩道の真ん中で信号が赤であることに気付き、後ろに数歩小走りした。

 何と無く、何も考えず、視線を宙にさ迷わせながら信号が変わるのを待つ。

「ん……?」

 自分の隣に居る老婆に目が止まった。真っ白な髪で腰を曲げ杖をつきながら信号を待っている。ただ隣に居るから、という理由で目に止まったわけではない。明らかに様子がおかしかった。道路に顔を出し、左右をしきりに確認している。

 一体何をしているんだ?

 道路の遠く向こう側から、大型のトラックが大きな音をたてながら走ってくる。

 老婆の顔がそのトラックへと向き、動かなくなった。

 何秒そうしただろう。老婆は俯き、深く深く呼吸をした。

 まさか。

 徐々に迫るトラック。

 老婆に目をやる。

 震えていた。

 年のせいなんかじゃない。

 ゆっくりと。

 震える杖をつきながら。

 老婆は、踏み出した。

 トラックは、恐らくは老婆の存在に気付くことなく、勢いをそのままに直進する。

 体は動いていた。

 俺の中の時間が、無限の分割を始めた。

 迫るトラック。

 老婆を後ろから抱えるようにする。

 頭の中に、老婆の今までの人生が、思いが、全てが、走馬灯として雪崩のように押し寄せた。激しい頭痛を伴いながらも、必死に後ろへ飛び退く。

 その直後、轟音を上げながらトラックは走り去っていった。

「ふぅ……」

 天を仰ぎ、深い溜め息をつく。

 冷や汗が、至る所から噴き出していた。腕の中にいる老婆を確認する。

「大丈夫ですか? 痛いところは?」

「ああぁ……何で、放っておいてくれないんだい……」

 泣いていた。

 両手で顔を隠して、子供のように声をあげて。

 俺が『Qooge』を飲んでいなければ、

「目の前で死のうとしている人がいるのに放っておけるわけないですよ」 とかなんとか、それっぽいことを言って助けた気になっていたかも知れない。

 だけど。

 だけど今は違う。

 『Qooge』でわかってしまった。

 老婆が認知症を患ったこと。

 家族から疎まれるようになったこと。

 彼女の辛い日々。

 そして彼女の悲壮なる決意を。

 俺は彼女の邪魔をしてしまったのか?わからない。

 「……死んじゃ、駄目ですよ……」

 そうとしか言えなかった。

 道の向こう側から声が聞こえた。

「おかあさーん!」

 恐らくは老婆の娘であろう人が息を切らしながら走ってきた。

「もう……勝手に外にいっちゃいけないって言ってるじゃない!」

「あの……」

「はい?」

 意を決して言った。

「このお婆さんを、もっと……大事にしてあげてください。きっと悩んでいます」

「何言ってるんですか? あなたには関係の無いことでしょう? さあ、帰りますよ!」

 これ以上の反論の術が無かった。彼女が死のうとしたことなんて言えない。彼女の決意を踏みにじることは、出来ない。

 娘に付き添われ、歩く老婆の背中はひどく小さく見えた。



 街の喧騒のなか、歩を進める俺の心は決して穏やかではなかった。

 そこにある怒りは、他の誰でもない、自分に対しての怒り。

 結局何も出来ない。相手の心を知ることができたって何も出来ない。何も助けられない。何の役にも立たない。小さな背中を思い出す。

「くっそ……」

 これを作った江梨子が一瞬憎いと思った。

 そう思った自分が、嫌になった。


 暫くあてもなく歩いていると、見慣れた景色が見え始めた。

 ああ、江梨子ん家の近くか。小さな頃からよく遊びに行ったもんだ。江梨子の父さんは元気だろうか?

 会社をクビになったとかで、大変なようだ。江梨子も心配だ心配だと何度も口にしていた。

 昨日は親戚が遊びに来ていたとかで、江梨子が面倒をみる必要が無かったということで、俺の家に泊まっていったらしい。

「……少し、寄ってくかなぁ」

 自らの意思を確かめるかのように、声に出してみた。

 もうすっかり辺りは暗くなり始めていた。


 江梨子。

 思えば小さい頃からそばにいた。そしてその頃から気が強くて、明るくて、たまに可愛くて。そんな江梨子が小さい頃から好きだった。

 でもあいつに想いを伝えるなんてありえなかった。

 頭が良くて、明るくて。そんなあいつが人気者にならないはずがなかった。

 それに比べて俺は?

 未だに仕事もまともに出来ず、弟に生活を頼ってる。唯一見た目だけ多少まともだとは思う。そんなろくでもない俺が江梨子の側にいられるだけでも、幸運だ。そう思うことにした。今はもう遥か届かない所まで行ってしまったけれど、俺は見守り続ける。

 今はそれしか出来ない。

 江梨子に彼氏が出来たら、祝福する。だけどもしかしたら、心の中で毒づいてしまうかも知れない。

 『こいつを一番想ってるのは俺だぞ』と。


 ――いつか。まだまだ先かも知れないけど、俺が立派になった時、もしお前が一人だったら、俺を隣に置いて欲しいな。


 江梨子の家を前にして立ち止まり、家を見上げる。

 二階の窓は灯りがついていない。晩御飯でも食べているのか。そう考えると、早く食べろと言わんばかりに腹が音をたてた。少し顔を出して、どっかで飯食って帰ろう。

 少しの笑みを顔に浮かべながら、玄関に向かって歩き始めた。

 その時。

 玄関の向こうから荒い息と速い足跡が聴こえた。

 足跡は徐々に大きくなっていく。俺は足を止め、玄関を警戒する。

「はぁっはぁっはぁっはぁ……」

 荒い息づかいと共に現れたのは、血相を変えた江梨子だった。

「どうした!?」

 駆け寄ると同時に江梨子が大きくよろめいた。

 俺はそれをなんとか受け止める。

「どうしたんだ?」

 もう一度訊いたが、混乱がひどく会話すら出来ない。ただ聴こえるのは、荒い息だけ。江梨子の額に手を当ててみるが、決して熱があるわけではない。

 何なんだ……?

 どうすれば……。

「あ! そうだあれだ!」

 Qoogeを使って何があったかを……ん?

 俺は既に江梨子に触れている。

 ちぃっ。ここにきて効力切れか。

 急いでポケットからケースを取りだし一粒口に放り込んだ。

 なんの躊躇いもなく。

 そこから始まるものが悲劇だとは知らず。


 目を閉じる。

 すると目の前に江梨子が見ていた景色が鮮明に写し出される。

 どうやら、〝相当なことがあったのであれば頭の中で反芻されているはず〟という俺のあては、外れなかったようだ。

「お父さーん。ただいまー」

 明るい江梨子の声が家の中に響く。

「お、あぁ」

 玄関からは見えない、今からの気だるい声。江梨子の父さんだ。江梨子は小走りで居間へと向かう。居間はフローリングが敷いてあり、そこには小さな机と椅子が二つ。相変わらず整った部屋だ。

 椅子の一つに腰掛けている江梨子の父さん。髭は伸び、髪はボサボサ、服も汚い。机には数本の酒瓶。それも江梨子にとっては当然の景色であるらしく、いつも通りの明るい声で話し始める。

「じゃじゃあん! お父さん、これなーんだ?」

 買い物袋と一緒に持っていた紙袋をお父さんの前に突き出す江梨子。

「……」

「時計だよ。これお父さんにあげるね」

「……」

「お父さんが気に入るかわかんないけど、結構それカッコいいと思うんだよねー」

「……」

 独り言に近い江梨子の言葉。どれも虚しく部屋に響くばかり。

「今日は豚汁作るからね。これから作るから、ちょっと時間かかっちゃうかもしれないけど」

「……か?」

 小さなかすれた声。

「え?」

「……いのか?」

 俯く江梨子のお父さん。

「お父さん、聴こえないよ」

「……」

 広がる沈黙。

 俺の中に少しずつ広がる不安。

「お父さん?」

「楽しいのか?」

 今度ははっきりと、発せられた声。心なしか震えているようだ。

「え?」

「一緒に暮らしていて、楽しいのか?」

 突然の問いに戸惑っているようで、視線がキョロキョロと動く。江梨子が困ったときにする癖だ。

「な、何言ってんの? 楽しくないわけないじゃ……」

「嘘をつくなっ」

 机を激しく叩き、やはり俯いたままで叫ぶ。

「お父さん……」

「私は知ってるんだ……お前が私を疎んでいると……私は、邪魔なんだろう?」

 なに言ってるんだ……。

 江梨子はお父さんを大事に思って……。

「私は……お前の邪魔をしているんだろう? 仕事がなくなった私はお前の足手纏いなんだろう?」

 ちがうよ。ちがう。江梨子はそんなこと考えない。

 ちがう。

「そ、そんなことないよ?」

 お父さんに近寄ろうとする江梨子。だがお父さんはそれをまるで虫を払うように手をひらひらさせて拒む。

「いいんだよ、そんな慰めは。正直聞き飽きたんだ」

「お父さん……」

 二人の間の異様な沈黙。

「だから……」

 激しい胸騒ぎがする。

「だから?」

 駄目だ、江梨子。

「一緒に……」

 江梨子のお父さんの手が自らのズボンの右ポケットのなかへゆらりと姿を消す。

「え……お、父さ、ん?」

 静かにポケットから右手が引き出された。

 小さな果物ナイフと共に。

「一緒に……」

 椅子から立ち上がり、江梨子に詰め寄る。

「ちょっと……?」

 やめろ。

 やめてくれ。

 彼の目、悲壮な決意を込めたそれからは、こぼれ落ちるものがあった。

「……死んでくれ」


「うぉぉぉ!」

 雄叫びと共に走り出す。

 勿論江梨子の元に。

 ナイフをその手に携えて。

「いやぁあ!」

 江梨子!



 二人の距離は零になった。

 静まり返る空間。

 二人の間から滴る血液。

「う……あぁ」

 がくりと膝を落とす。そして腹部から血を流しながら、力なく床に伏した。

 そんな……。

 江梨子……。

 何でだよ……。

 どうしてこんな……。

 どうしてこんなことに……。

「あ、あぁぁぁ……」

 床に伏す姿を見て、頭を抱え声を漏らし始める。

「あぁ、何てことを……あぁ……」

 ゆっくりとしゃがみ込み、顔を覗き込む。その瞳は閉じられ、体は微動だにしない。肩を持ち、俯き、涙を溢す。



「……お父さぁん……ねぇ、お父さん……」





「……っはぁ! はぁっ、はぁっ……」

 Qoogeの効力が切れ、視界が戻り、俺の腕の中に江梨子の顔。

 どうすれば。

 どうすれば。

 どうすれば。

 いくら頭を捻ろうが砕こうが、所詮は馬鹿な俺の頭。勿論結論なんか導けない。出てくるのは冷や汗ばかり。

「…………」

 江梨子を守りたい。

 ごく自然にその考えに至った。

 江梨子を守りたい。

 なんとかしてやりたい。

 助けてやりたい。

 何が出来る?

 俺に何が出来る?

 江梨子に何をしてやれる?

 守りたい。

 一緒に居たい。

 一緒に笑いたい。

 一緒に喜びたい。

 一緒に泣きたい。

 一緒に悲しみたい。

 一緒に怒りたい。

 不純な動機かもしれない。

 所詮は馬鹿の考えることかもしれない。

 でも、仕方ない。


 好きなんだから。


 俺はゆっくりと江梨子を玄関に寝かせ、リビングへ歩みを進めた。床を踏みしめる自分の足跡がやけに響いた気がした。

 リビングには横たわる江梨子の父さん。

 横には血の着いた果物ナイフ。

 仕方がない。

 江梨子を助けなきゃ。

「……ごめんなさい」

 ゆっくりとそれを手に取った。

 ごめんなさい。

 でもこれしか思い付かないから。

 ごめんなさい。




***




「っはぁっはぁっ……」

 目を開くと目の前には江梨子さんと兄貴。今まで頭を覗いて見ていた二人より随分老けて見えた。

「兄貴……」

 何を言えばいいんだろう?

 何を言えば兄貴は救われるんだろう?

「……馬鹿げてるだろ?」

 悲しげに笑う兄貴。

「そんなこと……」

「そんなこと無いわよ……」

 俺の言葉を引き継いだ江梨子さん。その目は真っ赤に腫れていた。

「私は……」

 流れる沈黙。

「う、うぅ……あぁ」

 漏れる兄貴の声。

「兄貴は……」

 何を言うのが正しいのかなんてよく解らない。きっと兄貴は正しくない。ただ、今はこう言いたかった。


「きっと間違ってないよ」

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