人格抹消刑
ある時。ゾンビの集団のごとき人権団体の執拗な主張は
国民を巻き込むことに成功した結果ついに通り
死刑どころか終身刑まで廃止という運びになった。
囚人たちは狂喜乱舞し、一方で選挙のための国民の人気取りに盲執せず
世を憂いて嘆く政治家もいるにはいた。
景気悪化。移民による人口増加。
時間が経てばいずれ落ち着くであろうと思われていた国の混乱は
未だ撹拌された池の底。増加する犯罪者。パンク寸前の刑務所とその費用。
焼け石に水。軽犯罪者は釈放、また設けた基準以下は逮捕しないなどの
案が上がっている中での此度の死刑及び終身刑の廃止。問題は山積みであった。
……が、それを解決したのが一人の博士のある発明であった。
「嫌だ! 放せ! 放せえええ! 殺される! いやだああああああ!」
「……相変わらず、壮絶だな」
「おや、大臣。これはどうもどうも」
「やあ、博士。久しぶりだな。今日は問題がないか視察に来たわけだが」
と、大臣は顔をしかめ、ポケットから取り出したハンカチで鼻と口を覆う。
相変わらず陰気な部屋だ、と大臣は思った。黴臭い……だけではない。
窓がないため通気性が悪い。壁も床も打ちっぱなしのコンクリート。
水で掃除しやすくするためだろう。排水溝もある。
染みついている床の汚れと嫌な臭いの正体は怯えた囚人が漏らした排泄物と吐瀉物か。
一つしかない照明は暗く、部屋の隅まで光が届いていない。
そして、その照明の下には拘束椅子。泣き叫ぶ囚人。
「ええ、どうぞ。好きなだけ見てください。
少々、うるさいですがまあすぐに静かになりますよ」
「ああ……最初の被験者の時もそうだったから知ってるよ。
しかし、よくもまあ、それも時代か……」
「ええ、そうですとも。結局あるべき形に納まるというものです」
「囚人の再教育とは、まあ聞こえがいいな。実際は人格の抹消だというのに」
大臣がそう言うと博士は目を剥いて大げさに驚いてみせた。
「おやおや、抹消とは人聞きが悪い。上書きですよ。記憶も罪も全てね。
罪悪感に蝕まれることもないですし再び悪の誘惑に呑まれることもない」
「しかしだな……」
「ああ、思い出した。あなたは最初の時もそう難色を示しておいででしたね」
自分に言い訳するためにね。罪悪感というよりは
問題が起きた時のための保身のようなものだろう。
博士はそう言いたげだったが満足いくまでこの会話に付き合ってやるつもりだった。
自分の発明に絶対の自信があるのだ。
「まあ、な。すでにその人格の上書きをした囚人は世に放たれているわけだが」
「問題は起こしてない。そうでしょう?」
「ああ。だが……」
「不安なんでしょう? ふふふ、こう考えておいでですね?
何かをきっかけに、そう元々の知り合いとの会話や、ははははっ!
頭をぶつけたとか事故で悪の人格が蘇ることを」
「お見通しだな。まあ、それしかないだろうが」
「ご安心を。それに関しては完璧です。
彼らはそう、これをこうして装置を起動……ふふふっ。
ほら、そこの彼も、もう完全に生まれ変わったのですよ。
一人の善良な人間にね。なあ、そうだろう?」
「はい、今までお世話になりました。
外に出ても世のため人のために尽くすことを誓います」
「ほらね」
「ああ……確かに表情も、口調も変わった。何度見ても演技だとも思えない。
その頭の装置の力というわけだな」
「ええ、ええ、そうですとも。この装置を頭に被せ、まずは人格を消去。
記憶も何もかもすべて綺麗さっぱりに。
その後でああ、まさにコピーアンドペーストですな。
善人の脳のデータを流し込み、上書きするわけです」
「うむぅ……」
「ふふっ、まだ不安そうだ。何をそんなに心配しているんです?」
「まあ、胸騒ぎというか、腑に落ちないというか。その、新しく上書きされた人格だが」
「ははは、大丈夫ですよ。もととなった人間はまさに現代の聖人。
あらゆる心理テストにも合格した完全なる善人ですよ。
さあ、次の囚人を連れてきてくれ。
お? はははは、静かだね君は。まあ、そう緊張せずとも……」
囚人はまだまだたくさんいる。忙しいのだ。もう、大臣を相手してやるつもりはない。
そんな風に博士は職員に次の囚人を来させるよう指示を出した。
だが、その囚人を目にした途端「あ、う、あ……」と口をパクパクさせた。
「ん、どうした? 博士」
「いや、あの……その……彼です」
「ん? 何がだ?」
「いや、ははは……彼でした。その、新しく上書きされる人格のモデルとなった、ええ。
えっと、経歴は……あ、詐欺師、あ、そう、え、殺人も。
えっとどれくら、わあ、そんなに。これまで捕まらずに、あ、そ、そう。あ、あははは……」