第八話 少女の末路
日も暮れかかって空が赤くなるころ、鬱蒼とした森は既に夜のような闇を迎えつつあった。
それは年端も行かない少女にとっては恐怖だったが、同時に救いでもある。何故なら、追われる身を覆い隠してくれる闇なのだから。
しかし、明かりの元で暮らしてきた少女の価値観にそんな事実は何ら希望を与えることはない。木の茂みに身を隠した少女は、身体を震わせながらいつ襲ってくるとも知れない何かに恐怖していた。
そして、無条件に人を信じ、分け隔てなく優しい純白の心は、恐怖に塗りつぶされて自分の運命と世界を呪い始めていた。
数日前、少女、フェール=デルプフェルトは母の言いつけどおりに領主の館へと駆け込んだ。母は常々、困ったことがあったら領主様を頼りなさいと言っていたからだ。
門兵の説得の末、何とか謁見叶い、領主へと正直に神託の宝具のことを報告した。すると、領主は笑顔で言ったのだ。今でも忘れることができない朗らかな笑みで、この娘を殺せ、と。
フェールは何とか逃げ切って、森の中に飛び込んだ。
だが、安心したのも束の間、領主は森の中にまで追っ手を送り込んできたのだ。それから、地獄のような日々が始まった。
絹のように美しかった肌は、全身泥まるけとなっても水浴びをすることも許されない。手入れの行き届いていた髪でさえ、泥が跳ねても汚れても弄っている精神的な余裕はない。
木のざわつく音ですら追っ手と勘違いして心臓が跳ね上がり、眠ることもできずに日の感覚まで無くなってしまっていた。
そんな状況下でも、つい最近まで人を信じる心は残されていた。しかし、今はそれもない。
ある日の夜、空腹に耐えかねて森の中にある農家の戸を叩いた。住んでいた農夫は優しそうな雰囲気で、心底安心した。
だから、お金を差し出して食料と交換してくれるように頼み込んだ。
相場よりも高いくらいのお金を差し出したつもりだった。お金を出したのだから食料をくれると、純粋に信じていた。
しかし、返事は剣と警備兵への通報だった。
既にフェールの手配は終わっていて、農夫からすれば幼い少女だろうと犯罪者でしかなかったのだ。
フェールはきちんと理解できていなかった。神託の宝具の価値を。世界が敵となる意味を。
その意味を知ったときには既に手遅れで、できることといえば身を縮こまらせて逃げることだけだった。
「……助けて、お母さん……」
誰にも聞き取られないように、小さな声でフェールは呟いた。そして、オーデンヴァルトの伝統的な猟師服をグッと掴んで震える手を押さえ込む。
その探偵服のような皮鎧は、旅立った父が残し、母が手入れしてきたものだ。既に両親はフェールの身を包むように守っている。
「助けて、マイスター」
少し、ほんの少しだけ、声が大きくなる。
フェールの高度な治癒魔法は、偉大な師であるユストゥスから受け継いだものだ。既に師匠は何度も命を救っている。
しかし、根本的な解決には至らない。むしろ、アリ地獄にはまる様に苦しむ時間が少し長引いているだけだ。
「助け、て……」
そこまで言いかけて、脳裏に浮かんだ人の名前を何とか飲み込んだ。あの少年には、既に二度も助けてもらったのだ。
一度目は、遺跡でのこと。普通の人間では到底歯の立たない遺跡の守護者から守ってくれた。
見ず知らずの人を命がけで守るその姿は、心に焼印でも押されるようだった。
だから命の恩人が災厄を背負わされ、無慈悲にも着の身着のままで追い出されようとしている話を盗み聞いたとき、それは許されないことだと思ったのだ。
災厄から村と命の恩人を守るため、神託の宝具を持ち出すという手段に何らの疑問も抱かなかった。
しかし、その見通しは甘かった。すぐに追っ手がかかり、あっという間に追い詰められた。でも、また少年が助けてくれた。それが二度目のこと。
少年の好意はとても嬉しかったが、もう頼れない。あのオーデンヴァルトの森の中で、少年の好意と決別した。絶対に失いたくない、巻き込みたくない、守りたいものだから。
それでも、心のどこかで期待してしまう。
いつも寝物語に母から聞かせてもらったジークフリートの冒険譚。子供なら誰もが憧れる、千年前にこの世界から戦争を消した英雄の伝説。少年の力は、その英雄そっくりなのだ。
あらゆる攻撃から仲間を守り通す、分解の魔法。あらゆるものの力を奪い、切り裂くとされる魔剣。ではなかったが、一撃でゴーレムを倒した銃。ジークフリートが、絵本の中から飛び出してきたように思えた。
伝説の英雄は、戦いに明け暮れる日々に身を置きながらも、困っている人々を助けることを忘れなかったとされている。
だから、決意したはずなのに、決別したはずなのに、少年がきっと助けにきてくれると期待してしまう。
その気持ちを、苦しみながら押し殺す。誰も来てくれない、来るはずがない、一人で乗り切るんだ、と。
たとえ未来が終わりのない逃亡生活で、旅支度のできない現状では結果が見えているとしても。頼れるものは、もう自身以外に何もない。
心が冷え切って、凍えて。でも、暖めてくれる人がいないフェールは、自分を慰めるように自身の身体を抱きしめる。
そのとき、限界にまで磨り減ると同時に研ぎ澄まされていた感覚は、茂みが騒ぐ音を聞き逃さなかった。
緊張のあまり嗚咽を漏らしそうになった口を両手でふさぐ。そして、風の精霊の悪戯であることを願う。
しかし、茂みの騒ぐ音は止まらない。段々と近づいてきて、人間の足音が混ざってくる。
ついに耐えられなくなってしまったフェールは、狩猟の対象となってしまったウサギのように茂みから飛び出した。
その場から一刻も早く離れようと。迫り来る死の運命から、命を刈り取られたくないと。森の中の下り坂を一気に駆け下る。
足音の主もそれに気づいたのか、茂みを更に騒がせて追いかけてくる。足が早いらしく、フェールの耳に足音がどんどん近づいてくるのが伝わる。
追い詰められているのが、伝わってくるのだ。
叫びたいのを我慢しながら必死に走る。すると、不意に足音が消えた。
こけてくれた、とフェールは逃げ切れそうなことに歓喜した。同時にこけてしまった足音の主が、怪我してないかな、と心配になる。
でも、怖くて振り返れない。足を止められない。心の中で、ごめんなさい、と唱えながら、振り切るように森の中を走り続ける。
しばらく闇の中を走り、逃げ切った、と思って足を緩める。瞬間、頭の後ろで、ゴン、という鈍い音がした。
「あ、れ……?」
痛みを感じることもなく、しかし、口が自分のものではなくなったように息ができず。目の前は真っ暗になり、立っていることも億劫で、フェールはその場に崩れ落ちた。
代わりに闇の中に立っていたのは、フェールよりもかなり大きい影。そのシルエットから、鍛え抜かれた身体をしていることが分かる。
影は、悪夢を見ているように顔を歪ませているフェールの顔を、警戒するようにゆっくりと確認する。
「チッ、手間かけさせやがって。くだらねえぇ」
とどめ、と言わんばかりに、影の足がフェールの腹を容赦なく蹴った。まるで、森の中に落ちている手ごろな枝でも蹴るように。
フェールは丸太のように転がったが、苦痛に顔を歪めるだけで起きる気配はない。それを確認した影は、フェールのガラス細工のような足首へと足の裏を向けた。
「寝てるだけありがたいと思えぇよ? これから始まる地獄に比べりゃ、序の口だぜ?」
太い枝を折るような鈍い音が、二度、辺りの空気を振るわせる。悲鳴が上がらないのは、地獄の中のせめてもの救い。
世界を敵に回したフェールの戦いは、幕を閉じた。英雄は、来なかった。




