19 『春空/Innocent flower』
眠すぎて校長先生が何を言っていたのか全然覚えていない。
おそらく今後の人生に役立つ素晴らしいお話だったと思うのだが、残念ながらこのぽかぽかと暖かい陽気のせいで、カケラも頭に入ってこなかった。その後の校歌斉唱も餌を投げ込まれた金魚みたいにぱくぱくと口を動かしていただけだった。高校生活最後の日だというのに、緊張感もノスタルジーも何もなかった。
教室に戻り、浅野先生のこれまたありがたいメッセージを胸に頂戴し、刹那で忘れた僕は「じゃあお前ら、元気でやれよ!」という青春ドラマの最終回みたいな台詞を吐いて締めくくった先生に、あのときはご迷惑をおかけしました、と心のなかで謝った。
みんなが席を立って、最後の別れをそれぞれの相手に送り始めた。何も今生の別れではない。会おうと思えばいつでも会える。だがみんな心のどこかで理解しているのだろう。高校の友達なんて、よっぽどのことがなければ、もう二度と会うことはないだろうと。もちろんそれは、友達ではなかったということではない。友達であっても、別れは不可避だという話だ。
「星崎。色々とありがとうな」
橘がやってきた。
「何だかんだで、楽しかったよな」
「うん。……そうだね」
僕は教室を見回して言った。
「橘はどこ受かったんだっけ?」
訊くと、橘は有名大学の名前をさらりと挙げた。それが嫌味に聞こえないのは彼の人柄だろう。
「星崎は?」
「ああ、まあ、僕は……」
人に訊いておいて、自分が訊かれると答えづらい。
「橘! 早く行こうぜ!」
そこに、クラスの男子の声がした。その声に橘は「おう! 今行く!」と少年のように答えた。
「じゃあな、星崎。元気でな」
「橘も。元気で」
そうして僕の別れの挨拶は終わった。
あっけない。本当にあっけなかった。
でも人生って、きっとこんな感じの別れの連続なのだろう。僕は鞄を持つと、綾瀬さんの席を見た。
そこには、誰もいなかった。
今日は初めから、誰もそこに座らなかった。
彼女は、学校に来なかった。
卒業式だというのに。
これが、最後の日だというのに──。
まあ、いつかまた会えるよな。
諦めず歩き続けていれば、その先に彼女がいるのだ。
僕は喧噪を背に、教室を後にした。
すると突然、何者かにぶつかられ、ブレザーのボタンがむしり取られた。ぶちぶちと糸が切れる音が耳に残った。
「先輩の第二ボタン、もーらい!」
伊藤だった。さすがに怒ってやろうかという気持ちになったが、伊藤が嬉しそうにボタンを握っていたので、今日だけは許してやろうと思った。
僕は嘆息し、もうやることもないし一緒に帰るかと提案した。しかし伊藤は、クラスの友達と帰る約束をしているので先輩は一人で帰ってください、とか言いやがった。やっぱりこいつはよくわからない。よくわからない──世界で一番可愛い後輩だ。きっと卒業しても伊藤との付き合いは続くだろう。
伊藤と別れ、駅に向かって歩く。さすがに今日は母親の送迎はない。そんなわけで、特に何かを振り返ったりすることなく坂道を下りていく。《これまで》に思いを馳せている暇などない。僕には《これから》しかないのだから。
気合いを入れ直していると、坂の下から髪の長い女子が走ってくるのが見えた。その女子は見るからに息を切らしていた。よほど急いでいるのだろうか、わき目も振らずといった感じだった。と言うか僕はその女子を知っていた。
「綾瀬さん?」
「あ、星崎くん」
声をかけなければ、そのまま僕に気づかず通り過ぎていたような気がする。彼女の額には汗が浮かび、はらりと垂れた前髪が、肌に数本張りついていた。
「どうしたの、そんなに走って」
綾瀬さんらしからぬ姿だ。体育で走っているときも彼女は流麗というか、一人月面にいるような軽やかさだったのに。今はその軽やかさが微塵もない。
「卒業式、だから、ちゃんと、学校、行きたく、って」
きれぎれの息で彼女は言う。
彼女は海外でのサイン会のため、昨日まで外国に行っていた。しかし運悪く向こうでトラブルがあり、昨日のうちにこちらへ戻れなかったのだそうだ。
そして朝一の便で文字通り飛んで帰ってきた彼女は、どうにかこうにかここまでやってきたらしい。
「でも、もう卒業式は終わって、みんな解散しちゃったよ」
「そっか……」
彼女はがっかりした風だった。しかしそれも一瞬だった。彼女はすぐに「でも、まだ何人か残ってるかもしれないし、行ってみるね」と立て直した。
それでこそ綾瀬さんだった。
強い──それしか言葉が見つからない。
「そうだ、綾瀬さんは受験どうなったの?」
「受かったよ」
彼女は橘が行く大学よりさらに有名な大学の名前を挙げた。そこの文学部らしい。
「星崎くんは?」
「僕は……もう一年、頑張るよ」
そう、僕はもう一年あの塾に通わなければいけないのだ。
今度は学生ではなく、浪人生として。
驕りはなかったはずだった。しかし心のどこかに舞い上がっていた気持ちがあったことは否定出来ない。その心の隙間に、受験の魔物がゴキブリのように入り込み、僕の受験を予想外の結果に終わらせた。
僕が本命も滑り止めもすべて落ちるという離れ業を披露したことで、家庭内に特大の嵐が巻き起こった。僕は母親に、自分がいかに親不孝者で堕落者で失敗者で敗北者かということをみっちり教えられた。
まあそれも今日の校長先生の話と同じく、右から左へ華麗に受け流したのだけど。
来年も落ちたら、今度は命がないかなと思う。
「そうなんだ、頑張ってね」
綾瀬さんが、ぐっと拳を握った。僕も真似して、拳を握った。
そして少しの沈黙の後「じゃあ、私、行くね」と彼女が言った。
僕はうなずく。
終わる──彼女との高校生活が。
「綾瀬さん」
だから僕は、最後に一つ、これだけは訊いておかなければいけないと思った。
「何?」
「綾瀬さんは、何のために小説を書いてるの?」
「世界を変えるためだよ」
僕の一世一代の問いは、すぐに返された。しかしそれは適当にあしらわれたという感じではなく、その答えがすぐに取り出せる場所にあったからそうしただけという感じを受けた。
それは彼女にとって考えるまでもなく、当然のことなのだろう。
「……そっか」
それだけ聞ければ満足だった。
彼女の目は、遥か遠くを見ていた。
まるで誰かの背中を追うように──。
「じゃあ、行くね。星崎くんのおかげで、楽しかったよ」
そう言って、彼女はまた坂を登っていく。
その背中に、僕は叫んだ。
「綾瀬さん! 僕はいつか、君のライバルになる!」
綾瀬さんがどんどん小さくなっていく。
だけど絶対に聞こえたはずだ。
彼女は止まらなかった。振り返らなかった。
それが彼女なりの答えなのだろう──と思えた。
●
本屋に入った。昼過ぎということもあり、客足はまばらだった。僕は新刊コーナーを通りすぎ、雑誌コーナーに向かった。そしてある雑誌を開き、後ろのほうのページを確認した。
そこには全国から送られた小説のタイトルと作者名が、ずらりと並んでいた。
しかし、僕の名前はなかった。
僕は雑誌を戻すと、店内をうろついた。そこには様々な本が、夜空に浮かぶ星たちのようにひしめいていた。僕はあの日、綾瀬さんがおすすめしてくれた作家の本を買うと、店を出た。
春の暖かい日差しが降り注いでいた。
僕はそのまぶしい光に、目を細めた。
〈了〉




