第六話 天の川通り
木々が生い茂るだけの同じ風景にもはや辟易していた涼真は、突然開けた森の中の町、エアバッハを見てため息をついた。
中世ヨーロッパの風情あふれる大きく鮮やかな橙色の屋根と、赤レンガで組み合わされた建物の土台。木組みの間で真っ白に磨かれた壁は太陽の光に照らされ、より一層輝いて見える。
さほど大きな町ではないので石畳ではないが、建物の間を規則なく通り抜ける道はしっかりと踏み均されている。綺麗で荘厳な雰囲気の町並みを見れば、ため息も出ようというものだ。
しかし、涼真がため息をついたのはそれが原因ではなかった。
確かに、町の景観に対する感嘆の気持ちはあった。だがそれ以上に、フェールの一件が涼真の心を沈ませていたのだ。
森の中で涼真が目を覚ましたとき、フェールの姿はなかった。神託の宝具もなくなっていた。結局、フェールは全てを背負い込んで行ってしまったのだ。
世界を敵に回すと知って、それでも覚悟を決めたのに。
結局、フェールの心には何も届かなかった。あるいは、信用してくれなかったのかもしれない。
裏切られたような、拒絶されてしまったような、そんな悲しい気持ちがあふれてくるのだ。
とはいえ、覚悟が心の九十パーセントを締めていても残りの心がいけなかった。残りの十パーセントは、フェールを日本に連れて行って色々なことするという下心全開だった。
「ふおお、なんてことを考えて……。人の弱みに付け込むみたいな……。僕は下衆野郎だあ!」
そんな下心丸出しなんて、とんだ大馬鹿野郎だ。そんなことばかり考えているから、フェールは身の危険を察知して逃げたに違いない。ある意味、敵に回った世界より危ないことを考えていたのだから。
それにしても、状況は最悪だ。
既に涼真はディートリヒと愉快な仲間たちに敵と認定されているのだ。神託の宝具あるなしに関わらず、もしかしてもしかしなくとも世界の敵だ。
神託の宝具なしで敵のど真ん中に放り出され、急騰したエンカウント率で未知の敵に襲われる予感がする。こうして町を眺めている間にも、誰かが命を狙っているかもしれない。
死亡確率が、遠慮なくインフレしているのだ。
びくびくしつつも、町の雑踏へと紛れ込む。
何にせよ、この世界から無事生還するには船を捜してシュバルツ伯を訪ねなければならない。
ところが、この世界の船がどういうものなのかが分からない。そりゃ船なのだろうが、町の中には小川が流れているだけで船の姿なんて見当たらないのだ。
この世界のことを何も知らないのは当然だし、予備知識なんてもらってる暇もなかった。船一つ見つけられず、町での長期滞在も覚悟しなければならなくなってきた。
そして何より、あの心優しい少女を探したかった。
フェールは、今も誰かから逃げている。神託の宝具も使えず、今まで一緒に笑いあった人々に切り捨てられ、それでも他人を想って地獄を見ている。
このまま見捨てたら、フェールはずっと怯える日々をすごし、いずれ捕らわれて絶望のうちに殺される。そうならないためには、日本に連れて行くしかない。
自分しか救えない。
目の前でやられるまで実感なんて無かったが、実体験した以上、見捨てていけるほど冷酷にはなりきれなかった。
予測としては、フェールがこの町にいる可能性は極めて高い。
地図を見る限り、この辺にはエアバッハ以外に町がないのだ。オーデンヴァルトの村はあるが、あのフェールが戻るわけもない。
旅をするには何かと準備が必要だし、あの時フェールはほとんど何も持っていなかった。つまり、フェールは絶対この近くにいる。
だから、長期滞在に備えてできるだけ安い宿を探して歩き回る。
とはいっても相場は分からないので、金銭の数字が小さくて小汚そうなのを看板と聞き込みで探すのだ。
それにしても、周りは外人さんばかりだというのに、何故か言葉に困ることがなかった。木でできた立て看板にもアルファベットに似た見慣れない文字が書いてあるのだが、すらすらと読める。
これは涼真の知るところではないが、神託の宝具の仕業だ。
角回、ブローカ野、ウェルニッケ野。それぞれ言語を司る脳の一部だが、インストール時に数多の基礎言語も書き込まれたのだ。
神託の宝具は涼真の脳みそに様々な魔改造を施していたのだった。
そんなことになっているとは気づかず、涼真はこの変化を喜んでいた。
これから苦手な英語が百点取れそうな気がしたのだ。
無事帰還できれば、通訳だって夢じゃない。何故だか格好よくて年収のいいイメージがあるし、女の子にもモテそうだ。まさに勝ち組ロードではなかろうか。
「うっはうはじゃん!」
などと打算的な思考を巡らせていた涼真の輝く眼鏡に、矢印を象った案内看板の文字が写った。
読みはヴェーク・ミルヒストラーセ。意味は天の川通り。
見ると、そちらのほうには宿屋を表す鉄看板が集まっているようだった。何となく興味惹かれる名前だ。雑踏を掻き分けて、天の川通りを目指す。
すると、通りに出た途端に道が大きく開け、人通りも大きく減る。代わりに現れたのは――。
天の川だった。
馬車がすれ違ってもまだ余裕があるほどの大通りで、色とりどりの服を着た女の子たちがそこかしこに立っているのだ。その数、まさに星の如し。
ここは、エアバッハ名物天の川通り。一期一会の看板娘ストリートである。
水の精霊ウンディーネの湖をいただくこの地域は、旅人や巡礼者、冒険者が集まる地域でもある。その中でも立地条件などの影響で一番大きくなった宿場町が、エアバッハであった。
そんなエアバッハの中でも、更に宿が集う激戦区こそ天の川通り。
つい五十年ほど前までは料金引き下げなどの賃安競争が激しかったのだが、勿論それには限界があった。宿場町全体が経営難となり、新たな打開策が求められたのだ。
その打開策こそ、看板娘。初期こそただの受付嬢でしかなかったが、今では様々な衣装に身を包み、通りを歩いて客を上手く口車に乗せ、宿に放り込む重要な役割を担っているのだ。
ゆえに、看板娘の質は宿の売り上げに直結する。看板娘が可愛いくて気立てがいいほど、多少宿賃が高くても客がつくのだ。だから、宿はお金を出して質のいい看板娘を雇う。
おかげで通りを闊歩する女の子は見目麗しく、スタイル抜群当たり前。
嫁を探さば天の川、とはこの世界の有名な言葉である。この言葉を頼りに、貴族や金持ちが本当に嫁探しに来ることもあるほどだ。
そんな美少女たちも、今はとても暇そうにしていた。
女の子たちの仕事が忙しくなるのは、大抵旅人が宿探しをする朝と夕方なのだ。口説く相手もとい、お客のいない時間は暇なのだった。
それでも、宿を探す旅人はちらほら見られる。そんな旅人がくもの巣に絡めとられるように美少女たちに言い寄られ、ほいほいと高そうな宿に放り込まれていくのを涼真は眺めていた。
何ともいい手際なので、見ていて面白い。
そんな看板娘たちの中でも、一際目立つ女の子がいた。
女の子たちは可愛い衣装、といっても現代日本のようにコスプレなどがあるわけではなく、民族衣装に身を包んでいる。しかし、その子だけみすぼらしい格好をしているのだ。
その女の子は、袖が肩までしかない胸元が大きく開いたブラウスを中に着込み、これまた胸元ばっくりな肩紐ワンピースを上に来て、前掛けエプロンを腰に巻きつけたような民族衣装を着ている。
どうも、地球のドイツにあるディアンドルという民族衣装にそっくりだ。
それだけだと中々に過激さと可愛さを両立させていて素晴らしいのだが、ワンピースの色が深緑とくらい。加えて布地が傷んでいて、着古した感が否めないのだ。
他の女の子たちは、新品同様の服を着ているというのに。
しかし、これだけお洒落な格好をしている中にみすぼらしい格好の女の子がいるとどうしても人目を引く。ゆえに、多くの旅人の目がその子に留まる。
紹介する宿も見た目が古臭いのだが、健気に頑張る元気な笑顔が旅人を宿に放り込む。応援したい気持ちを旅人に起こさせているらしい。
感心しながら涼真がその様子を眺めていると、美少女たちが周りに集まり始めた。どうやら、看板娘としての勘が涼真を獲物と捉えたようだ。
「ねえねえ、宿を探してるの?」
媚びるような甘い猫なで声の少女は、赤いシュミーズとスカート、ペチコートやエプロンを組み合わせた服に身を包んでいた。
頭に巻いた赤いスカーフの下には、可愛い童顔の茶髪黒目。花が咲いたような笑顔に、涼真も思わずにへらと笑う。
「じゃあ、ウチに泊まってかない? ご飯がおいしいよ!」
袖をちょんちょん引っ張ってくる小っこい女の子に、涼真は成すすべもなく首を縦に振ろうとする。
何か所帯臭くて、拒絶したいと思えない。幼馴染が、ちょっとウチに寄ってきなさいよ、みたいに軽い感じで誘ってきているかのようだ。
いや、そんなものいなかったけど。
「ちょっと待って!」
カクカクしかかった首が、思わず止まった。
今度は、綺麗な白い肌を持つ、おめめくりくりな金髪青目。オーシャンブルーのワンピースの先に白い砂浜のようなフリルをつけた服をご着用だ。
外人なのに同級生のような気持ちになるのは、背が涼真と似たような高さだからだろう。もっとも、胸はでかくて非現実的だった。
「わたしのとこに泊まった方が断然お得よ? サービスだってどこにも負けないんだから!」
金髪美少女が指差したのは、お屋敷みたいな宿だった。滅茶苦茶高そうだ。
そりゃサービスはいいんだろうけど、お得感がまるでない。
「いや、どのへんが……?」
「それはもちろん、足りない分は……。わ・か・る・で・しょ」
こそっと、金髪美少女が耳打ちしてくる。吐息がフワッとかかって、一瞬、腕にふにゅっと胸が当たった。
それはそれは、凄いサービスだ。想像するだけで、脳がとろけるほどに温度が急上昇していく。なるほど、お得かもしんない。
天の川に足を踏み入れてから三メートル。その後もあれよあれよと女の子が吸い付き、もう五人にもなった。誰が何と言おうと、パラダイスだった。
この空間にいるだけで、全ての幸運を搾り取られていきそうだ。正確には、これからお金を搾り取られるのだが。
それにしても、看板娘たちはやり方も巧みだった。
五人くらいで一気に群がると、旅人が相手できるのはせいぜい二人まで。相手にされない三人は、旅人の好みでないことがすぐ分かる。
そして、相手にされない女の子たちは次の客へと移る。周りの女の子はそれを見ていて、旅人の好みと自分の武器がマッチングすると見るや熱烈アピールを敢行する。
涼真に群がる女の子もこの例に漏れることはなく、一番最初に話しかけてきた小っこい女の子が次の旅人へと移る。
「ねえね……」
涼真の後ろで、小っこい女の子は言葉を止めた。愛想のよかった笑顔を強張らせて、ささっと素早く道を開ける。
通りにいた看板娘たちも、さっと道の端の方へと逃げていく。涼真に群がっていた女の子たちも、顔を青くして後ずさりしながら涼真と距離をとり始めた。
そんなに気持ち悪い顔だったんだろうか、と涼真は平和な頭に花畑をヘクタール単位で咲かせていたが。
剣が鞘を走る音を聞いて一気に頭が冴える。
「貴様、あのときの魔法士!」
背後から浴びせられた敵意ある声に、恐る恐る振り返る。
目に写ったのは、鎖帷子に身を包んだ二人の騎士、ハイメとウィティヒ。そして、赤いプレートアーマーを着込んだ炎のような騎士、ディートリヒだった。
ディートリヒの両側についたハイメとウィティヒは、既にサーベルを抜き放っている。どうやらこの町で新調したらしく、以前持っていたものより輝いて見える。
一日しか経っていないのに、ディートリヒの肩の傷は癒えたようだ。包帯なりを巻いているはずの場所に、それらしいものはない。
魔法は当たり前にあるようだし。治癒魔法でも使ったのだろう。
神託の宝具のない涼真にとっては、最悪の遭遇といって良かった。
やばい、逃げなければ。そう涼真の本能が叫ぶ。
あのときは、戦う理由も力もあった。しかし、今は理由も力もない。
ディートリヒと対峙しつつ、逃げるタイミングと場所を目の動かせる範囲で必死に探す。
そこへ、通りの端からディートリヒと涼真の方へ堂々と近づいてくる女の子がいた。みすぼらしい格好で客引きをしていた女の子だ。
黒真珠を溶かしだしたような透明感のある黒いストレートの髪を風になびかせ、強くて生意気そうな黒い瞳は挑戦的にディートリヒを睨みつける。
「ちょっとあんたたち! ここがどこだか分かってんでしょうね!?」
「何だと、無礼な!」
ハイメが激昂し、みすぼらしい女の子を怒鳴りつける。しかし、彼女には臆した風もない。
逆にどんどん詰め寄り、ハイメのサーベルに向かって人差し指を突きつける。
「無礼はどっちよ! ここは音に聞こえた天下の往来、天の川よ! そんな物騒なものは禁止されてること、知ってるでしょ!?」
「何を生意気な!」
「待て、ハイメ」
ディートリヒが静止するようにハイメの肩へと手を置く。やむを得ず、といった様子でハイメは押し黙った。
「二人とも、剣を降ろせ。今は場違いだ」
ハイメとウィティヒは、ディートリヒに命ぜられるままに剣を鞘へと収める。しかし、顔には納得していないと書いてある。
二人に睨まれたまま手に汗を握り、涼真は逃げ道を探し続ける。
ディートリヒという人間は、恐らく、目的のためなら手段を選ばない人種だ。目的完遂に邪魔だとなれば、フェールのような心優しい女の子に躊躇なく剣を上げるようなやつだし。
油断はできない。
ディートリヒが口を開くだけで、喰われてしまいそうな感覚に陥る。
「昨日は世話になったな、魔法士」
「……こちらこそ」
これだけの人通りがあるにも関わらず、辺りは二人の会話が鮮明に聞こえるほどに静かだった。見えない緊張の糸が、周囲の人たちの口を縫い付けてしまったように。
それでも、雰囲気に流されないものがいた。
「はあ、バッカじゃないの? 昨日は世話になったな、ですって。商売の邪魔でしょーが、すかしてないで出てった出てった!」
みすぼらしい女の子が呆れたように手をぷらぷらさせて、でてけでてけとジェスチャーしている。
ディートリヒの冷酷な瞳が、スッと生意気な黒い瞳を威圧する。女の子は、驚いたようにディートリヒを指差して口元に手を当てた。
まるで何かに気づいたような、そんな顔だ。
「あ! あーっと、えーーーと。あはは……」
まずった、とでも言いたげにみすぼらしい女の子が頬をひくつかせた。
殺気さえ感じられるような、青い瞳。
女の子が問答無用に斬られる姿を、涼真はディートリヒの瞳から連想した。
だからこそ、身体が勝手に動き、女の子の腕を掴んで守るように背後へと隠す。
「それで、僕をどうしますか? この場で……、殺りあいますか?」
対峙と沈黙だけで、時間が流れていく。ディートリヒの射殺すような瞳は、しかし、やがて穏やかになった。
「我々が、街中でS級魔法士を相手にするような愚行を犯すと? 甘く見られたものだな、そんな挑発には乗らんぞ」
ディートリヒは踵を返し、涼真に背を向ける。去り際、涼真の方を一度だけ振り返った。
「次に会うときは、戦の際だ」
悔しそうな顔をしたハイメとウィティヒを引き連れ、人ごみを掻き分けて消えていく。
ロシアンルーレット並みのはったりゲームに勝った涼真は、道路にへたり込みたかった。
何しろ、今ディートリヒが襲い掛かってきたら、殺りあうどころか一方的な虐殺だ。勿論涼真の負けで一瞬のうちに勝負は決し、あまりの弱さにディートリヒは唖然としただろう。
怖かった。マジで殺されるかと思った。この気持ちに、嘘偽りはない。早く帰りたい。
しかし、ここは天下の往来。そして可愛い女の子集う天の川。漢として、絶対に膝を折るわけにはいくまい。小便ちびらすなど、言語道断。
やせ我慢しながらディートリヒの消えていった人ごみを睨んでいると、いきなり背中が叩かれた。
「すっごいじゃない! あんた何者?」
ギシギシと心身ともに音を立てて、壊れたブリキ人形のように涼真は振り返る。先ほどまで生意気そうだったみすぼらしい女の子は、好意の笑顔を浮かべて立っていた。
涼真に、違う意味での緊張が走る。
可愛い。フェールのように沸騰してしまいそうな可愛さではないが、落ち着かせてくれる雰囲気を持っている。
それでも緊張してしまうのは、身長が涼真とほとんど同じで顔が目の前に来ているからだ。要するに近いのだ。
みすぼらしい女の子が笑顔をやめて神妙そうに辺りを見回す。そうしていると、やっぱり目は生意気そうに見える。
「まずいわね……」
「へ?」
涼真も辺りを見回すと、十メートル以上離れたところにできた人垣がざわついている。警戒しつつも、興味がわいて離れられないといった様子だ。
一人でも人垣から走り出せば、それを皮切りに人の津波が押し寄せる。ボディガードのいない著名な芸能人状態になりかねない空気だ。
「ねえ、あんた今日の宿探してるんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ、ウチに来なよ。はい決定!」
驚愕で呻く前に、みすぼらしい女の子の両手が涼真の腕を掴む。
こんなことの後に即客ゲットなんて、ここの女の子は強くて上手い。
ぐいぐいと引きずられるように引っ張られ、しどろもどろになりながら訊ねる。
「お、おいくらですか?」
「気にしなくていいわよ、そんなもん! 命の恩人でしょー?」
ああそれは気風のいいことですね、と思いながらも全く事態を把握できないまま、涼真は宿の中へと引きずり込まれた。
みすぼらしい女の子は、宿内をきょろきょろと見回していた。
「お父さーん! どこー? はあ、まったくどこ行っちゃったのかしら」
困ったような顔をして、女の子は愚痴をこぼす。
涼真の目から見て、宿は外の見た目と同様に古臭い感じだった。
木の机も椅子も、床さえも、きちんと綺麗に磨かれている。にも関わらず、年季が入っているせいでみすぼらしく見えるのだ。
白い壁も何となく灰色っぽく見えて、落ちそうにないシミが所々に見受けられる。
宿は入ってすぐ食事処になっていて、一度に二十人は入れそうだ。食事処の奥には木の階段があり、客室へと続いている。
左側には通路があり、みすぼらしい女の子はそちらの方へと歩いていく。厨房や宿の勤務者の控え室が、どうもそちらにあるらしい。
「お父さんってばー!!」
「何だああー!?」
今度は、野太い声で返事があった。しばらくすると、ずかずかと音を立てて通路から大男が現れた。
浅黒く焼けた肌を持つ、がっしりとした体格の中年男性だ。ひげは綺麗に剃っていて、粗暴な雰囲気の中に清潔感を持っている。
中年と分かるのは顔に皺が入っているからで、それがなければ二十代と言われても分からない。
深緑のTシャツ状の麻服と黒い前掛けの腰巻エプロンを見るに、恐らくコックだ。
「どうした、カヤ」
「お客さんよ。ご飯作ってあげて」
「客?」
お父さん、と呼ばれた大男は、何が気に入らなかったのか、涼真を見て顔をしかめた。
「まあ、料金払ってくれるなら構わねえけどよ」
「駄目よ。タダで作ってあげて、タダで泊めてあげて」
「はああ、また世話焼きカヤが始まりやがった」
大男は、呆れたように肩を落とす。
「いいか、ウチは孤児院やってるわけじゃねえんだぞ。それなのにお前と来たら、やれ乞食だ、行き倒れだの拾ってきやがって。父さんはお前が馬鹿な男に引っかからんか心配だよ」
「今度は違うわよ! ヤルダット教直属の十剣に堂々見え切って、わたしのこと助けてくれたんだから!」
「何だって! そりゃすげえ!」
手のひら返したように好意の笑顔を浮かべると、大男は涼真の肩をばしばしと叩いた。
「いやあ、ありがとよ坊主。俺はてっきり、またカヤが変な男に騙されたのかと思ってよ。しっかし、十剣を相手とは恐れ入ったぜ。何しろ、あいつらと来たらヤルダット神の威光を笠に着て、異端とくれば街中でも剣を振るような連中だからなあ」
嬉しそうに笑っている二人を見て、涼真はとても嫌な予感がした。
言葉の端々から、まるで逆らってはいけないものに逆らったような事実が伝わってくる。
「……十剣って、何ですか?」
涼真の問いに、狐にでもつままれたように大男が目をパチクリさせている。
「またまた謙遜しやがって。十剣ってったら、世界で十の指に入る剣士のことじゃねえか」
「じゅ、十の指!? じゃあ、ヤルダット神というのは何ですか!?」
「お前からかってんのか? この世界を作りたもうた、唯一絶対の神様に決まってんだろ。世界中に支部があるからよ、知らないとは言わせないぜ?」
ガタガタと、涼真の心が震えた。
とんでもなくやばいやつを相手にしてしまったことを、涼真はようやく知ることができたのだ。
ヤルダット教は、この世界で唯一信じられている宗教だ。地球のように、いくつもの宗教は存在しない。
その理由は、ヤルダット神話の出来事が遺跡の発掘によって全て証明されていることに他ならない。
過去に起こった出来事が事実であるのなら、その教義も、予言も、真実味を帯びてくる。人は迷わず真実の宗教を信じ、宗教世界はヤルダット教によって統一されているのだ。
勿論、ヤルダット神の解釈から派閥というものは存在する。だが、それは涼真にとってさほど重要なことではない。
重要なのは、本当に全世界を敵に回してしまったということだ。
世界にある全ての支部が、涼真を異端者として狙ってくるのだ。
異端とすれば街中でも剣を振ることを厭わない、命を奪うことすらよしとする、神の使いたちが。
「ほらほら、分かったらお父さんはご飯作る!」
「おう、そうだったな。腕によりをかけた旨い飯を作ってくるからよ」
父親の背中を押して急かす娘の、平和で日常的な図。それを見ても、涼真の心中は穏やかになることはない。
この世界のことを早く知り、ヤルダット教徒が襲撃の準備を整える前に日本へと帰らなければならないのだ。
そうでなければ、待つのは地獄の日々。
精神的なショックで考えがまとまらない。とりあえず、カヤに促されるままに椅子へと座る。
すると何故か、カヤが向かい側に座った。
「自己紹介がまだだったわね。わたしはカヤ=リールよ。カヤって呼んで」
「僕は神崎涼真。涼真でいいよ」
握手を交わして、涼真は考えを整理しようと俯く。
ところが、カヤが両手で頬杖を付きながら涼真の顔を覗き込んでくるのだ。そんな上目遣いで見つめられると、気分でなくても気になってしまう。
「一体何なんでしょうか? 何か僕の顔についてる?」
「んー? 結構可愛い顔してるなー、なんてね」
カヤはニマニマ笑っている。
これはからかってる笑みだ。と女心が分からなくとも、それだけは何となく分かった。
「リョーマってさ、S級魔法士なんでしょ?」
「S級魔法士ってのが何なのか知らないけどさ。十剣が言うならそうなのかも」
「どこまでも謙遜するわねー。そうじゃなきゃ、あいつらが逃げ出すわけないじゃない。見た目十六歳くらいでしょ? 超エリートじゃないの」
「十七なんだけど……」
「え、わたしより一個上?」
日本人は外人から見ると童顔らしいが、カヤは涼真の背を見て言っている。
コンプレックスを根こそぎ掘り返してくるなんて、カヤはS級だ。もちろん性格が。
S級の意味、知らないけど。
「ごっめーん、わたし嘘つけないのよ」
「よく分かったよ。今の発言でよおおく分かったよ。でも、二度も抉らないで」
ごめんごめん、とカヤは両手を合わせて南無南無している。
「それでリョーマは天の川に何しに来たの? 嫁探し? S級魔法士なら、より取り見取りでしょー?」
「違うよ。船に乗りに着ただけ」
「船!?」
いきなりカヤが立ち上がる。あまりに突然だったので、涼真は呆気に取られてカヤを見上げる。
すると、カヤが机に身を乗り出して迫ってきた。
「船って、定期便のこと!?」
「うーんと。他に船あるの?」
「ないけど……。さっすがS級魔法士、お金持ちね……」
机に身を乗り出したまま、カヤは感心したようにため息をついている。
しかしこの体勢、涼真には目の毒だった。
腕と腕の間に挟まれたカヤの大きめな胸が押されて、大迫力のパノラマを現出しているのだ。多分、D級はあるだろう。
服から覗く胸元は白き千尋の谷。落ちたら頼まれても這い出たくない気持ち良さそうな谷間だ。ある意味、本物の千尋の谷より恐ろしい。
こいつわざとやってんじゃなかろか、というくらいに長くその場にあった幸せ空間は、カヤがストンと椅子に座りなおすことで閉鎖となった。
「じゃあ、すぐ他の場所に行っちゃうんだ。せっかく知り合えたのに残念ね」
「そうでもないかな。探し物もあるし、しばらくはこの町にいると思う」
とてもとても大事な、探し物。いつ見つかるか分からないが、フェールを見つけるまでこの町を離れるつもりはなかった。
ヤルダット教のことを考えれば早く町を離れるに越したことはないが、フェールを見捨てたら、神崎涼真として大切なものを捨ててしまうような気がするのだ。
それに、この世界で十の指に入る剣士を退けたのだ。ヤルダット教も、今度は万全の準備を整えるために時間を費やすはずだ。
今すぐの襲撃はない。だから、やつらの準備が整わないうちに早くフェールを見つけるのだ。
「まあ、明日から町の散策でもするよ。探し物をしながらね」
「ふーん、ちょうどよかったわ。わたし、明日非番なのよね。買い物に付き合ってくれるんなら、町を案内したげる」
買い物か、と涼真はその意義を考える。
買い物についていけば、この世界の通貨価値を知ることができる。ついでに町を案内してもらえるなら、フェールが身を隠していそうな場所も分かるだろう。
動きに無駄はない。むしろメリットが多い。
人の好意をそんな風に受け止めるのは気が引けたが、余裕はないし。打算的に頷く。
「案内してくれるの? そうしてくれると凄く助かるよ」
「決まりね! 明日の朝、ちゃーんと起きるのよ。寝坊したら、分かってんでしょーね?」
手の関節を鳴らすかのように、カヤが手ぐすねを引く。涼真は、苦笑いで対応した。
「あはは、お手柔らかに……」
そう言い終えて、涼真は妙なことに気づいた。
もしかしてこれってデートなんじゃないんですかい、という事実に。




