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6  『快眠!安眠!スヤリスト生活』


 しかし限界はすぐに訪れた。

 僕は朝から夜まで塾、夜から朝まで小説だなんて二足のわらじを履けるほど、優秀な人間ではなかった。


 もちろん、それでもやってみせると意気込んでいた。だがブラック企業もかくやという過密スケジュールに、慢性的な寝不足、加えて講師陣からの筆舌に尽くしがたい体罰は、想像以上に僕の体力と精神を蝕んだ。


 僕は完全に、講師陣からマークされていた。当然だ、授業中に寝てばかりの不真面目な生徒なんて、この塾では悪目立ちしかしない。しかもそれを何回も繰り返して、いくら体罰を与えても一向に改心しないどころか日々悪化しているときたら、それはもう目をつけられても仕方ない。


 衆人環視のもと、大きなしゃもじで尻を叩かれるなんて、あんなのまだ序の口に過ぎなかった。今なら、あれでもだいぶ優しかったのだなと思える。このままエスカレートすれば、かつてこの塾で一人の生徒が死んだように、僕もそうなってしまうかもしれない。


 だけどこれは僕が売った喧嘩だ。


 ならば──買われても仕方あるまい。


 そこは納得出来る。するしかない。

 だが、朦朧とした意識のなかで思う。


 何で僕は好きなことをしているのに、こんなにも辛いのだろうと。


 普通逆ではないのか。

 好きなことをしたら、幸せになれるものじゃないのか。

 何で小説を書けば書くほど、人生がままならなくなるのだろう。


 小説を書くのは楽しい。すごく楽しい。こんなに楽しいことは、ちょっと他に見つからない。

 そう思えるから、今までやってこれた。


 しかし今は──楽しさより辛さのほうが大きかった。


 僕が書いているこれは、本当に面白いのか?

 こんなもので、人から認めてもらえるのか?


 綾瀬さんに、挑めるのか?


 ……そんなことばかり考えてしまう。


 自分がどこかで決定的な間違いを犯しているのはわかるのだが、それがどこなのかがわからない。それでも前に進むしかないというのは、はっきり言って恐怖だ。そしてその恐怖は日ごとに大きくなっていき、取返しのつかないレベルにまで肥大してから、ようやくそれが何だったかわかるのだろう。


 それは、いつ爆発するかわからない爆弾を抱えながら生きているようなものだ。

 今はその爆発が、致命傷にならないことを願うばかりだ。


 理不尽だと思う。

 自業自得とはいえ、そんな理不尽を仕方ないで済ませられる境地には、僕はまだ達していない。


 好きなことをして不幸になるなんて、受け入れがたい──。


「起きなさい」

 凛とした声が降ってきた。それで僕は目を覚ました。

 しまった、僕はまた寝ていたのか。


 顔を上げると、僕の横に誰かが立っていた。

 目つきが鋭い。研いだ刃物のような雰囲気の、三十歳くらいの女性だった。


 確かこの人は……と記憶の棚を大急ぎで開けていく。見覚えはあるのだが、何の教科の先生だったか、そして名前は何というのだったか、すぐに出てこなかった。僕がいかに普段から授業を聞いていないかがわかろうというものだった。


「あなた、また寝ていたわね」

 先生は魂まで凍るような眼差しで言う。僕は「はい」とうなずくしかなかった。

「今まで見逃してあげていたけど、そろそろ我慢の限界よ」


 それを聞いて、今まで色んな先生に色んな体罰を受けてきたが、この人から何かされたことはなかったな、と思い至った。


「あなたが他の授業でもそのような態度をとっているのは知っています。しかし私は、勉強とは本人の自主性のもとに行われるものでなければ効果がないと思っています。なので他の先生方がされているような行為は、あなたにしてきませんでした。しかしそう堂々と睡眠を取られていると、そんな考えは改めなければいけないのかもしれません」


 言い訳するつもりはない。

 僕は黙っている。


「一過性の痛みなど人間には何らの影響も与えませんが、それは時と場合によります。時には痛みをもって教育を施さなければならない場合もあるでしょう。子どもが道路に飛び出そうとしたとき、親は子どもに痛みを与え、それがしてはいけないことだと言葉を超えて伝える必要があるのと同じように」


 言葉にはトゲのようなものがあった。

 この反論を許さない感じは、母親に少し似ていた。


 僕はこの先生から、いったいどんなことをされるのだろう──と身構えていると、先生が僕の机に目をやって「これは何?」とノートをつまみ上げた。


「あっ、それは」

 しまった、ノートを隠すのを忘れていた。


 先生がノートに書かれた文字を目で追う。

 上から下に、そして下から上に──。


「これは……小説?」


 僕は俯き、机と自分の膝を見て、歯を噛み締めた。


 何たる失態!

 今までどれだけ授業中に注意されても、小説を書いていることだけは隠し通してきたというのに!

 ここにきて、ついに第三者に知られてしまった。


 先生は僕が書いた小説に、じっと目を通している。

 教室は、痛いほどの沈黙に包まれている。


 誰も、何も音を発しない。

 防音がしっかりしているのか、外の音も、隣の教室の音も聞こえない。

 しかし言葉がなくとも、意志は伝わってくる。


 僕はこの場において、れっきとした邪魔者だった。

 やる気がないなら消えろ、という視線はもっともだった。


「ふうん」

 先生が鼻で笑うように、うなずいた。

 まるで判決を待つ被告人のような気分だ。


 体が熱い。

 顔が内側から破裂しそうだ。


 小説を読まれるのが、恥ずかしいと感じる。


 書いている途中のものを読まれているからだろうか? 衆人環視のもと読まれているからだろうか?


 いや、違う。

 恥ずかしいのは──評価されているからだ。


 誰かが自分の小説を読んでいるとき、自分は評価されているのだ。

 自分に価値があるか、ないかを。


 だから判決を待つ被告人というのは、あながち比喩ではない。


 先生は無言で読み続ける。さっきのリアクションには、どういう意味があるのだろう。


 頭のなかがうるさくなってきた。

 黙れ、と自分に言う。あれこれ考えたって仕方ない。サイコロは投げられてしまったのだ。


 作者だったら堂々としていろ。

 僕は、何も恥ずかしいことはしていないのだから──。


 先生が小さく息を吐き、ノートを閉じた。

 天国のようであり、地獄のような時間だった。


 何を言われるのだろう。

 思えば僕は、落選歴はそこそこあっても、ちゃんと人に読んでもらった経験が少なかった。伊藤のようにインターネットで公開しているわけじゃない。家族にだって、一文字も読ませたことはない。


 伊藤は、僕の小説を面白いと言ってくれる。

 それは嬉しい。励みになる。だがそれは、厳しい感想に慣れていないのと同じだ。


 所詮、素人の小説だ。

 市場に流通しているプロのものと比べれば、何段も見劣りするだろう。


 しかも、この人は大人だ。

 学校を卒業し、働いて、お金を稼いでいる。


 そんな人から見て、子どもが書いた小説というのは、どうなのだろう。

 どのような評価が下されるのか。


 しかし先生はノートを僕の机に戻し、前へ戻っていった。僕はおあずけをくらった犬のように先生を目で追った。


 そして先生は日本刀の一振りのような声で「くだらない」と斬って捨てた。

「そんなくだらないことをしていないで、ちゃんと勉強しなさい」


 先生は、授業を再開した。

 クラスメイトが、やっと茶番が終わったかと溜飲を下げたのが空気でわかった。


 授業は現代文のようだった。

 先生の冷たい雨のような声が響く。黒板に白い軌跡が生まれていく。それをみんなして、顔を上げたり下げたりしてノートに移していく。


 ぼうっとしていると、先生に蔑むような目で睨まれた。僕はその目に恐怖を覚え、慌ててまっさらなノートを出すと、問題の解説を写し始めた。そうすることで少しでもこの痛みが和らぐなら安いものだった。


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