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「ルドルフ・フォン・リューベック! 貴方との婚約は破棄するわ!」
大広間に響き渡る声の主は、サンドラ・ファン・ネーデル。
東の隣国ネーデル王国の第三王女だ。
「……かしこまりました」
ルドルフは、喜びのあまり大声で笑い出しそうになるのをなんとか堪えつつ、ドレスの裾を持ち上げて優雅に淑女の礼を取った。
※※※
事の始まりは一ヶ月前。その日は学院の入学式だった。
「ねえ、そこの貴方!」
ルドルフ・フォン・リューベック公爵令息は、不意に背後から声を掛けられた。
振り返ると、そこには一人の女子生徒が立っていた。
金髪碧眼で中々に可愛らしい容姿。
だが見るからに生意気そうな態度。
その後ろには、数人のおとなしそうな学生達――多分、取り巻き達だろう――が静かに控えている。
サンドラ・ファン・ネーデル。東の隣国ネーデル王国の第三王女。
有名人である彼女の噂は、そういった噂に興味の無いルドルフの耳にも届いていた。
父親であるネーデル王に溺愛され育ったサンドラ王女は、ひどく我儘で惚れっぽい性格らしい。
まだ13歳だというのに、すでに2回も婚約破棄騒動を起こしていて、自国ではもう婚約者のなり手がいない。
その為、ここロルバーン公国に、留学という名目で婚約者を探しにやって来た。
ついたあだ名は「婚約者ハンター」
最近のロルバーンの若い男性の間では、「お互いに狩られないように気を付けようぜ」が合言葉となっている。
ルドルフは、随分と酷い言われようだなと思いはしたが、だからと言って王女に同情したわけではない。
何故なら、おそらく母国から連れて来たのであろう取り巻き達に対する王女の態度が、あまりにも酷いものだったからだ。
その現場を見たのは偶然で、ほんの僅かの時間だった。
だが、ルドルフが王女に嫌悪感を感じるのには十分な理由になった。
仮にも同級生として同じ学び舎に通うことになった者達だ。
なのに王女は、彼らを下僕のように扱っている。
それを横目で眺めつつ、ルドルフはむしろ王女の取り巻き達の方にこそ憐みの目を向けた。
「今日の貴方の挨拶、とても良かったわ!」
王女が尊大な態度でそう言った。
完全な上から目線。
褒めて遣わす、と言わんばかりの高慢な物言い。
つくづく感じの悪い女だな、とルドルフは思った。
随分と偉そうだし、そもそも初対面なのに馴れ馴れしすぎる。
だが、ルドルフはそれを態度に表すような愚かな真似はしなかった。
今日の入学式で、ルドルフは新入生を代表して挨拶をした。
新入生代表挨拶は、入学前の試験で一番の成績を取った者がすることになっている。
唯一の例外として、大公家の子女がいる場合はその彼、もしくは彼女が挨拶をする。
だが、今年入学予定の公女は隣国へ留学していた。
なので、規定通りにルドルフが挨拶をしたのだ。
とは言え、ルドルフは今年の新入生の中で最も優れた者であると同時に、最も身分が高い者でもあった。
彼の家、リューベック公爵家は、このロルバーン公国が興る前から続く由緒ある家柄だ。
その身分は大公家の子女にも匹敵する。
「恐れ入ります」
「…………っ!」
ルドルフはほんの少しだけ口角を上げ、ふわりと微笑みそう答えた。
すると王女は、耳まで真っ赤になり狼狽えたように後ずさった。
ルドルフの笑顔を目にした者の多くは、こう言った反応を示す。
すぐ後ろに控えている取り巻き達だけでなく、少し離れたところで様子を見守っていた者達ですらも、ルドルフのその美しい笑顔に頬を染めている。
ルドルフは自分の笑顔が齎す効果を良く分かっていた。
自分がとびきり美しいという事も。
そう。ルドルフはとんでもなく美しかった。
ルドルフ・フォン・リューベックという人間を言葉で説明するとしたら、まず最初に語られるべきはその美しさについてだろう。
由緒ある公爵家の嫡男であるとか、入学前の試験で一番を取ったなどという事は、あくまでも付け足しの要素に過ぎない。
肩より少し長い銀髪を首の後ろで一つに結んだルドルフは、整った顔立ちと神秘的な紫色の瞳が相まって、まるで人ならざる者のような美しさだった。
まだ13歳である彼は、背は高いが細身で、少年らしい華奢な体つきをしている。
そのせいで、遠目には少女と見紛うほどの中性的な魅力を放っていた。
「決めたわ! 私、貴方を婚約者にする!」
突然、王女が叫んだ。
出会ってまだわずかな時間しか経っていない。
ましてや、ルドルフは彼女に一言しか返していないのに。
なんて子供っぽい物言いだろう。
欲しい玩具を強請るようなその様子に、ルドルフは流石に苦笑せざるを得なかった。
「私はリューベック公爵家の嫡男です。他家に婿入りすることはできません」
ルドルフがそう告げると、王女の顔色がサッと変わる。
「では、私に嫁入りしろと言うの?」
「いいえ。その様なことは言っておりません」
ネーデル王はこの我儘な末娘を溺愛している。
彼の王はこの王女の願いのほとんど全てを叶えているのだが、ただ一つだけ許さないことがあると言う。
それは、王女がネーデル王国を出て他国に嫁ぐこと。
王女自身も母国を出ることを嫌がっていると聞いている。
王はこの溺愛する愛娘をずっと自分のそばに置いておきたいらしい。
仕方なく一時の留学を許してはいるが、婚約者が決まったらすぐにでもネーデル王国に戻るように王女に言い聞かせているという。
ルドルフと王女が結婚するとなると、ルドルフがこの国を出てネーデル王国に行くことになるだろう。
だが、ルドルフはリューベック公爵家の嫡男。
ロルバーン王国で家を継がなければならない身の上だ。
なので、ルドルフはそれを理由に王女の申し出を断ったのだ。
「では、私はこれで失礼致します」
頭を下げそう言うと、ルドルフはその場を立ち去ろうとした。
もうこれ以上話す必要は無いからだ。
だがその時、唇を噛みしめ悔しそうな表情で王女が呟いた。
「…………絶対に、絶対に諦めないから」
――まるで駄々っ子だな。
そう思いつつ、ルドルフは足早に歩き出した。
※※※
そして、それから一週間が経った日の朝。
いつものように、家族四人で朝食を摂っている時だった。
「ルドルフ、お前とネーデル王国のサンドラ王女との婚約が調った」
突然、父から告げられた言葉に驚き、ルドルフは朝食を摂る手を止めた。
ルドルフの父であるリューベック公爵フランツは、信じられないことに笑顔でそれを告げてきたのだ。
「昨日、ネーデル王国から正式に申し込みがあった。もちろん、喜んでお受けしたよ」
「何故です?」
サンドラ王女がネーデル王国から嫁いで来ることは、万が一にもあり得ない。
ならばこの婚約は、ルドルフがネーデル王国に婿入りする形で結ばれたものだろう。
だが、ルドルフはリューベック公爵家の嫡男なのだ。
婿入りは到底無理な話なのに、何故。
「お前はサンドラ王女と結婚した後に、ネーデル王国で公爵位を賜ることになった。王都に近い広大な領地も与えられると聞いている。破格の待遇で迎えられるということだ」
「では、リューベック公爵家は誰が継ぐのですか?」
回りくどい聞き方をしている場合ではない。
ルドルフは父にはっきりとそう問いかけた。
「それはもちろん、マリウスに決まっている」
父はルドルフの斜め前に座っている異母弟マリウスの方を見て、笑顔でそう言った。