16 『Lucky Clover』
「綾瀬さん」
その言葉に、彼女が僕を見上げた。机の上には裏返しになったハードカバーの本があった。
「何?」
彼女の瞳に、僕が映っている。
こうして話しかけるのは初めてのことだ。
三年も同じ教室にいて、僕は何をやっていたのだろう。
だが、時間を無駄にしたとは思わない。
すべては今日、この日のためにあったのだ。
僕が本当の意味で彼女に相対するには、それだけの時間が必要だったのだ。
「今日の放課後、話があるんだけど、いいかな」
彼女が何回かまばたきをした。いきなりすぎただろうか。何を言ってるんだこいつは、と思われただろうか。
話があるなら今しろよ、私はお前と違って暇じゃねえんだよ、と僕は断られる数秒後の未来を想像した。
しかし返ってきた言葉は「いいよ」だった。
「じゃあ、放課後に。教室でいいの?」
そのあっさりとした感じに、僕は首が不安定な人形みたいにうなずく。
そして訪れる無言の時間。アポは取ったのだから、これ以上僕がここにいる必要はない。けれどこれで終わりなんて、何だか寂しかった。せっかく初めて話せたのだから、ここは小粋な日常会話を挟んでもいいのでは、とも思うが、そんなことが出来るなら三年も足踏みしていない。
僕はそそくさと自分の席に戻る。
今の僕にはこれが限界だった。
大きく息を吐く。放課後のことを思い、色々な意味で大丈夫なのだろうかと自分のことを心配した。
すると、教室の空気がおかしいことに気づいた。
朝の教室。クラスの人間は半分くらいが登校してきている。席に座っている者もいれば誰かの机に集まって何か話している者もいる。だがその全員が、僕に視線を向けていた。僕が挙動不審になっていると橘がやってきて小声で言った。
「星崎、お前すごいな。綾瀬さんに話しかけるとか」
そして肩を組んで体を寄せてきた。
「しかも放課後に呼び出しとか、朝から飛ばしすぎだろ」
そこで僕はようやく、自分が何をしたのか思い至る。
綾瀬さんはクラスの聖域的な存在だ。何人もその領域を汚すことは出来なかった。そんな彼女に、どこの馬の骨とも知れない雑魚クラスメイトが朝一番に話しかけ、かつ放課後のアポまで取ったのだ。みんなの注目を集めないわけがなかった。
普段ならそれくらいちゃんとわかっていただろう。だが登校してきた綾瀬さんの顔を見たら一切が吹き飛んで、気づいたら彼女の前に立ち、話しかけていたのだ。
ざわめきが大きくなっていく。
人が人に伝えていく。
その共鳴は止まらなかった。
朝のホームルームが始まる頃には、僕が綾瀬さんにアタックを仕掛けたことは、クラス中が知るところとなっていた。
●
授業なんて上の空だった。先生が何か言ってるな、という感じだった。あと数ヶ月で受験本番だというのに、我ながらのん気なものである。
綾瀬さんのほうを見れなかった。
同じ教室、距離にして数メートルも離れていない。ちょっと首をひねれば彼女の横顔が見えるだろう。でも出来ない。僕の首はむち打って添え木でも入れたようにぴんとまっすぐ伸びていた。
どこからともなく生まれたくすくすという笑い声が、僕の体を熱くした。血が沸騰して頭のてっぺんから火山のように噴き出しそうだった。
気がつくと放課後になっていた。
帰りのホームルームでは、浅野先生がここからの追い込み次第で受験が、ひいては人生が変わってくるのだということを話していた。それは一週間前に聞いた内容だった。クラス中が、それはもう聞いた早く終われと呪詛に似た思いを飛ばしているのがわかった。
ホームルームが終わる。喧噪が生まれる。この瞬間だけはクラスが一つの生き物のように感じられる。
そしてみんなは、にやにやと僕と綾瀬さんのほうを見ながら、教室を後にしていく。
「じゃあな星崎。頑張れよ」
橘もその一人だった。
「当たって砕けてこいよ。骨は拾ってやるから」
言いながら、彼も友人たちと教室を出ていった。
完全に誤解されていた。
まるでこれから愛の告白でもするみたいだった。
確かに状況だけを見れば、そうとしか思えない。
僕も外野だったら、そう思っていただろう。
だが違う。これから僕がしようとしているのは、そんなロマンチックなものじゃない。
下手をすると、命を落とす危険すらあるのだから──。
掃除もそこそこにクラスメイトが退出していき、教室には僕と綾瀬さんだけになった。廊下から声や足音が響いてくるが、教室はその反面、夜の森みたいにしんとしていた。僕は意を決して立ち上がり、綾瀬さんのほうを向いた。
果たして彼女は、ハードカバーの本に目を落としていた。その目が夕焼けに照らされて、淡く輝いていた。
しばらく見つめていると、ページが音もなくめくられた。
彼女は僕が見つめていることなど、気にもとめていないようだった。
彼女の時間に割り込むこと──それが死に値する大罪のように思えた。
しかしものすごい集中力だった。どれだけ強固な世界を持っていたら、これほどまで超然とあれるのだろう。今日は一日中、好奇の視線にさらされた。それは彼女も同じだったはずだ。なのにこの差は何だろう。それこそが、格の違いというやつなのだろうか。
僕が卑屈になっていると、静寂を邪魔するように携帯が鳴りやがった。僕のポケットからだった。間抜けな着信音をぶちまけるそれを慌てて取り出し、画面に表示された名前を見る。
母親からだった。きっと僕が下校の時間になっても出てこないから、しびれを切らして電話してきたのだろう。憤怒の表情が脳裡をよぎった。
僕は着信を切り、電源を落とした。
世界はまた静寂に包まれた。
するとそこに、凛とした声が生まれた。
「ごめんね、話があるんだったよね」
声の主は本から顔を上げ、僕を見た。まるで今僕の存在に気づいたと言わんばかりの表情だった。
「声かけてくれてよかったのに」
苦笑する彼女は、そうしているとどこにでもいる女子高生にしか見えなかった。ただの読書好きな、ただの可愛い女の子に──。
「それで、話って何?」
首を傾げる綾瀬さん。この状況でも取り乱した様子はない。状況的に今から愛の告白を受けるかもしれないのに、その落ち着きようといえば年明けの受賞会見を彷彿とさせた。……あれからまだ一年も経っていないのだ。なのに世界は大きく変わって、僕を取り残して行ってしまったようだった。
その速度に追いつきたい。
追いついて、隣を走りたい。
僕は鞄から原稿を取り出し、彼女の机に置いた。
「これを、綾瀬さんに読んでほしいんだ」
「うん、わかった」
「……え?」
いやわかってる、綾瀬さんも忙しいよね、でも読んでほしいんだ、あ、別に急ぎじゃないから、時間があるときで──と言葉を用意していたので、呆気にとられた。
「いいの? 本当に?」
あっけなさすぎて裏があるのではと勘ぐってしまう。彼女は今、日本でもっとも忙しい人間の一人だろう。そんな人間の時間を、こんなにも簡単に奪ってしまえていいのだろうか。
そして彼女は本を鞄にしまい、軽く息を吐くと、原稿に手を添えて、目を動かし始めた。
展開の速さに頭がついていかない。
綾瀬さんが目を動かす。静かな息遣いとともに紙がめくられる。
彼女は一瞬で、小説の世界へ行ってしまった。
僕は授業中の居眠りから目覚めたようにはっとなり、足音を立てず、彼女から離れていく。そろそろ気持ちの限界だった。なので影が闇にまぎれるように教室から消えようとしたのだが「ここにいて」と小声で、だけどはっきりと言われて僕は固まった。
だから僕は自分の席に戻ろうとして──方向転換。綾瀬さんの前の席の椅子を百八十度回転させ、彼女の真正面に座った。
僕はここに何をしにきた?
彼女と向かい合うために、ここに来たのだ。
綾瀬さんが、近い。
ちょっと手を伸ばせば届く──どころか息がかかるくらいの距離にいる。
ここが、この場所が、最前線だ。
体が震えた。
ついに、僕はここまで来たのだ。
そんな僕の思いなど露とも知らないだろう綾瀬さんは、一心不乱という言葉を体現するように、どんどん読み進めていく。
一秒が長い。廊下からのざわめきと、生まれ始めた部活の音、彼女の呼吸の音、僕の心臓が脈打つ音──それらが絡み合い、僕に寿命を削るようなプレッシャーを与え続けた。
果たして彼女は、僕の世界にどんな評価を下すのか。
そのときを僕は、ただ待ち続けるだけだ──と決意を固めたところで、またもや邪魔が入った。今度は天井からだった。
『3年A組、星崎春輝くん、お母様よりお電話が入っております。至急、職員室まで来てください。繰り返します。3年A組、星崎春輝──』
携帯を取り出し、電源を入れる。画面が明るくなる。この短時間で数十回以上も着信があった。
さっきとは違う意味で体が震える。後のことを思うと、もう憂鬱を通り越して、絶望しかない。
こんなアナウンスがあったからには、僕は光より速く職員室に駆け込み、今回の素行をなじられ、人格や人生を否定され、校門前で待ち構えている鬼だか悪魔だかよくわからない生物に車に押し込まれ、塾へ連行されなければいけないだろう。
それが現実。
それが運命。
それが僕の人生──だった。
でも僕は言われたのだ。
綾瀬さんに『ここにいて』と。
震えが収まっていく。携帯を握る手に力が宿っていく。
携帯が鳴った。僕はすぐその電話に出た。
耳元に、金属を引っかくような、聞く者すべての身をすくませるような暴力的な声が響いた。
『春輝! あなたどうして──』
しかし僕はその声に、はっきりと、言った。
「母さん、今日は塾休む」
『はあ? 何勝手なこと言って──』
「今、大事なときだから」
僕は電話を切り、また電源を落とした。携帯の息の根を止めるくらい、ぐっと電源ボタンを押した。
綾瀬さんに「何かあったの?」と訊かれた。
僕は「いや、何も」と答えた。




