8 『Wishing』
「今日はいっぱい遊びましたね」
伊藤が日の落ちかけた淡い空を見上げて言った。
「そうだな。こんなに遊んだのは久しぶりだ」
僕も同じように見上げて言う。
七時を回ったが、しかしまだ空は明るく、ぼんやりと輝いていた。夜の気配はするのだが、人の多さがそれを感じさせない。大通りにはこれから帰路につく人と、むしろこれから遊ぶのだと言わんばかりの人であふれていた。
確かに、伊藤の言う通り、今日はいっぱい遊んだ。
ファミレスを出た後、まずは映画(伊藤が好きなアニメの劇場版)を見た。伊藤は当然のようにポップコーンとコーラの大サイズを買い、上映中も僕の胸を焼けさせた。その次はバッティングセンターに行った。伊藤は器用にバットを振り(ちゃんと脇を締めていた)、球をぽんぽんと前に飛ばした。僕は空振りまみれで、伊藤にからかわれた。美術館にも行った。何世紀も前に生み出されてなお現代まで生き残った作品たちを目にすると、一人のクリエイター(の端くれ)として敬意を払わざるをえなかった。同時に、時を超える作品というのはどうしたら生み出せるのか、なんてことを考えたりもした。しかしもちろん答えは出なかった。
綾瀬さんならあるいは──と考えたが、それ以上はやめておいた。
何だかんだで、かなり充実した一日だった。
だが、僕はまだ満足していなかった。
と言うより、まだ帰りたくなかった。
「なあ、もうちょっと遊ばないか」
僕は足を止めた。
「もうちょっと、ですか?」伊藤が携帯を見た。「でもそろそろ帰らないと。私の家、門限厳しいんですよね」
確かにこんな小さな娘が夜遅くまで外にいたら、心配になる親の気持ちはわからなくもない。だけど僕は「一杯だけ、一杯だけでいいから」と仕事終わりに部下を飲みに誘う上司みたいに頼み込んだ。
「一杯って」伊藤がため息を吐いた。しかし僕の真摯な態度に感化されたのだろう「わかりました、いいですよ」と言った。
「やったぜ」
「本当、先輩は仕方ないですね。……で、どうするんですか?」
「そうだな……」
誘ったはいいが、またもや何も考えていなかった。雑踏のなかで、僕は辺りを見回す。そして「あそこ、あれに昇ろう」と言った。
ビル群の向こうに、ひときわ高いビルがある。それは竹のようにしなやかに天に向かって伸びていた。あのビルの最上階は有名な展望台だったはずだ。
その提案に伊藤はうなずく。というわけで僕たちは来た道を引き返し、これから遊びに行く人たちの流れに乗った。
心なしかカップルが目立つ。その多くが指を絡めたり腕を組んだりしていて、足取りがふらふらしていた。まるで酔っぱらっているようだった。
「明日が来てほしくないんですよね」
伊藤が言った。
「家に帰って、寝てしまったら、また辛い日々がやってくるから」
「……なぜわかった」
「わかりますよ、先輩のことは──」
「明日なんて来なければいいのに」
今日で世界が終わるなら、自分に絡みついているあれやこれやに、もう思い悩む必要はなくなる。
すべてがなかったことになり、すべてが報われるのだ。
だけど──。
「私は来てほしいですけどね」
伊藤がそう思うのなら、僕もそう思いたい。
僕は伊藤の横顔を見つめた。
「どうかしました?」
伊藤と目が合う。伊藤の目には人の心の奥底を見るような、不思議な透明感がある。僕はそれにくすぐったさを覚えた。
「……何でもない」
「先輩は、本当に変な人ですね」
伊藤が、小さく笑った。
●
一階でチケットを買い、展望台へのエレベーターに乗った。内臓がぐっと下に押し付けられる。耳の後ろに小さな虫が入り込んだような異物感が生まれた。大丈夫かと訊くと、伊藤は全然平気だと答えた。
エレベーターが止まり、扉が開いた。人の波に押し出され、僕たちは展望台に降り立った。
「おお……」
そして人だかりの向こうの景色を見て、思わず声が漏れた。歩いていくと、どんどんそれが近づいてくる。
ぎりぎりのところで立ち止まる。
世界が俯瞰出来た。
何もかもが眼下にあった。
何もかもが──小さく見えた。
「すごいな」
僕は自分のなかに生まれた言葉を、そのまま口に出した。「そうですね」と伊藤が同意してくれた。
まだ帳が落ちたわけではないので、ちゃんとした夜景ではなかった。山々の稜線に橙色がかすかに残り、世界をぼんやりと照らしていた。しかし、それが純粋な夜景よりも美しいと感じた。
眼下には無数のビルが立ち並び、それらがクリスマスツリーのようにきらきらと輝いていた。
あの光はすべて人だ。
あの小さな光一つ一つに、人間の営みがあるのだ。
隣では伊藤が銃弾でも防げそうな窓ガラスに両手をつけて、視界いっぱいにこの景色を入れようとしていた。何を見ようとしているのだろう。
「人がゴミのようですね」
「いや、正しい使い方だけどさ」
感性の違いに呆れつつ、同じように、さらに下を見てみた。そこには確かに人が、蟻よりも小さく、だけど確かに存在していた。ここから見たら、誰が誰かなんてわかりようもない。みんな──同じだった。
展望台を回り、家はどっちだとか、あれは富士山だとか、色々な景色を一緒に見た。そして一通り堪能した後「満足しました、楽しかったです」と伊藤が言った。上機嫌なのがわかった。こいつはわかりにくい奴だが、とてもわかりやすい奴なのだ。
だから、僕にはわかってしまう。
僕は伊藤と、その背後の暮れなずむ街と、遠景の山々をすべて視界に収めながら「なあ伊藤」と言った。「今、何か悩んでるんじゃないか?」
伊藤の目が、わずかに大きくなった。
今日一日過ごして、そう思ったのだ。
いつも通りの伊藤なのだが、拭いきれない違和感があった。
僕の勘違いなら、それでいい。
だけど、この勘はきっと当たっている。
ずっと一緒にいたのだ。
伊藤が僕のことをわかるように、僕も伊藤のことはわかるのだ。
長い沈黙があった。しかし僕は伊藤を急かさなかった。蝶がさなぎから羽化するのを見守るように。やがて伊藤が恥ずかしそうに俯いて「わかりますか?」と小さく言った。
「わかるよ」
「そうですか──」
伊藤は言い、僕に背を向けた。
やっぱりな、と思った。自分の勘を信じてよかった。まだ家に帰りたくないと思ったのは事実だが、しかしそれ以上に、何かに悩んでいる伊藤をこのまま帰したくないと思ったから、ここまで付き合わせたのだ。
伊藤の表情は見えない。伊藤は今、何を考えているのだろう。僕にその悩みを言うべきか言わないべきか、考えているのだろうか。
悩んでいるなら話してほしい。
もちろん人に話したところで、悩みそのものが解決するわけじゃない。むしろ悩みを晒すことで、弱みが増えるだけだろう。
だけど、人がそんなに強くないのを僕は知っている。
だったら自分の弱さを認めて、人を信じてみる生き方を選ぶほうが尊いと僕は思う。
僕はさんざん伊藤に悩みを聞いてもらってきた。それだけでもだいぶ心を軽く出来た。だから伊藤も、たまには僕に頼ってほしい。
たまには、先輩らしくかっこつけさせてほしい。
そう思いながら、次の言葉を待った。
そして返ってきたのは「心配してくれて、ありがとうございます」という小さな声だった。
しかし「でも、大丈夫です」と伊藤は振り返った。
そこにはいつもの彼女がいた。
「悩み、ありましたけど、今なくなりました」
「何だそりゃ」
どういうことだろう。
「もう、大丈夫です」
僕と対照的に、伊藤は晴れやかな顔をしていた。
「そうなのか?」
「はい。先輩のおかげです」
僕が何をしたというのだろう。まったく心あたりがなかった。
「……そっか」
話してくれないのは残念だけど、伊藤がいいならそれでいい。
「少しは力になれたのなら、よかった」
「少しなんかじゃありません」
伊藤が、気持ち大きな声で言った。
「先輩は私のなかで、すごく大きな人です。先輩がいなかったら、ずっと悩んでいたと思います」
そんな風に思われていたのは嬉しいが、過大評価もいいところだ。
僕は何もしていない。
もらってばかりで、何も返せていない。
しかし、そんな僕にもそう言ってくれるのなら、僕は自分のことを、少しは好きになれそうだった。
●
「今日は楽しかったです。ありがとうございました」
まもなく電車が到着いたします、とアナウンスが流れた。駅のホームには線路にこぼれ落ちそうなくらい人がひしめいていた。
「いや、僕のほうこそ楽しかった。ありがとう」
星は見えなかったが、空がようやく夜のものになった。
本音を言えばもっと一緒にいたかったが、これ以上伊藤を引き留めたら、さすがに申し訳なさのほうが勝る。そもそもこの時点で、門限をだいぶ破らせてしまっていた。
「もし親に怒られたら、全部僕のせいだと言え」
「はい。部活の先輩に手籠めにされたって言います」
「そこまで言えとは言ってない」
小説家になる前に人生が終わるわ。まったく油断ならない後輩だ。
線路の向こうを見ると、光が大きくなって近づいてきていた。
「気をつけて帰れよ」
今日はここ最近で一番楽しかった。きっと今日の思い出があれば、残りの夏休みも何とか乗り切れるだろう。いわゆる幸せ貯金がだいぶ貯まった。
しかし、その貯金がすぐに尽きないという保証はどこにもない。
また明日も行きたくもない塾に行って、する意味もわからない勉強をして、母親に理不尽に締め上げられて──という生活が待っているのだ。
本当にそれでいいのか? という思いは常にある。
自分が本当にやりたいことは何だ? そのためにはどうするべきなのか?
そればかりを考えている。
だけど何もかもが凡人の域を出ない僕は、その一歩を踏み出す勇気がなくて、結局現状に甘んじてしまっている。
悩んでいる場合か。
うだうだやっているあいだに、天才たちはどんどん先へ行ってしまうのに──。
「先輩」
伊藤の声がした。
「先輩の好きにしたらいいんですよ」
電車が滑り込んできて、生温かい風が頬を撫でた。甲高いブレーキ音が耳に刺さった。
「じゃあ先輩、頑張ってくださいね。私も頑張りますから」
伊藤が電車に乗り込む。
扉が閉まる。
扉の向こうで、伊藤が微笑んでいた。
小説、書いてくださいね、と言われたような気がした。
いや、言っていないだけで、伊藤はそう言っていた。
電車が行った後も、僕はしばらく根が生えたように動けなかった。
悔しいと思った。
何も出来ない、立ち止まったままの自分を、情けないと思った。
だから、変わらなければいけないと思った。
自分の人生は誰かのためじゃなく、自分のためにあるのだ。
ホームを後にする。階段を下りていく。下りていくたびに、自分の心が熱く燃えていくのがわかった。