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フラッシュバック

作者: 叶あぞ

 私は空気を求めて口を開けたり開いたりを繰り返した。口や目の中にシャワーの湯が入ったが、そんなものよりも私は空気を求めていた。

 でも智則は首を締める手を緩めてはくれなかった。

 智則の指が私の首の皮膚をぎりぎりと締め上げる。私は必死になって智則の手を引っ掻いたが、いくら彼の手に傷をつけても呼吸は一向に楽にならない。指の爪が剥がれて血が出ていたが、もはや私には痛みを感じる力も残っていなかった。そして――――――――


◇◇◇


「退院おめでとう。会社の方はどうするの?」

「多分近いうちに復帰すると思う。リハビリはもう終わったから、あとは心の準備だけよ」

 退院の日、私は職場復帰について母にこう答えた。

 主治医の先生とリハビリを手伝ってくれた看護師の方に挨拶を済ませてから、タクシーを拾って母と一緒に病院を出る。運転手に私のアパートの場所を告げると、隣に座った母が不安そうな表情を見せた。

「ねえ、やっぱり一人暮らしやめない? またあんなことがあったら――」

「もう、お母さんは心配症なんだから。大丈夫、私だってもう懲りたんだから。もうあんな変な男を捕まえたりしないよ」

「でもねえ、あんたが死んだかもしれないって聞いたときはもう、お母さん心配で心配で……」

 なおも食い下がる母をなだめているうちに、タクシーは私のアパートの前についた。

 荷物を持ってひとりでタクシーを降りる。

「それじゃあねお母さん。向こうには今夜のうちに帰るんでしょ? お父さんによろしく言っておいてね」

 母の返事を聞く前に私はドアを閉めた。タクシーはまだ何か言いたそうな母を乗せて空港の方へ走って行った。

 私はアパートの鍵を開けて、部屋の中に入った。

 実に半年ぶりの我が家だった。最後にここに来たとき、私は智則に殺されかけたのだ。

 自分では気にしていないつもりだったが、やはり部屋に戻るとあのときのことを思い出してしまう。息が苦しくなった気がしてブラウスのボタンを一つ開けた。

 部屋の埃を追い出すために窓を開ける。雑巾を絞って、テーブルの上や台所を掃除した。私が入院している間に母がある程度は維持してくれていたようだが、以前私が使っていたときとまったく同じ状態にするのにはもう少し時間が必要だった。

 夕方になる前に掃除は一段落した。夕食のことを考えなければならないが、その前に私は汗を流すことにした。

 服を脱いで浴室に入る。

 熱いシャワーを出して体に浴びた。

 髪を湯で濡らしながら、私はあの日のことを思い出していた。

 シャワーの音の向こうに、玄関の鍵を開ける音が聞こえた。智則が帰ってきた音だった。

「智則? おかえりー!」

 あの日、私は髪を洗いながら玄関に向けて言った。

 あのときはたしか、シャワーの音がうるさくて、彼の足音は何も聞こえなかったのだ。だから次に聞いたのは、彼が浴室のドアを開けた音だったはずだ。

「智則? どうして――」

 智則は私を浴室の床に押さえつけた。

 待って。ありえない。だって今は、もう――。

 私は智則に首を締められた。それは私が殺されかけたときの記憶だったはずだ。今は一人でシャワーを浴びている。智則が私の首を締められるはずがない。

 私は空気を求めて口を開けたり開いたりを繰り返した。口や目の中にシャワーの湯が入ったが、そんなものよりも私は空気を求めていた。

 私は浴室を出た。ここには私一人しかいない。だってあの出来事は半年前に終わったことなのだから。――でも智則は首を締める手を緩めてはくれなかった。呼吸が苦しくなる。首の周りを指でなぞる。そこに智則の手はない。智則の指が私の首の皮膚をぎりぎりと締め上げる。締められているのが私の首なのか、半年前の記憶の中の私の首なのか、分からない。

 そういえば、事件の後、智則はどうなったんだろう。警察に捕まった? そうに違いない、と思う。しかしその光景が思い出せない。被害者の私がそのことを知らないはずがないのに。そもそも私はどうして助かった? 誰かが助けに来てくれた? あんなにも死にかけていたはずなのに。

 タオルで髪を拭いた。私は必死になって智則の手を引っ掻いたが、いくら彼の手に傷をつけても呼吸は楽にならない。首を拭いたとき、鏡に映った自分の首に赤黒い痣が浮かんでいるのが見えた。

 智則の手の甲を何度もひっかくと、爪が剥がれて血が出たが、痛みは何も感じなかった。首を拭いたタオルに目を落とすと血で真っ赤に染まっていた。タオルを持つ私の爪は醜く剥がれて、そこから血が吹き出していた。でも私には痛みを感じる力も残っていなかった。

 ああ、そうか。

 私はまだあの日にいて、ずっと智則に首を締められていたんだ。


◇◇◇


 ――――――――智則の手を引っ掻いていた私の手は力が入らずに床に落ち、酸欠のせいでところどころ穴の開いていた視界は完璧に白く埋め尽くされた。

 私が最後までずっと見ていたのは智則の目だった。昏くて深い、闇のような……


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