4 『BLUE COMPASS』
人間は過剰なストレスに晒され続けると、脳が萎んでしまう。そうすると思考能力や記憶力が低下し、精神的に不安定になってしまう。もちろんストレスが緩和されたらそれらの状態はある程度は改善されるが、元通りにはならないらしい。脳というのは非常に繊細で壊れやすいのだそうだ。
そう考えると脳は大事にしなければいけないと思う。これからもずっと付き合っていくのだ。脳が休みたいと信号を出しているなら、それに逆らってはいけないのだ。
という考えのもと目を閉じて脳を休めていたら、額に鋭い痛みが走った。自転車に乗っていて蝉にぶつかられたときのようだった。落ちかけていた意識が、強制的に引き上げられた。
目を開くと、机の上に白いチョークが転がっていた。
「おい三十番! 寝るな!」
前から怒号が飛んできた。たまらず顔を上げると、ポロシャツを着た筋骨隆々の男が眉間にしわを寄せてこちらを睨んでいた。威圧感が半端じゃなかった。
「センター試験まで後172日しかないんだぞ! 寝てる場合か!」
「すみません」
怒られているので、謝っておく。しかし彼はその言い方が気に入らなかったようで「何だその態度は! こっちへ来い!」と床を踏み抜くように歩いてきて、僕の服を掴んで引っ張り上げた。
声がいちいち拡声器を通しているようで、起き抜けの脳が揺さぶられる。そして彼はそのまま僕を教室の一番前に連れてきたかと思うと「両手を壁につけて、尻をこちらに向けろ!」と言った。
意味がわからなかった。
なぜそんなことをしなければならないのか。
そこで僕は、数十個の視線が自分に突き刺さっているのに気づいた。
僕と同じ世代の、同じ境遇の男女が、僕のことをじっと見ていた。
みんな、冷たい目をしていた。
「何をしている! 早くしろ!」
僕は無理やり言われた通りの体勢にさせられた。ちょうどみんなに尻を向けている形になった。
すると男が、黒板の脇にあったそれを手に持ち、僕の後ろに立った。
まだ頭がぼんやりしていたので、それが何なのか一瞬わからなかった。いや、わかりはするのだが、どうしてそんなものが教室にあるのか、意味がわからなかったのだ。
男が持っているのは大きなしゃもじだった。
昔、大きなしゃもじを持って夕飯時の家に突撃するという番組があったが、まさにそんな感じのしゃもじだった。
「これからお前に喝を入れてやる! ありがたく思え!」
男は叫ぶと、しゃもじを野球のバットのように構え──勢いよく僕の尻にフルスイングしてきた。
尻に衝撃が走った。
乾いた音が教室に響いた。
「三十番! お前やる気はあるのか!」
殴打は一発ではなかった。
「あります」
それは何度も繰り返された。
「嘘をつけ! だったらなぜ寝ていた!」
眠かったからに決まっている。むしろそれ以外の理由があるのかと逆に問いたい。
「お前は何のためにここにいる!」
「勉強するためです」
叩かれながら答える僕。
「そうだ! そして受験に勝つためだ! わかっているのか!」
受験なんてどうでもいい。受かろうが落ちようが僕の人生には関係ない。
「わかっています」
「だったらやることは一つだ! 違うか!」
「その通りです」
「みんな頑張ってるんだ! お前だけが辛いわけじゃないんだ!」
そんなの知るか。
辛さの基準は人によって違うのだ。
そんな言葉でやる気が出ると思っているのか。
「お前みたいな! クズは! 勉強するしかないんだ! 勉強しますと! 言え!」
叩くペースが上がった。
「勉強します」
「声が小さい!」
「勉強します!」
「勝ちたいか!」
「勝ちたいです!」
何だこの時間は。
衆人環視の前で尻を叩かれながら大声で叫ばされている。まったく、性癖が変わったらどうしてくれるんだ……。いや、さすがにそれは冗談だけれど。
こんなの完全に体罰だ。いくら授業中に寝ていたとは言え、このような蛮行が許されるはずがない。しかるべき機関に通報したら、何らかの権力が動きそうな気がする。
しかし一方で、そんなことにはならないのだろうな、とも思う。これがこの塾のやり方なのだ。
そもそも入塾前に、この塾の教育方針には一切逆らいません的な宣誓書にサインをさせられたときから嫌な予感はしていたのだ。あれはこういった行為を正当化するものだったのだろう。
そうやって事前に宣誓させておけば、何が起こっても同意の上だったともみ消すことが出来るわけだ。
何かと黒い噂が絶えない理由はここにあるのだろう。
納得がいった。いったところで尻の痛みは消えてくれないが。
「そんな! 態度で! 親に申し訳ないと! 思わないのか!」
「思います!」
思いません。
「謝れ! クズでごめんなさいと謝れ!」
「クズでごめんなさい!」
「気持ちが入っていない!」
「クズでええええ、ごめんなさあああい!」
叩かれ過ぎて痛いのか痛くないのかわからなくなってきた。おそらく痛いのだろうが何も感じなくなってきた。
「反省したか!」
男は息を切らしていた。
「はい!」
「よし! 席に戻れ!」
僕はふらふらと席へ戻った。
やっと終わった……。今はそれで頭がいっぱいだった。
しかし地獄はそこからだった。叩かれ過ぎて何も感じなくなった尻が、椅子に座った途端またその痛みを訴えてきたのだ。
思わず腰を上げて、空気椅子の状態になった。
「どうした三十番! まだ何かあるのか!」
「いえ、ありません!」
僕は熱い風呂に入るように、ぐっと息を止めて、尻を椅子に触れさせた。
そして授業が再開された。どうやら今は数学の時間のようだった。そうか、あの人は数学の先生だったか──。誰がどの教科の先生だったか、それすら曖昧だった。僕は尻の痛みに耐えながら、鞄から教科書とノートを出した。
●
自由はない。勉強、勉強、ひたすら勉強──だった。
息苦しいことこの上ない。
まずこの一週間、まともに太陽の光を浴びていない。朝は六時に家を出て、七時には塾にいなければならない。そしてそこからずっと拘束され、塾を出るのは夜の十時だ。そのあいだ外に出ることは原則許されない。
塾というより監獄じみていた。
懲役一ヶ月──それが僕に与えられた罰だった。
いっそさぼってゲーセンでも行ってやろうかと思うが、出席はカードキーによって管理されており、入口の改札のような門を通るたびリアルタイムで情報が保護者に転送されるという外回りの営業マンも真っ青な仕様になっているので、簡単にはさぼれない。
後先を考えなければ別にいいのだが、その後の母親とのバトルを思うと、コスパが悪すぎる。なので今は大人しく塾へ行ったほうがいい。順調に飼いならされている自分に、もはや驚きはない。
だが、その程度の圧力で僕が勉強をすると思ったら大間違いだ。
残念だったな!
この一週間、僕は塾での時間のほとんどを小説を書いて過ごしていた。
一見すると熱心にノートをとっている真面目な生徒に見える。しかしてその実態は、小説家になりたい馬鹿が一人というわけだった。
締め切りまで時間がないのだ。
勉強なんてしていられるか。
どれだけ自由を奪われてもこれだけは奪われてたまるか。
だがそう意気込んでみたはいいものの、やはり睡眠が足りなくなってしまい、とうとう今日、数学の時間に寝てしまった。
不覚だった。幸い小説を書いていることはばれなかったが、もしばれていたらと思うとぞっとする。
ちょっと寝ていただけであれなのだ。小説を書いているのがばれたら、逆さ吊りや鞭責めやら、何が飛び出してくるかわからない。
十数年前に死者が出たというこの塾を、決して舐めてはいけない。
生徒を番号で呼ぶような塾が、まともであるわけがないのだから。
●
綾瀬さんのことを思う。
彼女も全国の受験生と同じように、勉強をしているのだろうか。僕と同じように嫌だ嫌だと思いながら塾に通わされたりしているのだろうか。
やはり彼女は文学部へ進むのだろうか。それとも小説に必要な知識を得るため、まったく未知の分野へ進むのだろうか。僕は白衣を着て研究に勤しむ彼女を想像してみた。
しかしそんな想像に意味はないのかもしれない。
そもそも彼女は、大学など行かなくてもいいのだから。
──人はなぜ大学へ行くのか。
それに答えられる人間が、果たしてどれほどいるやら。
もちろん勉強したいことがあるからという人はいるだろう。そういう人は遠慮なく自分の道を往き、大いに頑張ってほしい。僕はそういう人を尊敬する。だがそんな人はごく稀で、ほとんどは大した理由もなく、何となく通う。
就職に有利だから、とか。
つまり将来、金を稼がなければいけないからだ。
しかしそこへ行くと、綾瀬さんはその条件をクリアしている。
彼女はもう働いている。
どころか、普通の人が四十年働いても稼げないほどの金額を、既に稼いでいる。
デビュー作の発行部数が230万部で、第二作が170万部で、先月出た第三作が……と印税の計算をすると、あらためて生きているステージが違うと思わされる。
変なため息が漏れた。
たかが数千円の小遣いで親と折衝を繰り返している自分が情けなくなる。
「おい! 誰が口を開いていいと言った!」
すると声が飛んできた。顔を上げるとあの数学の先生に負けず劣らずの強面をした先生がこちらを睨んでいた。
「すみません。あくびが出てしまって」
僕は逆さ吊りや鞭責めに心を備えた。
しかし幸い、それらの拷問にかけられることはなかった。
「気が緩んでいる証拠だ! 気をつけろ!」
先生はそう言い、また自習室内をうろうろとし始めた。僕は胸を撫で下ろす。いちいち心臓に悪い塾だ。
授業が終わってもすぐには帰れない。そこからさらに今日の復習と明日の予習のために十時まで拘束される。
なので僕も例に漏れず、自習室で勉強するふりをしていた。
自習室は、気持ち悪いほどの静寂に包まれていた。
ときおり鼻をすする音などが聞こえるが、声を発する者は誰もいない。筆記用具が踊る音や、教科書やノートがめくれる音しかしない。空気が冬の朝のように張りつめていた。
それもそのはず、塾内では生徒間の私語は禁じられているからだ。
生徒が口を開いていいのは、先生に許可されたときだけだ。
もしそのルールを破ったら、どんな拷問が飛んでくるかわかったものじゃない。
ある軍事国家では、軍によるクーデターを防ぐために隊員同士のコミュニケーションを禁じているらしい。
それとまったく同じだった。
徒党を組まれて、反旗を翻されたら困るから──。
まるで温かみを感じない。
休憩室もあるが、そこですら一切の会話がないのだ。みんな先生の目や、いたるところに設置された監視カメラを恐れているように見える。
こんな生活が夏のあいだずっと続くのかと思うと憂鬱の極みだ。
小説の進みも芳しくないし、自分はこの先どうなってしまうのだろう。
自分は、何になれるのだろう。
書く手が止まる。
綴った字がぼやけて、自分が何を書いているのかわからなくなる。