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5  『リトルシューゲイザー』


 塾から出ると、空は真っ黒だった。

 夏と言えど、さすがにこの時間では昼間の残滓は何一つ残っていない。


 星はない。

 代わりにビルや車のライトが煌々と灯っている。星空なんてしばらく見ていない気がする。


 人の流れに乗って駅へ向かう。

 ようやく話せたと言わんばかりに口を開く人もいるが、多くの人は誰とも話さず、まるで紛争で隣の国へ逃げるように俯いて歩いていた。

 朝早くから夜遅くまで軟禁されて、みんな疲れているのだろう。精神がすり減って背中が丸まっても仕方ないだろう。


 寄り道は出来ない。ファミレスやゲーセンはまだ開いているが、そろそろ高校生が店にいてはいけない時間だ。この時間まで生徒を外に出さないのは、そういった息抜きをさせないためだろう。


 明日も朝早い。合宿ではないため、いちいち家と塾と往復しなければならないのが逆に苦痛だった。まあ合宿だったらもっと拘束されていたのだろうけれど。


 こんな時間でも電車は人でいっぱいだ。仕事帰りの大人たちが、密入国者の乗る船さながらの人口密度でひしめいている。学生も学生で大変だが、社会人になるともっと大変なのだろう。働けど働けど生活は楽にならない。じっと携帯を見ていた。僕も携帯を取り出すと『生きるって大変だな』と伊藤にメッセージを飛ばした。


 自転車に乗り、静かな夜道を往き、家に着くと、荷物を放り投げ、風呂に入り、張りつめていた心の糸をほどいた。そして夕食をとり、母親との小競り合いを演じ、リビングから戦略的撤退を行い、廊下ですれ違った妹の髪の毛で遊び──僕は無事に自室への帰還を果たした。


 力が抜ける。そのままベッドに倒れ込みたくなる。その誘惑はとても魅力的で、抗うことが罪なようにすら思える。


 だが僕はそうしなかった。もう一度力を入れ、机に向かった。


 まだ眠るわけにはいかない。

 むしろ、僕の一日はここから本番だった。


 僕は塾で使った教科書や、教科書の内容をそのまま書き写しているノートを取り出し、机に並べた。


 もちろん勉強するためではない。

 小説を書くためだ。


 さらに小説用のノートを取り出すと、先に出したノートの前に広げた。


 しかし五分、十分と経ってもなかなか筆は乗ってくれない。

 思うように文章が連なっていかない。


 進んでいないわけではないのだが、その進みはまさに亀のごとしだ。おとぎ話ならウサギが油断してくれるからレースに勝てるが、世のなかは油断しないウサギだらけなので、亀が勝てる道理はない。

 こんなとき、たくさん書ける伊藤のような人間がうらやましいと思う。


 僕は完璧主義者なのだろうか。理想が高すぎるから、理想に準じた文章が書けないと手が止まってしまうのだろうか。


 その場合の対処法は、つまるところ二つしかない。


 理想通りの文章を書くか、理想のラインを下げるかだ。

 どちらも今の僕には死ぬほど難しかった。


 結局、机に向かってしぶとく書き続けるしかなかった。


 ……そのうち、ようやく筆が乗り始めてきた。イメージは山の斜面を転がる岩だ。ごろごろ、ごろごろ。経験からわかる。これはいい流れが来そうだ。


 しかしそんなときに限って、邪魔者がやってくる。

 部屋に監視カメラでも付けているのかと思うような、絶妙なタイミングだった。


 僕は廊下から近づいてくる気配に反応して、小説のノートを、もう一冊のノートの下へぴったり滑り込ませた。


 同時に扉が開く。ノックも何もなかった。

 息子に対する最低限の配慮すらこの人にはないのだ。


「ちゃんと勉強してる?」

 母親は開口一番にそう言った。


「してる」

 声を重くして、僕は言った。そしてマジシャンが種も仕掛けもございませんとするように、教科書とノートを顎で示した。


 違和感を与えてはいけない。

 堂々としていることが大切だ。

 内心では、冷や汗がだらだらと流れていた。

 ノートをめくられたら終わりだ。

 何事もなくこの時間が過ぎ去ってくれ──。


 そんな願いが通じたのか「そう、ならいいのよ」と母親は渋々というように納得した。どうせ勉強していないだろうと思って乗りこんできたようだが、その目論見はみごとに外れたわけだ。


 小癪にも足音を消していたようだが、僕ほどの実力者になれば近づいてくる母親の気配くらい第六感でわかる。

 残念だったな!


 教科書ともう一冊ノートを出していたのは、もちろんカモフラージュのためだ。平常時は小説を書き、母親が部屋に近づいてくる気配を感じたら(ノックもなしに入ってくるのは母親しかいない)、そのノートの下に小説用のノートを隠す。


 傍目には勉強しているように見える。普通のノートにはあらかじめ教科書の内容を書き写してある。どうせ母親には授業の内容なんてわからない。それっぽいことが書かれていればいい。


 なので最近はもっぱらアナログで小説を書いている。最初はパソコンとの感覚の違いに戸惑ったが、結局やることは変わらないのだと気づいたら、意外と何とかなった。


 昭和までの作家は、みんな手書きだったのだ。

 完成したら、最後にパソコンで清書すればいいだけの話だ。


「ここで頑張るかどうかで、これからの人生が決まるのよ」

 母親が、いつもの台詞を吐いた。この人は何回同じことを言えば気が済むのだろう。ゲームで最初の街にいる、道具の使い方を説明してくれる人みたいだ。


「わかってる」

 ため息まじりに返す。母親に愛想よくなんて、もう出来ない。我ながら生意気な子どもだとは思うが、そんな風に育てたほうにも責任はあると思う。そして母親は、やはりいつもと同じことを言って、部屋から出て行った。


「いい大学に行って、いい会社に入るの。そうしたら、春輝は幸せになれるのよ」


 足音が遠ざかっていく。

 その足音が完全に離れたところで大きく息を吐き、小説ノートをまたスライドさせた。


 幸せね、と呟く。

 それは小学校の高学年あたりからずっと言われていることだった。


 いい大学に行ければ幸せになれると。

 いい会社に入れば幸せになれる、と。


 もちろんそれが悪いことだなんて言わない。確かに、いい大学に行けたら不幸ではないだろうし、いい会社に入れたら、それもまた不幸ではないだろう。


 だが、不幸ではないというのは、幸せとイコールではない。


 月並みな表現だが、人にとって何が幸せかなんて、本人以外にはわからない。いや本人にもわかりはしないのだ。


 なのに人からこれが幸せだと押し付けられたところで、それをはいそうですかと信じることは出来ない。


 たとえそれが正しかろうと、やっていることが正しくないのだから、説得力はかけらもない。


 まあ母親がそう言うのには、自分がいい大学にもいい会社にも入れなかったことが関係しているのだろうけれど──それを中学生のときに指摘したら、腹を空かせた春先の熊みたいに暴れて手が付けられなくなったので、以来そこには触れないでいる。


 今は、面従腹背でいい。

 所詮養われている身分だ。何を言ったところで子どもの戯言に過ぎない。


 事を荒立てる必要はない。

 僕は僕のやりたいことを、水面下で着々と進めていればいい。

 いつか来る革命の日まで、地盤を固めておけばいい。


 あらためてそう決意し、小説の続きに戻ろうとしたら、携帯が光った。

 見ると、伊藤からメッセージが来ていた。そういえば伊藤にメッセージを送っていた。


 携帯を開くと、伊藤の浴衣姿の写真が届いていた。

 僕は『何だこれは』と送信した。

 すると『浴衣ですよ』と光の速さで返ってきた。


 浴衣なのは見ればわかる。

 写真は伊藤が浴衣を着て、その姿を鏡に映しているところだった(鏡の後ろに本棚が映っていた。本の置き方が綺麗だった)。


『いや、そうではなく』

 僕が知りたいのはなぜ浴衣を着ているのかと言うことと、なぜそれを僕に送ってきたのかということだ。


『明日、花火大会に行くんです』


 そう言えば、この夏休みは色々遊びに行くと言っていた。なるほど、前者の理由はわかった。とりあえず僕は背もたれに体を預け『満喫してるなあ』と送った。


 こちとら朝から晩まで軟禁され、小説を書く時間もろくに取れず、取れたと思ったら邪魔される生活を送っているというのに。お前も来年になったらこうなるんだぞと不安を煽ってやろうかと思ったが、みっともないので止めた。


『どうですか』


 ……どう答えるべきか、迷う。

 僕はもう一度、写真を見た。


 紫陽花の柄が、綺麗だと思った。

 伊藤が伊藤でないようだった。いつもは背の低さも相まって小学生にも見られがちな彼女が、ぐっと大人っぽく見えた。

 僕は『似合ってるよ』と打った。


『ありがとうございます』

 笑顔の絵文字ともにそう返ってきた。

『新しく買ったんですけど、先輩に一番に見てもらいたくて』


 深呼吸をする。落ち着け、うろたえるんじゃない。後輩の冗談にまんまとやられてどうする。

 伊藤め、腕を上げたな。今度アイスでもおごってやろう。

 ……そう余裕ぶってみるも、余裕は生まれない。

 予想外の一撃だった。


 もし今、面と向かっていれば、それが冗談か冗談でないかの判断はたやすいだろう。しかし文字のやりとりでは、その判断が出来ない。


 何だか、手のひらの上で転がされている感がある。次の瞬間にも『なんて、本気にしちゃいました? 冗談ですよ、先輩ったらちょろいんですから!』と来てもおかしくない。だがしばらく待ってもそんなメッセージは来なかったので『それは光栄だな』と何でもない風を装った。


『明日はクラスの男子もいるので』


 ますます冗談か本気かわからなくなった。

 言葉通りに受け取れば、クラスの男子に見せる前に、まず僕に見せたかったと、まるで恋する乙女のようなことを言っているわけだが……。


『そうか』と僕は打った。『まあ楽しんでこいよ』

『はい。明後日は海に行きます』


 アウトドア大好きな伊藤らしかった。この夏は、夏という季節を遊びつくす予定なのだろう。うらやましい限りだった。


 そこでふと思った。

 花火大会に行く前に浴衣姿を見せてくれたのなら、海に行く前は……?


『でも伊藤、小説のほうは大丈夫なのか? そんなに遊んでて』

 その先を思うのは人としてよくない気がしたので、僕は話題を変えた。

 わざとらしすぎたかもしれない。

 だが送ってしまったものは仕方ない。


 結局僕たちは小説の話をしてしまうのだ。それは伊藤と出会ってから今も変わらない絶対の法則だ。


 まあ、訊かずともわかっているのだけれど。

 僕と違って、伊藤が小説で大丈夫じゃなかったときなど、一度もないのだから──。


『ぼちぼちですね』

 それを見て、いつもの伊藤だ、と安心した。


 ようやく心が落ち着いてきた。

 僕は静かに息を吐いた。


『先輩はどうですか?』

『僕は、ちょっと大変だ』


 ちょっとどころではないかもしれない。

 小説人生、最大の危機だ。……小さいな、僕の最大の危機。


 いや、プロを目指す人間がこの程度の危機を乗り越えられなくてどうする。壁の向こうにはもっと手ごわい敵がうじゃうじゃ待っているのだから。


『頑張ってください。応援してますから』

 僕は心が温かくなるのを感じた。

『ああ、伊藤も頑張れよ』


 一緒に頑張ってくれる人がいれば、自分も頑張れる。

 伊藤がいなかったら、僕は小説を書くのを辞めていたかもしれない。

 それだけ伊藤には感謝している。大切に想っている。だからさっきの胸の高鳴りは忘れよう。


 小説のことだけ考えて生きよう。

 そう、強く決意した。


 それから二、三言葉を交わし、やりとりは終わった。そしてトイレに行くため、部屋を出た。

 一応、部屋を出る前に気配を探り、母親が廊下にいないことを確認した。たまに廊下で待ち伏せをしているときがあるから気が抜けないのだ(どんな母親だ)。


 何でこんなことをしなければいけないのだと嘆息すると、妹も部屋から出てきた。風呂上がりだろうか、髪が少し湿っていた。そこで僕は、何となく訊いてみた。


「なあ夏海」

「何、兄ちゃん」

「女の子がさ、浴衣姿を一番に見せたい人って、どんな人だ」

「好きな人でしょ」

「……そうか」


 訊かなければよかった。僕は話を打ち切ってトイレに向かおうとした。しかし「え、兄ちゃん、そんな子がいるの?」と引き留められた。

 失態だった。夏海は見るからに興味津々だった。


「いや、いないけど」

 否定するも「怪しい」と妹は納得しない。そして「お母さんに言っちゃうよ」と、とんでもないことを言った。

「やめろ。それだけはやめろ」

 僕は語気を強くした。


 文芸部の後輩は男という設定にして、伊藤の存在は隠しているのだ。女子と二人きりで部活をやっているなんて、突っ込みどころ満載だからだ。

 今の母親にそんな話をしてみろ。勉強の邪魔になるから付き合いをやめろとか言ってきそうだ。もう大変に面倒くさい状況になるのはわかっている。


「言わないよ。兄ちゃんに彼女とか、お母さん絶対怒るだろうし」

「彼女じゃねえ」にやにやと笑う妹の首すじに、手刀を叩きこむ。「ぐはっ」と夏海が血を吐くふりをした。


「じゃあそれでいいけどさ。でも兄ちゃん、お母さんを怒らせるのはやめてよ」

「怒らせてるんじゃない。あっちが勝手に怒ってくるんだ」


 もともと衝突が絶えない僕と母親だったが、今年になってからその頻度、内容がますます激しくなっている。

 まだ夏でこれなのだ。

 冬には家がどうなっていることやら。……想像するのも恐ろしい。


 まあ家族が険悪になるのは、妹としても望まないことだろう。だから僕は割と真摯な気持ちで「まあ、何とかするよ」と言った。具体的な案は何一つないけれど。


「うん、わかった」

 妹は納得した風で、階段を下りていく。そして振り向きざまに「受験、頑張ってね」と言った。僕はその姿を見送ると、トイレに入った。


 静かな夜だった。

 水がはねる音しか聞こえない。


 僕は考える。

 やらなければいけないことと、やりたいことについてを。


 勉強と、小説。

 現実と──夢。


 もちろん、今じゃなければ小説家になれないなんてことはない。別になるだけなら社会人になっても、定年退職をした後でもなれるだろう。いや、棺桶に片足を突っ込んでいてもなれるかもしれない。


 だけど、十代でなる人もいるのだ。

 なれる人がいるのだ。そんな人を、僕は身近に──とても身近に知ってしまっている。


 だから諦められない。

 挑んで、追いつきたいと思う。

 神様に近づきたいと思うのは、人間として当然のことだ。


 僕の幸運は、綾瀬さんと同じクラスだったことだろう。彼女のおかげで、より小説家になりたいと思えるようになった。

 しかし同時に、それは僕の不幸でもあった。


 書けば書くほど彼女との差を思い知らされる。

 どんどん筆が重くなる。

 自分のいる場所がわからなくなる。


 世のなか、油断しないウサギだらけだ。

 亀の僕に勝てる道理はないのかもしれない。


 しかし、小説家以外になりたいものがない。

 小説家以外の仕事に魅力を感じない。


 小説を書いて生きていきたい。


 だけど世界はそれを許さない。

 それがたまらなく──悔しい。


 僕に足りないものは何だ。

 僕に足りなくて、綾瀬さんにあるものは何だ。


 わからない。

 わからないから、書くしかない。


 やらなければいけないことはわかっている。だが、やらなければいけないこととやりたいことを天秤にかけたとき、傾くのは後者のほうだった。


 トイレを出て、部屋に戻る。

 ……僕は馬鹿だ。馬鹿の日本代表だ。誰に頼まれたわけでもないのに、馬鹿の一つ覚えみたいに小説ばかり書いて。それで親と険悪になって、自分の将来をもドブに捨てようとしている。

 これが馬鹿でなくて何なのだろう。


 でもなあ、と声に出さず呟く。止まれないんだよなあ。

 机に向かい、ノートを開く。

 苦笑するしかなかった。


 小説を書いていない自分が想像出来ない。僕は未来においても、今と変わらず小説を書いているだろう。


 僕は眠気をこらえて、また小説世界に戻っていった。


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