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アメリアがロイドの事務所から逃げるように立ち去ってから、両手でも足りない程の日数が経過した。
あれ以来、アメリアはロイドと一度も顔を合わせていない。何処かへ行く時も、敢えて彼の事務所がある道は通らないようにと注意していた。別に彼を避ける理由は無い筈なのだが、何となく、顔を合わせ辛い気持ちが続いていた。
先日の事が気まずいのならば尚更、普通に会いに行って、「この間は怒ったように帰ってごめんなさい」と一言謝れば済む話だ。そうすれば、きっと彼の事だからいつもの調子で「気にしていませんよ」と返してくれるだろう。シャムロックに相談した時も、そういう結論で話のカタはついた筈だった。
――だけど、何故だか気恥ずかしくて。
この気持ちは一体何だろうか。原因が分からない。いつも通りに会って話したいのに、妙な恥ずかしさがそれを邪魔してしまう。
困った、と空を仰いだアメリアは、一番星が出ている事に気付いた。
今日もまたいつものように、大図書館まで行って本を返却してきていた。返却期日になってもまだ本が読み終わっていなかった為、図書館内で本を読む事にしたアメリアは、馬車を早くに帰してしまった。そして帰りの馬車を呼ぶのが面倒だったから、こうして歩いて帰ってきたのだ。
良く見れば既に辺りは暗くなり、陽が落ちかけている。街灯の明かりがぽつぽつと点き始めた。早く帰った方が良いと判断したアメリアは、大通りではなく裏道を使う事にした。人の少ない道だが、屋敷までの帰路としては断然こちらの方が早いのだ。
そういえば、一人歩きは控えるようにと言われていた。今からでも屋敷に連絡して、馬車を回して貰った方が良いだろうか?
だが、ここまで来てしまったのなら、引き返して電話を探すよりもさっさと帰った方が良いだろう。大丈夫、急いで帰れば特におかしな事に巻き込まれる事も無い筈だ――。
そう思った時。
「え……っ?」
一瞬の事だった。
突然、後ろから太い腕がぬっと伸びてくる。アメリアは羽交い締めにされながら、強い力で人気の少ない路地に引きずり込まれた。
あまりに急な事に理解が追いつかないが、今、自分が危機に晒されている事は分かる。
「い、や……ッ! 誰か……むぐっ!」
「大人しくして貰いますぜ、ラングフォード子爵嬢。怪我はさせたくないんでね……!」
後ろから口を塞がれ、それでもアメリアは必死に男の腕から逃れようともがいた。この男は今、ラングフォード子爵嬢、と言った。つまり、アメリアを知っているという事だ。一体何故――。
本能的な危機意識から、アメリアは口を押さえる男の手に噛みついた。その衝撃に、男は思わず口を塞ぐ手の力を緩める。
「っ、このアマ……!」
「誰かぁッ!」
人気のないこの場所で叫んで、誰かに声が届くのだろうか。だが今のアメリアにはそれしか方法が無い。だからアメリアは高い声で必死に助けを呼んだ。
「どうしましたか、……ッ!?」
不意に、角の向こうから一つの人影が現れる。それは、コートを着て帽子を被り、杖を片手にした眼鏡の男だった。その相手の姿を確認したアメリアは大きく目を見開き、次の瞬間には腹の底からあらん限りの声で叫んだ。
「――ッ、探偵さん! 助けて!」
その声と目前の状況に、現れた男――ロイドは異常を察し、慌ててアメリアの元へ駆け寄った。突然の事にアメリアを捕まえていた男は舌打ちし、彼女の身体を強く突き離す。反動でよろめいたアメリアの身体を咄嗟に支えたロイドは、そのまま彼女を庇うように自らの背の後ろに回した。
アメリアは改めて男の顔を見る。それは、先日のパーティーの帰り、馬車の中から見た屋敷の付近に居た男のものだった。
ロイドはじりじりと男との間合いを詰めていく。一瞬の隙を突いてロイドは男に飛びかかるが、男が暴れながら腕を振り上げると、その弾みでロイドの眼鏡と帽子が飛ばされた。地面に落ちた眼鏡は甲高い音を立てて細かな硝子の破片を散らす。
「この……ッ!」
ロイドは片手にしていた杖を持ち直し、勢いよく男に向かって振り落とした。ドスッと鈍い音を立てて、男の肩に杖の先端が当たる。その衝撃に怯んだ男を捕まえようとロイドが再度飛びかかるが、細身のロイドと比べると男の方が身体つきが良い為、筋力の差もかなりあるようだ。
「くそっ!」
男は形振り構わず暴れて、捕まえようとするロイドの腕から逃れだし、バタバタと慌ただしい足音を立てながら走り去って行く。ロイドは一瞬その姿を追いかけようとしたが、すぐにそれをやめた。
取り逃がしてしまったが、顔はきちんと確認した。後で警察に連絡すれば良い。今はアメリアも居るのだし、体格差もかなりある。自分一人で追いかけるよりも、警察に伝えた方が賢明だ。
そんな事を考えながら、ロイドは後ろを振り返った。壁を背にしたアメリアは顔面を蒼白にして、小さく震えながらその場にしゃがみ込んでいた。
「アメリアさん、怪我はありませんか?」
「ぁ……」
声も出ないのか、アメリアはその言葉に二、三度頷き、自分の身が無事である事を示した。その様子にロイドはほっと胸を撫で下ろし、カタカタと震えるその細い肩に、優しく包み込むように手を添えた。
「大丈夫ですよアメリアさん。……落ち着いて、ゆっくり深呼吸を」
「は、い……」
彼に言われた通り、アメリアはゆっくり息を吸って吐く。冷たい空気を肺に押し込み吐き出すと、混乱に支配された頭に少しずつ落ち着きが戻ってくるような気がした。
肩に当てられたロイドの手が、衣の上からでも温かく感じる。暫くぶりに会う彼の姿に何故か安堵する気持ちを覚えながら、アメリアは小さく微笑んだ。
「ごめんなさい、もう大丈夫……。助けて下さって、どうもありが……」
礼の言葉を告げようとして、アメリアは途中でその声を止めた。彼女のエメラルドの瞳が大きく見開かれていく。
眼鏡を外して額から前髪を後ろにかきあげ、月を背に立つ彼の顔は――。
「……シャムロック伯爵……?」
その顔は間違いなく――シャムロック伯爵のものだった。
混乱を多分に含んだアメリアの声に、ロイドは小さく肩を竦めた。「ばれてしまいましたか」と困ったように笑い、彼は続ける。
「僕が前に言った通り、シャムロック伯爵はなかなかに胡散臭いでしょう? 本名を隠して、趣味で探偵業をやっているだなんて」
内緒にしていてくださいね、と言う彼を、アメリアは呆然として見上げた。
あの日のパーティーで、一体何故、シャムロック伯爵にだけは苦手意識が湧かなかったのだろうとずっと考えていた。
伯爵の金色の髪は確かにロイドと同じ色だが、金髪なんてあまりにもありふれ過ぎている。柔らかな声も聞き覚えがあったような気はしていたが、気のせいだろうと思い流していた。そもそも、探偵業を営んでいるロイドと『伯爵』の姿が重ならなかった。
だが、違ったのだ。空似などではなく彼は同一人物だった。ならば、シャムロックに対して苦手意識が芽生えなかったのも当然だ。彼はアメリアが好んでしょっちゅう会話をしている相手だったのだから。
アメリアは返す言葉をすっかり失ってしまった。
何せ、シャムロックという本名を隠して探偵業などやっているぐらいだ。アメリアが最初にシャムロック伯爵について問うた時、彼が本当の事を言わなかったのにも何か事情があるのだろうから、ずっと黙ったままでいられた事についても、特に怒る気も無い。
――けれども。
これでは自分が、あまりにも間抜けすぎているではないか。
「ああ、ところでアメリアさん」
未だに口をパクパクさせているアメリアに向かい、ロイドはにっこりと微笑みかけた。あの日のパーティーで見たのと同じ、透き通った鳶色の瞳を優しく細めて。
「パーティーで出会ったという素敵な男性は、何処の誰でしたっけ。忘れてしまったので、もう一度教えて頂けると嬉しいんですがね」
「~~ッ!」
その台詞に、アメリアはつい先刻まで青くしていた顔を、一気に紅色に染めるのだった。