15 『今を僕らしく生きてくために』
《特別面談室》は、狭い部屋だった。
面談室だけでいいのに、特別なんてつけるものだから、何があるのだろうと余計に勘ぐってしまう。この塾はそういう無駄に不安を煽るようなことをよくする。
取調室みたいだ、と席について思った。
部屋を見回す。そこで監視カメラがないことに気づいた。
普通ならそれは嬉しいことだ。
自分の行動が監視されていない。
記録に残らない──それは自由だ。
だが逆に、僕はこの状況を恐ろしく思った。
つまり、ここは例外なのだ。
『何が起こっても、証拠が残らない』という……。
教室や講師室からは絶妙に離れ、窓からは、隣のビルの壁しか見えない。
疑似孤島。疑似密室だ。
何か起きるならここしかない。そう思うに十分な場所だった。十数年前に、生徒の一人がこの塾で死んだという噂をあらためて思い出す。
そんな場所に共にいるのは、背すじがピンと伸びた、冷徹さの塊のような女性だった。
南先生は分厚い紙の束を机に置くと、ため息を吐いた。
「ひどかったわ」
「……はい」
いきなりの攻撃に、覚悟していても大きく揺さぶられた。
「あなたは自分が面白いと思うことが、他人にとっては決してそうではないということを自覚するべきよ」
刺さった。それはもう深々と。
先頭打者にホームランを打たれたピッチャーの気持ちがわかった。
「あなたはこの小説を読んだ人に、どんな気持ちになってほしいの?」
背中や脇に嫌な汗が浮かんできた。
試合は早くも、大差での負けを予感させた。
●
母親がついに帰還し、また自由がなくなってしまった僕だが、その前に一つ手を打っておいた。
小説を南先生に渡したのだ。
何でそうしようと思ったか、はっきり答えることは出来ない。彼女に読んでもらうなんて、愚行としか思えない。
絶対よくないことを言われる。
いや、いいことを言われる。
だから──なのか?
わからない。わからないが、僕は南先生という壁にぶち当たることを決めてしまったのだった。
僕は授業を終えた南先生を廊下で捕まえ、大量の紙の束を差し出した。お願いします、どうか読んでください、と。まるでラブレターでも渡しているみたいだった。南先生は僕とそれを交互に見て、ため息を一つ吐いた。
駄目か。
ふざけないで。こんなくだらないことをしていないで勉強しなさい。
そんな王道でねじ伏せられてしまうのか。
しかし彼女は『いいわよ』と言った。
僕は先生の気が変わらないうちに小説を押し付け、そそくさと自習室に駆け込んだ。そして机の下で拳を握った。
まあかなり分量があるから、感想をもらえるのはだいぶ先になるだろうと思っていた。しかし彼女は昨日の今日で『あなた、話があるのでこのあと特別面談室に来なさい』と言ってきた。周りからは、またこいつか、という嘲笑の視線を向けられた。
笑いたければ笑えばいい。
もう笑われるのには慣れた。
そして廊下で二人きりになったところで『緊張しなくていいわ。読んだから、感想を言ってあげるだけよ』と言われた。
感情の雲がより厚くなった。
面白かったから一日で読んでくれたのだという期待と、つまらなかったから目が滑ってすぐ読み終わったのだという不安でいっぱいになった。
そして特別面談室に通され、彼女が開口一番に言ったのが『ひどかったわ』だった。
「そんなに、ですか?」
食い下がってみた。
前に一部を読んでもらったときは『高校生にしてはよく書けている』という評価をもらった。あのときはそれが心臓を貫かれるより辛かったが、今は逆にその言葉にすがりたかった。
「もちろん、すべてが駄目と言ってるわけじゃないわ。よかったところはあった。ここから、ここまでね」
先生が束をめくり、僕を示した。
「途中、作者が変わったのかと思うくらい引き込まれたわ」
あの日、部室で書いたところだった。
「でもそのあとは全然駄目。明らかにクオリティが落ちている。そして最後──これはもうお話にならない。あまり読者を馬鹿にしないことね」
痛いところを的確に突かれた。
締め切りに間に合わせるため、無理やり物語を終わらせた。
言い訳は色々と思いつく。
だが、僕はそれをしたくなかった。
それを恥ずかしげもなくしてしまったら、ただでさえか細いこの道が、完全に途切れてしまう気がしたのだ。
小説家なら、小説で語れ。
僕は口を固く結ぶ。
これが葛藤だ。味わえ、噛み締めろ──。
「まあ高校生でこれだけ書けるのは、立派なことよ」
気を遣われているのがわかるときほど、居心地の悪さを覚えるときはない。
褒められているのに、褒められていない。
「私があなたくらいの頃に書いたものは、もっとひどかったもの」
先生は、くすっと、自虐的に笑った。
ここで僕は、先生が言ったことよりも、笑ったことに驚いた。彼女もそんな顔をすることがあるのか、と。
「……小説、書いてたんですか?」
「昔ね」
先生は目をそらして言った。あるいは遠くを見たのかもしれなかった。しかしそこには無機質な白い壁があるだけだった。
「私もあなたくらいの頃、小説家になりたいと思っていたわ」先生は視線を戻した。「勉強もそっちのけで、毎日毎日駄文を書き散らしていた。まるで小説を書くことが天から与えられた使命であるかのようにね」
自虐的に笑う先生。
僕は何も言えない。
「もちろん、そんなことはなかった。天は私を選んでなどいなかったし、私は天から選ばれていなかった。でも、書き続けた。大学では文芸サークルに入って、仲間も出来た。楽しかったわ」
この人にもそんな時代があったのか。仲間とか、そんなものからは真逆の位置にいる人だと決めつけていた。
でもね、と先生は声のトーンを落とした。
「私はそこまでだった。プロを目指して目指しきれるほど、私は小説を愛していなかった。突き抜けられなかった。就職活動を始めるにつれて、私は少しずつ小説を書かなくなっていった。それまで、自分は小説さえ書けていれば満足だ、とすら思っていたのに。──そして就職して、働いて、お金を自分で稼いで、認められていくと、いつのまにか小説を書きたいとはまったく思わなくなった。満足してしまった、ということなのかしらね」
「満足……」
「そう。つまるところ、私は誰かに認められたかったのよ。でもそれは働いて、社会的に認められてしまったら満たされてしまうほどの、浅い欲求にすぎなかった」
承認欲求と創作は、切っても切れない関係だ。小説に限らず創作者は、誰でも多かれ少なかれその欲求を持っている。
自分を見てほしい。
自分を認めてほしい、と。
そうじゃなければ作品は生み出せないし、世に出そうとは思わない。プロになることを選ばなかった伊藤にも、それは否定出来ないことだろう。
「でもね」
先生は不意に、優しく諭すように言った。
「今はそれでよかったと思ってる。だって小説を書かなくなって、気が楽になったんだもの。ああ、もうあんな面倒くさい思いにとらわれなくていいんだ、って。人生は、小説を書くためだけにあるわけじゃないってわかったから」
彼女に夢を諦めた人間に特有の負のオーラはない。どころか憑き物が落ちたような雰囲気さえあった。
「私は今の人生に満足してる。まあこの塾の教育方針は多少行き過ぎてるとは思うけど、世のなか甘さだけで上を目指せる人間はなかなかいない。こういった厳しい環境も、必要悪として必要なのよ」
僕の頭に、ふと我執という言葉が浮かんだ。
彼女は、我執の螺旋から解放されたのだ。
「ねえ、あなたは本当に小説が書きたいの?」
問われるも、言葉が出てこない。
即答しろよ、星崎春輝。
書きたいと。小説が書けていればいいと。
それが出来るなら、他に何もいらないと──。
「あなたが今、本当にしなければいけないことは何?」
正論が来る。
大人の正しい意見がぶつけられる。
それに反論した時点で、負けが確定してしまう──。
「あなたが今するべきはね、勉強をすることなのよ。勉強して、成果を出して、周りから認められて、そして大人になることなのよ。小説なんていつでも書けるわ。それに、小説なんて書かなくても人は生きていける。まずそれをちゃんとわかってほしいの。小説を書くだの何だのは、それからよ」
小説を書かなくても、生きていける。
それは……言っては駄目だろう。
そんなことを言われたら、僕はどうすればいいのか。
「『二十五歳未満の者、小説を書くべからず』」
南先生が、突き放すように言った。
「な、何ですか急に」
「菊池寛よ。知ってる?」
知っている。文藝春秋を発行し、自身も作家として活躍しつつ、1935年に芥川賞と直木賞を創設した人物だ。彼がいなかったら、あの作家もあの作家も、そして綾瀬さんも世に出ていなかったかもしれない。
そんな人物が、何を?
「『全く、十七、十八乃至[ないし]二十歳で、小説を書いたって、しようがないと思う。とにかく、小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、そんなものよりも、ある程度に、生活を知るということと、ある程度に、人生に対する考え、いわゆる人生観というべきものを、きちんと持つということが必要である』──その通りだと思うわ」
彼女は髪をかき上げた。
「今のあなたは、ただ嫌な勉強から逃げているだけではないの? もしそうなら、あなたはまだ小説を書くべきではない」
僕には、まだ早いというのか?
十八歳の僕には──。
「で、でも、十八歳でも、小説家をやっている人もいます」
綾瀬さんとか、綾瀬さんとか、綾瀬さんとか……。
菊池寛の言葉を借りるなら、彼女ですら小説を書くべきではないということになってしまうのではないか。
「確かにそうね。世のなかにはあなたと同い年で、立派にプロの小説家として活躍している人もいる。たとえば綾瀬花とか」
「……ご存じなんですか?」
「当然でしょう。彼女は、本物よ」
言葉に、今日一番の熱さを感じた。
「まあ、あなたが偽物だと言っているわけではないけどね」
「本物……」
「そう、本物。まだ子どもなのに、生きるのに大切なことが何か、小説家として求められていることが何か、本能的に、あるいは理論的にわかっている人たち」
菊池寛が言うところの、人生観を持っている人たち──。
普通の人が学問や仕事に精を出し、二十五歳を過ぎたあたりから徐々に構築していくそれを、十代で彼ら彼女らは持っているから、小説家として羽ばたいていけるのか。
……わかっている。二十五歳というのが、ただの目安でしかないことくらい。
二十五歳を過ぎても、四十五歳を過ぎても、いや死ぬ直前になっても自分の人生観を持てない人もいる。
ただ、二十五歳というわかりやすい数字を出されて、形だけでも反論したくなっただけだ。……こういうところが、まだ子どもなのだろう。
「私は小説を仕事には出来なかったけど、現代文を教える仕事に就いている。それで満足。それで幸せなの」
南先生は、自分を知った。
それが人生観。
僕に、ないもの。
「じゃあ、もう小説を書きたいとは思わないんですか?」
人生観を得たときが小説を書くときなら、先生は今まさに小説を書くべきなんじゃないのか。
「さあ、わからないわ」
彼女は少し間を置いて言った。
「綾瀬花の小説なんかを読んでいるとね、ああ、自分より若いのに自分より才能も実力も勝る人が世界には当たり前のようにいるんだ、って打ちのめされちゃうのよ。でも、完全に屈したわけじゃない自分もいるの。だからもしかしたら、心のどこかでは、まだ書きたいと思っているのかもしれないわね。──あなた、綾瀬花は読んだことはある?」
「読んだことがあるどころか、毎日見てますよ」
「どういうこと?」
僕は高校三年間、ずっと綾瀬さんと同じクラスだったことを話した。でも一度も話したことがないと言うと、先生はあからさまに呆れた顔をした。
「なかなか複雑なようね」
「ですね」
本当は単純な話なのかもしれないけど。
このままで、いいのだろうか。
僕は彼女にとって、単なるクラスメイトとして、いや、背景以下の存在として、十年後くらいに卒業アルバムを見返しても特に引っかかることなくページをめくられてしまうことになるだろう。
それでいいのか?
「あなたに必要なのは、彼女と向き合うことじゃない?」
「向き合う……」
真正面から対峙する。
彼女の前で、堂々といる。
それは、どれだけ難しいことだろう。
どれだけ、勇気のいることだろう。
「話してみればいいじゃない。案外あっちも、あなたと話したいと思ってるかもしれないわよ」
まさか、そんなことあるわけがない。
僕は彼女に比べればカスで、ゴミで、何も価値もなくて──。
いや、そうじゃない。
そうじゃないのだ。
「自分が何をしたいか、見つけられるといいわね」
先生は立ち上がった。
「頑張ってね、星崎くん。将来は、学校の先生なんていいんじゃないかしら?」
「冗談ですよね?」
「さあね」
言い残し、彼女は特別面談室から出て行った。
残された僕は、しばらく背もたれに体を預けていた。そして手を伸ばすと、紙束の表面をそっと撫でた。
僕がするべきこと。
考えるまでもなかった。
それはもう目の前にあるのだから。




