第十話 敗北
天の川ストリートは、いつもと違う喧騒に包まれていた。客引きをしている看板娘たちも、宿を探している旅人も、皆一様にして燃え盛る一軒の宿を眺めているのだ。
延焼して大火事になるんじゃないか、巻き込まれるのではないか。そんな心の声が簡単に想像できるほど、不安そうな顔をして。
そして、もう一つの異様な光景。
皮鎧に身を包んだ五十名ほどの兵士たちが、宿から距離をとって整列し、火矢を番えている。宿の裏手にも同様の一隊が展開しており、同じように火矢を引き絞っている。
銀色のプレートアーマーに身を包んだ指揮官らしき男が手を下すと、矢は既に燃え盛っている宿へと放たれた。風を切って音を立てる矢は宿へと突き刺さり、火勢がどんどん増していく。
包囲、とも呼べる物々しさに、人々は怯えた視線を送る。ただでさえ延焼しそうなのに薪をくべるような真似をする兵士たちに向けて。戦争でも始めて、巻き込まれるのではないかと。
その異様な火事の光景を見て、涼真とカヤはもっと近くに寄ろうと人垣を掻き分ける。中々前に進めないカヤは、苛立ったように声を荒げる。
「通して、通してよ!」
掻き分けられる側の人間は迷惑そうに顔をしかめた。だが、カヤがどういう立場の人間か知る者はすぐにしかめっ面をといて道を開けていく。涼真とカヤは人垣から飛び出し、兵士が整列している近くまで駆け寄る。
そして宿全体を見ることで絶句し、同時にやっと事態を飲み込んだ。
燃えていたのは、カヤの宿だった。
「お、お父さ……!」
茫然自失としたカヤは、そう呟いてふらふらと宿に引きつけられて行く。二歩、三歩と歩み出たところで、すぐに涼真が腕を掴んで止めた。
「待って。それは無茶だ!」
「でも、だって、お父さんが!!」
振り返ってカヤが絶叫した途端、その表情から険が晴れた。振り返ると、浅黒く日焼けした大男が走ってきているのに気づく。カヤの父だ。
「カヤ、リョーマ! 無事だったか!」
「お父さん!」
カヤは涼真の手から離れ、父とともに抱きしめあう。とりあえず最悪の事態は回避できていて、涼真は胸をなでおろした。
父を強く抱きしめていたカヤは、やがて落ち着いたようで手を離し、父の目を見つめた。
「お父さん、何があったの?」
カヤの父はプレートアーマーを着込んだ指揮官を睨む。
「あの野郎がよ、突然押し入ってきやがって。宿に賊がいるから、全員取り調べるとか言い出してよ。結局そんなやつはいなかったんだが、隠してるだのいちゃもんつけやがって、全員外に出して火をかけやがったんだ」
「そんな!?」
恐る恐るといった様子で、カヤは指揮官を見上げる。そして、その姿を見て瞳を震わせた。
「どうして……? 今日は館に帰ったんじゃ……?」
カヤの問いかけに反応するように、指揮官が振り返る。
小さく切れ長な、狐を髣髴とさせるような目が特徴的な男だ。特に、両目の下にある黒いクマが男の不気味さを増している。
いわゆるカイゼル髭を控えめに生やしていて、黒い髪はウェーブをかけられ貴族らしく洒落た感じがしている。
身体は軍人らしくがっしりとしていて、首は太く、背も百七十は優に超えている。顔だけが不健康で四十後半に見えるのに、身体は三十代と言われても疑わないような、妙な男だ。
指揮官はカイゼル髭を指で摘まんで撫でると、カヤとその父をたしなめるように睨んだ。
「何か騒がしいと思えば、貴様たちか。言っただろう、家宝を盗んだ賊を狩っておる最中なのだ。巻き込まれたくなければ離れておれ」
話を聞いていた涼真は、ごくりと唾を飲み込んだ。
家宝、といってはいるが、狙いは別にある。きっと、神託の宝具だ。カヤの宿がこうして焼かれているのは、涼真のせいなのだ。
涼真は、ちゃんと認識できていなかった。世界の敵となる意味を。ヤルダット教などという、世界規模の宗教団体が敵に回るだけではないのだ。国が、民が、あらゆる人々が敵になる可能性を秘めている。
ヤルダット教徒が動けるようになるまで、などという考えは甘すぎた。甘い判断が、多くの人々の大切なものを奪ってしまった。
酷い罪悪感に、涼真は水の中で溺れるような息苦しさを覚える。
この場から逃げ出したくて、カヤに合わせる顔がなくて。
だけど、自分が賊だと名乗り出る勇気もなくて、ただ顔を伏せることしかできない。
「何をグズグズしておるのだ。話は後で聞いてやるから、さっさと消えよ」
本当に邪魔くさそうに、そして高圧的に指揮官が吐き捨てる。カヤは黙りこくって、かといってその場を離れることもなく、頷くこともなく、顔を伏せていた。
あの生意気で、強気で。誰にでも食ってかかりそうなカヤが、従順になってしまったように沈黙を守っている。
指揮官はつまらなそうに口の端を歪めると、背を向ける。カヤはしばらく自分のロングスカートを両手で握っていたが、やがて肩が震えだし、我慢できなくなったようにその場にへたり込んでしまった。
「だって、わたし……」
カヤの声は、嗚咽に震えて不安定だった。涼真は自分が責められている気がして、傍に駆け寄ることもできない。
「だって、わたし。頑張ったよ? 学校に行くのも我慢して、遊ぶのも我慢して、頑張ったんだよ? 字が書けなくて恥ずかしくて、皆と遊びたいのにお店手伝って。わたし、頑張ったのに……!」
目からぼろぼろと涙が溢れ出し、カヤはそれを隠すように顔を両手で覆う。
「何で、こうなっちゃうの? どうして全部燃やしちゃうの!? 今までのわたしは何だったの!? 返して、返してよぉ……!! う、あああ、返して、返して返して!!」
カヤは全てを吐き出すように絶叫していた。たかが神託の宝具という道具一つのために、カヤの今までの人生は全て灰燼に帰している。
涼真が当然と思って享受してきた幸せを、カヤは一つも受けることができなくて。でも、人一倍努力して、大切なものを守ってきたのに。
カヤの全てに火を放った張本人は、背を向けたまま呟く。
「返してだと? ふん、思い違いもはなはだしい。貴様たち平民は皆、貴族の所有物と決められておる。領内にあるものは、全て貴族の持ち物だ。わしが自分の持ち物をどうしようが、それは自由だ」
涼真は、ぎりぎりっと歯を食いしばった。
「何、だって?」
カヤは、一人の人間だ。物じゃない。大切なものを奪われたら泣き叫ぶし、嬉しいことがあったら笑う。
なのに、こんなに傷ついて嘆いているカヤを目の前にして、こいつは物と断じた。こいつが何したって、文句言う権利などないと。涙を流すなど、思い違いだと。
思わず右手に拳を握り、大きく振りかぶる。
「よくも言ったな、この野郎おお!」
感情の奔流をそのまま乗せるように、指揮官へと殴りかかる。指揮官はその怒声に振り返り、拳を受け止めるように手のひらを向ける。
涼真の拳は指揮官の手のひらに吸い込まれていき、いとも容易く、何でもない、取るに足らないことのように受け止められた。
その刹那、涼真が動揺するまもなく拳が払われる。
指揮官から帰ってきた拳の返礼は、抗うことのできない暴風のようだった。
涼真は身を守る動作すらとることができず、顔面に拳が突き刺さる。ただ一撃、たったそれだけで、地面に這いつくばることになった。
「ぐ、あ……!?」
顔に受けた痛みで、怒りに支配された心は急速に冷めていく。
忘れていた。自分が、ただの高校生に過ぎないということを。十剣たるディートリヒと渡り合えたのは、神託の宝具のおかげだったということを。
それなのに、ちょっとちやほやされたぐらいで、勘違いしてしまった。本当の軍人に殴りかかって勝てる高校生なんて、そうそういやしない。
ましてや、運動が苦手で。ケンカも嫌いで、殴り合いのノウハウもない。今感じるのは、ただただ恐怖のみだった。
恐怖に射すくめられたまま顔を上げると、不気味な指揮官が怒りをあらわにして見下していた。まるで、不快な虫けらでも見るように。
「小僧。平民の分際で、このハルトマン=フォン=ヴァイクス男爵に逆らって生きておれると思うなよ」
ハルトマンは、ゆっくりと腰のショートソードを抜き放つ。
短い剣という意味ではなく、八十センチはある歩兵用の長剣だ。
貴族の持ち物だけあって、綺麗に磨き抜かれている。沈みかけた日の光も余すことなく反射して、何でも斬り通せそうな錯覚さえ生み出す。
そんなものを向けられた涼真は、恐怖ですくみあがり、立ち上がることさえできなかった。
足に力が入らず、これが腰の抜けた状態ということにさえ気づけない。
「ひ、う。ひぃ」
声にならない嗚咽だけが、口から漏れる。
全ての武器を分解する邪悪龍の血液も、あらゆる銃に変化する邪悪龍を屠りし剣も、手元にはない。
あるのは、ヘドロのような嫌悪感にまみれた恐怖だけ。
殺される。だから、逃げる。でも、体が動かない。逃げられない。殺される。だから、逃げる。要領の得ない思考が、頭の中をループする。
「待って!」
あがく涼真の前に、人の背中が立ちふさがった。その背中がカヤのものと気づくのに、十秒以上も時間を費やす必要があった。
不思議な安心感。儚くて、頼りなさそうなのに。邪悪龍の血液よりも信頼できて、なおかつ暖かい安心感が包み込んでくる。
「待って、待って……!」
でも、カヤは震えていた。必死で、これ以上何かを失わないように、哀願するように立ちふさがっていた。
ハルトマンは、どけと言わんばかりにカヤへと剣先を突きつける。
「カヤ、お前は賢い子だと常々思っておったのだが。よもや、そんな小僧を庇うとは……。今ならまだ、その罪は許してやらんでもないぞ」
涼真の死を拒否するように、カヤは何度も首を横に振る。そして媚びるように地面に這いつくばり、深々と頭を下げた。
「ハルトマン男爵、この者の罪をお許しください! お願いでございます! ……わたしを、……館にお連れ下さっても……! いいえ、お連れ……、ください」
カヤの父が何かを言おうとしたが、諦めるように言葉を飲み込む。それを見たハルトマンは、満足そうに頷いた。
「ふむ、なるほど。やはりお前は賢い娘だ。父も異論は無いようだな。そういうことなら、我侭の一つも聞いてやろう。感謝しろ」
カヤは地面に這いつくばったまま、顔を上げようともせず、震えながら答える。
「はい。ありがとうございます、……旦那、様」
ふらふらと何かに憑かれたように、カヤは上半身を起こす。そして膝立ちになって振り返り、涼真の前に擦り寄る。
「嘘吐き!」
カヤは手を上げると、涼真の頬を思い切り引っ叩いた。
頬の痛みより、涼真にはその言葉の方が痛かった。
剣先を突きつけられるより、大きく心臓が跳ねる。
止め処なく涙をあふれさせているカヤの顔が痛々しくて、共に涙を流せない自分が悔しくて。顔を伏せることしかできない。
カヤは、震える声で、怒鳴り続ける。
「弱いんなら、最初から戦わないでよ! わたしなんかのために、命を賭けて欲しくないの!」
「……ごめん」
「無理しないで。死んじゃったら、どうするのよ……?」
恥ずかしくて、目を合わせることもかなわない。謝罪の言葉しか返せない自分が、無力な自分が許せなくて。
いつまでも経っても顔を上げない涼真を、カヤは慈しむように見つめる。そして、涙を拭うと、晴れやかな顔をして父を見た。
「お父さん、わたし行くよ。心配しないで、大丈夫だから。お店だって新しいのを建てて貰うし、今度はきっとうまくいく!」
「カヤ……、お前、気づいてやがったのか」
くう、と悔しそうに声を漏らして、カヤの父はそれでも崩れ落ちない。娘の覚悟を悟ったように、無理やりな笑顔を作って応えている。
上機嫌になったハルトマンは、豪快に笑う。
「うむ、うむ。あんなぼろっちい宿より、もっと立派な宿を建ててやろう。お前の我侭なら、何でも聞いてやるぞ!」
燃え盛る宿と半数の部下を残して、ハルトマンは館へと帰還を始める。まるで恋人にでもなったように、カヤの方を抱きながら。
涼真はその寂しげな後姿を、見送ることしかできなかった。
燃え盛る宿の炎は、憎しみを投影するかのように衰えることはなかった。本格的に延焼を起こしかねない火勢に、人々の不安は募っていく。
そこへ、鎖帷子に身を固めた一隊が到着した。先ほどのハルトマンと同じ、銀色のプレートアーマーに身を包んだ男が率いている。
ハルトマンと顔立ちは似ているが、目は少し大きく、クマもない。無造作な髪は茶色で、口の周りには立派な髭を生やした熊のような男だ。
男は火事を傍観している皮鎧の兵士たちを見とめ、咎めるような口調で問いただす。
「一体何をしているか!? 早く火を消さぬと、大火になるぞ!」
「バジーリウス様。しかし、我々はハルトマン男爵より賊を討つよう命じられております」
「何、兄上がこれを!?」
皮鎧を着た兵士たちを睨みつけ、バジーリウスは歯噛みする。そして、人には聞こえないようにぽそぽそと呟く。
「あの乱心者め、宿に火を放つとは……。エアバッハの恥さらしだ。まったく、父上といい、我が誇り高きアクエサリトス帝国はどうかしてしまったのか!?」
一通り愚痴をこぼすと、中々消火活動を始めない兵士たちに業を煮やしたのか、バジーリウスは振り返って自分の配下に指示をだす。
「良いか、水魔法を使えるものはここに残って消火に務めよ! 使えぬものは、応援を呼びに行け!」
号令一下、怒号とともに懸命な消火活動が始まった。火事の成り行きを見守っていた者たちは、やっと始まったそれを見て安堵のため息を漏らしている。
しかし、その様子を見る余裕すら、涼真にはなかった。
全ての思考が停止してしまって、考えないでいることが凄く楽だった。先ほどまでのカヤとの時間を思い出して、それに浸るのがこんなにも楽しい。
挫折。現実逃避。何とでも言えばいい。
考えてしまえば、認めてしまえば、心が焼かれるように苦しいから。閉じこもっている方が楽でいい。
そんな心内を見透かすように、カヤの父は涼真の胸倉を掴みあげた。
「てめえ、カヤの、俺の娘の意志を無駄にしやがったら、ただじゃおかねえからな」
俯いたまま目も合わせない涼真を、カヤの父は責め立てるように揺さぶる。
「いいか、カヤはな。親の俺が言うのもなんだが、よくできた娘なんだ。綺麗で、気立てがよくて、ほんとは頭だっていい。馬鹿だったら、気づいて一人で苦しんでねえんだ」
胸倉を掴む手に、ギリギリと力が入る。それこそ、涼真が痛みを感じるほどに。
「ウチはよ、貧乏に見えただろ? 昔はこんなに酷くなかったんだ。ウチの宿はそれなりで、カヤのおかげで軌道に乗り始めてよ。カヤも少しは勉強したり遊んだり、自分のやりてえことをやれるようになったと思った矢先さ。ハルトマンの野郎に見初められちまったのは。だが、俺は断った。正式な妻ってんなら反対しねえが、妾になれってんだからよ」
ふっと、胸倉を掴む手から力が抜けた。涼真が初めて顔を上げると、カヤの父は顔を伏せている。まるで、自分の顔を隠すように。
「相手が悪かったぜ。ハルトマンがウチの営業を邪魔してきやがったのさ。今日のもそれだ。でも、俺の娘は負けなかった。人一倍頑張って、ウチの宿は何とか今日までやってこれた。もう、終わっちまったけどな」
終わってしまった。薄氷の上に成り立っていた幸せは、もう終わってしまったのだ。
涼真が、何も考えず、ハルトマンに殴りかかったそのときに。
「カヤは、お前のことを本当に信じてたんだ。やっと待ってた人が現れたって、昨日まで笑ってたんだ。お前のことを疑ったことなんて、一遍もなかったってのによ」
「……すみません」
「だからよ、カヤはお前が簡単に殺されそうになったの見て、裏切られたの知って、諦めたんだよ。認めたくねえけど、カヤはお前に惚れてたから。裏切られても、お前の命を守ったんだ!」
カヤの父は、地面に向かって怒鳴る。全ての悔しさを受け止めてくれる、大地という唯一の存在に向けて。
「妾ってのは、玩具にされて、飽きられたら売り飛ばされる運命なんだよ! そうまでして守ったてめえの命、粗末にしやがったらただじゃおかねえ!!」
どん、と地面を叩く拳の音が、涼真の思考を急激に呼び覚ます。
やりたいこともできず、人一倍頑張っているのに報われなかったカヤ。その現況を作ったハルトマンは、カヤの全てを奪い続け、また髪の毛一本まで手に入れようとしている。
そんな男に頭を下げて、身を捧げることを誓わされて。それでもカヤは笑っていた。涼真を気にかけ、父には心配しないでと。
身を引き裂かれるような屈辱を隠して。これから来る恐怖の未来を押し隠して。
それに応える全てをやったのだろうか。
まだ、何もやっていない。説得も、土下座も、何にもやっていない。できることは、まだあるはずだ。
今できることをしても、欲しいものを手中に収めたハルトマンは決して手放さないだろう。それでも、絶望的な可能性だろうと、全力を尽くさなければならない。
カヤの意志に応えるため、涼真は領主の館へと走り出した。




