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9  『センチメンタルごっこ』


 いつもより早く家を出た。

 世界がまだ青白い。人も車も見かけない。

 だからだろうか、空気が澄んでいて、息をするのが心地よかった。

 背負ったリュックが軽い。僕はペダルを強く踏んで、自転車の速度を上げた。


 家と家のあいだを抜けて行く。

 右へ左へ、ハンドルを切る。


 ──ふと、ここが初めて通る道のように感じた。

 いつもの道が、いつもと違った。


 それはきっと、昨日と今日で、僕が違う人間になったからだろう。

 男子三日会わざればと言うが、僕が変わるのに三日もいらなかった。


 一晩で十分だった。


      ●


 駅の駐輪場に自転車を停め、駅まで歩く。駅前もこれまでと同じく、しんとしていた。そして券売機で切符を買った。いつものように定期を使ってもいいのだが、万が一のことを考えて、電子的な痕跡は残さないようにしたかった。


 無人駅のごとく閑散としたホームで待っていると、電車がやってきた。電車にはさすがに人がいた。しかし普段の込み具合からしたら、人がいないも同然だった。

 かたんかたんという軽快な音が規則的に響く。

 その音を聞きながら、僕はリュックから綾瀬さんの最新作を取り出した。


 読み始めてすぐ、心を雑巾のようにぎゅっと絞られた。溜まっていた水分が、びちゃびちゃと根こそぎ出て行ったようだった。電車のなかじゃなかったら、発狂していたかもしれない。


 相変わらず、という表現はもはや失礼に当たるだろう。だが僕にはそんな陳腐な言葉しか思いつかなかった。


 相変わらず、上手い。

 どうしたらこんな表現が出来るのか。

 淡麗かつ無駄のない文章に、僕の心はものの数十秒でやられてしまった。


 しかもそこに、古臭さがまったくないのだ。

 新しい──それが一番の驚きだった。


 そう思ったのはきっと、綾瀬さんが歴史の流れの最前線にいるからだろう。誰が初めに小説を書いたのかは知らないが(紫式部?)、それに影響を受けた誰かが小説を書き、そしてその小説に影響を受けた誰かがまた小説を書き──と紡がれてきた小説の歴史の、いわば正統後継者として、彼女がいるからだろう。


 手が震えはじめた。ページをめくる指が、上手く紙を掴んでくれない。

 読みたいのに読みたくない。

 そんな相反する気持ちに揺られながら、僕は車内での時を過ごした。


 しばらくすると駅についた。

 僕は本を閉じ、立ち上がると、本を網棚の上に置いた。


 電車から降りる。大きく息を吸う。

 するとさっきまで自分にのしかかっていた重い泥のような情念が、少しずつ消えていくのがわかった。


 あの本は僕にはまだ早かった。あの本は、地獄への門だ。そこを間抜けにも開けようとしたのがよくなかった。

 引きずりこまれなかったのは、僕が弱者だったからだ。弱者ゆえに、危機に対して敏感であれたからだ。僕はたった一冊の本が人を死に至らしめることもあるのだと思いながら、改札に切符を入れた。


 駅前には見慣れたバスロータリーと、コンビニと、小さな本屋と花屋と牛丼屋があった。毎朝学校へ通うたびに見てきた《いつも通り》の光景だった。


 僕は塾ではなく、学校の最寄り駅にいた。

 うっかり乗る電車を間違えた──わけではない。塾はそもそも、学校とは反対の電車に乗らなければいけない。


 今から引き返せば、塾が始まる時間には間に合うだろう。僕はそれほど早く家を出たのだ。

 しかしそんなことをするつもりはなかった。

 僕は閑散とした駅前を抜け、学校へ向けて歩きだした。


      ●


 学校に一番近いコンビニで、お茶やおにぎりや菓子パンをどっさり買い込み、リュックに詰めた。これからキャンプにでも行くようだった。重みを感じながら、学校への坂を登る。


 学校に着いたが、門は閉まっていた。僕は一応あたりを気にしつつ、門を乗り越えた。蝉が鳴いていることに、今ようやく気づいた。さっきからやけにうるさいと思っていたのだ。


 下駄箱への扉には鍵がかかっていたので、校舎の裏へ回る。着いたのは、一階の男子トイレだった。


 窓がなかった。

 よかった、まだ直っていなかった。


 夏休みに入る前、男子トイレで遊んでいた生徒がいて、窓ガラスを割ってしまったという話を先生がしていた。何をしたらそんなことになるのかはわからないが、今はその名前も知らない誰かに感謝だった。


 先にリュックをトイレに投げ入れ、続いて自分も入る。自分でも驚くくらいスムーズに動けた。男子トイレ特有のむわっとした臭さにふらつくも、リュックを背負い直し、廊下に出た。


 廊下は、廊下そのものが死んだように静かだった。

 僕は思う。

 まるで世界に自分だけしかいないようだ、と。


「いや、それはさすがに……」


 思わず声が漏れた。

 あまりに陳腐な比喩に、自分で呆れてしまった。


 綾瀬さんなら、この情景をどう描写するだろう。

 彼女の文章は世界を切り取るだけでなく、ときに写実的に、ときに幻想的に、縦横無尽の表現をするのが特徴だ。読んでいると不思議な浮遊感があり、ここではない別のどこかへ連れて行かれそうになる。


 ひたひたと、小さいはずの足音が大きく聞こえる。


 緊張しているのだろう。慣れ親しんだ場所なのに、時間と入った場所が違うだけで、妙な背徳感があった。しかし浮足立った気持ちは、早めに鎮めなければいけない。僕はここへ遊びに来たわけではないのだから。


 そして五階の一番奥──文芸部の部室に辿り着いた。

 扉を開ける。鍵などない。セキュリティ意識はカケラもない。まあひと昔前のパソコンをわざわざ文芸部から盗む物好きがいるとは思えない。そもそも文芸部の部室がここにあるということを知っている生徒がほとんどいないだろう。文芸部に用事でもなければ、まずここまで来ないだろう。


 文芸が文化的に隅っこに追いやられている現状を、部室の場所が言葉以上に物語っていた。


 リュックを机の脇に置き、自分の席に座る。

 僕は相棒のひと昔前のノートパソコンを開き、スイッチを入れた。薄暗い部室に淡い光が生まれた。


      ●


 取り急ぎ、夏休みのあいだ微々たる量ではありながら手書きで進めていた分を、夏休み前に書いていた分と合体させた。外はだいぶ明るくなっていた。夏の朝の日差しが、閉められたカーテンの隙間から入り込んでいた。


 一息ついてお茶を飲む。

 準備運動は終わったというところか。

 真の戦いはこれからだ。


 向かいの机を見る。

 そこに伊藤はいない。


 少しだけ寂しさを感じたが、それは一瞬のことだった。


 伊藤には連絡しない。

 ここにいることは伝えない。


 これは僕が仕掛けた、僕の戦争だから。


 さっきまで携帯がひっきりなしに震えていた。母親と塾からだった。時間になっても僕が現れないから、家に連絡が行ったのだろう。はじめは無視していたが、いい加減うざかったので、電源を落とした。邪魔をするな。もう僕はお前らの言いなりになんてならない──。


 もちろん、ここもいずれはバレるだろう。

 ここにいられるのは、せいぜい夏休みのあいだだけだろう。


 しかしそれでいい。

 それだけの時間があれば、完成させることが出来るはずだ。

 九月末の締め切りまでに、最高傑作を仕上げる。


 それ以上に優先すべきことは、この世にない。


 体が熱い。いや心も熱い。

 これで燃えなきゃ──男じゃない。


 僕は天から使命を受けたように、物語を紡ぎはじめた。


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