7 『出かけましょうと答えましょう』
「だいぶお疲れのようですね」
「ああ、わかるか……」
「ええ、それはもう」
「イトラッシュ、僕はもう疲れたよ」
「小説家になるまでは死ねないでしょう?」
「もう人生に疲れた」
「まだ若いのに」
「若いからだよ」
「なるほど」
「大体、この国は若者に厳しすぎると思わないか?」
「そうですね」
「物心ついたときから競争をさせられて、テストの点数だけで評価されて、レールから外れた人間には冷たくて、社会に出たら低賃金で長時間労働をさせられて、おまけに将来、年金が貰えるかどうかもわからないんだぜ?」
「そうですねえ」
「これはもう革命を起こすしかないんじゃないか? ああそうだ、何でこんな簡単なことに気づかなかったんだ? なあ伊藤、僕たちで体制をひっくり返そうぜ! 今こそ立ち上がるときなんだ! 誰かがやってくれるのを待ってちゃ駄目なんだ! 僕が、僕たちがやるんだ! 僕たちならやれる! 絶対に出来る! 一緒にこの国の未来のために戦おうぜ! なあ伊藤!」
「お待たせしました」
そこに違う声が入ってきた。伊藤が「はあい」とのんきな声で言って、僕の熱い語りは華麗にスルーされた。僕は机に突っ伏したまま、顔だけを前に向けた。そこにはカートで料理を持ってきた店員のお姉さんと、その色とりどりの料理に熱いまなざしを向ける伊藤の横顔があった。
「シーフードサラダのお客様」
「はい」
伊藤が小さく手を挙げる。
「カルボナーラのお客様」
「はい」
また伊藤が手を挙げる。
「マルゲリータピザのお客様」
「はい」
伊藤の平坦な、だけど棒読みではない声が通る。
「ミートドリアのお客様」
「はい」
可愛らしい衣装を着た店員さんが、さすがに困惑の表情を浮かべた。
「……デミグラスハンバーグのお客様」
「はい」
伊藤の口角がわずかに上がっていた。
テーブルが満員電車のようだった。鉄板の上で弾けるハンバーグから、ソースの濃厚な匂いが漂ってきた。
お姉さんはこの状況に何か言いたそうな顔をしていた。
「さばの、味噌煮定食の、お客様」
「……はい」
ようやく手を挙げられた。
「では、ええと、ごゆっくり」お姉さんが僕と伊藤を不思議そうに見て、去っていった。
伊藤と外食するといつもこうだ。僕をそんな目で見ないでほしい。大丈夫です、この子、ちゃんとぜんぶ食べますから。
伊藤が目をわずかに輝かせながら「あ、先輩、さっき何か言いました?」と言った。
「いや、何も」と僕は答えた。
●
窓の外を見る。
夏らしい、よく晴れた日だった。
しかし外と対照的に、店内はとても涼しく、快適だった。僕が塩をかけられたナメクジのようにテーブルに突っ伏しているのは、そのあまりの環境の落差に体がダメージを受けてしまったからだ。
日の光を浴びたのは久しぶりだった。
夏休みが始まって向こう、ずっと軟禁されていたから。
塾も空調はきいていて涼しかったが、あれは背すじが冷えるような、僕が欲しかったものとは逆の涼しさだった。
だがそんな塾も、今日だけは休みだ。
夏休みの後半戦へ向けた、ほんのわずかに与えられた自由だった。
束の間ではあっても、こうして解放されたことが何より嬉しい。
つまり今日は、どう生きようが自由なのだ。
それならばと、僕は伊藤と会うことにした。幸い、伊藤も今日は何も予定がなかったらしい。
選択肢は他にもあった。
遅れに遅れている小説を少しでも進めたかったし、日ごろの睡眠不足を解消するため、一日中ベッドの上にいることもしたかった。
しかし僕は今日という日を、伊藤と過ごすことに使いたかった。
休みの日に、伊藤と学校の外で会うのは久しぶりだった。だからさっきのような店員さんからのまなざしも、新鮮味があった。
そんな目で見られながらも、伊藤はまったく気にしない様子で、並べられた料理に手をつけていた。見ているだけで胸焼けしそうだった。
「飲み物おかわりしてきますね」
伊藤が言って、立ち上がった。
久しぶりに会った伊藤は、肌が焼けていた。元が病的に白いから、余計にその色が際立つ。思いっきり遊んだ結果だろう。とても充実しているようだった。
「あ、先輩のも空ですね。取ってきますよ」
「悪い、頼む」
ドリンクバーは二人分頼んでいるが、僕は烏龍茶しか飲んでいなかった。
「何がいいですか?」
「何でもいい」
「わかりました」
伊藤がにやりと笑い、僕のグラスを持っていこうとしたので「待て、何でもはよくない。烏龍茶を頼む」と言った。伊藤はつまらなそうに唇を尖らせながら「わかりました」と歩いていった。
危ない。何でもなんて言ったら、どんなものを持ってこられるかわからない。あいつはやるときはやるやつだ。割と容赦なく。先輩としての意地が、僕に直前で気づきを与えてくれた。
──好きな人でしょ。
妹の言葉が、不意に点滅した。
考えないようにしていたのに、そいつはどこからともなく隙間を見つけては表に出てこようとしてくる。
僕は戻ってきた伊藤に「なあ、伊藤」とあらたまって言った。
「何ですか?」
「伊藤は僕のこと、好きか?」
「はい、好きですよ」
平然とした感じで返された。僕の前に茶色い液体が置かれた。ちゃんと烏龍茶のようだった。
「大好きです」
「……そっか」
訊いた僕のほうが恥ずかしくなった。自然とため息が漏れた。
「変な先輩ですね。まあ先輩が変なのはいつものことですけど」
「うるせえ」
僕からしたらお前のほうが変な奴なんだからな。
僕は食事に戻った伊藤を眺めつつ、グラスに口をつけた。氷が動いて涼しい音がした。
その瞬間、僕は烏龍茶を勢いよく噴き出した。プロレスラーがやる毒霧みたいになった。
「甘っ!」
咳き込む僕。それを見てにやにやと笑っている伊藤。
犯人はこいつしかいない。
「何を入れた」
「ガムシロップを少々」
「少々じゃねえだろ」
口に含んだだけで、相当の糖分を感じさせた。
「まったく、いつ入れたんだよ」
そんなに長いあいだ席を外したわけじゃない。ガムシロップだから小さな容器に入っているだろう。それを一つ一つ開けて、わざわざ僕のグラスに注ぎやがったのか。
「コツがあるんです」
伊藤がマジシャンみたいに手を開いて見せた。
小さい──掴んだら折れてしまいそうだった。
「くそ、気づかなかった」
気づくチャンスはあったはずだ。飲む前に匂いをかいでいれば絶対に気づけただろう。……とはいえ、そもそも僕の頼み方も、烏龍茶に何か仕込めというフリに聞こえなくもない。そういう意味では、伊藤は先輩の期待にちゃんと応えたことになるのだろう。
見ると伊藤が、してやったりという顔をしていた。
そんな顔を見せられたら、怒る気もなくなる。
「上手くやったな。今回は僕の負けだ」
「いえ、先輩こそ、いい吹きっぷりでした」
「そこは触れなくていい」
伊藤がご機嫌そうにハンバーグを口に入れた。まあご機嫌にもなるよな。自分が仕掛けたいたずらに、こんなにも綺麗にはまってくれたら。
「どうですか? 勉強のほうは」
特にきっかけもなく、伊藤が言った。
「どうも何も」と僕は肩をすくめた。「お手上げだ」
「そんな洋画みたいに言われても」
あの日以来、一応授業は聞くようになったが、聞いているだけで何一つ理解は出来ていない。
「わかったんだ。僕は勉強に向いてない」
「そうですね」
「否定しろよ」
やっぱりこいつ、僕のことを馬鹿だと思っているな?
「いや、そもそもさ、あんな塾でやる気を出せっていうほうが無茶なんだよ」
僕はあの塾の実態を話した。あそこでは生徒に人権はなく、あらゆる無法行為がまかり通っていると。地下には事故で死んだ生徒を処理する施設があるという、まことしやかな噂もぶちまけた。伊藤はそれにいちいち相槌を打ってくれた。少し楽しかった。
しかし話すうちに、そんなところにまたしばらく行かなければいけないのだと急に現実に引き戻されて、気分が落ち込んできた。そして最終的に辿り着いたのは「行きたくねえなあ」という言葉だった。
「大変ですね」
カルボナーラをすすりながら、他人事みたいに言われた。いや、まあ実際他人事なのだけれど。
「伊藤、もうお前が代わりに行ってくれよ」
「何言ってるんですか」
「大丈夫、伊藤なら行ける」
「かなり頭がやられているようですね。おいたわしや」
夏期講習の終わりには、またまた全国模試があるらしい。それも伊藤に受けてほしかった。僕が受けるより伊藤が受けたほうが点数がいいまであるかもしれない。
「じゃあ小説も、あんまり?」
「……まあな」
ここに来て、書く手が止まってしまった。
締め切りは迫ってきているのに。手を止めている場合ではないのに。
推敲の時間も含めれば、もう完成していなければいけないくらいなのに。まだ半分も書けていない。
しかしあの日から、まったく書けなくなった。
何を書けばいいのか、どうやって書けばいいのか、わからなくなってしまった。
僕は、授業中にとある先生に小説を書いているのが見つかり、その場で読まれた話をした。
そしてそれをくだらないと斬って捨てられたことも──。
内容をくだらないと言われたのではない。
書くことそのものをくだらないと言われたのだ。
それはこれまで受けたどんな拷問よりも僕の心を抉った。これならまだ、けなされたほうが百倍ましだった。
南先生──あの人さえいなければ、僕は今日も馬鹿の一つ覚えみたいに、せっせと小説を書いていたはずなのに。
僕には時間がない。
残りの時間をすべて小説に当てても、九月末の締め切りに間に合うかどうかわからない。
こんな体たらくじゃ、綾瀬さんに追いつくどころか、その背中すら見えないままだ。
「別に、気にしなくていいんじゃないですか?」
しかし伊藤が、しれっと言った。
「小説を書くのがくだらないことだなんて、そんなのみんなわかってますよ。そこに意味なんかありません」
「それは、そうだけど」
そんな風に言うのが、少し意外だった。
「それでも、書きたいから書いているんでしょう?」
「もちろんだ」
僕たちは誰に頼まれたわけでもなく、自分が書きたいと思ったから書いているのだ。
この道を選んだのは、自分自身だ。
「誰かのためじゃなくて自分のためにやってるんですから、他人の言うことなんて聞かなくていいんですよ」
伊藤はネット上で多くの読者を獲得している。そのなかには心ない言葉をぶつけてくる人間もいるだろう。
だがそんな声があろうとなかろうと、伊藤は書く。書き続ける。
それは伊藤が、ただ小説を書きたいという純粋な気持ちで臨んでいるからだろう。プロを目指していない彼女だからこそ、それは言える台詞だった。
「忘れましょうよ、そんなの。いちいち気にしてたら馬鹿みたいですよ。──ごちそうさまでした」
伊藤が手を合わせた。テーブルの上の料理が、すべて綺麗になくなっていた。
よくもまあそんなに食べられるものだ。その小さな体のどこにあれだけの量が収まったのだろう。
「珍しいな、伊藤がそんなことを言うなんて」
「そうですか? 本当のことを言っただけですよ」
「いや、すごいと思うよ。僕はそこまで、まっすぐには考えられないから」
他人に左右されず、わが道を往く──。
口で言うのは簡単だが、誰にでも出来ることじゃない。
強い、と思った。
僕の目の前にいるこの後輩は、僕なんかより何倍も、いや何十倍も強いのだ。
こいつもまた、綾瀬さんと同じく天才なのだ。
「先輩は難しく考えすぎなんですよ」
たかが小説なんですから──。
そう言う伊藤の顔には、薄っすらと陰がかかっているように見えた。
だからだろうか、その言葉がやけに心に残った。
「たかが、小説……」
小さく、繰り返してみる。
それは頭のなかでぐるぐるとトイレの水みたいに渦を巻き、ごちゃごちゃとした思考を容赦なく流していくような、清廉な響きを伴っていた。どんな小説を読んだときも、これほどのメッセージ性を感じることはなかった。
僕が欲しかったのはそれだったのだ、と長年の疑問に決着がついたような、それほどの衝撃が体に走った。
「で、先輩。今日はこれからどうします?」
「そうだな……」
会ったはいいが、何も考えていなかった。
「まあ、適当にぶらぶらしようぜ」
「小説のほうは大丈夫なんですか?」
煽っているのではなく、心配してくれているのだろう。それくらいは表情でわかる。
「大丈夫ではないけど」僕は苦笑した。「せっかくの休みなんだ、今日は伊藤と過ごすために使いたい」
小説も大事だが、伊藤も大事だ。
小説のためなら他のどんなことを犠牲にしてもいいと思うが、伊藤だけは別だ。
僕はこの、小さな後輩と過ごす時間が好きだ。
それは何よりも尊い時間だ。
伊藤も僕と同じように、そう思ってくれていたらいいと思う。
「ありがとうございます。嬉しいです」
伊藤が目を細めた。それは普通に、どこまでも普通に、可愛い笑顔だった。
「えっと……映画とか見てもいいかもな。今何か面白そうなのやってるかな……」伊藤から目をそらし、僕は携帯を取り出す。そこに伊藤が「あ、その前に」と言った。
「デザートも食べていいですか?」
「まだ食うのかよ」
伊藤は追加でチーズケーキとチョコレートパフェを注文し、それも平らげてしまった。甘いものは別腹というけれど、別腹にも程がある。伊藤の胃袋に限界はあるのだろうか。いつか食べ放題に連れていって、限界を調べてみたいと思った。
会計は、もちろん別々だった。