〈時雨ツバメと初月桜〉
〇
〈フォールン〉の攻撃が始まってから一年が過ぎて。
なす術なく敗北を重ねた人類が、重苦しく確実に迫ってくる絶望に立ちすくんでいた――ころ。
……一縷の望みを託した、安全域を探す世界規模の調査の結果、ほぼ全域においてヒトの居住がほぼ不可能となった関東の山岳地帯のわずかな一角に、フォールンがけして近づこうとしない区域が確認された。
大気はフォールンの自爆攻撃によって汚染され、通常の生物は存在せず、気象、地質、水質、降り注ぐ宇宙線、観測しうるあらゆる点において、物質的に特筆すべき点はいっさいなし。
……ただ、そこには必ず、〈フォールン〉の接近を拒む「何か」がある。
多大な犠牲を払いつつ、その中心部で発見できたのは――全身の八割以上を欠損した、無惨な有様の遺体がひとつ。
おそらくはそれが最大の致命傷となったのであろう孔が胸部に口を開け、心臓は残っておらず。
残留していた所持品から姓名と所属組織、10代後半のアジア人の男性であることはは確認できたものの、いかなるネットワークを用いても、「そのような人物も、組織も、史上存在したことがない」ということが判ったのみ。
便宜上〈天使の亡骸〉と名付けられたそれを切り刻み、擂り潰し、細胞の一片に至るまで調べつくし、最初の1年でようやく証明できたのが――
「異なる物理法則を身に纏う」ことで無敵の存在として人類を蹂躙しつつあった〈フォールン〉に対して、それを無効化し致死性の猛毒として作用する構成因子を保有していること。
それゆえに〈フォールン〉がその屍骸を忌避しているらしいこと。
〈天使の亡骸〉の生前の姓名から名づけられた。
――それが〈M因子〉。
〈天使の亡骸〉の研究を行っていたチームが母体となって産まれた組織。
――それが〈福音機関〉。
〈M因子〉を体内に取り込み適合すること、生体外部管制器官として〈チャイルド〉の補佐を受けることで、〈フォールン〉を打倒しうる戦闘力を獲得した決戦人類。
それが〈イヴ〉。
実戦投入された〈イヴ初號機〉が最初の勝利を収めたのは、当時の首都機能を置かれた都市がもうあと一日で陥落するという、ギリギリのその日、だった。
〇
……戦闘と、それに伴うバイタルチェックを終えた後、ツバメさんはいつも真っ先に僕のところに顔を出す。
すでに強化服と仮面をトランクひとつに納め、縦ラインのセーターと黒いデニムパンツの平服に着替えた彼女が、待機室のソファで彼女を待つ僕の所に戻って来た。
蛍光灯の無機質な光と、白一色の壁に囲まれた殺風景な部屋には不似合いのおしゃれな装いだ。
「ただいま、桜」
「おかえり、ツバメさん」
「……桜。大丈夫? 怖かったり、痛かったり、しなかった?」
「僕は平気。ツバメさんは? 怪我、してない?」
こんな風に、もう今まで何百回も繰り返したやり取りを、また交わす。
お互い、戦闘時のモニタリングとその後のバイタルチェックで、ツバメさんが傷一つ負っていないことも、僕の脳が危険域の負荷を受けていないことも承知している。
だけど、こうやって面と向かって、言葉を交わすことには僕たちにとっての意味があり、価値がある。
「――そう、良かった」
例えば、こうやって間近で安堵の息をつく時の彼女の顔が僕は好きだ。
何しろツバメさんはものすごい美人なので、綺麗でない表情、好きでない表情と言うのはほぼ存在しないのだけど。
彼女とはもう長い付き合いで……
この戦いが始まってからもう5年。
その時9歳だった僕は14歳。12歳だったツバメさんは17歳になる。
だから、彼女のことは大抵知っている。
彼女がどれほどにかっこいい、気高いひとであるのかも――
そして、少し困ったところも、だ。
「ああ、桜――私の、桜」
前置きもなく、湿度の高い声と共に、ツバメさんの両腕が僕の首に回される。
セーターの生地越しに、柔軟性と衝撃吸収力に優れたツバメさんの胸部が押し付けられる。
「ちょっと、ツバメさん」
……傾向として〈イヴ〉というのは大体〈チャイルド〉を大事にするものなのだけど、ツバメさんのそれは少々度を越していて、たびたびこういうことをする。
あまり自分たち以外の〈イヴ〉と〈チャイルド〉を知らないので、もしかしたらよそもこうなのかもしれないが、彼女にとっては、初月桜はいつまでたっても、出会ったころの9歳の男児であるらしい。
「うん……うん。ああ、いつも通りの抱き心地だね、桜」
「やめろよツバメさん、みんな笑ってる」
顔見知りの医務スタッフさんが、苦笑いしながらワゴンを転がして部屋から出ていく。
……僕はこうやって、ツバメさんに舐めしゃぶるように溺愛されて育った。
これでは文字通り、彼女の〈子供〉だ。
……また、僕がアイソレーションタンクに投入され、脳だけツバメさんと繋がってるときは、極力何も身に付けていないのが望ましく……。
今は一応検診用のガウンを羽織っているけど、その下は陸上競技の選手みたいなタンクトップとパンツで体感的には結構薄着なので、密着されると美人の姉に肌を触られているみたいで気恥ずかしいのだ。
……9歳と12歳の時から、時間的にも空間的にもいそいそ別室に別れる余裕のない緊急発進の度に、体中、見られたり見ちゃったりを繰り返してるのだけど、だからこそ、けじめははっきりさせておきたい。
「ツバメさん」
ツバメさんが、僕の肩口辺りですんすんと鼻を鳴らしている。
「何?」
「……僕の匂い嗅ぐの、やめて」
「……ちょっとだけだから」
「薬臭いだけだろ?」
「……そんなことない、桜のにおいがするよ」
かっこいい、整った顔はそのままにそんなことをいうのだから敵わない。
「……鼻息が当たって気持ち悪い」
「もうちょっとだけ」
「優しく言ってるうちにやめようね?」
「……待って、あとひと嗅ぎ……2、3嗅ぎ」
……そこまで粘られると、
「じゃあもう何も言いませんので、どうぞ好きなだけご堪能ください」
と申し上げるしかない。
「ツバメさん」
ああ、まだこれを言えていなかった。
「……なに?」
「出撃、ご苦労様」
どんなに過酷な戦いでも、どんなに辛い戦場でも、最初の出撃以来、僕は毎回必ずこれだけは伝えてきた。
だから、今日も同じことをする。
ツバメさんはそれを聞くと、ふふっと一つ笑い、ぼくを抱きしめたまま、指先で僕の額をつんとつつき、
「こちらこそありがと、ご苦労様、私の騎士様」
と言って、微笑んだ。
「……からかわないでよ」
とにかく出会った頃からきりっとして、可愛いというよりは綺麗とかかっこいいという感じのひとだったけど、今ではそれこそとんでもない美人に成長していて――
同じ家で寝起きしている僕などは、毎朝顔を合わせるたびに恋に落ちてしまいそうになるのをこらえるのにもひと苦労だ。
〇
ようやくツバメさんが僕を解放してくれてから、事務係りのひとに退出の手続きを済ませてもらい、
「これからどうされますか?」
「このまま一度帰ります。直帰で」
と希望を伝え、それが承認されるのを待って、〈福音機関〉が宛がってくれた僕たちのマンションまでの道、灰色の空をツバメさんとふたり歩く。
吐く息は、白い。
もともと平均気温の低い地域ではあったけれど、フォールンの襲来以降、世界規模で寒冷化が進んで、一年中冬みたいになっている。
「桜、寒くないか」
「平気だよ」
「ほら、もっとこっちに来て」
丈の長いコートの中に僕を抱え込むように、ツバメさんが僕の肩を抱く。
ひと目もあるので恥ずかしくはあるけど、実際、平気だと言うのはやせ我慢なので、言葉に甘えさせてもらう。
傍目には、僕たちはせいぜいどこも似てない姉と弟だ。
「夕ご飯どうする? どこかで食べる?」
〈イブ〉であるツバメさんも、その〈ベストチャイルド〉である僕も、出番のたびにそれなりの金額を支払われている。
貨幣価値が暴落していて、そう毎度の贅沢はできないけど、ちょっとした外食くらいならなんとか、だ。
「……私は、桜の手料理が食べたいな」
「じゃあ、マーケットに寄ろうか」
〈福音機関〉の施設を中心に、生き残っている交通機関もあれば、そこを中心に人は集まり、街らしいものが出来上がる。
何とか営業しているマーケットが道すがらにあるので、そこに寄ることにする。
……と言っても、あまり心ときめかない買い物だ。
フォールンの破壊活動と寒冷化によって大きく損害を被ったのが、農業や漁業、畜産業。
特に野菜や穀物は形も小さいし、色も悪い。
けど、腕を尽くして何とかしよう。
ツバメさんには、少しでもおいしいもの食べて欲しいし。
……ツバメさんと2人で暮らすようになって……あの頃のツバメさんの歳をとっくに超えてしまった今になってよく判る。
彼女がどれだけ無理に無理を重ねていたか、そのうえで僕を思いやってくれていたか。
〇
敗戦に次ぐ敗戦、人類滅亡と言う絶望の未来の足音も間近に聞こえてきていた5年前。
〈福音機関〉と言う得体のしれない組織が〈イヴ〉とやらいう新兵器を開発したと言う噂話が聞こえては来たものの、それも勝てるかどうかは良くて五分五分。
負ければもちろんそれまで。
勝ったところで、相変わらずフォールンの自爆を許せばその区域は居住が不可能になる。
……と言う、希望の光と言っていいのか判らない、心もとない薄闇の中を、人類全体がのたうち回っていたころ。
両親を亡くし、家を焼け出されて、年のちかい兄と二人、避難所の隅っこで膝を抱えていた僕は〈福音機関〉の躾のなってないゴロツキどもに、
「初月桜だな」
と呼びつけられた。
返事はしなかった、……もう何もかも億劫だった。
「うるさいな、ほっといてくれ」
「僕は疲れてるんだ、あんたたちの相手は御免なんだ」
そんな感じのことを言ったと思う。
手首を掴まれた手を、振り払ったと思う。
まあ、それで、
「こいつ、抵抗したぞ!」
「構わん! 多少手荒になってもいいと言われている!」
という実に繊細で傷つきやすいひとたちに、遠慮なく顔を殴られ腹を蹴られ、腕を捻り上げられ縛り上げられて黒塗りの車の後部座席に突き倒されて、〈福音機関〉の施設に運搬されてきた。
……割って入ろうとした隣のテントのお婆さんが殴り倒されるのと、兄が端金みたいな金額の紙幣を握りしめたまま、さっと目を背けるのを見た時に、僕はもう、色々と諦めた。
役職の割には微妙にひとの良さそうな顔の〈隊長さん〉はボロ雑巾みたいにな僕の姿を見るなり、
「こういうことじゃねえよ、妨害されるようなことがあったら荒っぽくなっても無事にこの子を連れて来いって言ったんだ」
と、言って頭を抱えた。
「ああ……悪かったな」
と言って詫びる〈隊長さん〉に、
「……殺すんなら早く殺せ」
口の中を切った痛みで良く回らない舌で僕はそう返した。
〈福音機関〉に連れて行かれた子供は、拷問を受けた挙句に殺されて脳を取り出されるんだ、という与太話を避難所で聞いたことがあった。
死ぬのは別に構わないが、痛いのと怖いのは嫌だった。
「ツバメ、本命が届いた」
〈隊長さん〉が、僕の肩越しに呼びかけた。
「……これ、どういうこと?」
振り向いてみれば、そこには憎らしくなるような小奇麗な顔の、僕よりも少し年上の子供がひとり、そこに立っていて、顔を腫らした僕の有様を前に、怒りに顔をこわばらせていた。
白い髪のその子は、光を反射するエナメル質の生地の、水着みたいに体型がはっきりと判る、悪ふざけみたいな服を身に付けていた。
……ちょっとだけど胸が膨らんでるから、女の子だな、と思った。
その女の子は、
「……こういうことはしないで欲しいって言った!」
と、〈隊長さん〉に食って掛かった。
……正義感に溢れた、吐き気のするような面だった。
避難所にいた、同年代の女の子たちは、いつも餓えて薄汚れていて、何かと言うと互いに陰口を言い合い、いがみ合っていた。
そのくせ、外国の人道支援団体のひとや、報道のカメラの前でだけは、殊更健気に、仲良く支え合って暮らしているように振る舞って見せた。
なので、最初は、その子が僕の為に怒っているように振る舞うのも、その類だと思っていた。
「私は、時雨ツバメ」
〈福音機関〉の制服を纏って、改めて僕の前に立った女の子は、自分の手で僕の手当てを終えてから、そう言った。
名乗り返すような義理もなかったが、手当てもしてもらったことだし黙っているのも失礼な気がしたので、自分は初月桜だ、と伝えたら、
「それは、知ってる」
と返された。
最初に見た、お色気アニメのヒロインみたいな恰好は、今着ている制服や戦闘服の下に着るインナーみたいなもの、――であるらしかった。
「君に、私のチャイルドになってほしい」
時雨ツバメは、僕に頭を下げてそう言った。
良く通る、少年のような声質だけど、その口調はどこか心細げだった。
「……私は私の家族の仇を討ちたい、そのために君が必要だ。これは全部、私の都合だ、別に望んでそうしたいわけじゃないけど、私は君を地獄に引きずり込む女、ってことになるから、……だから、3つ、約束させてほしい」
どこか他人事のように、ぼんやり聞いていた僕に、三本の指を立てて見せる。
「……一つ目、できるだけ君が怖い思いや痛い思いをしないで済むよう努力する。
……二つ目、もしもいつか、君がもうこんなの嫌だ、こんなの止めたいって言ったとしても、その時に私はけして君を責めない。
……三つ目、仮に先の2つに背いたとしても、君の命を守る」
と、そこまでを順番に言ってから、
「……あー、ごめん」
僕の方に向き直り、彼女はもう一度、深く頭を下げた。
「これ全部、当たり前だった、やって当然のことだった。……こんな当たり前のことで信じてもらおうなんて、虫が良すぎるよね」
と寂しそうに俯いた。
「でも……私が君に上げられるものって、ほかに何もないんだよ」
……何で?
と、僕は問いかけた。
「何で僕の為に、何かしようなんて思うの?」
それがよく判らなかった。
力づくでも、無理強いでも、言う事を聞かせるだけなら、いくらだってできるだろう。
彼女は少し考えてから、
「……君が、私がずっと待ってた人だから。私に戦う力を与えてくれるのは、君だけだから」
と、答えた。
……ほんの少しだけ、時雨ツバメが僕を気にかけてくれてはいるのだと言う事は、信じてもいいかと思った。
かりそめにであるにせよ、他人に気にかけてもらえるというのがこんなにもありがたいものだと、僕は初めて思い知った。
何しろ実の兄さえ僕を端金で売り渡したのだ。
〈イヴ〉とか〈チャイルド〉とか言うのは、まだよく判らない、けれど……
「僕は、何をすればいいの?」
戸惑いながら、そう言ったその時に――けたたましくサイレンが鳴った。
悪夢にうなされるくらいに何度も聞いた、フォールンの攻撃が開始されたのを伝えるアラートだ。
時雨ツバメは、数秒間、眉間にしわを刻み、それから意を決したように
「……戦って、私と一緒に」
と言う言葉と共に、掌を向けた。
差し出されたその手を取って――僕は彼女の〈チャイルド〉になった。
〇
初めてアイソレーションタンクの中で彼女と同調し、彼女と一緒に風よりも早く駆けた、彼女の戦う様を見たあの日、あの瞬間。
あの刻だけは、冷え切っていた心が、熱くなった。
どんな鬱屈も、諦念も打ち砕いてくれるのではないかと、――そう信じることが出来た。
その日から、もう5年。
最前線で戦い続け、生還し続けているツバメさんは、現在稼働中の〈イヴ〉の中でも屈指の実力者として高い地位を得ている。
少しでも彼女の力になりたくて、僕は必死に体を鍛えた。色んなことを勉強もした。
……もともとの体質なのかちっとも筋肉はつかなかった、足も遅いし、いまだに身長だって追いつけない。
まだしも役に立ったのが、書庫で埃を被っていた「孫子」とか「六韜」とかの兵法書の類だった。
「今更ムキムキになられても、その、困る。……桜は、かわいい桜のままでいて欲しい」
とツバメさんが日ごろ言ってくれるのが、せめての救いだ。
それに、ツバメさんの役に立てるのは、それだけじゃない。
筋肉がつかなくても、兵法を憶えられなくても、できることはある。
寒さに震えながら、僕たち二人の住まうマンションに戻って来て、マーケットで買い求めてきた夕飯の材料をキッチンに並べる。
「それじゃご飯作るから、待っててね」
「はーい」
テーブルに腰かけて頬杖をつき、僕の姿を楽しそうに眺めるツバメさんの視線を浴びながら夕食の支度をする。
といっても、切って、混ぜて、炒めるだけだ。
いくらもしない内に、炒め物が出来上がり、保存のきく袋詰めの食料と一緒に皿に盛り、テーブルに並べる。
「できたよ、ツバメさん」
「ん、ありがと」
皿を挟んだ差し向かいで、いただきますをしてから箸を取る。
「……えへへ、おいしい」
ツバメさんの表情からするとお世辞ではないようで、昼間のカロリー消費もあるのか、箸のペースも速い。
「ツバメさん、米粒がついてる、後もっとちゃんとよく噛んで」
「え、どこ? 取って」
しょうがないなあと嘆息してから、頬っぺたについた米粒をつまんで差し出すと、ツバメさんはぱくりと僕の指からそれを唇で受け取った。
「ツバメさん、行儀悪い」
「……桜はお小言ばっかりだ」
不満そうにいうツバメさん。
……彼女はこういう妙なところで、とんでもなくズボラなのである。
甘い!とか、しょっぱい!とかはっきりした味が好きな子供舌だし。
箸の持ち方もヘタクソだし。
そもそも料理も洗濯もほとんどできないし。
覚える気もないみたいだし。
ほっとくと際限なく部屋を散らかすし。
……だがそれも仕方がない。
そもそもそういったことを教わっていないのだ。
〝穿弾のイヴ〟として最高水準の教育を受けている彼女でさえそうなのだ。
……彼女の受けている「さいこうすいじゅんのきょういく」に「家庭科」「家政科」は、含まれていない。
社会の混乱が長く続いて余裕がなくなっているせいで……〝料理〟とか〝洗濯〟とか、そういう「暮らしのための技術」が徐々に失われ始めている。
ツバメさんが濃い味付けが喜ぶのも、塩も砂糖も香辛料も貴重になってしまった今では、それが安定した豊かな生活の象徴であり、高級だからである。
ツバメさんが時々妙に子供っぽいところがあるのも、半分は〈福音機関〉のせい、半分はそういう社会のせいじゃないかと僕は思っている。
……だけど、それもいい、こういうことは全部僕がしてあげられればいい。
大体、彼女の食事を作るのも、彼女の下着を洗濯するのも、僕以外の誰に任せられるというのか。
戦闘のことを考えるだけなら「初月桜」という人間は、首から上だけがあればいいのだけど、手足がなければそういったことができなくなるので、やっぱり首から下があった方がいい。
ふと思いついたように、一度食事の手を止めて
「……ねえ桜、私って随分恵まれてると思わない?」
ツバメさんはそう話題を振って来た。
「……?」
「このマンションだって、避難所や仮設住宅よりずっと快適だしさ。それに毎日桜のこんなおいしい食事が食べられるんだから」
「……そう言ってくれれば作った甲斐があるけどさ」
それこそ僕だって、こんな美人と一つ屋根の下、家族同然に二人で暮らしているのだ。
……これで、フォールンなんてものが僕たちを殺し尽くそうとなんてしていなけりゃ、それこそ言うことのない人生だったかもしれない。
……現実はそうじゃないのだけど。
もしもこんな世の中でなかったら僕はツバメさんと出会うことはなかったし、彼女と並んで歩くことだってできなかっただろう。
ツバメさんに出会えなければ僕はあのまま避難所の片隅で野垂れ死んでたに違いない。
「桜のごはんだったら、私は一生でも食べたい」
「……それじゃプロポーズだろ」
答えながら、気恥ずかしくて斜に目を逸らした僕に、
「……でも、私たちさ、昔、結婚式、したよね?」
と、ちょっとした「幼馴染の思い出エピソード」みたいな軽い調子でツバメさんは口にした。
「……人前ではそれ言わないでよ?」
あれは……あんなのはまだ……僕が11かそこらの時だったじゃないか。
忘れもしない3年前、ツバメさんが単独でのフォールン討伐1000体目を達成して、「美しき現代の戦乙女!」「希望の光をもたらす女神!」とマスコミと偉い人たちにあちこち引っ張りまわされてグロッキー状態だった時。
当時の隊長さんから「大したことはしてやれないが、何か願い事はないか」と尋ねられて
「結婚式っていうの、してみたい」とツバメさんが言い出したのが発端だった。
ツバメさんの希望は「ウェディングドレス着て記念撮影をしたい」ではなく「結婚式がしたい」だったので、――当然のことながら結婚式には新婦であるツバメさん以外に、便宜上の新郎というものが必要になる。
副官さんに、相手は誰がいいの? と尋ねられたツバメさんは、
「なら、桜がいい」
と――、僕を新郎役に指名したのである。
あの時は、ちょっとしたお祭りだった。
もちろん、こんな時代でも民法は一応生きているから、当時11歳の僕と14歳のツバメさんが結婚できた訳ではないのに。
当時いたみんなが、それを大真面目に準備してくれて。
僕はタキシードを、あろうことかツバメさんはウェディングドレスを身に付けて、みんなの前で、指輪を交換し、
「誓います」という茶番を演じた。
だから、今でもツバメさんの左手の薬指には、その時僕が渡した指輪が輝いている。
……あの時神父役を務めてくれた〈隊長さん〉も、
リネンを切って、ツバメさんのドレスを作ってくれた〈副官さん〉も、
できるだけ豪勢に見えるようにとレーションを大皿に盛り付けて並べてくれた〈整備班長さん〉も、
もっともらしく「若い二人に、幸せな未来が待つことを祈るものである」とスピーチしてくれた〈司令官さん〉も、もういなくなってしまったけど。
そんなことを思い返していた僕に、
桜はさ、と前置いてから、
「いま好きな女の子とか、いないの?」
と、ツバメさんは問いかけた。
「そんなこと、考えたこともないよ」
判りそうなものじゃないか、と、考えるまでもなく返す。
「……わかんない、よ? 桜はかっこいいし、もてそうな気がしたんだ」
ツバメさんが、それ言うのか。
「もし桜に好きな女の子とかできたら、ちゃんと私に言うんだよ?」
さらにはそんなことまで言ってくる。
法律に即すなら、今年17歳のツバメさんはともかく、僕にそういうことが可能になるのは4年後だ。
「絶対にないね」
これもろくに考えるまでもなく答える。
それに――
「――っ、それに、4年どころか、来年だって来ないかもしれないじゃないか」
そんな状況で、女の子と付き合うとか告白とか、ましてや結婚とか、考えるだけでも不誠実だ。
僕はそう吐き捨てた。
こんなこと、言うつもりじゃなかった。
〇
みんな、薄々感じている。
いや、――確信に近い。
ぼくたちの世界は、たぶんもうすぐ終わる。
〈M因子〉があっても。
〈福音機関〉があっても。
〈イヴ〉と〈チャイルド〉がいても。