第九話 誓約
あまりの寝苦しさに、涼真は目を開いた。何か大切なことを忘れているような、そんな気がして飛び起きたのだ。
「遅刻した!?」
腹からこみ上げてくる焦燥感で、ふおお、と涼真は息を吐く。慌てて時計を探したが、部屋には見当たらない。
というか、涼真の部屋じゃない。高級ホテルのような部屋だ。
寝ていたベットには天蓋がつけられているし、家具も価値のありそうなアンティークばかり。電気も無くて、ろうそくの立てられた燭台ばかりだ。
ああ、ここは異世界か、と涼真はようやく頭が冴えてきた。
窓からこぼれてくる光は紅を帯びていて、今は朝方らしい。何でこんなところで寝てたんだっけ、とぼんやり考える。
マリナの手伝いで村に行って、薬を配って。そういえば、お昼食べてない。だって、フェルグスと再会して、それで。
ぞくっとする嫌悪感と共に、記憶がよみがえってくる。
そうだ、フェルグスに殴られて気絶したのだ。
涼真は世界の敵だ。フェルグスはトナティウ教の関係者か、どこかの貴族の手先に違いない。神託の宝具を狙ってきたのだろう。
「フェール……?」
涼真は、そこでフェールの姿がないことに気づいた。フェールは神託の宝具の所有者と勘違いされているのだ。このままでは殺されてしまう。
幸い、神託の宝具は手元にある。身体はどこも痛くないし、完全に回復している。戦いになっても大丈夫だ。
でも、相手はフェルグスだ。あいつには、邪悪龍を屠りし剣が効かなかった。体力を奪えなかったのだ。
ぬるりとした気色の悪いヘドロのような感覚。あれはきっと、あいつの魂の感触だ。酷い憎しみと悲しみが溜まって、渦を巻いているようだった。
強い魂は、弱い魂から力を奪う。どうやら邪悪龍を屠りし剣にはストッパーがついているようだから奪われはしなかったものの、涼真の魂は負けていた。
理由は分かってる。
一つは、心が弱くなっていたことだ。出会ったばかりのマリナに弱音を吐いてしまうほどに。
それと、もう一つ。フェルグスの憎悪が、尋常じゃないってことだ。何が起こったら、あんな汚れきった魂になるのだろう。
たとえ心が強い状態でも、勝てる気がしない。
「駄目だ。せめて、しっかりしないと」
でないと、フェールが危ない。ぐっと腹に力を入れ、涼真はベットから降りる。
すると、部屋の扉がひとりでに開いた。現れたのは、フェールだった。俯いて肩を落とし、何だか暗い顔だ。
ともあれ、無事だったので一安心だ。
「フェール?」
「リョーマ!」
ぱあっと、フェールは笑顔を取り戻す。さっきまでが嘘みたいに明るい表情だ。
ととと、とフェールは涼真に駆け寄る。そしてまた、今にも泣き出しそうな顔になった。
「リョーマ、マリナさんが捕まっちゃった……」
「捕まった!? ごめん、よく覚えてないんだ。どういうこと?」
「リョーマが気絶した後、マリナさんはわたしたちを庇うために身代わりになってくれたの。リュシーさんに助けてくれるようにお願いしたんだけど、うんって言ってくれないんだ」
部屋を改めて見渡してみると、なるほど、ここは魔族の屋敷だ。村に滞在中の部屋としてあてがわれた部屋だった。
それにしても、リュシーの回答には合点がいかない。
「何でさ? マリナさんはリュシーさんの妹だったんじゃ?」
「そうなんだけど。魔族と人の同盟には取り決めがあって、互いに干渉しちゃ駄目ってことになってるらしいの。だから、今回はマリナさんが悪いから放っておいてって」
「そんなの……!」
涼真は言葉につまった。確かに、そういう取り決めがあるならリュシーの言うことは正しい。
だからといって、マリナを見捨てることはできなかった。マリナは涼真とフェールの身代わりになったのだから。
もし今回のことがなければ、マリナは今も村人たちと仲良くしていたはずだ。手伝うどころか、とんでもない邪魔をしてしまった。
でも、一人で解決するには大きすぎる問題だ。フェルグス一人でも勝てるかどうか分からないのに、村がまるまる敵に回っているだろうし。
心苦しいけれども、助けるためには魔族の力が必要だ。
「どうしよう、リョーマ。わたしたちだけじゃ、助けられないよう。マリナさんが殺されちゃうよお……」
ひっく、ひっく、と嗚咽を漏らして、フェールは泣き始めてしまった。涼真は探偵帽の上から、フェールの頭を優しくなでる。
「大丈夫だよ、何とかリュシーさんを説得してみるからさ」
涼真は早足で部屋を出る。フェールもその後に続いていった。
涼真とフェールは面会室に通され、リュシーと対面した。
足を組み、頬杖をついて座っているリュシーは、相変わらず高慢だけど気品に溢れている。物憂げにため息をついて、繊細な前髪をいじくる姿は妖艶だ。
「それで、話って何かしら? できるだけ手短に済ませてちょうだい」
妹が囚われの身になっているというのに、驚くほどに取り澄ました声だった。責められたいわけじゃないが、もっと怒りに満ちた言葉を投げかけられると涼真は思っていたのだ。
どうやら、思っていたよりも説得は難しいようだ。リュシーからは、怒りも、悲しみも、何にも感じられない。
それが信じがたくて、悔しさを込めて口を開く。
「マリナさんのことです」
「話は聞いてるわ。その子には答えたはずだけど?」
リュシーは髪をいじるのを止め、威嚇するように流し目をフェールに送る。そして、フェールが涼真の後ろに隠れるのを見届けてから言葉を続けた。
「助けに行く必要なんてないのよ。あなたたちは劣族といえど、責任は無いわ。誰か一人をあげつらえというなら、マリナの責任よ」
「どうしてですか!? このままだと、マリナさんは殺されてしまう! 僕たちがお願いするのはおこがましいっていうのは分かってます。けど、マリナさんを助けるにはリュシーさんたちの力が必要なんです!」
「そんなに気負うことはないわ。今回のことは、遅かれ早かれ起こるべきことが起こっただけ。マリナはあなたたちにちゃんと事情を説明しなかったみたいだし」
「マリナさんが?」
「ええ。私たちとシュバルツは、同盟の決め事として互いの集落への干渉をしないこととしているわ。破ったら、各々のやり方で解決することになっているのよ。もし私たち優族がマリナを助けて、大事にでもなったりしたら……」
「どうなっちゃうの?」
涼真の後ろから、不安そうな顔をしたフェールが問いかけた。リュシーはにっこりと冷たく微笑む。
「同盟は破棄され、すぐにでも戦争になるでしょうね。もしかして、劣族はそれを望んでいるのかしら? ねえ、ご使者様?」
「そんなこと! ただ、僕は……」
そこまで言って、涼真は口をつぐんだ。
マリナが望んだのは、人と魔族が力を合わせて生き、笑いあえる世界だ。あの小さな村にあったような光景だ。
戦争なんてのは、その対極だ。そんなことになったら、マリナの語ってくれたジークフリート以前の時代に戻ってしまう。マリナの千年間もの努力が、一瞬で消えてしまうのだ。
でも、マリナを助けるにはどうしても魔族の力が必要だ。どうすればいいのか、どれが最善の道なのか分からない。結局、押し黙ることしかできなかった。
すると、リュシーは涼真をなだめるような優しい口調で語りだす。
「気にしなくていいのよ。マリナは常日頃から言っていたわ。人と楽しく食事するのが夢だって。その夢のせいで自分に何かあっても、絶対に人に手を出さないでって。だからマリナの夢のためにもわたしは手を出さないし、あなたたちも危険を冒す必要なんてないのよ。でも、勘違いしないで」
急に、優しい口調が厳しく変わる。悔しさで歯噛みするような表情と咎めるような鋭い視線に、涼真は息をのんだ。
「わたしは、マリナを見捨てたいわけじゃない。千年前のジークのときだって、マリナはわたしを支えてくれた。今すぐにでも助けに行きたい、かけがえの無い存在なのよ!」
ふう、と心を落ち着かせるように、リュシーはため息をつく。今度は、いつもの取り澄ました声へと変わっていた。
「あなたたちも、今回のことは諦めなさい。久しくできなかった人の友人が傷ついたら、マリナが悲しむわ。妹の意志を無駄にしたら、わたしはあなたたちを許さない」
リュシーの見下すような瞳から、静かな怒りが伝わってくる。今にも激昂しそうなほどに、赤い瞳は静かに燃えている。
それでもリュシーが手を下さないのは、それほどにマリナのことを愛しているということだ。妹の友人だから、手を出さないんだろう。
そうまで言われては、涼真に抗する術はなかった。
しばしの沈黙が部屋を支配する。その静けさを破ったのは、部屋の扉を激しく開く音だった。
若く見える魔族の男が慌しく駆け込んできて、そのままリュシーの傍に走り寄る。次いで涼真をチラチラと見つつ、リュシーに何事かを耳打ちした。
「何ですって? ヴァイス・オーデンが? ええ、すぐに行くわ」
リュシーは顔色を驚きへと変え、席を立つ。去り際、リュシーが手を振ると、部屋の隅に置いてあった紙が涼真とフェールの前に飛んでいく。
「どうしてもマリナを助けに行くというのなら、止めはしないわ。ただ、戦争になると困るから、わたしたちと関わりないことをその誓約書に書いていきなさい。……もう手遅れかもしれないけど」
涼真が紙を受け取ると、リュシーは若く見える魔族を連れて部屋を出て行った。
取り残された涼真とフェールは、呆然として立ち尽くす。もうマリナを助ける術がないと知って、頭が真っ白だった。
マリナが夢に殉じるというのが、せめてもの慰め。でも、そんなのは誤魔化しなんだということを涼真は心のどこかで分かっていた。
だって、マリナが生きていてくれたほうが嬉しいに決まってるのだから。
マリナは、会ったばかりの涼真の話を真摯に聞いてくれた人だ。これから一人で旅しなければいけない不安を受け止めてくれて、心を軽くしてくれた。自分のことのように怖がって、恐怖を掬い取ってくれた。
あの小さな村の人たちだって、マリナが魔族と知るまでは聖人みたいに扱っていた。配った薬は、どれだけの人たちを助けたのだろう。
千年間。千年間、誰一人だって受け入れてくれなかったのに、マリナは人と仲良くしようと努力してきたのだ。せめて人と食事を楽しみたいという、ちっぽけな夢のために。
そんなちっぽけな夢を守れない自分が悔しくて、涼真の手に力が入る。くしゃ、と音がして、紙が曲がった。
皺のできた誓約書を、涼真は見つめる。
リュシーは、妹を助けたいと言っていた。見捨てたくなんてないと。物凄く怒っていた。
「ああ、そっか……」
きっと、この誓約書はリュシーの悲鳴だ。助けて欲しい、というサインだ。公に頼めば人と戦争になってしまうから、こんな形で寄こすしかなかったのだろう。
いや、リュシーだけじゃない。マリナと関わってきたたくさんの人たちの願いだ。魔族たちも、もう死んでしまった人も、まだ生きている人も、英雄ジークフリートも。
誰もが、助けて欲しいと言っている。
「はい、リョーマ」
顔を上げると、フェールが紙を差し出していた。誓約書には、既にフェールの名前が書かれている。フェールもまた、助けたいと思っているのだ。
神託の宝具は、邪神に対抗するための兵器だ。強い魂さえあれば、神さえも打倒できる。
みんなの意志に支えられて、その魂はここにある。
「行こう、フェール!」
涼真は誓約書に名前を書きなぐると、フェールを連れて部屋を飛び出した。




