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Canonシリーズ

Childhood

作者: 藤夜 要

 ――あいつが俺の前に現れるまでは、普通の、ただのガキだったんだ。

 あいつさえ現れなかったら、俺はずっとそのまま、普通で、平凡な、ありふれた毎日を送れていたはずだったんだ――。




 辰巳は帰り道を小走りに先を急いだ。いつもならば、あちこち寄り道をしながらのんびり帰るところだが、今日は母親の仕事が休みだ。そして今日は新学期の始業式。

(早く帰れば、いつもよりちょっと長い時間母さんといられる)

 それだけじゃない。今日はいい知らせもあるから、と心がはやる。高学年になり、生徒会に加わる四年生になった。クラス全員一致でクラス委員に推薦されたのだ。これで少しは母をなじる大人の心ない声を耳に入れさせずに済むかも知れない。そう思うと、早く母に知らせて笑って欲しかった。

 大人達は何かと母を影でなじる。

 ――お妾さん、らしいわよ。

 母は毅然と胸を張って顔を上げ、聞こえていないようにその脇をとおり過ぎる。だけど辰巳は知っていた。母が密かに奥歯を噛みしめ、悔しさと恥ずかしさを耐え忍んでいたことを。

 父親のことは何も知らない。訊きたいとも聞こうとも思わない。一度だけ母に尋ねた時に、何とも言えない苦痛の笑みを浮かべたから。

『ごめんね。辰巳と関わらせたくなくて、母さん、父さんから逃げて来ちゃったの』

 それを訊いたのがいつだったかも覚えていない遠い昔。鮮明に覚えているのは、母の真っ白なはずの肌が、殴られた跡のような痣でまだらになっていたこと。幼いなんてことを言い訳に出来ないくらい、ストレートに「母さん、まだらで汚い」と言ってしまったことを今でも悔やんでいるから、その光景だけは強烈に覚えている。今なら少しだけ解る気がする。あの痣をつけたのが父なのだろうということ。自分に同じ思いをさせないようにと、母が自分を連れて逃げ出してくれたのだと思っていた。だから、父親なんかどうでもいい。どうせろくなやつじゃないということことだけは解っていた。

 クラスメートとはいっぱい喧嘩もしたし、担任に叱られることも山ほどあった。みんな、『愛人の子』という色眼鏡をとおして自分を見ては、ろくに話すこともしないで自分達親子を敬遠していた。

 嫌な役を押しつけるとか、そういうのではなく選ばれたのだ。今年の担任が、偏見でものを見ない人だった。若くて美人ではっきりと物を言う先生。若林先生は男子のアイドルだった。その先生が、誰も立候補しないので提案してくれたのだ。

『曽根崎クン、やってみない?』

 チャイムが鳴ると、みんな慌てて手ぶらで教室へ帰って来るけど、彼がひとりでボールを片づけて、それでもちゃんと時間内に教室へ戻って来ていること、みんな、知ってる?

 自転車が壊れちゃった、って泣いていた三組の塩崎さん、あの時とおり掛かって外れたチェーンを直してくれた曽根崎クンに、お礼を言いたいけど怖い顔して見下ろして来るから言えなかった、って後悔してた。

 若林先生はそんな出来事を幾つか話してくれて、

『いい機会だから、みんな思っていることをお互いにぶつけてみようか』

 そんな提案をしてくれた。

 噂の所為で皆に避けられていると思っていた辰巳は、その時初めて、クラスメートが自分の無愛想なへの字口と長身の所為で見下ろしてしまう威圧感を怖がっていたと知った。皆も、勝手に辰巳を「話し掛けられるのが嫌いな愛想のない奴」と決めて掛かったことを謝ってくれた。

『じゃ、お互いの誤解が解けたところで、クラス委員は誰がいいかしら』

 隣の北村が、いきなり脇をくすぐった。

『な、にすんだよっ』

 気づけばくすぐる北村の手から身を退く恰好で、右手が思い切り上がっていた。

『曽根崎、立候補でーす』

『げ』

 途端、女子が立候補の手を次々と挙げる。

『曽根崎クンがやるなら、あたしも立候補!』

『ずるい、じゃあ私も!』

 男子の冷やかしの声が、辰巳の頬をかぁっと熱くさせた。

『違う。今のは挙手じゃない』

 だけど、先生がニヤリと笑ってこう言った。

『でも、案外まんざらでもないんでしょ? 雑用気分でやってみればいいんじゃない?』

 誰かの役に立ちたいんでしょ、なんてズバリと言われたら、言い逃れの言葉を失った。

『先生ー、別に男子女子じゃなくてもいいんだろう』

 曽根崎がやるなら、俺もやる。そう言って北村が手を挙げた。

『ほら、どうせ曽根崎の方がサクサク器用にやっちまうんだろうしー。手伝い程度だったら楽そうじゃん』

 クラス委員っつったら、頭いいとか思われて得だし、と北村がクラスの笑いを誘う。満場一致で北村と組んでのクラス委員に決まった。あとで思い出したが、北村は一年の時にも同じクラスで、最初に喧嘩をした相手だった。

 初めて、友達が出来た。初めて、クラスの皆に認めてもらえた。いい先生が担任になった。母さんには負けるけど、結構美人なんだ、とか。去年副担任だったけど、今年は担任として母さんももっとたくさん若林先生と話せるよ――。

 母の喜ぶ顔を想像すると、たくさんの話を胸に抱えた辰巳の早足も、自然と駆け足に変わっていった。




 辰巳の住むアパートは、築二十年の木造二階建で、古い割には大家が隣の敷地に住んでいて安全面では良物件らしい。駐車場はないそのアパートの塀伝いに、今日は珍しく車が停まっていた。ガラスには全てスモークが張られ、中がまったく見えない上に、いかにも高級そうな外車で場にそぐわない。好奇心から、つい視線がそこへ長い時間集中した。

 助手席の窓が、ほんの少しだけ下がった。

「!」

 見慣れない鉄製の丸い筒が、こちらに向けられた恰好で姿を見せた。

(……モデルガン、だよな……)

 浮かぶ言葉が空々しい。それにそれなりの重さがあるであろう『本物』だ、と直感が辰巳に警鐘を鳴らしていた。慌ててその横をとおり過ぎ、公道とアパートの敷地を隔てるじゃばらの門扉を開けた。

 アパート一階の一番奥が辰巳達の住む部屋だ。いつもなら辰巳が自分で鍵を開けて中へ入る。母が休みの時は、大抵この辺りから台所で水を流す音やいい香りが漂って来る。辰巳の帰宅時間にあわせて手作りのおやつを用意してくれているのだ。それは野菜を巧く利用したクッキーだったりホットケーキだったり、給料日直後の時にはちょっと奮発してケーキを作ってくれていたり。宿題をしている間に焼き上げて、終わると同時に出来たてのそれを、他愛ないことを話しながら一緒に食べる。それが辰巳の楽しみだった。だが、今日はいつもと違う。出入り口の扉がわずかに開きっぱなしで、そこから漂って来るはずの香りが漏れて来ない。何故か表に停まっていた車が脳裏を過ぎる。中へ飛び込みたい衝動を必死で抑え、忍び足でそっと室内へ入った。

 玄関をくぐると、すぐにダイニングキッチンがあり、その向こうに辰巳の個室とリビングを兼ねている母の寝室の扉が見える間取りになっている。普段はどちらの扉も開けっ放しにしていて、母はいつも玄関先へついたてを立てるべきか、でも辰巳が走り回るから怪我の素になりそうだし、と愚痴なのか悩みなのかわからない繰り言を零していた。閉めればいいだけのことなのに、と言えば、

『だって、閉め切っちゃうと、心の隔たりまで感じてしまう気がしない?』

 なんて難しいことを訊いて来る。好きにすれば、と投げやりに答えたら、嬉しそうにそこらじゅうを開けっ放しにしているような母だった。

(なのに、何でどっちも閉まってるんだ?)

 ぼそぼそとくぐもった音で聞こえて来る話し声。母がいるのは明らかだが、客がいることも察せられた。なのに、何故玄関の土間に靴がないのだろう。息苦しさを強く感じ、意識して一度大きく息を吸った。

 運動靴を脱いで、そっと台所へ上がる。習慣でつい靴を揃えている自分に呆れてしまう。ランドセルを背負ったまま、そっと母の部屋の襖へ耳をそばだてる。言い争う声が、さっきよりも随分はっきりと聞こえた。

「――あの子は私だけの子です。だから曽根崎を名乗らせてます。それのどこが悪いんですか」

「ふん。通称をそれで通すことで、血縁、氏ともに曽根崎代議士の孫であると本家に認めさせよう、といったところか。だが戸籍は変えられないぞ。仁侠の息子が曽根崎の孫だと、あのお偉いどもの誰が認める」

「……曽根崎は関係ありません。あなたの子だと、辰巳に知らせたくないだけです」

(え……?)

 唐突に出た自分の名前に、思考が一瞬止まった。音を拾っただけの言葉を、もう一度頭の中で整理する。あの子というのは自分の知らない誰かのことではなく、自分のことだと思っていいだろう。自分には兄弟がいないから、母の子は自分ひとりだけだ――母が隠してさえいなければ。

 ふと湧いたそのひと言に、背筋が凍る。隠しごと。母が自分にそんなものを持っていると感じたことなど、これまで一度としてなかった。

 ただの偶然だと思っていた曽根崎という姓。母はよく政治関連のニュースを好んで視聴していて、解らないながらもつき合って見ていたので、それが元財務相だった、という程度は辰巳も知っていた。視聴にそんな個人的なつながりを見ていたとは想像もつかなかった。ずっと身内は二人だけだと思っていたから。そして。

(海藤……あなたの、子……?)

 繰り返して、全身に悪寒が走った。震える自分の肩を押さえ込むように抱きしめてみても、それはまったく効果がなかった。母を暴力で追い詰めた男。逃げたあと、一度も訪ねて来たことさえない男。辰巳がこれまで一度として父親と認めたことがない、ろくでもない男。

 曽根崎に関連してニュースで聴いたことのあるその名前。報道の内容は『指定暴力団藤澤会系海藤組との癒着疑惑』。

 突然訪ねて来たその男が、留めのように低く唸った。

「お前がどう否定しようと、辰巳はこの海藤周一郎の息子だ。辰巳を出せ。そろそろ手の掛からない程度には育っただろう」

 ろくでもない男であることに変わりはないが、そんな別世界の人間が実の父親だとは夢にも思っていなかった。




 ガタン、という襖の上げた悲鳴を、よろけた自分が鳴らしてしまったものだと思い、一瞬腹の底がヒヤリとした。だが、間近でした音ではなかったことにすぐ気づき、別の不安が辰巳の思考全てを占領した。

(母さん?!)

 すぐにでも閉ざされた襖を開けて飛び込みたい気持ちを必死で抑える。襖から耳を離してしまった今では、中にいる大人の会話が聞こえない。ただくぐもった声らしき音が、ぼそぼそと聞こえるだけだ。加えて、恐らく母が抵抗しているのだろう、ガタガタと細切れに聞こえる襖を叩く音。バシンという痛みを伴う音にもどうにか堪え、音を立てぬよう少しずつそっと襖を開ける。浅い息が辰巳の小さな心臓をしめ上げていた。

「――です。隠している訳じゃない。今日は平日でしょう。学校です」

「そっちへは先に回った。ガキどもは下校して殆ど姿が見えなかった。どこだ」

「……寄り道でもしてるんじゃないですか。もう自分の世界を持ち始める年です。生ませっぱなしで育てたことのないあなたには解らないでしょうけれど」

 張り手の音ではなく、ゴツ、と鈍い音がする。辰巳は思わず目を閉じた。聞いたこともない「かはっ」という母の声とともに、吐瀉物の零れる音が鼓膜を不快に揺らした。

(殺される。母さんが、殺される……っ)

 頭痛が襲う。脳全体がしめつけられる錯覚に陥る。意思とは関係なく、手が小刻みに震え始めた。その手が襖を鳴らす前に、辰巳は一旦その場から身を退いてキッチンを振り返った。

 忍び足でシンクへ近づき、その下を音もなくそっと開ける。目的の物を見つけると、一度大きく息を吸って、吐いた。震えはぴたりと止まり、自分が恐怖で震える小心者ではなかったことに安堵する。冷たい感覚が全身に走り、初めての醒めた感覚に少しだけ戸惑いの色が混じった。

 少しでも母の手助けをしたくて、料理も色々教わった。母の言葉を思い出しながら、目ぼしい物を手早く物色した。

『包丁もね、いろんな種類があるのよ。ほら、家はよい食材を買うことが難しいから、せめておいしく調理出来るように、ね』

 和包丁が幾つか並ぶ中から、一番自分の手に合う手頃な大きさの出刃包丁を握りしめる。いつもなら自分の心拍数を数えておよその時間経過を計っていたが、今は自分の心拍数が普通ではない。どれだけ時が流れたのか解らないのが、今の辰巳にとって唯一の不安だった。

(どうか母さんが何かされる前に、あいつの隙を見つけられますように)

 心の中で願いながら、誰に願っているのかと自分に問う。息苦しさを感じているのに、どこか他人事のように俯瞰で事態を見ている醒めた自分を初めて見い出した。

 振り返り、聞き耳を立てていた場所へもう一度足を滑らせる。

「……もう一度孕ませるのも、手か。必要なのはお前ではなく、お前が持っている“自分の意向を相手へ受け容れさせる”という気質だけだ。何もお前に育てさせる必要など、ないな」

「な……っ。やめ」

 不自然な会話の途切れ方に、辰巳の気がはやった。忍び足などと構っていられない、何かとてつもなく嫌な予感が身を総毛立たせていた。

「ならば必要なのは、子が生まれ落ちるまでのお前だけだ。辰巳も、もう要らんな」

 その声を掻き消すように、勢いよく襖を開けて飛び込んだ。

「離……せ……」

 語尾が濁り、力を失ったのは、決して怯んだ所為ではない。体中がかぁっと熱くなる。目に飛び込んで来た光景は、息子として決して見たくない類としか言いようがない、乱れ掛けた男女の姿だった。

「う……わああぁぁぁぁぁぁっっっ!!」

 視界がうねる。母の顔が霞む。右手に握ったものを、体が勝手に構え出す。自分へ向けている背中に彫られた昇り龍へ標準を定め、両手に力をこめたまま、辰巳はそれに向かってまっすぐ駆け出していた。

(汚した。こいつが母さんを汚した)

 真っ白で、綺麗で、いつでも、どんな時でも笑っていたのに……。

「辰巳!」

 頬の赤く腫れた母が叫ぶ。怯えた瞳と、頬以外の肌を真っ青にした、血の気を引かせた母の姿が視界に入る。見えない角度だったはずだ。奴が覆い被さっていたから。瞬時に男が身を躱わしたと気づいた時には、もう勢いを止められなかった。

 最悪だ、と言葉に置き換える間もないほど素早く、自分の動きがぴたりと止まった。手に、確かな感触。何かをグサリと突き刺した抵抗感が腕を重たくしているのに。

「ほう、前言撤回だ。剛柔を巧く兼ね備えた上玉に育っているではないか。さすが、私の息子(・・・・)だ」

 男は、辰巳が突進した出刃包丁を二の腕で受けたまま、微塵も痛みを面に出さず、不気味な笑みを浮かべてそう言った。

「藤澤会海藤組、海藤周一郎。それがお前の父親の名だ。そしてお前は曽根崎ではなく、海藤辰巳、私の息子だ。その二点、今この瞬間から忘れず肝に銘じておけ」

 語られている間にも、屈んでいた海藤がゆるりと立ち上がる。母とそう変わりない身丈の自分でさえ見上げるほど、背の高い男。辰巳の仰ぐ視界が、呼吸を求める苦しさとともに、海藤の視線と同じになる。不安定になった両足が、心細げにゆらりと揺れた。

「面構えは私とよく似ているのに、中身は母親譲りか。綺麗ごとしか言えない甘ったれという目つきをしている。善人面は、人を取り込む時だけにしておく方が身の為だ。再教育の必要があるな」

 歯が、ガチガチと鳴った。抗うことを忘れていた。父と名乗ったその男は、笑っているのに笑っていなかった。腕に自分の突き刺した出刃包丁をそのままに、重いこの身を軽々と片腕で持ち上げている。

(……勝てる相手じゃ、ない)

 腹の底から嫌でも湧き出て止められない、初めて抱いた負の感情。自分とよく似た面差しの男に、“恐怖”という感情を植えつけられた。




 海藤が机の上へ椅子の代わりに腰掛けて、この三年間の通知表を閲覧する。辰巳はそんな彼を正座で見守っていた。膝には爪を立てた為に、無数の掻き傷が出来ていた。母は海藤のひと声で部屋へ踏み込んで来た組員に隣で監視をされていた。外に駐車していた奴らは、やはり海藤の関係者だったのだ。自分の顔を見た瞬間、銃口を向けたことを思い出したのだろう。咄嗟に海藤の顔色を見た初老の男が、海藤より年上に見えるいい年をした大人にも関わらず怯えの色を浮かべたことで、辰巳は銃口を向けた犯人を彼だと覚った。

「成績優秀、スポーツ万能。『交友関係が芳しくないが、努力が垣間見られる』、か。地区ボランティア活動参加、だと? 何をやっている」

「隣の市と合同の、老人ホームへの慰問、とか」

 素直に答えたのは、もう片目が見えないほど頬が腫れていたから。成績表を出せ、という海藤の要請に対し、無言という形で抵抗した。ほどなく頬の辺りでゴキ、という鈍い音がしたと同時に激しい痛みが辰巳を襲い、その瞬間黙秘という名の抵抗を諦めた。多分、頬骨が折れている。涙を零さないだけで精一杯になっていた。

「関係資料を出せ」

「……」

 ゆっくりと立ち上がるが、かすかな動きでも激痛が走る。零れそうになるものを堪える間もなく、腹に蹴りが入って、転んだ。

「お前と遊んでいられるほど暇ではない。さっさとしろ」

 だったら帰れと言いたい気持ちを堪え、机の一番下の引き出しを開けて記録ノートを取り出した。無表情でそれを受け取り、パラパラと流し読みする海藤の眼が、次第に緩い弧を描く。

「ほう。交友関係が芳しくないのは、お前自身に原因がある訳ではなさそうだな。上出来だ」

 海藤が、ノートの下方を指で弾き、機嫌よさげにそんな感想を漏らした。弾かれた場所には、スタッフから母に向けた辰巳の参加態度などが記されている箇所だった。

「稽古ごとなどは?」

「スイミングと極真空手」

「ほう。何、塾通いなしで私立中学受験予定、か。こんな安アパートに住んでいて、よくそんな金があったものだ」

 忌々しげにそう零す海藤の言っている意味が解らなかった。否、解らなかったのは海藤の言葉ではなく。

(言われてみれば、どうやって母さんはお金をやりくりしてたんだろう)

 海藤の言葉を信じれば、彼が養育費をまかなっていたとは思えない。そもそもそんな人間ではないということを、彼の全身から発せられる雰囲気が嫌というほど伝えて来ている。

「あいつが勤め始めたのは、確か二年前から、だったな」

 あいつとは、母のことだろう。黙って小さく首を縦に振った。海藤の眉間により深い皺がより、乱暴に叩きつけられたノートの音で、辰巳の肩がびくりと上がった。殴られるかと思った。

「曽根崎のじじい、やはり支援をしていたか。どうりでお前達が帰って来ないはずだ」

 場違いな空気が一瞬辰巳を包んだ。ついさっきまで、無関係だと思っていた曽根崎何とか、という政治家だったらしい偉い人。母と二人だけだと思っていた身内が、そんな形で突然辰巳の前に存在を現した。だがその温かな感覚も、海藤の次のひと言であっという間に掻き消された。

「潰しておいて正解だったな。藤澤会を敵に回そうと小ざかしいことばかりしていると思ってはいたが。こんなところにまで茶々を入れて、私の顔に泥を塗っていたとは、忌々しい」

 不意に、じっとニュース画面を見つめる母の横顔を思い出す。どこかの暴力団組織との癒着疑惑が浮上して辞任に追い込まれた、という曽根崎財相関連の報道を見て、母が口許を押さえていた、表情の見えない横顔。あれは、驚きを隠していたのだと辰巳は今頃気がついた。

 突然目の前に現れて、次々と辰巳の欲しいものを、守りたいものを奪っていく。見えたと同時に消し去る。そんな印象しか抱けない、実父という肩書きの海藤だった。

 ――認めたくなんか、ない。

 こんな奴と血が繋がっているなんて。何の得にもならないのに、祖父は日陰者の自分達を人知れず支援してくれていた。それを奪ったのは、この男だ。母を追い込み利用して、穢したのも、この男だ。

「曽根崎のことだ。何かほかにも小細工をしている可能性が、ない、とは言い切れんな……」

 思案する海藤を盗み見る。恐怖は次第に薄れ去り、ひとつの使命が幼い心に宿った。

 ――母さんだけでも、逃がさなくちゃ。こいつの目的は、俺だ。

 盗み見る視線を直視に替える。同時に思案で宙を彷徨っていた海藤の視線が、まっすぐ辰巳を見下ろし、辰巳の視線を受けた。

「母さんを自由にしてくれるなら、あんたの跡目を継いでやる」

「今すぐここを引き払う。すぐに荷造りをしろ」

 ふたつの声が、重なった。




 辰巳に関する一切について、父親の代理人という名目の監視が辰巳についた。辰巳より十才年上のその男は、赤木信司と陽気な声で名乗った。

 今は、そんな赤木がハンドルを握る車で学校に向かっている途中だ。半ば無理やり転校を強いられた。母と赤木の「学期途中の転校だと色々探られ面倒を招く」という弁を渋々飲んだ海藤が、今の学校への通学を一学期の間だけ許した。頬の腫れがようやく引き、人前に出られる面構えになってから外出を許されて以来、毎日赤木が送迎する。今日は最後の登校日。結局母を自由にすることも出来なかった。

「……」

 敗者という屈辱を初めて味わった。小さな世界で奢っていた自分を、嫌というほど痛感させられた。こんな自分に満足して、母を守るつもりでいたなんて。自分は、ほかの同い年の奴らとは違う、子供でいてはいけないと自負していただけに、子供であるということを認識させられたことが、一番悔しいことだった。無言が続く車内で、堪えるように掴んでいたシートベルトが、キュ、と小さな悲鳴を上げた。

「ま、あの親父さんに逆らって、まだ(タマ)があるってだけでもラッキーじゃねえの」

 辰巳の内心を知ってか知らずか、軽い口調で赤木が言う。

「おふくろさんの件は諦めな。それか」

 ――本気で自由になりたきゃ、お前が海藤組を乗っ取ればいいだろう。

「え……?」

 いろんな意味を内包した疑問符だった。仁侠の世界のしきたりなんて、無関係だった辰巳の知る由ではない。継ぐと豪語しながらも、実際に何をするのか解っていない。海藤の猿真似をすればいいのだろうと思い込んでいた。そうではない、ということなのだろうか。というよりも、そもそも乗っ取るという発想がまずなかった。やくざの組長なんて、人気投票じゃあるまいし、世襲とか組長が勝手に任命するとか、そんなものだと思っていた。

 それ以上に驚きを含んだ謎は、赤木がそれを言ったこと、そのものだ。赤木は海藤の手駒の中でも、海藤に信頼されている幹部だと聞いている。二十歳という若さで抜擢された理由は、先見の目がずば抜けているからだ、と。ほかの幹部と違い、彼は確かに幹部らしからぬ風貌だとは辰巳も思った。いかにも肉弾戦が不得手と見える優男で、垂れ目が軟弱さを余計に強調させる。だが辰巳がこいつを侮れないと思ったのは、その奥にある瞳があまりにも鋭く、初対面の時に厳しい眼差しを一瞬だけ辰巳へ向けたのに気づいたからだ。腹に一物を抱える奴だと察した。だから赤木をつけられてからの数週間、神経の尖る毎日を過ごしていたのだが。

「それ、本気で言ってるの。あんたは海藤の忠犬なんだろう」

 一か八かの賭けに出たのは、赤木の瞳が本気の色を放っていたから。同時に彼が辰巳に対し、互いの間柄ではあり得ない類の眼差しで見ていることを薄々感じ始めていたからだった。

 赤木は嫌味一色で染められた辰巳の言に苦笑する。

「手痛いねえ。大人事情って奴さ、それは。俺ひとりならどうでもいいけど、カミさんの身バレしてっからねえ。あいつを人質に取られちゃ堪ったもんじゃないっしょ」

「あんたも弱味握られてんだ……ってか、自分の家族があるのに、俺につきまとってなきゃいけないのか」

 辰巳のそんな問いに対し、赤木がとつとつと身の上話をしてくれた。中学時代からICTに関心を持ち、パソコン通信にはまったこと。お上の抑制で、自分の予想以上に通信の進化が遅くてしくじったと悔やんだ学生時代。それが赤木の人生を大きく暗転させたらしい。彼は、ネット回線の普及を見込んで事業を興したが、上述の世情から失敗したと自嘲混じりで簡単に語った。借金のかたとして、海藤組系列の金融業者が海藤に赤木を差し出したそうだ。

「運悪く、って言ったら操に悪いんだけどさ。あ、操って、カミさんな。あいつが腹ぼてンなって、籍入れたばっかだったんだよ」

 親には迷惑を掛けないようにと行方をくらまして来たと寂しげな瞳でまた笑う。「操」との婚姻も解消しようと、他人に書いてもらった離婚届を出しに行ったら、役所から受け取り拒否の手続きが取られていると告げられたらしい。

「そんで操に洗いざらい喋らされてさ。巻き込む形になっちゃった、という訳。そんなゴタゴタもあったから、結局ガキも流れちまったし。ややこしいことして、これ以上操に何かあったら、俺が嫌じゃん?」

 そんな先見の達人は、抗うことを早々に諦めたと言う。

「ちょっとは俺のこと、信じる気になった?」

 子供相手と軽んじずに赤裸々と事実を語られ、回顧で潤んだ瞳を向けてそう言われたら。

「……少しだけ」

 と答えるよりほかになかった。

「辰巳はまだ十才だろう。なにごとも、ちょっとずつでいいんだよ。ま、ぼちぼち行こうぜ」

 イロイロ(・・・・)とな、という赤木の言葉から、辰巳は多くの含みと、海藤が自分に向けるものとは別の期待を受け取った。

 独り、という訳ではない。その安堵感が、少しだけ辰巳を甘い考えに偏らせた。


 この日ほど笑顔を作るのが大変だった日はない、とこれまでを振り返り辰巳は思う。「父と一緒に生活することになったから」と転校理由を告げる口角が引き攣れた。皆の「よかったじゃん」という素直な言葉に「うん」というのが苦しかった。「寂しくなるな」という言葉を聞いて、潤むものを抑えることにも苦労した。

 ――普通の生活が、今日で終わる。

 それが、何よりも辛かった。

「夏休み中、こっちに来る機会もあるんでしょ。そのどこかで送別会やろうよ」

「電話番号教えてってねー」

 壇上で形式的な挨拶を済ませた辰巳に、次々と質問が浴びせられた。

「辰巳、今度遊びに行くよ。どこへ引っ越したんだ? そろそろ俺らにも教えろよ」

「……区内。ナイショ」

 言える訳がない。訪ねられたら、困るなんてもんじゃない。そんな思惑が顔に出た。尋ねた北村が、何とも言えない顔をした。

「そんなガチで嫌そうな顔しなくたっていいじゃんよ。悪かったな、KYで」

 北村は、辰巳が学校を休んでいる長い期間、ひとりで学級委員の仕事をこなしてくれていた。引き払ったアパートへ見舞いにも来てくれていたらしい。怪我が完治したあと初めて登校した時、本気で怒られた。

『いきなりアパートが空っぽになっていたからガチで心配したんだぞ』

 と。すごく、嬉しかったのに。

「……マジ、お前空気読めてない」

 そう突き放すしかない、今の立場が苦しかった。北村はかっと頬を赤く染めると、黙って席についてしまった。重苦しい沈黙がクラス全体を覆っていく。

(何か、曽根崎クン変わったよね)

(毎日運転手付の送り迎えじゃん? お父さんがお金持ちとかで、天狗になっちゃってるんじゃない?)

(学校には行かないで、家庭教師なんだって。前に若林先生が、曽根崎の親の代理人とかいう人と職員室で揉めてるの、あたし聞いちゃった)

(一般人とはもうつき合わない、ってか。こっちこそ願い下げだっつの)

 平静な表情を保つのに苦心する。ひそめることで余計耳につく小声が、辰巳に拳を握らせる。

「……曽根崎クン、もう席に着いていいわよ」

 若林が、そう言って机上をコンと指で弾いた。音に反応して彼女の弾いた先を見ると

『放課後、相談室で待ってなさい』

 という手書きのメモを指差していた。視線を彼女の顔に戻すと、憧れの微笑にウィンクが添えられた。どう返していいのか戸惑い、下手な微笑が辰巳から漏れた。


 放課後、と言っても今日は終業式と学級活動だけで終わる。朝一番に漂わせてしまった空気の悪さの所為で、クラスメートとはろくな会話もしないまま最後の学校生活が終わってしまった。皆が午後の約束を交わす中、ひとり荷物の整理をする。ほかの皆よりも、少しだけ大荷物。学校に保管しておいてもいい道具箱や絵の具、書道道具などの私物を大きな紙袋に詰め込んだ。昇降口に立ち、自分の名札シールを剥がす。辰巳は荷物を置いて両手を空けると、砂の入ったの靴箱に感謝をこめて、少し念入りな掃除をした。校門を出て角を曲がれば、赤木がいつもどおりベンツを停めて待っているはずだ。

(あれ?)

 下校時刻を伝えてある。もし遅れれば、時間厳守を告げられている海藤が逃げたと判断すると赤木も承知のはずだ。なのに、角を曲がってもいつもの車が見当たらない。

「赤木さんなら“渋滞に巻き込まれたから遅れる”って帰って行ったわよ」

 背後から聞こえた声に、思わず両の肩が上がる。

「何ばっくれようとしてるのよ。相談室で待ってなさい、って言ったのに」

 恐る恐る振り返ると、そこには形だけの微笑を浮かべた鬼担任が、仁王立ちで両腕を組んでいた。


 相談室は施錠出来るようになっており、入口の扉にはめ込まれたガラスもすりガラスになっているので外から中を見ることが出来ない造りになっている。若林は、相談室の使用ノートに自分の名前のみを記し、使用用途欄に『生徒の要望分副教材作成』と記してからノートを戸棚に戻して腰掛けた。折りたたみテーブルを挟んで向き合う恰好で辰巳も腰掛ける。

「渋滞で遅れる人が帰っていくとか、日本語変ですよ」

 沈黙に耐えかねた辰巳が、先に口火を切った。

「あら、さすが曽根崎クン。でも、その変な日本語のお陰で、赤木さんの配慮が解った訳でしょ」

 悪びれもせずそう答える若林の胆の据わり具合に内心驚いた。この人と赤木の初対面は最悪だったからだ。あの時赤木は、まるで品定めをするように上から下まで彼女をじとりと舐め見た。それに不快を示した若林が「何か?」と突っ込んだことから、言い争いが始まった。それが、今日クラスメートがヒソヒソと話していた進学に関するもめごとの件だ。今思うと、あれは若林を激昂させる赤木の作戦だったのだと思う。

「赤木さん、今朝のことを話したら、すごく悲しげな顔をしたの。ああ、思っていたより曽根崎クンのことを、保護者の代理人としてちゃんと見てくれてる人なんだ、って解ったわ。それに……キミ達、何か隠しごとをしているでしょう」

 まっすぐ目を見て言われ、条件反射で顔を背けた。

「やっぱり。赤木さんに質問をしたら、初日のあの目つきに変わったわ。“一般人が余計な口を挟むな”って。キミのお父さんって、何者?」

 アドリブが利かない。対象が海藤周一郎というだけで、どう対応するのが無難なのか解らなくなる。何をやっても、どう工作しても、全て暴かれ奪われそうで。気づけばTシャツの胸元を握り締め、浅い呼吸に喘いで小さく口を開けていた。

「曽根崎クン。あなた……何か犯罪に巻き込まれているんじゃないの?」

 大きく首を横に振る。途端頭痛を自覚する。そのまま両手で頭を抱え、机の上に突っ伏した。

「あれだけ親身なお母さまが、あれから一度も電話さえくださらないの。キミのお父さまが最初に赤木さんと訪れた時、ものすごく嫌な予感がしたの。寒気がしたわ。こんなこと言ったら失礼だけど、キミとよく似ているから確かにお父さまなんでしょうけど……目が、とても恐ろしかった。物のように私を見たわ。私だけじゃない。赤木さんや、校長先生や、全てに対する視線が、物、なの。キミの入院の原因は、なぁに? 本当に、階段から落ちて骨折しただけ?」

 耳を塞いで目をきつく閉じる。机に出来た不快な水溜りが顔を濡らし、気持ちが悪くなって来る。巻き込みたくない。だけど子供の自分にこの状況は、自分のキャパを遥かに越えている。駄々っ子のように幼稚な拒絶の姿勢を見せることしか出来なかった。若林のついた深い溜息が、辰巳に息を殺させた。

「……お母さまは、お元気にしていらっしゃる?」

 他愛ない話から誘導しようというのだろうか。唐突に変わったその問い掛けにも、辰巳は答えられなかった。何故なら、一緒に暮らすことも許されてはいないから。同じマンションに母はいるらしいが、辰巳と住む階を分けられていた。海藤曰く「二人一緒に揃えておくと、逃亡がしやすくなる」とのことだ。母は、辰巳の不在中に部屋掃除や食事の下ごしらえを済ませ、監視の構成員が細工や置手紙などの有無をチェックしてから辰巳の部屋を出て行くらしい。電話だけは許されていた。盗聴器を仕込まれてはいるが。母の「こっちは大丈夫」なんて言葉を辰巳は信じていなかった。

 無言を貫く辰巳の頭上に、もう一度溜息が降って来る。

「私ね、何でもポジティブに考えるようにしてるの。今回の件も、最初はすごくショックだったけれど、今は最後のチャンス、って思ってる。だって、教師と生徒ではなくなるじゃない? 個人対個人としてつき合える。今度こそ、助けられる。……弟に、償いが出来る」

(弟?)

 知らなかった若林のプライベートに関心がいき、つい顔を上げてしまった。

「年子の弟がいたの。同じ学校で過ごしていたのに、虐めにもリンチにも気がつかなくて。あの子ったら、キミみたいに恰好つけて意地張って、だんまり決め込んで隠すから、どんどん影でエスカレートしていって、最後には……殺されちゃった」

 綺麗な顔のまま、首から下だけぼろぼろで。そう語る若林の顔の方が、涙でボロボロになっていた。

「勝手だよね。キミの為なんかじゃない。私の自己満足なの。だから……助けると思って、話してよ。見過ごすなんて、私には出来ない。キミのその不器用さは弟に……似過ぎているの」

 退き掛けた手を両手で包まれ、懇願するように頭を机に押しつける。そんな彼女の姿を見たから、気が緩んでしまったのかも知れない。ひょっとすると、彼女に憧れを抱いていたのかも知れない。もしかすると、自分にはない「大人」の力でどうにかしてくれるかも、という期待を抱いてしまったのかも知れない。あまりにも長い時間、緊張の日々が続いて疲れてしまったのかも知れない。

「……親父が経営している海藤組って、本当は土建業なんかじゃなくて……やくざの方の“組”なんだ」

 誰かに助けて欲しいと初めて思った。辰巳は若林に全てを打ち明け、自分の代わりに警察へ話して母を助けてくれと頭を下げた。それが最初の惨事の引き金になるとは、まだ十歳の辰巳には予測のしようがなかった。




 海藤のマンションで暮らすようになって以降も変わらなかった唯一のことは、極真空手の稽古だけだった。週三回の夕方、七時から九時までのたった二時間が辰巳にとっての自由時間。獲物がなければ自分の身も守れないようでは跡目を継ぐ資格などない、という海藤の持論のもと許された。辰巳にとっても、たまたま前の住処の近所であることよりも師範の質で道場を選んだのが幸いしたとも言える。変わり過ぎた環境の中、道場だけが唯一の憩いの場になっていた。

 学校に通えていれば、夏休みの半ばも過ぎた頃とも言えるとある夜。その日もいつものように稽古を終えて、少し浮き足立った足取りで赤木の待つ駐車場へ向かっていた。道場の仲間からバーガーショップで軽く食って行かないかと誘われたが、そこまでの自由は認められていない。後ろ髪を引かれつつ「迎えが待ってるから」と独りその場をあとにした。今の辰巳にしてみれば、変わらず接してくれるその誘いだけでも充分慰められるひと言だった。

「あれ?」

 赤木がいつも乗って来るベンツが、今日はいつもの場所に停まっていない。代わりに停まっているのは、メタリックグレーのアウディ。見覚えのある男が運転席から顔を出して手招きをした。

「二代目。親父さんが事務所へ来いとさ。急げ」

 無言で顔をしかめたのは、そいつが数ヶ月前、前のアパートで初めて車の窓越しに会った男だったからだ。彼はあの時、自分に銃口を向けた。無様だった自分を知るそいつは、人目もはばからずに「二代目」と呼ぶ。慇懃無礼な呼称と裏腹に、嘲笑を孕んだ下衆な笑みでいつも自分を下から上へと品定めをするように自分を見る。大嫌いな奴だった。

 無言でナビシートへ身を落ち着けて、ドライバー席から顔を背ける恰好で窓の外を眺めて車の発進を待つ。

「なんで呼ばれたのか、とか、赤木はどうしたんだ、とか、何か訊きたいことはないのかよ」

 優越感に満ちた声で、男は臭わせる言葉を吐いた。海藤に呼ばれた段階で、ろくなことではないことぐらいすぐ判る。赤木の不在が気にならないではないが、どうせその理由もすぐ判るだろう。つまらないことで、こんな男に要らぬ借りを作りたくはなかった。

「……」

 だんまりを決め込む辰巳に諦めをつけたのか、男はようやくアクセルを踏み出した。

「二代目を受け持ってた担任、確か若林っつったよな」

「!」

 ドアについていた肘が、浮いた。見たくもない顔の方へ視線が勝手に向いた。

「なんでお前が知ってるんだよ」

「訊きたいことなんか、ないんだろう?」

 男は勝ち誇ったようにそう言って一瞥したきり、事務所まで無言を貫いた。汗が退かないほど厳しい残暑なのに、寒気が辰巳を急激に襲った。




 道着姿のままで事務所へ足を踏み入れた辰巳を見て、事務所に詰めていた構成員達が小声で笑う。

(なりだけは立派だけどな)

(二代目に決めたっていうから、どんな奴かと期待してみれば、まだガキじゃねえか)

(親父さんも何考えてんだか)

(焦ってんじゃねえのか。見込みのあった正妻ンとこの二代目候補が籐仁会に殺られちまったんだから)

 ヒソヒソと囁かれるその会話から、自分に異母兄弟がいたことを初めて知った。事務所に呼ばれたのは初めてで、そこに漂うどこかの異様な雰囲気が辰巳の悪寒を増大させた。

 迎えに来た男が、『社長室』のプレートが張られた扉をノックする。

「親父さん。二代目を連れて来ました」

 扉の向こうからは、何やら騒々しい音がする。まるで誰かが暴れているのを取り押さえているような。

「入れ」

 という声が聞こえると同時に、案内の男が後ろを振り返って腕っ節のよさそうな数人へ合図を送った。

「?!」

 突然両腕をかっちりと固められた。振りほどこうとしても、鍛えられたとひと目で判る大の男二人が相手では、さすがの辰巳も敵わない。

「何だよ、逃げないよ! 離せ!」

 軽く身の浮いた状態を利用し、反動を使って足を振り上げる。両脇で自分の腕を支える男達への蹴りを狙ったが、案内の男からみぞおちへの一発を食らい不発に終わってしまった。

「がはっ!」

 腹に何も入っていない所為で、酸っぱい味だけがこみ上げた。目の前が一瞬だけゆがむ。それに気づいた瞬間、下唇を噛んで涙を堪えた。何が起きているのか、何故呼ばれたのか解らない。だが、意地でも涙を見せることだけはしたくない。それが、辰巳に残された唯一の自由とプライドだった。そして、海藤に暴力を受けても決して涙を見せない母と同じ態度を貫くことで、母だけの息子だいう主張を覆したくなかった。

 だが、扉が開いて強制的に部屋へ入れられた瞬間、唯一の自尊心さえも奪われそうになった。

「せ、んせ……?」

 カチャカチャと耳障りなベルトの音を立てる数人の男達の向こうに、忘れようのない顔形の人がいる。なのに、表情が初めて見るもので、辰巳は一瞬それが担任だった若林とは思えなかった。

 虚ろな瞳。そこから零れたであろう涙の跡。声を封じる為だろう、彼女が身につけていたと思われるインナーを口に咥えさせられていた。両の腕は広げられ、磔を連想させる形で床へ押しつけられている。掌は小刀を突き立てられた格好で固定され、逃れようのない痛みを辰巳にまで伝えて来た。そこから下が男達の影で遮られていたことなど救いにもならない状況であろうことは、今の辰巳でも容易に想像がついた。

「う……ぁ……」

 全身から力が抜ける。声にも力が入らない。叫んだつもりなのに、くぐもった呟きにしかなっていない。

 出入り口の扉に面した位置にある席から海藤が立ち上がり、気だるそうな足取りで辰巳の方へ近づいて来た。

「ふむ。やはり、まだ鍛錬の程度が道着に負けている感じだな」

 見下ろして来る視線は、どこまでも冷たい。モノを見る目で辰巳を見下ろしていた。視線を逸らさないのがやっとの辰巳に、冷たい笑みを零して海藤が問い質す。

「この女、この私を拉致監禁と傷害の罪で警察へ通報したそうだ。父親が息子を引き取ることのどこが犯罪なのか、とお前も思わないか」

 吐き気が襲う。心臓が壊れそうなほど激しく脈打つ。

 ――お前が、この女を巻き込んだ。

 探るような目で視線を合わせる海藤が、そう言っているとしか思えなかった。

「平和な日本では、子供の内は夢や希望を、と教育するらしいが」

 海藤は突然違う話題を振り出し、形ばかりの笑みも引っ込めた。

「他国では、理想と現実のギャップで我が子が潰れないよう、あらかじめ現実というものを幼い内から叩き込むそうだ」

 気持ち悪いほど優しく腕を取られる。両脇を捕らえていた男達の手から解放されるが、そこから逃れる力が残っていなかった。

「辰巳、よく覚えておけ。世の中というのは、九割の人間の蹂躙という基盤があって初めて、その上に一割の人間の保障が存在出来るということを」

 理解を待つと言わんばかりの猫なで声を、海藤の声で初めて聞いた。それが却って辰巳に、カチカチとうるさく歯を鳴らさせた。

「その一割の場所へお前を導いてやろうと言うのに、何故お前は私に逆らう?」

 若林の方へ身体を向けさせられた。必然的に、海藤が辰巳の後ろを取る恰好となる。彼女を隠していた男達は、もう彼女を隠してくれなかった。彼女の隣で横たわっている男を認めた瞬間、ようやくまともな声が出た。

「赤木!」

 そうと判ったのは、見たことのある服装だったからだ。腫れ上がった顔だけでは、彼が赤木だと判別出来ないほどの制裁を受けていた。左腕は肘から手首に掛けた真ん中辺りが、あり得ない方向へ曲がっている。髪が濡れているのは、恐らく完全に失神するまで水を掛けられては起こされて、何度も暴行を受けたからだろう。

「安心しろ。彼は見込みのある男だ。お前のいい右腕になるだろうから殺しはしない。ただし、お前の調教次第だがな」

 耳許で囁く海藤の声は、愉快で仕方がないという響きで辰巳の鼓膜を揺らした。

「世の中は食うか食われるか、というのが現実だ。警察など当てにならないことをよく覚えておくことだ」

 海藤は、だらりと垂れた辰巳の右手に硬い何かを握らせた。

「お前は私の大切な息子だ。綺麗ごとの理想論などで、貴重な(タマ)を無駄遣いされるのは、父として見過ごす訳にいかない、という親心だ」

 くつくつと笑う父の声に連動し、辰巳の両手が父の手によって上げられる。同時に、若林が両手から小刀を抜かれ、彼女が小さな呻き声を上げた。彼女の身が起こされて視線が合ったのと、自分が何を握らされているのかを認識したのが同時だった。

「ぃ……」

「コルト・ウッズマンなら、お前の手でも充分扱える手頃さだ。遅まきの誕生日プレゼントということにしておこう。父が直々に使い方を教えてやる」

 くつくつと喉の奥で笑う声が、辰巳の全身から嫌な汗を噴き出させた。

「空手の構えで学んだだろう。両足をしっかり踏ん張れるよう、もっと開け」

 言われるとともに、ぐいと靴で脚を開かされる。だが、踏ん張るどころか腰が抜けて、右手一本で海藤に吊るされる恰好になってしまった。

「……まったく、腑抜けが。母親の躾がなってないな」

 頭上から降る剣のある声が、若林の悲鳴にならない呻きで掻き消された。

「んん! ……んんんっっっ!!」

 ――やめろ……っ! 嫌だっ!

 声にならない悲鳴を上げる。赤木を凝視し、懇願の目を向けて覚醒を訴える。

 ――助けて。

「仕方がない。今日は発砲の衝撃具合を解らせるだけにしておくか」

 ふわりと急に身体が浮いたかと思うと、腹に軽い圧迫を受けた。海藤が自分を左腕一本で抱えたのだと認識する頃には、右手が勝手に標的を捉えていた。

「自分のまいた種は、自分で始末しろ。例え実る穂がなかったとしても、だ」

 皮肉をこめた嘲笑の声が、辰巳のぼやけた視点を鮮明にさせた。

「や……めろ……っ」

 同時に頬へ生ぬるい感触がひと筋伝う。若林の口を封じていた物が口から落ちた。

「曽根崎クン!」

「海藤だ、と言っただろう」

「いやだぁっ!!」

 みっつの声が、パン、という音に掻き消された。想像したよりも玩具の銃を思わせる音が、室内に鈍く響く。若林の眉間に二センチ大の黒い円が浮かび、次の瞬間、赤いマグマが噴き出した。それが彼女の白い肌を真っ赤に染める。大きく見開かれた彼女の目から、黒目がゆっくりと上がっていった。白目が大半を占めるとともに、彼女はどさりと床へくずおれた。

 背中に強い圧力を受ける。硝煙と海藤のコロンの匂いが鼻をつく。掴んだ獲物が右手から離れない。上から海藤が押さえつけている所為だ。リーチの違いが辰巳の腕に激痛を走らせた。

「う……わあああぁぁぁぁぁぁああああ!!」

 若林の声が巡る。初めて出会った三年の春、見せてくれた笑顔とともに思い出す。


『子供がそんな突っ張った態度なんかするんじゃないの』

『本当は甘えたいんでしょ、それが当たり前の年なんだから、恥ずかしいことなんかじゃないのよ』

『黙っちゃうんじゃなくて、ちゃんと自分の気持ちを相手に伝えなさい。キミが思うほど、友達はキミのことを大人みたいな目で見てなんかいないわよ』

『でも、案外まんざらでもないんでしょ? 雑用気分でやってみればいいんじゃない?』

『誰かの役に立ちたいんでしょ』

『キミのその不器用さは弟に似過ぎているの。助けると思って、話してよ』


 助けるどころか、追い込んだ。自分のこの手で、――殺した。

 紅い海が、フロアの白と混じっていく。人の形がぼやけて来る。腕の痛みも次第に遠のき、頬を濡らす感触も曖昧になっていった。かすかに赤木の声が聞こえた気がする。

「おや、じ、さん……そいつ、まだ……じゅっさ、い……」

「次に徒心を起こせば、お前の細君がこうなることを覚えておくんだな、赤木」

 年なんて、海藤の前では関係ない。自分の甘えが、この事態を招いた。薄れていく意識の中で、その後悔だけが強く刻まれた。




 目覚めて最初に見えたのは、今にも泣き出しそうな顔で覗き込んで来る母の笑顔だった。

「辰巳……私が解る?」

 母が辰巳に対して自分のことを「私」と言うのは初めてだった。だが特にそこへ頓着する気力もなく、問われるままに「母さん」とだけ答えた。

「俺、どうしてたんだっけ」

 頭がぼんやりとしている。最後の記憶は……何だったろう?

「事務所で倒れたからって、母さんも部屋を出るのを許されて……何も、覚えてないの?」

 何かすごく嫌な夢を見ていた気がするのだが、今ひとつ記憶が曖昧で思い出せない。大切な何かを失くしたような、自分の中で何か人とは違うものが生まれたような……それも、夢の一部だったのだろうか。

「うん……あ、ううん。今、思い出した」

 いつも必ず傍にいるはずの、少し変わり者の優男の姿がない。その理由を思い出した。彼は、自分の所為で海藤から制裁を受けていた。

「母さん、赤木は? あいつ、俺の所為で……()っ」

 慌てて身を起こそうと、右手をベッドについた途端、腕にひどい痛みが走った。

「何だ、これ」

「肩を脱臼したの。そのあとすぐに処置をしなかったから筋を痛めているらしいわ。そのまま横になっておきなさい。赤木さんは」

 母はそこまでいうと口を閉ざし、カーテンで仕切られている向こうを指差した。そこで初めて二人部屋にいたことに気づく。母がそっとカーテンの隙間から隣を覗き、それからまた辰巳の方へ姿勢を戻した。

「まだ眠っているから。リハビリ次第で腕もこれまでと変わらず使えるようになる、って。奥さんがずっとついているから、大丈夫。今は買い物に出ているんだけどね」

 何があったのと問われて俯く自分がいる。日頃から母が決してしてはいけないと口を酸っぱくして言っていることを遥かに越えた愚行をした。

「……赤木を、撃った」

「え?」

 やっとの思いで舌へ乗せた言葉に対し、母は言葉の意味を理解出来ていないのかと思わせるほど気の抜けた声を出した。母をそこまで麻痺させた。それだけのことをしでかしてしまった。

 最後に見た映像が再現される。真っ赤に染まる視界。赤木が無事だということは、眉間を撃ち抜いたあれは夢だったのかも知れない。だが撃ったことに変わりはない。「力でねじ伏せた者は、力によってねじ伏せられる」と母から暴力を禁じられて来たのに、それ以上のことをしでかした。そう考えたら、一気に感情の波が押し寄せて来た。

「俺じゃない。したくてした訳じゃないんだ。親父が」

「辰巳、落ち着いて。解ってる」

 目の前が、母の白いブラウスの色に占められる。懐かしい母の匂いが、余計に涙腺を壊して辰巳の意地を突き崩す。自由の利く左腕が、母の背中にしがみついた。

「終業式の日、俺が校門を出るのが遅れた所為で、赤木が時間どおりに帰らせなかった、って親父から制裁を受けたんだ。役に立たない奴だからお前が処理しろ、って、親父が……母さん、俺……赤木や赤木の奥さんに、どう謝っても、許されない……どうしよう……っ」

 震えが止まらない。それは許されないことをした罪の意識から来るものでもあったが。

「あいつ、ぶっ殺してやりたい。いつか、絶対、あいつだけは赦せない」

 母の心を思いやる余裕などなかった。人の形をしていながら、人とは思えない海藤に対する怒りと憎悪の方が、辰巳の吐き出す声をわななかせた。赤木を取り囲んでいた幹部の奴らひとりひとりの顔を思い出すごとに、その激情が増していく。

「このまんまの俺じゃ、ダメだ。母さんを助け出すことも出来ない」

 自分を抱き返す母の腕が強張った。

「辰巳、何考えてるの」

「赤木が前に言ったんだ。“お前が海藤組を乗っ取ればいいだろう”って」

 何てことを、と母が小さく呟いた。辰巳はそれをわざと聞き流した。

「徹底的にやってやる。あいつが霞むくらいまでのし上がってやる。力つけて、肝も据えて、あいつら力に弱い奴らだから、親父さえどうにかすれば、あいつらなんかあとでどうにでもなる」

 小学四年生の子供が、母親の腕で慰められながら言う台詞とは思えなかった。そう気づいた途端、母を押し戻していた。

「辰巳、それじゃあの人と一緒じゃ」

「言わないでよ」

 口ばかりで、実際には何ひとつ出来ていない。母はこうして海藤の言われるがままに動かされ、自分も不本意に人を傷つける行為に手を染められて。辰巳は、何よりもそんな自分に腹が立った。

「母さんの綺麗ごとは、普通の人にしか通用しない。俺だって本当はそう思うけど、ここじゃそんなの通用しないんだ。普通の暮らしに戻ったら、俺もまた戻るから。だから、もう何にも言わないでよ」

 独り言いたいことを言い散らし、母に背を向けベッドへ隠れた。布団を頭まですっぽりと被り、これ以上ないというくらいに母を拒んだ。

「……辰巳、ごめんね。生まれて来たこと、後悔してる?」

 よく解らない、というのが、今の辰巳に湧いた母の問いに対する答えだった。そんなことを、母にそのまま言える訳がない。

「……別に」

 深い溜息の声が聞こえる。パイプ椅子がカタカタと床を小さく細かく叩く。母が声を殺して泣いているのが解った。辰巳は布団の中で、それを聞くまいと身体を小さく丸めて凌いだ。

「母さん、先生と少しお話をして来るから。この病院は海藤組の息が掛かっているところだから、主治医でも信用しちゃダメよ」

 母は掠れた声でそれだけいうと、微かな靴音を鳴らして出て行った。




 最初から、海藤の見舞いなど期待していなかった。来られても、却って困る。

「キレて見境なく突進しちゃって、返り討ちで短い人生終わらせちまいそうだし」

 ひと月も経った今では、赤木との間を隔てるカーテンも日中の殆どを開け放ったままにしている。自分の腕はもう治っているのに、まだ退院許可が出なかった。恐らく怪我にかこつけて軟禁している、といったところだろう。


 動いても痛まなくなって早々、なじられることを覚悟して隣へ声を掛けた。

『赤木……起きてる?』

 深夜に零す謝罪は、どこまでも冷たい言葉にしか聞こえなくて。巧く赤木へ自分の気持ちを伝えられているとは思えなくて、凍えた。

 赤木は、自分を痛めつけたのは辰巳じゃない、とだけ言った。

『だから、お前が謝ることなんか、何にもないんだ』

 と。そう言った赤木が、カーテンを開けた。見ればあちこちに包帯が巻かれ、腕にはギプスを嵌められていたものの、銃創と思しきものは見当たらなかった。

『天井を撃っただけだ、お前は。脱臼はその衝撃。痛かっただろうに、ホントお前は負けず嫌いだな』

 赤木はその夜、笑っていた。笑って『信用してくれたみたいで、よかった』と言った。心の底からほっとしたのに、それでもまだどこか喪失感が燻っている。辰巳は結局未だに、その正体が解らないままだった。


「辰巳ぃ。お前さ、ガッコ、好きだったじゃんか。覚えてるか?」

 不意に赤木がそんな問いを投げて来た。言われて初めて思い出す。学校、という存在を。

「んー、何となく、って程度かな。俺、無愛想だったみたいだし、あんま友達いなかったし」

「ふぅん。でも、俺が送り迎えしていた三ヶ月の間、一度も休むとか言わなかったよな。それなりに楽しかったんじゃねえの?」

 最後の三ヶ月間。そう言われて、どうだったかを思い出そうとした途端、急に吐き気が辰巳を襲った。

「辰巳?」

「ごめ……気も……ぐ……っ」

「おい?!」

 何故その時そのまま気を失ったのか解らない。ただ、それ以来赤木から当時のことを問われることがなくなった。




 辰巳がこの四年間で身につけたこと。

 極真空手の段位と、受験に対応出来るだけの学力。加えて射撃の鍛錬と小刀の扱いに関するノウハウ。特に射撃のスキルを上げることは、海藤を相当上機嫌にさせた。

「ほう、空気銃では物足りなくなったか。では、腕前を見せてもらおうか」

 海藤組名義の広大な土地の一角にある、人里離れた山へ敷設された簡素な射撃練習場。小学四年の冬に退院してから、毎日ここへ連れて来られた。赤木を撃ったコルト・ウッズマンを見るだけでも吐き気がした辰巳も、今では普通に拳銃が握れる。実弾ではないからかも知れないが。

 脱臼の原因が発砲による衝撃圧で身体が海藤の方へ飛ばされたのに、海藤の掴んだ辰巳の腕が固定されていたからだと医師から言われたらしい。海藤は、母の口添えだけでは首を縦に振らなかったのに、医学的見地からの診断と解った途端、渋々ながらも火薬銃の訓練を強制しないようになった。

「どちらを使う?」

 海藤がそう尋ねたのは、今は辰巳の所持している拳銃が二挺になっていたからだ。コルト・ウッズマンよりもひと周りほど大きいトカレフは、中学の入学祝にと勝手に贈りつけられたものだ。

「……コルト」

 海藤は誰のことも信用していないのだろう。いつもなら赤木が二人の間を持たせるのだが、射撃場に来る時だけは誰も傍に近づけさせない海藤だった。出来ることなら、今この場で脳天を撃ち抜けるものなら撃ち抜いてやりたい男を相手に、辰巳が返せる言葉は、単語だけで精一杯だった。

 自分に手を汚させて巻き込んだ海藤を、未だに赦せない自分がいる。小学生の頃のように、あからさまにはしなくなったが。それよりも今は従順を装い、力をつけるべきだと自分に言い聞かせて来た。そんな毎日にようやく慣れて来たところだった。

 それが功を奏したのか、今は母と同じ部屋で暮らせている。逃げないという確信を持てたのだろう。海藤からの監視もこの四年間で随分と緩くなった。

「ふむ。やはり最初は少しでも馴染みのある方がいいか」

 皮肉な言葉と冷たい含み笑いが、辰巳を一瞬だけ剣呑な表情にさせた。

 寒い。狩猟の解禁期間中だと周囲の耳が鈍るからばれにくい、と、毎年冬場はこれに長時間つき合わされる。手がかじかんだ振りをして、両手に息を吹き掛ける。そうすることで、隠し切れなかい不快感を掌に向かって吐き切った。

 右手に手が添えられる。どきりと心臓が冷や汗を掻く。肩が辰巳に逆らい大きく一度揺れると、力を入れてもいないのに腕が勝手に上がっていった。不快なコロンの匂いが辰巳の鼻をついて来る。コロンが悪臭なのではなく、それをまとう人物に対する不快感。

「伸びたな。腕の長さも、そう変わらん」

 背後からの声が、満足げに辰巳の成長を寿いだ。耳許へ掛かった息を拭い去りたい衝動がこみ上げて来る。自然、グリップを握る力が強くなってしまう。

「トリガーに指が掛かっていたら、発砲しているところだな」

 喉の奥でくつくつと笑う声が耳障りだった。だが、背中からの気配が消えたお陰でやり過ごすことが出来た。もう背を支える必要がないと判断したのだろう。海藤には及ばないものの、中学に入ってからは辰巳自身も、ゆうに一七〇センチを越える長身になっていた。

 目の前には、必死で逃げようともがいているウサギが長い紐で杭に繋がれている。ついさっき巻きついてしまった紐を伸ばし直したばかりで、杭を中心に三十メートル前後の距離をぐるぐると回っている。白い毛が雪に紛れて、視覚で捉えるのがなかなか難しい。

(……ごめんね)

 赤木を撃つより、まだ痛みが少ない。そう割り切ってから何年経ったのだろう。トリガーに指を掛ける刹那、胸がきりりと痛む。いつかなくなると思っていた痛みは、相変わらず指へ力を注ぐ度に蘇って来る。

「!」

 急激な嘔吐感が辰巳を襲った。真っ白な景色に、紅い血を想像した。気絶や負傷だけで済む空気銃と違い、これはあのコルト・ウッズマンなのだ、などとぼんやり考えた瞬間、目の前からウサギが消えた。代わりに見えたのは――あれは、誰だ?

 膝をついたことに気づき、すぐ立ち上がる。腹へ蹴りが入る前に、自分を立て直さなくては。

「何だ」

 思ったとおり、海藤が露骨に不愉快を滲ませた声とともに、痛いほどの視線を背後から送って来た。

「いえ、立ちくらみです。あの、やっぱり、両方で」

 右手にコルトを持ちたくなかった。何故そう思っているのか、辰巳自身にも解らない。

「ほう」

 海藤にとって、そんなことはどうでもいいらしい。満足げな声から了解と解釈し、辰巳は右手にトカレフを、左手にコルト・ウッズマンを携え、標的(ターゲット)を見据えた。

 パン、という軽い音が、雪に吸い込まれていく。同時にウサギが束縛から解放された。偶然、ウサギと目が合ってしまったのだ。辰巳は咄嗟に紐を撃ち抜いていた。蒼ざめるとともに、フォローを巡らす。「ごめん」と詫びる間もなく、コンマ一秒もないほどの差で、トカレフがウサギの頭を撃ち抜いた。

 積雪が海藤の乾いた拍手さえも吸い込んでいく。

「自由を喜んだ直後に絶望、か。なかなか腕前以外の面でも成長したな。やはり、私の息子(・・・・)だ、お前は」

 その言葉と硝煙が、辰巳の感情をも真っ白に塗り替えていった。考えることを止めないと、頭がおかしくなりそうだった。

 頭痛がやまない。吐き気が次第に増して来る。早くタイムアップのゴングを聴きたい。

「次からは実弾で訓練だ。先にハウスへ戻っている。お前は今日も自主トレーニングをするのだろう?」

 知っていてわざととぼける実父が、心の底から憎かった。

「はい」

 辰巳は深々と頭を下げて拳銃を海藤へ渡し、ただそれだけを口にした。


 オーバーの内側へ忍ばせておいた大きな布地を、雪の上へ丁寧に広げる。軍手を取り出し両手に嵌める。軍手の中には既にポリ手袋を仕込んであった。

「ごめんね……」

 ただの肉塊と化したウサギに詫びる。無残な姿がぼやけて来る。頬がひりひりと痛かった。渇いた冷たい風が、濡れた頬を撫でていく所為だ。

「ごめんね……ごめんな……」

 懺悔の言葉を繰り返しながら、携帯用の小さなスコップで出来るだけ深く穴を掘る。雪が溶けた春に可哀想な姿を晒さなくて済むよう、出来るだけ深く掘り下げる。

 自分の傍にいると、傍にいる者が命を落とす。人も、人以外でも、皆が自分の所為で消えていく。だから、母と同じ部屋に住めるようになっても、自分の部屋へこもるようになっていた。いつからそんな風に考えるようになったのだろう。

 深い深い穴を掘る行為は、自分の奥底を掘る作業に似ていた。何か解るのではないかと、いつまでも掘り続ける。

「あ」

 ガツ、と嫌な音がした。粘土層まで掘り下げ、これ以上深い穴は、辰巳の力では無理だと思われた。

 雪でウサギの血で汚れた身を清めた。それから、白い布へウサギをそっと横たわらせ、何重にも厚く包んで埋葬した。

「いつか必ず親父を倒すから。お前の死を絶対無駄にはしないから」

 辰巳は崖の際に作った簡素な墓の前で、今日も殺めた命に向かって独り密かに誓いを立てた。




 同じ頃、赤木が新しい気晴らしの時間をくれた。勿論それは海藤の指示から来る、所謂『仕事』の一環に過ぎないものだが。

「パソコン通信?」

 最初はそう言って首を傾げていた辰巳だが、手ほどきを受けるに従い、赤木の予想を上回るのめり込み方をしていった。気づけば暇さえあればパソコンの前に座り、普及していない通信網の粗方をハッキングしては覗き見ることで頭を空にする日々だった。

「人のプライベートを覗き見しちゃニヤニヤしてる十四歳って、お前、どれだけ荒んだ少年してるんだよ」

 赤木は自分がレクチャーした癖に、そう零す。二歳になる可愛い盛りの子供と愛妻に恵まれて過ごす彼には、きっと解らないだろうな、と何となく思った。

「こっそり隠れて待ち合わせのやり取りするお兄さんとお姉さんとか? いい年したおっさんがOL引っ掛けようと必死でプライベートメッセージ送ってるのとか? 面白いじゃん、平和そうで」

 社会的な抹殺を懸念する経営的危機感を零す内容さえ、辰巳から見ると“可愛い悩み”だと思えていた。実際に刃物を突きつけられる訳じゃない。一家全員皆殺し、という訳でもない。横領の額だって、小さなものだ。海藤組が麻薬や銃器を売買する際に動く金額に比べたら。

 普通に勤めている人達が、辰巳にはとても幸せそうに見えた。海藤がほかの愛人の許へあちこち行かなくなったらしい。この頃にはもう事務所に赴いた際に“二代目”と呼ばれることにも慣れ切っていた。正妻は出来た人らしく、ほかの愛人達のようにこちらへ陰湿な嫌がらせをすることはなかった。

「お前からは平和そうに見えても、当人達はそれなりに必死なんだぜ」

 そういう使い方でハッキングをするな、と赤木にたしなめられて首をすくめた。

「自分だって堅気の暮らしなんか知らない癖に」

「操がリーマンのひとり娘だからな。ガキ生まれてから勘当が解けて」

 そこから先は、どうでもいい。辰巳はモニタを眺めたまま適当に情報の中をうろつき、その話を適当に聞き流した。まともに聞いていたら羨ましくなる。赤木にもすげない態度をしてしまいそうな自分を、もうひとりの自分が冷静に分析していた。まだどこか甘えが抜けていないと、冷ややかな声で言う自分の声が、どこか海藤のそれとラップした。

「――ってたぞ。おーい、辰巳、聞こえてるかあ?」

「あ?」

 名を呼ばれて初めて、自分の頭が真っ白になっていたのに気がついた。

「ンだよ、また聞き流してやがったな。総司が“にぃに、来ない”って駄々ってる、って。操がまた泊まりに来い、って伝えてくれって。頼まれてたの忘れてた」

 辰巳の頭に、渡りに船という言葉が浮かんだ。

「らっき。じゃ、今夜さっそく」

「ダーメだ。今日はおふくろさんの誕生日だろうが」

 だから、家から出たいのに。赤木はどうせ、それも解った上でそう言っているのだろうが。

「……」

「あのさ、前から言おうと思ってたんだけど。お前がいくらそうやっておふくろさん嫌いアピしたところで、親父さんが解放なんかしてくれるはずないだろう?」

 素気ない態度も、口数を少なくして関わりを浅くさせていっても、その目的があからさまな猿芝居にしか見えない。赤木は普段と異なる真面目な口調で、大人に対する時と同じ厳しい眼差しを辰巳にまっすぐ向けてそう諭した。

「まだ人生これからのお前に、諦めることを教えるっつうのもどうかと思うけどよ。堅気に拘らなくても、ここで堅気に近い形を作る、ってのもアリだと思うぜ」

 誕生日の日くらい、普通にしててやりなよ、と言う。

「普通って……だって、でも今更だし、プレゼントとかも用意なんかしてないし」

「ばっか。しょうがねえなあ。外はうっさいのが見張ってるしな。俺、買って来てやるよ。何が好きなんだ、おふくろさん」

 問われて答えに詰まる。小さい時、確か誕生日の度に訊いた気がする。

“辰巳が笑って大好き、って言ってくれるのが、何より一番のプレゼント”

 ほかは、病気に罹らず元気でいてくれることとか、保育園で描いて来た絵を、下手くそなのに泣いて喜んでくれたりとか、勝手に自分があげたいものを送っていただけのような気がする。本当は物足りない気がしていたけれど、笑うことだけが、母にあげられたものだった。それも、本当に欲しかったものなのか、子供に要らない気遣いをさせない為の方便に過ぎなかったのか、今となっては訊く機会も気もないが。

「……月下、美人」

「ゲッカ、なんだって?」

 母が欲しいものなのかは解らないけれど、あげたいものが思い出とともにふと浮かんだ。

「月下美人っていう花があるんだ。ここへ来る前まで住んでいたアパートに引っ越した時、誰かから母さんが引っ越し祝いだってもらったらしくて、よく夜中に眺めてた。あいつが踏み込んで来た時に鉢が割れて、花の茎も支柱ごと折れちゃって、ダメになっちゃったんだけど」

 初夏の夜中、トイレに起きた辰巳が小さな悲鳴をあげてしまったのを思い出した。真っ暗闇の中、トイレに入る前にはいなかったのに、出ると玄関の土間が開いていて、その向こうにネグリジェ姿のままうずくまっている母がいた。まさか誰かが玄関にいると思わなかったので、本当にびっくりしたのだ。

“ごめんね。起きると思わなかったから”

 そう言って母は、辰巳に手招きをした。

「月下美人って、花の癖に夜にしか咲かないんだって。朝までにしぼんでしまう。たった数時間しか咲いてられない花なんだけど、それが余計にこの花を愛おしく感じさせるんだ、って、言ってた」

 わずかな時間だからこそ、精一杯芳香を漂わせ、自分の気高さを主張する。漆黒の中に浮かぶ清楚な純白と甘い香りは、幼い辰巳にさえ誇りと気品を感じさせた。

“誰にだって、張りを見せる一瞬というのがあるものなのよ。色々辰巳に悲しい思いをさせることを言う人もいるだろうけど、そんな人は、まだ辰巳の張りを見たことがないからなの”

 いつか辰巳の本当の姿を見つけ出して見つめてくれる人が現れるから。あなたはあなたのままで、あなたらしく生きなさい――という言葉を、何故急に思い出したのだろう。

「どした?」

 また、トリップしていた。

「あ、いや。月下美人って、どう説明したらいいかな。っていうか、店開いてるのか?」

 誤魔化す言葉のつもりが、時計を見て本当に心配になる。既に六時半を回っている。商店街の花屋がそろそろ看板を下ろす時間帯だ。これを逃すと車を出して、市街地まで出なくては手に入らなくなる。

「うぉ、ホントだ、やばい。まあ店員に聞けば解るだろ。行って来るわ。おま、逃げるなよ!」

 まるで身内のように、あれこれ細かいことを代わりにやってくれる。赤木は本当の兄貴と思わせるくらい、遠慮なく辰巳の首根っこを掴まえて頭を拳でぐりりと捻った。

「解ってるって。ちゃんと部屋にいるから、よろしくっす」

 堅気ではないけれど、堅気の生活を知っている。そんな赤木とのこういった緩いやり取りが、いつも辰巳の気分を柔らかくほぐしてくれた。


 赤木がいなくなった途端、部屋がしんと静まり返る。もう七月も半ばを迎えるというのに、雨がじとりとした空気にさせていた。まだ梅雨の明ける兆しがないと、天気予報でも言っていた気がする。辰巳は静かな時間が苦手だった。余計なことを考えては、吐き気や頭痛に襲われるからだ。

 音楽でも掛けようと立ち上がった時、入口の扉がノックされ、母が窺うような顔を覗かせた。

「辰巳、ちょっと入ってもいいかな」

「……何」

 やっぱり突き放す物言いになってしまう。今日だけは、と、さっき決めたはずなのに。

「うん……辰巳がひとりの時って滅多にないから、こんな時くらい、なんてね。何となく」

「……しょうがないでしょ。赤木も仕事なんだから」

 そう返しながら机の椅子を引いて促すと、母がようやく笑顔を見せた。

(あれ?)

 懐かしい明るい笑顔ではない気がした。何故か、今にも消えてしまいそうな、儚い微笑。

「何か、言いたいことでもあるの」

 作り笑いだと感じたので、面倒な前置きを端折って単刀直入に尋ねてみた。

「誕生日プレゼント、ねだってもいいかしら。欲しいものがあるの」

 はにかんで俯く母のことを、驚きからつい見下ろしてしまう。必然的に目が合ってしまった。

「辰巳からしか、もらえないものだから」

 眉をひそめてそう言われたら、「実はもう赤木に頼んでしまった」と言えなくなった。

「何。珍しいね。母さんが頼みごとなんて」

「あ。もうもらっちゃった」

「は?」

 どうも、母の様子がおかしい。思わず首を傾げて眉間に深い皺を寄せると、母は言い訳のように話を続けた。

「中学に行き始めた頃から、かな。あなた、母さんって呼んでくれなくなって来ちゃって。思春期なんだからそんなものって自分に言い聞かせていたんだけどね。何だかすごく寂しくて」

「そんなこと……」

 呆れた。呆れたと同時に、くすぐったかった。

「もうひとつ、ねだってもいい?」

 そう問う表情が妙に真剣な顔をしている。どこか切迫感のある母の表情を見たら、聞き流すのは無理だと思えた。赤木が座っていたパイプ椅子を引き寄せ、母の隣へ腰を下ろす。

「何だよ、ホントに。改まって気持ち悪い」

 巧く笑えず左側の口角だけがゆがむ。母が釣られたとでも言いたげに似た表情をかたどった。

「投げやりにならないで、ちゃんといきなさいね」

 母はそう言いながら、おもむろに机のノートを引っ張り出した。小さな文字で何かを書き記したかと思うと、そっとそれを辰巳の前に差し出した。

『あなたは私の子だから。海藤の人形なんかじゃないの。あなたが赤木君を信用しているのなら、私も彼を信じるわ。彼に頼むから。だから……ここから、逃げて』

 笑ってやり過ごすには、母の声と眼差しが真剣過ぎた。どこかに盗聴器を仕掛けられているだろうことを考慮しての筆談だとうかがわせた。母が何故唐突にそんなことを言い出したのか、その理由が解らなかった。

「な……にバカ言ってんの?」

 そう言いながら書き殴る。

『俺が継ぐって決めたことだ。母さんがとやかく言うことじゃない』

「茶化さないで、ちゃんと真面目に話を、聞きなさい……」

『母さんの為に、でしょ。母さん、そんなこと望んでない』

 はたりと零れた母の涙が、ノートに小さな皺を作る。母が辰巳に隠そうともせず泣く姿を見せるなんて、今まで一度もなかったのに。

「何考えてんの。何かあったとか? 親父が何か言って来たとか?」

 嫌な予感が拭えない。変に寒気がするのは、湿った梅雨の空気の所為だけではないような気がする。勘が何かを知らせているのに、それが何を暗示しているのか解らなかった。

「母さんは期間限定なの。あなただって、いつまでも子供なんかではいられないのよ」

 語る間にも別の言葉を母は綴る。

『母さんは海藤にとって、あなたを飼い慣らす為の鈴でしかないわ。だから辰巳は母さんに縛られなくていい。……逃げなさい』

 高層ビルの最上階なのに、防音がしっかりしているはずなのに。雨音が耳障りなほど辰巳の耳に響いて来る。母の告げたその言葉から、守るつもりで遠ざけたことが、逆に母を追い詰める可能性があったことに初めて思い至った。

「人の会話を覗き見ばかりしていないで、ちゃんと身の糧になる行動をしなさい」

 会話では当たり障りのない小言にしか聞こえない言葉。だがしたためられた筆談を受けてのそれは、辰巳に二重の意味で確認に近い問いを口にさせた。

「全部、お見通し、って、こと……?」

 つまらない現実逃避の方法についてではなく、辰巳の拙い目論見から母を遠ざけていたということ。

 途切れがちに呟いた辰巳の声を、更にドアホンのベルが遮った。

「赤木君が帰って来たのかしら。鍵を開けて来るわ」

 母は辰巳の問いには答えず、するりと部屋を出て行った。明るいブラウンの長い髪と、それをよく映えさせる純白のワンピース。妙にその後ろ姿が、辰巳の瞳に焼きついた。


 昔から、嫌な予感がよく当たる方だった。ふとそんな想いが過ぎったのは、突然扉の向こうからやかましく聞こえた甲高い女の奇声と争う物音の所為だった。

「母さん?!」

 ダークブラウンのフローリングと白い壁で統一された広めのリビングが、部屋の扉を開ければ目に入る光景だったはずだ。立つ人と言えば、母か赤木、時折うっとうしい構成員、そして、海藤、そのくらい。海藤が敢えて斜陽制限のあるマンションの最上階を買い占めたのは、自分の許可した人間以外が最上階を目指しても来れないようにする為だと以前言っていたはずなのに。

「……あんた、誰」

 年を考えていなさそうな、無駄に派手なキャミソールデザインのワンピース。真っ赤なそれに飾り程度のカーディガンを羽織り、赤いピンヒールを片方だけ履いている。見知らぬ五十代くらいのその女は、濡れそぼつ髪やワンピースの裾から彼女をずぶ濡れにした雨水をフローリングに落とし、海藤さえ来なければ楽園だったはずのこの部屋を汚していた。

「見つけた……やっと」

 そう呟く口角が、邪な笑みで吊り上がる。血走った目が、辰巳にまともな精神状態ではないことを即座に知らせて身を退かせた。

「ぎゃっ」

 母が女の後ろからその腰へ体当たりして転倒させながら叫んだ。

「早く! 逃げなさい!」

 女の上へ馬乗りになり、身を起こした母が辰巳に叫ぶ。

「って、ちょっと」

 自分の発した間抜けな声が、辰巳に夢とうつつを曖昧にさせた。

 母は確か白いワンピースを着ていたのではなかったか、とか。人に暴力を振るってはいけない、という人だったはずだ、とか。こんなにじめっとした湿度の中で、タートルネックは着心地が悪いのではないだろうか、とか。真っ赤なんて似合わないとか、胸に刺さっている、それは、何、とか。

「ち……くしょう、どきなっ」

 女の方が、母よりも体格がよかった。母はあっさりと後ろへ押し退けられ、倒れていくその姿が、身を起こした女に遮られた。呆然と立ち尽くす辰巳の前で、女が無防備に背中を見せる。

「邪魔するあんたが悪いんだよ」

 彼女は下品な「へ」の音で哂い、母の胸から突き刺さっている物を抜き取った。彼女がこちらへ振り返った時、位置がわずかに左へ逸れた。隠されていた母の姿が、辰巳にその光景を焼きつける。スプリンクラーを連想させる、人の厚みよりも遥かに高くまで噴き上げる赤い飛沫。それが母の色白な肌を、真っ赤に染め上げていく。顔、腕、そして赤と白の醜い斑になっていたワンピースも、すべて深紅に染め上げていった。赤い池が広がっていく。赤い雨が目に入る煩わしさでひそめていた母の眉を解いていく。

「……なに、これ」

 母が赤く染まれば染まるほど、辰巳の頭の中に白い闇が広がっていった。

「あんたの所為で恭二が……あんたさえ出てこなけりゃ、恭二があの人の跡を継げたのに」

 そう言って身構える彼女が手にしていたものは、どこかで見たことのある刃物だった。

 ふと昔の出来事が蘇る。

『包丁もね、いろんな種類があるのよ』

 母の言葉を思い出し、自分が海藤から母を守る為に握ったことがある種類の物とよく似ている。大きさはこちらの方が、もっと大きく鋭いのだが。わざわざ新しく買ったのだろうか。確実に仕留める為に……誰を?

 そこへ思い至った時、体が勝手に動いていた。

 馬鹿みたいにまっすぐ腕を伸ばして勢いだけで貫こうと突進する女の手首を、辰巳は簡単に蹴り上げた。仰向けに倒れた女の足に、舞い上がった包丁が偶然にも突き刺さった。

「ぎゃぁう!」

「ばーか」

 嘲笑う気持ちなどまったくないのに、勝手に言葉が口を突いた。刺さった包丁を抜き取ると、耳障りな悲鳴がまた場を乱す。逃れようと動き掛けた彼女の腹を、遠慮もなく思い切り足で踏み込んで動きを封じた。

「よくここまで来れたね。親父が許したの」

 女の吐き出したもので足が汚され、不快感をこめた声になっていた。それに対し、女が初めて狂気の沙汰を引っ込めた。代わりに宿った瞳の色が、いつかの誰かを連想させる。

「か、勝手に、だけど……ごほっ……誰も見張り、いなかった……」

 女のそんな答えなど、辰巳にはどうでもよくなっていた。

(誰だった?)

 この女と同じ、命乞いをするような縋る瞳を見せたのは。思い出せないことが気持ち悪くて、さっさと片づけたい衝動に駈られた。

「やっぱ、どうでもいいや。ばいばい」

 包丁を持った右手を構え、横一文字に喉笛を切る。

「助け……っ……」

 ――曽根崎クン!

 その刹那、フラッシュバックが辰巳を襲った。

「せ……んせ……」

 半裸に近い女の姿が、四年前の光景とクロスする。許しを乞うあの瞳でまっすぐ自分を射抜いたのは、若林。他人の中で、唯一自分を理解してくれた担任教師。三年の時から密かに自分が憧れていた、年上の女の人。

 今回は、あの時と違う。海藤にやらされた訳じゃない。

「けど……本当はどうだったんだろう……」

 逆恨みした女の血飛沫を浴びながら、ぼんやりとあの頃を思い返す。本当に手を掛けたくなかったのなら、あとで自分がどうなろうと逃げるのが普通ではないか。浴びる血で汚れていく。この色が、自分の本質ではないか。普通なんかを求めてはいけない類の人間なのではないか。浮かんでは消える言葉達が、辰巳に弁解の言葉を零させた。

「……好きで親父の血を汲んでるんじゃないんだけどなあ」

 誰に言い訳をしているつもりなのだろう。自分の声を聞いて、自分でも嗤えた。女はぴくりとも動かない。もうヒューヒューという漏れる息の音さえ聞こえない。初めて、自分の意思で人を殺した。もう、普通の暮らしには戻れない。それだけが確かな事実として辰巳の目の前に横たわっていた。

「た……つみ……」

 ビクン、と肩が大きく震える。息苦しい悪夢から目覚めた感覚に襲われた。同時に何かが頬を這っていく。食器棚に映る自分の真っ赤な頬に、血塗れていた部分を清めるひと筋がはっきりと見てとれた。

「いき、な、さい」

 まだ、母に息がある。それが辰巳を夢うつつから現実へと引き戻した。

「母さんっ」

 手を伸ばせばすぐそこにいる母の傍らで膝をつく。リビングテーブルから乱暴にテーブルクロスを引き抜いて母の首と胸にあてがうが、それはまるで意味を成さなかった。

(どうしよう……)

 医者など呼べない。事件扱いされたら、母が世間に晒される。海藤の名も表に出されるだろう。それを奴が許すなんてあり得ない。救急車よりも先に、組の誰かがやって来るに違いない――止めを刺す為に。辰巳は無駄な抵抗と解っていつつ、母をただきつく抱きしめることしか出来なかった。

「むり。だから、いきなさい」

 か細い声が、何度も辰巳の耳許をそうやってくすぐった。繰り返し、苦しげな息が「今の内に」と繰り返す。

「辰巳――私だけ(・・)の、自慢の、息子……愛してるわ」

 母が最期にくれたのは、そのひと言と、誇らしげに逝く儚げな微笑だった。




「――だからさあ、もう堅気なんか半分以上諦めてたんだよな、俺」

 深夜の公園、ブランコを揺らしながら、克也を向かい合わせで膝に乗せて、辰巳は語る。

「でもさ、まあ、実際に加乃がどう思ってるのかはわかんないけど、母親が言ってた“いつか本当の辰巳を見てくれる人が絶対に現れるから”って奴、加乃と逢った瞬間、思い出したんだ。ずっと忘れていたんだけど」

 克也が見上げて来る気配を感じる。こっ恥ずかしくて仕方がないので、出来れば見上げて来ないで欲しいのだが。揺れるブランコに勢いをつける。

「うゎ」

 克也が慌てて腕を背中に回してしがみついて来た。

「おまけに克也っていう宝物付じゃん? まだまだ俺の人生、やり直しが利くかな、なんて」

 身体が空へ引き寄せられる。あと一歩と思えそうな距離まで二人を夜空へ近づける。

「だから、加乃が怒るのも無理ないって俺は思うぞ。俺も加乃も、お前さんがいるから生きていける」

 同じ勢いで身が後ろへ引っ張られる。背中のシャツを握り締める小さな手に、きゅ、と強い力が込められる。

「本当はボクさえいなかったら自由になれるのに、なんて。もう絶対加乃に言っちゃダメだぞ」

 大切なものを見つけて初めて知った。助けたいと自分が勝手に思っているだけなのに、拒まれると自分自身を拒絶された気分になる。それは――かなり、辛い。

「辰巳だって、ボクがいない方が、加乃姉さんとエロエロー、ってしやすいじゃん」

 くぐもった声が胸元から聞こえた。

「……どこでそんな言葉を覚えて来るんですか」

「昼メロ」

「何それ」

「ドラマ……うぉっ!」

 帰ったら今度は加乃に説教だ。人の留守中、子供にそんなものを見せるとはなにごとだ、と杭を刺しておかないと、彼女は彼女でちょっとピントがズレている。辰巳は姉妹喧嘩の仲介なんかしている場合じゃないと考え、ブランコを漕いでいた足を地面へつけた。

「あのね。加乃からイヤイヤビームが飛んで来るのっ。お前さんがいることで、場が和んでるっていうことなのっ。お子さまは余計な気を遣ってないで、ちゃんと加乃にゴメンねって言う練習でもしなさい、以上!」

 逃げられないよう、細い身体を高く掲げてくるりと回す。そのまま首をまたがせる。

「うぁ、たっけー!」

「そう言えば、肩車なんて初めてだったな」

 普段は家の中だから、克也の頭がつかえそうでしてあげたことがなかった。

「何か、星を掴めそう」

 克也の言葉に釣られて辰巳も空を仰いでみた。微かに瞬く、ネオンが明る過ぎる都会から見た星達。今にも消えそうなほど儚いのに、確かに煌く。それはまるで辰巳が追い求めているもの、そのもの。

「掴めるさ。文明はすごいスピードで進化してる。いつか普通に宇宙旅行の出来る時代が来るかもな」

 克也に夢を持って欲しくて、そう言った。同時に自分も夢を見たくて。

 普通でありきたりな、つまらない悩みでグダグダしては喧嘩をしたり、嬉しいことには一緒にはしゃいだり。そんな平和な毎日という、星のようにおぼろげで遥か遠い、でも確かに在るものを、きっと手に入れられると信じたい。

「行けるの? いつか? ホントに?」

 克也の声が、星に明るさを添えた。やっと彼女と目を合わせられた。

「そうだな。ちゃんと加乃と仲直りしたら、今度プラネタリウムへ連れて行ってあげる」

 守谷姉妹は辰巳にとって、都会に瞬く夜空の星。遠くて儚くて、だけど確実に存在している、光。本当の光は、都会なんかでは見ることが出来ない。本来の光が見れるのならば、都会という濁った空から、彼女達を自然溢れる本物の空の下へ逃がしてあげたい。

 辰巳は二十一歳の頃、本気でそんな風に考えていた。

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