第十話 恋の終わり
日が高くなったころ、普段は穏やかな村が喧騒に包まれていた。
村の広場には腰の高さほどの木の柵が設けられ、五十人を越える騎士たちに警備されている。フェルグスが呼んだ、フランクフルテン支部の騎士団だ。所属の騎士は五百をくだらないのだが、支部を空にするわけにもいかないので一部が村に駐屯しているのである。
柵の中には、木で作られた巨大な十字架とそれに括られた一人の女性。すっかり疲労困憊となった、マリナの痛々しい姿があった。
額はべっとりと脂汗に濡れ、頬は土とほこりですすけて見える。全身は力なく十字架に身を預け、だらりとしている。真っ白なドレスは血にまみれ、どす黒く変色していた。
何しろ、一晩中毒に冒されていたのだ。全身には殴られた後のような痛みが残り、指一本動かすだけで意識が飛びそうなほど。重いまぶたをようやく開けて、地面を見るのが精一杯。
マリナは、足元に藁束が一つ、また一つと運ばれてきていることに気づいた。騎士たちが働きアリのようにせっせと運んでくるのだ。
次いで、周りが随分騒がしいことに気づく。
そこかしこから、人のざわめきが聞こえてくるのだ。オペラ座の開幕を待ちわびるかのように、火刑を見に来た観客たちのざわめきが。
「ふふ、馬鹿みたい……」
マリナは、自分の姿があまりにも滑稽で笑いを漏らした。
だって、魔族と罵られる自分が、初めて人々の期待に満ちた視線を浴びているのだ。人々を助けて周っているときには得られなかった好意を、こんな簡単に得られるなんて。
酷い道化師だった。
「どうして……、わたくしは、人と誼を結べるなどと思ったのでしょう……?」
人に好かれたい。そんな感情は、千年前まで持ち合わせていなかった。ジークフリートが現れるまで、微塵も持ち合わせていなかったのだ。
それが、ジークフリートに託されたあの日からマリナの全てになった。
初めは義務感だった。託されたからには成就しなければいけないという、忠誠心から来る義務感だった。そのうち、理解してくれる人も出てきて、少しずつ楽しくなっていった。
でも、その人たちも死んでしまって、ついに友人と呼べる人はいなくなってしまった。助けて周って感謝され、魔族と知られて追われる日々だった。
それでもマリナは諦めなかった。落ち込んでいても、ジークフリートとの思い出を心に浮かべると、元気と勇気がわいてくるのだ。
「ああ、そうだったのね……」
マリナはやっと己の心を理解したような気がした。
ジークフリートのことを尊敬だの、憧れだの、やれ忠誠心だの言っていたが。本当は慕っていたのだ。異性として、愛していたのだ。千年前の姉と同じように。
だから、ジークフリートの最後のとき、遠慮なく泣き崩れた姉が羨ましかった。そんな姉を支えなきゃいけなかったし、マリナを支えてくれる人はいなくて。
心に嘘をつくしかなかった。
そうでなければ、恋なんてしていなければ、どうして千年間もジークフリートの一挙手一投足まで覚えていよう。その言葉の一つ一つまで、どうして大切な宝物として心にしまっておこうか。
人と誼を結ぶことこそが、ジークフリートと結ばれることだった。それが、恋に決着をつける代償行為だった。
「……まるで、夢見る少女のようね。いつまでも大人になれないから、こんなことに……」
この世界で、魔族の恋は百年といわれる。人より寿命が長いためだ。そのせいで恋が終わる前に人は旅立ってしまうから、悲劇の代名詞として使われる。
それを、マリナは千年も続けた。千年も恋の魔法にかかって、夢中でジークフリートの言葉を恋人にして、奔走した。
でも、その魔法はもう解けてしまった。宝物だった思い出は色あせて、生まれてくるのは後悔ばかり。
熱いものが目のうちからこみ上げてきて、溢れ出して止まらない。誰にも届かなかった思いが行き場を失い、悔しくてたまらない。
これから、マリナの信じていたもの全てが壊される。裏切り者のヴァイス・オーデンが村を蹂躙し、シュバルツが、姉の慕うシュバルツが、姉を殺そうとしている。
ここに集まった人たちのように、嘲笑を浮かべ、恥知らずにも騙して馬鹿にして。思い通りに、全てを無に帰そうというのだ。
悔しくて、マリナはぎりっと歯をかんだ。
足元の藁束はいつしかうず高く積み上げられ、最後の一つがドサッと音を立てて置かれる。そして、いきなりマリナの頬が持ち上げられた。
霞む視界の中、ぼんやりと騎士の姿が浮かぶ。嘲笑にまみれたフェルグスの顔が、そこにはあった。
「随分と悔しそうだね。実にいい顔だ!」
笑いを堪えているように、声が上ずっている。何がそんなにおかしいのか分からなくて、マリナは眉を曲げて憎しみに打ち震えた。
そうやって睨んでいると、フェルグスはますます喜々として口の端を歪める。
「何がそんなに悔しいのかな? 言いたいことがあるなら、言ってみるがいいよ。辞世の言葉くらい聴いてあげよう」
ここで罵倒することくらい、簡単だ。でも、マリナはグッと堪える。例え殺されても、せめて父や姉は守りたかった。
「わ、わたくしたちの村を、襲わないと……、約束してください……」
「ああ、いいともいいとも! 今日は、機嫌がよくてね!」
「うそ、本当に……?」
そうと分かっていても、マリナが救われたような笑みをこぼす。死に行く者への良心と分かっていても、心がどこかで少し安らぐ。
それを見たフェルグスは、笑顔で二度頷いた。
「この火刑台で、君の仲間に必ず伝えてあげよう! 君が仲間たちの命乞いをして死んでいったってね! あっはっは、さぞ見物だろうよ! 今から楽しみだ」
うう、と唸ってマリナは激しく咳き込んだ。良心さえ売り渡した悪魔を罵倒してやりたくても、声が出ない。望んだことなんて、一つも叶わなかった。
フェルグスはマリナに背を向けると、火刑台から離れていく。そのまま、柵の中で警護に当たっている騎士に声をかけた。
「投げさせろ」
「は!」
騎士は直立して答えると、柵の周りにいる群衆に手で合図した。群集は一瞬だけ戸惑う様子を見せたが、手に持った石を一斉に投げ始める。
フェルグスはそれを見届けると、群衆の中に紛れ込んだ。
放り投げられた石が、容赦なくマリナの全身をたたく。
突然の痛みで懸命に顔を上げたマリナは、その光景に言葉をなくした。火傷の薬をくれた人が、野菜をくれた老人が、鬼のような形相で石を投げているのだ。
石が当たった場所は、すぐさま治癒の魔法が働いて傷を塞ぐ。でも、心はそうじゃない。呆然として、マリナは石を投げている村人たちを見つめた。
その中に、たった一人だけ石を投げていない子がいた。薬をあげて、病気から回復した子だ。本当に幼い、ドアノブに手を届かせるのもやっとのような子供だ。
でも、その子も大人たちに促され、石を投げ始めた。小さな石だったが、マリナの頭に当たった。心を砕くには、十分すぎた。
ぷっつりと緊張の糸が切れてしまい、マリナは石の雨に身を任せる。
「わたくしは、何と、……愚かだったのでしょう。この期に及んでまで、人に希望を抱くなんて」
人に少しでも良心なんてものがあるのなら、マリナはここにいない。人に勇気があるのなら、誰かが助けてくれている。
「人に恋をしたのが、罪ということでしょうか?」
ぽつり、とマリナは呟く。身体が雷に撃たれてしまったように、瞳が震えて焦点が定まらない。
足元に火矢が打ち込まれ、火が着いて、初めて石の雨が止む。
終わりが始まったと悟って、マリナは全てを諦めた。問うことも、請うことも。
そうして目を閉じると、カツン、カツン、と足音が聞こえた。懐かしい、ゆっくりとしていて落ち着いた足音だ。
「ああ、ジーク。迎えに来てくれたのね。わたくし、お話したいことがたくさんあるの。千年もあっていなかったんですもの。あなたなら聞いてくれるでしょう? ね、ジーク」
炎にまかれながらも、マリナは穏やかな笑顔を浮かべていた。
頭からフードを被った涼真は、熱狂的に炎を見つめる群衆に邪悪龍を屠りし剣を突き込んだ。村人が一人、また一人、と倒れて、人垣が解けていく。
やがて木の柵へと行き当たり、目の前に一人の騎士が現れた。銀色のプレートアーマーに身を包んでいて、涼真を見るなりサーベルを引き抜く。
「貴様、これ以上立ち入ることは許さん。馬鹿な真似はやめて、大人しく見ていろ」
向けられたサーベルに、涼真は銃身を勢いよく当てた。カツン、と音がして、その直後、騎士は地面へと崩れ落ちる。
更に前へ歩くと目の前の柵が虹の輪を描いて分解し、消えてなくなる。ようやく周りの人々が異常に気づいて、騒ぎが起こった。
近くにいた騎士たちが異変に気づき、五人ほどが即座に集まってくる。その中の二人の騎士が九十センチほどのロングソードを抜くと、涼真の前に立ちはだかって剣を交差させる。
「これ以上進むな! これ以上は神の裁かれる領域なれば、侵せば神敵となろう! 引き返せ!」
涼真は交差された剣の一点を睨む。
神敵。それはこの世界で最大の脅し文句なんだろう。でも、涼真には通用しない。
なぜならば。
「とっくにそうさ」
邪悪龍を屠りし剣を振り上げる。カツン、と音がして、バタバタと二人の騎士が地へと伏せた。
残りの三人が、三角形に陣を組んで涼真を取り囲んだ。
「神に弓引く不届きものめ! 血迷ったか! こちらは五十人からの騎士が集まっておるのだぞ!?」
「見れば分かるよ」
涼真は身体を鋭く回転させて、向けられたサーベルへと銃身を当てていく。カツン、と三度音がして、力をなくした騎士たちが倒れていく。
辺りは喧騒が嘘のように静まり返っていた。群集は映画か劇のワンシーンでも見ているように、固唾を呑んで見守っている。炎の燃え盛る音だけが、パチパチと拍手するように響いた。
もはや行く手を阻むものも無く、阻もうとするものも無く、涼真は炎の前へと立った。
突然、炎の上に透明な水が溢れ出した。水は空中に透明な輪を描き、ザバザバと音を立てて滝のように流出する。その光景は水のカーテンのようだ。
フェールが水魔法を使ったのだ。
踊り狂う炎はまるで苦しみのたうつ蛇のように暴れた後、激しい水蒸気を立てて消えていく。
炎が消えるのを確認し、涼真は一度だけ振り向いてフェールに逃げるように合図する。次いで、焼け残った十字架を見上げた。
炎の中から現れたマリナは、傷一つなかった。表情は安らかで、微笑さえ浮かべていた。ただ、酷く汗をかいていて、とても苦しいことに耐えていたことだけは分かる。
涼真は藁束を階段にしてマリナに駆け寄ると、十字架を分解する。支えを失い、フラッと倒れこんできたマリナの身体を抱きとめた。
「じ、く……?」
薄っすらとマリナの目が開いた。今にも力尽きそうなほどか細い声だった。
でも、生きている。
涼真はほっと胸を撫で下ろす。しかし、安心していられるような状況じゃない。
すかさず、マリナの身体を背中に乗せる。
「僕です、リョーマです! しっかりしてください!」
夢でも見ているように、マリナはぼんやりとして首を傾げている。そうしている間にも、遠くで怒号が聞こえた。
そちらを見ると、ヘグニが片手を大きく上げている。それに呼応するかのように、整列した弓兵が矢を番えている。
「どこのどいつか知らねーけど、逃がさないっての。放て!」
矢が空を切り、雨のようになって降り注ぐ。
涼真は今すぐにでも走り出したかったが、背負ったマリナの手に力が入らない。このままだと走っている間に落としてしまう。
やむを得ず、降り注ぐ矢を視界に納める。
邪悪龍の血液が鼓動し、矢を虚空へと消し去っていく。二十を下らない虹の輪が現れ、激しい蒸発音が派手に鳴り響いた。
「消えた? ……消えた!」
「おい、矢が消えたぞ!」
人々が驚愕の声を上げ、矢の消えた場所をこぞって指差す。ヘグニと弓兵たちも何が起こったかわからないらしく、目をむいて凝視している。
マリナの腕に、力は戻らない。でも、涼真は諦める気も、見捨てる気も、全然起きなかった。
千年もの間、マリナは人に呼びかけた。一度も応えてもらえないのに、呼びかけ続けた。街で追い掛け回されたって、村には薬を届けに行っていた。
リュシーは言っていた。久しくできなかった、人の友人と。涼真とフェールは、友人なんだと。
だから、今度は涼真が待つ。千年だろうと、必ず待つ。マリナが、人の友人たる涼真の声に応えてくれるまで。
「分解の魔法……? ジーク?」
そのとき、蒸発音が呼び水になったのか、はたまた涼真の決意が届いたのか。マリナが熱に浮かされたように呟いた。グッと腕に力が入り、やがて全身に戻っていく。
「あら? リョーマ、さん?」
「気がつきましたか!?」
「あら? あらあら? どうしてリョーマさんがここに? それに、今のは……?」
状況がいまいち飲み込めないらしく、マリナは涼真の背中でせわしなく辺りを見回している。
柵の外からは、邪魔だ、どけ、と更なる怒号が聞こえてきた。涼真がそちらを見ると、騎士たちを率いたフェルグスが人垣を掻き分けながら柵を越えようとしていた。
「待て、リョーマ! ヘグニ、何をしているんだ!? 早く射掛けろ!」
「お、おう!」
ヘグニが頷き、弓兵たちが第二の矢を引き絞る。
やば、と涼真は思わず声を漏らす。そして、背負ったマリナに声をかけた。
「詳しい話は後で! しっかり捕まっててください!」
「は、はい!」
首の辺りに絡みついたマリナの手に、力が入る。急いで、涼真は地面を蹴った。
邪悪龍の血液の弱点は、背後に展開されないことだ。今のままでは、二の矢の餌食となってしまう。
そこで、涼真は弓矢の弱点を考えた。弓矢は便利な飛び道具だが、使えるようになるまでかなりの習熟期間を要する。
加えて、たとえ達人級になったとしても、五十メートルほど離れれば風による誤差が出始める。確実な殺傷距離なんて、よほどの達人で無い限り二、三十メートル程度だ。敵味方入り乱れる環境で誤射が無いなんて、言い切れる話じゃないだろう。
とはいえ、弓の名手がいないとも限らない。こいつは賭けになる。
だとしても、狙いは一つ。村人たちが作った人垣めがけて、涼真は走る。
目標となった村人たちは、青ざめて口々に叫ぶ。
「うわ、こっちに来るぞ!」
「逃げろ! 消されちまう!」
我先にと人々が逃げ惑い、人垣が解けていく。
村人たちは、邪悪龍の血液を人まで分解すると勘違いしたようだ。フェルグスたちが人垣を掻き分けているのに対し、涼真の前には道が開ける。
まるでモーゼが切り裂いた水面のごとく、人々が道を形作る。人一人が、走って十分に通れるほどの広さの道を。
矢を射掛けられることなく、涼真はその中を駆けぬけていく。
そのとき、背後から怒声が上がった。矢の代わりと言わんばかりに、フェルグスが声を張り上げる。
「おのれ! これで逃げおおせたと思うな! ヴァイス・オーデンが、我々十剣が、必ず貴様の行いを罰してやろう!」
ヴァイス・オーデンと聞いて、涼真は嫌な予感に襲われる。でも、それはすぐに吹き飛んだ。
歯をカチカチと鳴らして、マリナが震えだしたのだ。あんなに優しくて、思わず頼ってしまうような魅力を備えたマリナが、怯えたように縋ってくるのだ。
涼真は一刻も早くこの場を離れようと、懸命に走った。




