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My Flower  作者: 朝江奈緒
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―1―


「――アメリアさん」

 聞き覚えのある朗らかな声に後ろから名前を呼び止められ、アメリア・ラングフォードは柔らかな栗色の髪を揺らして振り返った。

「あら。ごきげんよう、探偵さん」

 晴天の日の太陽を背にして、ベレー帽を深く被った眼鏡の男が立っている。探偵さん、と呼ばれた彼は、アメリアの顔を確認すると一度小さく会釈をした。

 目深に被った帽子とそこから覗く金色の長い前髪、それと眼鏡に隠されて彼の瞳は見えないが、口元を優しく綻ばせている事から、笑顔を作っている事は容易に分かる。こんなに前髪を伸ばしているからきっと視力が落ちてしまったのだ、とアメリアは思う。

「また今日も、家庭教師の先生から逃げてこられたのですか?」

「嫌だわ探偵さん、逃げてだなんて人聞きの悪い。適当に騙して撒いてきただけよ」

「尚悪いですよ。それから僕の名前はロイドです」

「分かってるわよ探偵さん。少し散歩をしたら、ちゃんと屋敷に帰るわ」

「僕が会う時は大抵、貴方は家庭教師の先生から逃げて『散歩』をされているような気がしますが?」

「ふふ、日課なの。子爵家の娘だからって、いつも馬車ばかり使ってたら身体が鈍ってしまうもの。やっぱり人間はちゃんと自分の足で歩かなくちゃ駄目よねぇ」

 愛嬌のある顔で笑うアメリアに、彼――ロイドは肩を竦めた。それから、全く仕方ないなあ、と続ける。

 空は何処までも澄み渡り、透明な青色に染まっている。こんな日に屋敷の中で家庭教師と睨めっこをするのは、奔放な性格のアメリアの思考には反していた。


 ラングフォード子爵家の次女であるアメリアと、若干胡散臭い気のするこの眼鏡の男とは、彼是半年前にアメリアが気に入りの髪留めを落とした時からの付き合いだ。


 ◇◆◇


「おかしいわね、何処に落としたのかしら、ああもうー……」

 その日、アメリアは眉をハの字に形作りながら、うろうろと往来を歩いていた。

いつものように家庭教師や使用人から逃げて散歩に出ていた時、ふと頭が軽いような気がして、気付いたら髪留めが無くなっていたのだ。その髪留めは母が持っていた物をねだって貰った物で、アメリアの一番の気に入りの物だった

 きっとこの辺りで落とした筈だと、アメリアはその道を何度も繰り返し歩いていた。これ以上探しても見つからないようなら諦めるか、一度屋敷に戻って使用人に泣きついて一緒に探して貰うしかない。焦燥感と諦めが入り混じり、アメリアは今にも泣きそうだった。

「――すみません」

 不意に声をかけられ、アメリアは後ろを振り返った。そこにはベージュのベストを着た、見た事の無い男が立っていた。目深に被ったベレー帽と眼鏡に長い前髪のせいで、彼の顔は良く分からない。戸惑うアメリアに彼は続けた。

「もしかして、これをお探しじゃありませんか?」

 そう言った彼が差し出してきたのは、薔薇の模られた細かな意匠の髪留めだった。間違いない、アメリアの髪留めだ。アメリアの表情がぱぁっと明るいものになっていく。

「あ、そうです! ずっと探していたんです」

「そうですか、それは良かった」

「ありがとうございます、ええと……」

「ロイドです。ロイド・ウォーロック。ここで、探偵業を」

 くい、と彼が顎で正面の一軒の建物を指し示す。硝子製のドアには、ウォーロック探偵事務所という文字が金色の塗料で書かれていた――。


 ◇◆◇


 二度目の出会いは改めて礼を告げにアメリアが訪れ、三度目の出会いは偶然に。そんな経緯で半年ほど過ごす内に、徐々に二人は交流を深めていた。

「――それで、今日はどちらへ?」

 アメリアが奔放な性格だと、もう充分に把握していたロイドは、それ以上は彼女の逃亡について追求せずに話題を変える事にした。彼女の持つ紙袋の存在に気付いたからだ。

「ええ。実は大図書館から本を借りてきて、今はその帰りなの。先日探偵さんが教えて下さった本が面白かったから、あの人の作品をもっと読みたいと思って」

 ごそり、と手にしていた紙袋から中身を覗かせる。その表紙には、ロイドの好きな著者の名前が書かれていた。ロイドと交流を深める中で、彼の勧めた本を読んでみた所、それがアメリアの好みにも当て嵌まったのだ。

「おや、これは嬉しい。僕の好きな作家を気に入ってくれましたか」

「だって面白かったんだもの。だからこの人の本を一日も早く全制覇したいの」

「アメリアさんは、好きな事には本当に熱心ですね。偉いですよ」

 くすりとロイドが笑う。厭味の無いその穏やかな口調には、言外の意味は含まれていない。基本的に、自分の好きな事には多大な集中力を発揮するのが人間というものだ。だからアメリアは彼の言葉に何度も頷いた。

「そうね。毎日好きな本を読んだり、ピアノを弾いたりしていられればいいのに……。普通のお勉強も、マナーやダンスのレッスンももうウンザリよ。そりゃあ、子爵家に生まれた以上はそういう事もやらなきゃいけないんだろうけど……」

「そういえば、アメリアさんは先日で十六歳になったんでしたっけ。社交界デビューも近いのでは?」

 ロイドの言葉に、よくぞ聞いてくれました、という顔をしてアメリアが食いつく。

「そうなのよ! 次のパーティーには行かなければならないんですって……ああ、嫌だわぁ……」

 必死な顔、悲愴な顔、アメリアの表情はくるくると変わる。それが何だか微笑ましくてロイドは小さく笑うが、アメリアにとっては笑い事ではないらしい。

「いいじゃないですか、パーティー。美味しい料理も沢山ありますよ、きっと」

「そうね、美味しい料理は魅力的だわ。でもね、美味しい料理を沢山食べたいと思っても、人の目があるから駄目って言われるじゃない? 知らない男性とダンスを踊ったりとか、考えるだけで頭痛がするわ。私、男の人そんなに得意じゃないのに……」

「一応僕も男ですが……」

「探偵さんは別よ。だって探偵さんだもの」

 何が別なんだろう、とロイドは軽く自問する。実際、アメリアにとってロイドは物怖じせずに話せる男性という事で、かなり希少な存在だった。彼の場合、その穏やかな口調は勿論の事だが、そもそもの出会いからして自分を助けてくれたからだ、というのもあったかも知れない。

「……こんな事話しても駄目かしら。探偵さんには分からないのよね、きっと」

「そうですね。残念ながら、僕は男ですので」

 少なくとも美味しい料理をたくさん食べる事は出来ますし、と朗らかに続ける。アメリアはロイドの素性を詳しくは知らないが、そもそも彼はアメリアの(正確にはその父の)招かれるようなパーティーに出る機会は無いのだと思う。

「まあいいわ。……愚痴を言っちゃってごめんなさい、でも少し楽になったわ。いつもありがとう探偵さん」

 アメリアが表情を和らげて言うと、ロイドは小さく首を振った。「僕は聞く事しか出来ませんが」と言う彼に、アメリアは再度礼を告げる。

 アメリアとロイドは、顔を合わせる度に気軽な日常の会話ばかりしていた。道の真ん中で、彼の事務所で、街角の何処かで。二人が会う事はそんなに頻繁ではないが、互いを見かければ大抵何やら話し込む。その対話に深い意味のあるものはあまり無いが、少なくともアメリアは彼と話す事が好きだった。

 そんな中でアメリアにも分かった事がある。それは、彼の事務所にきちんと仕事が舞い込んでいるのかは怪しいという事だ。普通に生活は出来ているようだから金に困っている訳ではないのだろうが、アメリアがロイドに会う時、彼が業務を抱えている様子は無い。彼は大抵外を歩いているか、事務所の中に居ても、のんびり紅茶を飲みながら新聞を読んでいるかだ。

 以前、その事を指摘した時には「探偵事務所に依頼が無いという事は、世の中が平和だという証拠ですよ」等と彼は笑っていた。だが、そんな綺麗事だけでは飯は食っていけないという事ぐらいは、良い所のお嬢様であるアメリアでも流石に分かっている。

 かと言って、アメリアが他人の台所事情を詮索した所で意味は無い。ただ、このほんわかとした雰囲気の男が、真面目に仕事をしている姿を一度ぐらいは見てみたい、とは思っていた。

「何にせよ、パーティーの報告を楽しみにしていますよ」

「そうね。……楽しい報告が出来る事を祈っていてくれると嬉しいわ」

 穏やかに笑うロイドに、アメリアも微笑み返した。



「――時に、アメリアさん」

「なあに?」

 不意に、ロイドの声のトーンが真面目なものになる。アメリアはその意図を図り兼ねて、小さく首を傾げた。

「これから一人歩きはなるべく控えて、気をつけられた方が良い」

「え……?」

「最近、誘拐が急増しているという話です。貴方は子爵家のご令嬢だし、そうでなくともうら若い女性だ。どうか注意して下さい。仮に一人で歩かれるのなら、人通りの多い道を通るように」

 気付けば、ロイドの口元からは微笑みが消えていた。彼は真面目にこの話をしているのだろう。探偵という肩書きがどういう職種なのかアメリアはあまりしっかりと把握していないが、ロイドの情報量の多さには単純にいつも驚かされる。だから今の彼の言葉も、きっと実際最近の情勢の話なのだ。

「分かったわ。ご忠告ありがとう」

 一人歩きを控えるという事は、つまり家庭教師や使用人たちから逃げ回って屋敷の外へ出る事が出来なくなるという事だ。それを思うと多少憂鬱にならないでもないが、身の危険があるのかも知れないというのなら話は別だ。

 とりあえず、今の忠告を気に留めておこう、と心の中で一度頷き、アメリアはロイドと別れるのだった。


 ◇◆◇


「――アメリア様!」

 屋敷の門をくぐった所でメイドに声をかけられ、アメリアは僅かに表情を引き攣らせた。ロイドとのんびり会話をして忘れかけていたが、そういえば今日は家庭教師を放って逃げ出してきたのだ。割といつもの事ではあるが、こんなに堂々と帰ってきては流石に怒られてしまう。

「どちらにいらっしゃったのですか! マーティン先生はもうお帰りになってしまわれましたのに……!」

 ――ああやっぱり。

 これは次に家庭教師がやってくる時、大目玉を喰らうな、と考える。尤も、これは完全にアメリアの自業自得であるし、叱られる事を分かった上で逃亡したのだから仕方ない。

「ええと、ちょっと大図書館まで本を借りに……」

 心配した様子のメイドの表情が、呆れる様子へと変化するのが分かる。彼女は難しい顔をしたまま、至極真面目な様子で言った。

「……分かりました。ですが、アメリア様。お願いですから、せめて、どうかお一人でお出掛けにならないで下さいませ」

 おや、とアメリアは首を傾げる。今までにこんな事を言われた事は一度も無い。

「それってもしかして、誘拐事件が多発しているから?」

 アメリアの言葉に、メイドは驚いたように目を瞠る。

「ご存知なのですか?」

「ええ。たった今、お友達に聞いてきた所よ」

 ついさっき、ロイドに忠告されたばかりだ。成る程、どうも本当に最近事件が頻発しているらしい。こうして立て続けに聞かされると、多少なりともその事への危機意識は強くなる。

「ならば話は早いですね。その通りでございます。ですからどうか、お一人でのお出掛けはおやめください。この際です、家庭教師の先生からお逃げになる時でも、誰か伴って行動して下さい」

「……難しい注文ね」

 と言うか逃げていいのか、と突っ込みたくなるが、敢えて口を噤む事にする。誘拐事件に社交界デビューに、頭の痛くなりそうな事ばかりだ。

 とりあえず今は早く借りてきたこの本を読んでしまいたい、と考えながら、アメリアはメイドを伴い屋敷の中へ戻るのだった。


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