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3  『Future Seeker』


 散々だった期末テストが終わり、母親とその結果について切った張ったの大立ち回りを演じた末、僕は無事に今日という日を迎えられた。

 母親の攻撃は激しかった。並みの戦士ならあの威圧感だけで失禁していただろう。戦力の差は圧倒的だった。あんなもの竹やり一本で米軍艦隊と戦えというようなものだった。


 だが僕は生き残り、こうして生きている。それが何よりも尊い。

 かけがえのない日常を自分の手で守ったという達成感があった。

 まあ、そのおかげで我が家は今も緊張状態が続いているわけだが。


 問題が何一つ解決していなくても、時間が進むだけで何かが解決したような気になれるのは人間のすごいところだろう。自覚があったら何の意味もないけれど。


 とにかく、今日で一学期は終わりだ。

 今後のことを思えば憂鬱になるが、今はこのときを迎えられた解放感のほうが大きかった。


 教室中がそわそわしていた。そしてそのそわそわを、ほとんど誰も隠そうとしていなかった。みんな、先生の話が終わるのを今か今かと待ちわびている。先生もそれをわかっているのだろう、高校生活最後の夏休みをどう過ごすかで将来が大きく変わってくるというありきたりな話を、苦い顔ですることになった。


 そして号令がかかり、ホームルームが終わった。

 その瞬間、空気を入れた風船を空高く飛ばすように喧噪が弾けた。そこからはもう自由だった。先生は呆れたような顔をして、教室から出て行った。

 ダンスホールさながらの教室では、これからカラオケや、いっそ千葉の遊園地まで遊びに行こうなどという声が飛び交った。


 そんななかで、一人その喧噪を完全にシャットアウトしているのが綾瀬さんだった。


 彼女はクラスの馬鹿騒ぎには興味ないのだろう、淡々とプリントを鞄にしまい、席を立った。それを見て、僕も席を立とうとした。しかしそこで、橘に声をかけられた。


「なあ、これから打ち上げやるんだけど、星崎も行こうぜ」


 見ると向こうに何人か集まっていた。ファミレスでも行くのだろうか。それは嬉しい誘いだった。

 伊藤はことあるごとに僕を友達がいないキャラにしたがるが、僕にだって友達くらいいるのだ。今度プリクラでも撮って写真を送りつけてやろうか。渾身の変顔でもして、あいつを笑わせてやる。あいつは意外とそういうストレートな笑いが好きなのだ。……いや、今はそんなことどうでもいい。


 今日は他にしたいことがあった。

 彼女が教室を出たのが視界の端に見えた。


「いや、僕はちょっと、用事が」

 早く後を追わないと。しかし橘は話を切り上げてはくれなかった。


「つれないな。何かあるのか?」

「えっと、これから塾なんだよ」

 咄嗟に出てきた理由にしては悪くないのではと思ったが「嘘だな。星崎が塾なんかに行くわけがない」と即座に否定された。

 悲しいかな、身から出た錆だった。


「いや本当なんだよ。今日から通うことになってさ」

 通わされることになってさ、の間違いだったが訂正はしない。

「でもまだ昼だぜ? 普通夕方からじゃねえの?」

 普通の塾はそうだろう。だが、僕が通う塾は残念ながら普通ではない。僕は塾の名を出した。それを聞いて、橘は何かを察したような表情になった。名前だけで通じるほど、このあたりでは有名な塾なのだ。

 だから終業式の日だろうが容赦はしないという流れは、説得力がありすぎた。


「あそこはまじでやばいって有名だよな」

 橘が優しい目をしていた。

「頑張れよ、骨は拾ってやるから」

「いやそこは助けてくれよ」

 夏休みにほぼ休めないことが確定していることほど憂鬱なことはない。


「悪い、だから行かなきゃいけないんだ」

 僕は鞄を掴んだ。

 早く走らなくては、と足が震えていた。


「そうか、じゃあまた二学期に」

 少し残念そうだったが、納得してくれたようだ。せっかくの誘いを断るのは申し訳なかったが、今は友情より大事なものがあるのだった。

 そこに続くのは、決して恋愛ではないけれど。


 教室を後にする僕に「死ぬなよ」と橘が言って、みんなが笑った。僕はそれに苦笑いで返した。


 廊下は、これから帰る生徒でごった返していた。

 そしてその人ごみの向こうに、小さく綾瀬さんを見つけた。彼女の長い髪が歩くのに合わせて揺れていた。しかしその姿は角を曲がって見えなくなってしまった。僕は勢いよく突かれたビリヤードの玉のように走り出した。


 階段を駆け下りる。そのうち一段一段下りるのもじれったくなり、二段、三段と飛ばした。こんなことをするのは小学生のとき以来だった。踊り場で手すりを掴んで方向転換したら、上履きと床がこすれてガラスを引っかくような音が響いた。


 果たして下駄箱まで辿り着くと──そこには綾瀬さんがいた。

 靴を取り出していた。

 僕は思わず物陰に隠れてしまった。


 息を整えながら、顔を半分だけ出して彼女を見る。

 どうやら気づかれてはいないようだ。


 靴を履き替えているだけなのに、そこには不可侵性のようなものがあった。

 どこか儀式めいていて、その邪魔をしてはいけないと思わせられる。彼女が出たのを見計らって、僕もその後を追った。


 校門までの道のりを、人の流れに乗っていく。まるで魚になって大きな川を泳いでいるようだ。僕は一定の距離を保ちながら、彼女が歩いた道をなぞっていく。


 わかったことだが、綾瀬さんは歩くのが速い。それに姿勢もいい。天から糸で吊り上げられているようだ。だから背はそんなに高くないが、気持ち高く見える。地面を踏む足に迷いが感じられない。校門を出ると、バスに乗る生徒と駅まで歩いていく生徒にわかれる。綾瀬さんも僕も電車だから、駅のほうに曲がる。


 この三年間(正確には二年と四ヶ月だが)、朝や部活がない帰りなど、その後ろ姿は何度も見かけた。

 しかしこんな風に、明確な意志をもって後をつけたことはなかった。

 ……いや、何も彼女をストーキングしたいわけではない。


 ただ、話したいだけだ。まあ、世間ではそれをストーキングというのかもしれないけれど。


 なら教室で話しかければいいのでは、というもっともな意見もあるだろうが。それは出来なかった。

 お前のような底辺の存在が綾瀬さんに話しかけるなんて身の程を弁えろ、と誰かに思われそうで、怖気づいてしまったのだ。


 それでも何とか話せる機会を狙っていたのだが──その機会はことごとく失われ、とうとう下校時を残すのみとなってしまった。


 ここを逃したら、次に会えるのは夏休み明けになってしまう。

 そう考えたら、後をつけずにはいられなかった。


 僕らしからぬ感情的な行動だった。伊藤に知られたらまたいじられてしまうだろう。今日のことは絶対に秘密だ。


 綾瀬さんの背中を見つめる。

 綾瀬さんがすぐそこにいる。生きていて、授業を受けたり、本を読んだり、ご飯を食べたりしている。


 だけど僕と彼女のあいだには、絶望的な深さの谷があるような気がする。

 手を伸ばした瞬間、真っ黒な深みに落ちてしまいそうで、恐怖すら覚える。


 話したいことはある。訊きたいこともある。

 しかしどう切り出せばいいのかわからない。


 結局後をつけても、遠くから眺めるので精一杯だった。


 ──先日、また芥川賞と直木賞が発表された。両賞は一年に二回発表されるから、あれから半年経ったわけだ。だが今回は両賞とも受賞者なしだった。きっと前回の綾瀬さんの作品が衝撃的すぎて、どの候補作も印象がかすんでしまったのだろう。


 そんな一斉を風靡した彼女は、世間からの厳しい目に臆することなく次々と新作を発表し、大絶賛の評価で迎えられた。彼女の本は書店に行けば当然のように一番目立つところに陳列され、豪華なポップに、著名人からのコメントがずらり。そのなかには元総理のものも含まれており、時代を担う書き手として、大いに期待する旨が書かれていた。


 何度も思うが、同じ人間とは思えない。

 受賞当初は話題作りだとか、どうせ一発屋で終わるだろうという声も少なからずあったが、もうそんな声はまったく聞かない。


 彼女は本物だ──と今や誰もが認めている。

 人生を何万回繰り返しても、そんな風にはなれないと思う。


 それはもはや、本が好きとか、小説を書くのが好きとか、そういうレベルの話ではないように思う。

 その程度の人間なら、この世に腐るほどいる。


 僕と彼女で、いったい何が違うのだろう──一番知りたいのは、それだった。


 信号で綾瀬さんが止まった。僕もその一秒後に止まった。

 話しかけるなら今だ。今は周りに人も少ない。知り合いも見当たらない。


 クラスメイトなのだから、気軽に話しかければいいじゃないか。

 何を緊張する必要がある。


 これまでずっと同じ教室にいたのだ。綾瀬さんも僕の顔と名前くらいわかっているだろう。さわやかに挨拶をして、何気ない日常会話としゃれ込めばいい。立場は神とゴミくらい違うが、同じ物書きなのだ。好きな小説の話でもすればいい。きっと盛り上がれるはずだ。


 さあ行け、行くのだ。

 ゴミにはゴミなりの意地があるところを見せてこい。


 しかし──足は動かなかった。


 信号が青に変わり、綾瀬さんはまた歩き出した。また人の流れが多くなり、話しかけられる状況ではなくなってしまった。


 目の前がろうそくの炎のように揺らめいた。

 蝉がどこかで鳴いているのに、ようやく気づいた。


 彼女は今日も小説を書くのだろう。もちろん僕も書くだろう。地獄のような夏期講習が始まる前に、少しでも今書いている小説を進めておきたい。だけど僕たちのあいだには、絶対的な違いがある。


 許されているか、そうでないかだ。

 結果を出しているか、いないかだ。


 今書いている小説は、九月末の新人賞に投稿しようと思っている。結果は来年の春にわかる。

 つまり次が、高校生のうちに結果が出せる最後のチャンスなのだ。

 だから受験勉強なんてしている暇は、本当はないのだ。


 綾瀬さんと同じか、いやそれ以上のペースで書かないと、僕たちの差はさらに埋めようがなくなってしまう。


 だが最近は調子が良くなく、書くペースが以前に比べて落ちている。書いては消し、書いては消しでなかなか進まない。何とかまだ書けてはいるものの、いつ止まるかわからないポンコツ車に乗っているような不安感がある。


 綾瀬さんも、そんな風に感じたりすることがあるのだろうか──。


 商店街を抜け、駅に着いた。

 綾瀬さんに続いて、改札を通る。


 僕と彼女は電車の方向が逆だから、これが本当に最後のチャンスだった。ここを逃すと話せるのは最短でも夏休み明けになってしまう。もちろん夏休み中にばったりどこかで会えるかもしれないが、そんなご都合主義を物書きの端くれである僕が信じるわけにはいかなかった。


 世界はそれほど劇的ではないから。

 劇的であることを許さないから。


 だが、やはり僕は声をかけられなかった。その後ろ姿が階段を上って消えていくまで、眺めることしか出来なかった。


 近いのに遠すぎる、と思った。

 この距離が少しでも縮まることはあるのだろうか、と心から思った。


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