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14 『アルペジオ』


 そして僕は小説を完成させた。


 様々な困難を乗り越え、ようやくここまで辿り着いた。

 しかしその出来はお察しだった。


 出来上がったそれは、何とかぎりぎり間に合わせたというだけの、小説らしき何かだった。途中の一部分はいいだけに、ひどくもったいなく感じた。


 誤字も脱字も、削るべき箇所も不足している箇所もたくさんあるが、それらにこだわっている時間はなかった。作者が途中で死んだような終わり方になってしまったが、すべてに目をつむり、わずかな可能性にかける他なかった。


 郵便局から出て、一仕事終えたという達成感と、これでよかったのかという不安感に包まれた。だが送ってしまったものは、もうどうしようもない。僕は夕方のぬるい風に当たりながら、伊藤にメッセージを送った。


『やったぞ』

『おめでとうございます』

『頼む』

『わかりました』


 余計な言葉はいらない。

 僕は帰宅すると、パソコンを立ち上げ、投稿してきたばかりの小説を、いつものように伊藤のアドレスへ送りつけた。


      ●


 伊藤に小説を読んでもらう──それは彼女と出会って何度も経験してきたが、これほど緊張したことはなかった。


 自分でもわかっていた。

 この小説は面白くないと。


 しかし伊藤なら、もしかしたら面白いと言ってくれるかもしれない。そんな一縷の望みが生まれてしまうから辛かった。


 とても静かな夜だった。静寂を切り裂くのは鈴虫のかすかな鳴き声だけだ。あとは何もない。家のなかも静寂だった。母親がいないからだろう。あの人がいないだけでこんなにも穏やかな気持ちになれるのか。十八年生きてきて、初めてそれに気づいた。


 開けた窓から、涼やかな風が吹き込んできた。

 風呂上りの火照った体に、ちょうどよかった。


 あれから何日か経った。

 僕はやったのだ。

 小説を最後まで書き上げ、新人賞に投稿したのだ。


 しかしあんなにもそれを熱望していたのに、過ぎてしまえばあっけないものだった。

 達成感と不安感と──喪失感が自分のなかで渦巻いていた。


 仕事一筋で四十年生きてきた男が、定年退職後に何をしていいかわからず途方にくれる気持ちが少しわかった。


 窓際に肘をついて、夜空を見上げてみる。

 星は相変わらず見えない。薄暗い闇がそこにあるだけだ。


 これから、自分は何をすればいい?

 決まってる。これからも小説を書くのだ。

 それ以外に幸せになれる方法はない。


 だが、何も思い浮かばない。

 妄想しようとしても、白いもやがかかったような曖昧な映像しか浮かんでこず、そのうち考えるのをやめてしまう。僕が大人だったなら、ここで煙草の一本でも吸うのだろう。


 人は、いつになったら大人になるのだろうか。

 僕はぼんやりと、自分は二十歳になっても三十歳になっても、いや五十歳になっても変わらないのではないかと思った。

 果たしてそれはいいことなのか、悪いことなのか──。


 そのとき携帯が震えた。見ると伊藤から『ぱしゃり』とあった。

 そして『窓際でたそがれる先輩の図』と同時に画像が送られてきた。


 今にも灰になって崩れ落ちそうな高校生くらいの男子が、夜空を悲しそうに見上げていた。

 どう見ても僕だった。

 道路に目をやると、小さな人影があった。街灯の明かりに薄っすらと照らされたそいつは僕を認めると、すっと手を挙げて「先輩」と鈴虫の声に負けず劣らずの小さな声で言った。

「伊藤」

 僕は驚きつつ、近隣に声が響かないように言った。

「何でこんなところにいるんだ」

「感想を言いに来ました」

 単純明快な答えだった。

「今、お時間ありますか?」


 このときを待っていた。しかし、永遠に来なければいいとも思っていた。

「あ、ああ。ちょっと待ってろ」

 慌てて身支度を整え、音を立てないよう玄関を開け、伊藤をなかに招き入れた。


      ●


 息を殺し、音を立てず階段を上り、僕の部屋に着いた伊藤は開口一番「きったない部屋ですねえ」と失礼なことを言った。

「うるさいな」

「えっちな本はないんですか?」

 ベッドの下をのぞきこむ伊藤。

「ねえよ、ぜんぶパソコンのなかだ」

「そうですか、残念です。先輩の性的嗜好が知りたかったのに」

「死んでも教えねえよ。あと頼むから静かにしてくれ。家族にばれたら困る」


 僕は手を合わせて頼み込んだ。

 いくら母親がいないからといって、父親と妹にこの状況を見られたら色々と面倒なことになるのは必至だ。でも外をうろつくわけにはいかない。こんな時間に外を歩いていたら警察に補導されるかもしれない。あの日以来、警察という存在にやたらと敏感になっている自分がいた。


「まあ座れよ」

 ベッドを示す。そして自分もその隣に──なんてことをするわけもなく、普通に椅子に座った。

「失礼します」

 伊藤が腰を下ろすと、ベッドが微かに軋んだ。

 部屋の空気が張りつめたような音だった。


 伊藤がうちに来るのは初めてだった。どうやら年賀状の住所を見て来たらしい。行動力の化身かこいつは。


「……久しぶりだな」

「そうですね」

 会うのは、夏休みに遊んだとき以来だった。

「何か、大人っぽくなったか?」

「先輩がお世辞を言うなんて珍しいですね」

「いや、真面目に言ってるんだが」

 服装のせいだろうか、今日の伊藤はどことなく大人っぽい。いつもは小学生にしか見えないのに、今日は大学生っぽく見える。

「……ありがとうございます」

 伊藤が目をそらして言った。照れているのだろうか。だったらもっとわかりやすく照れてくれればいいのに。


「部活はどうだ?」

「一人でやってますよ」

「僕がいなくて寂しくないか?」

 何言ってるんですか、先輩がいなくてせいせいしますよ──そんなことを言われるんだろうと思っていた。伊藤はそういう奴だ。しかし彼女の返答は、その予想とは真逆のものだった。


「寂しいですよ」

「え……」

「今までずっと、あの部屋で、先輩と一緒にいたんです。寂しく──ないわけないじゃないですか」

 伊藤の顔が、わずかに歪んでいた。

 その顔を見て、僕は来年も高校三年生をやらなくてはいけないと思った。留年が何だ、この後輩のためなら留年なんて人生の誤差の範囲内だ。

 本気でそう思いかけた僕に「でも先輩も、私が入るまでは一人だったんですよね。だから、大丈夫です」と静かに言葉が紡がれた。


 たった一人の文芸部──それは苦い記憶だ。

 別に小説を書くだけだったら家でも書ける。わざわざ学校の一角を占拠し、肩身の狭い思いをする必要なんてない。

 幽霊部員になったって文句は言われないのだ。

 なのにどうして伊藤も僕も、そうしないのだろう。

 どうして、あの場所を守ろうとするのだろう。


 ……決まってる。

 信じているからだ。小説が繋ぐ、人と人との絆を。


 馬鹿なのだ、僕たちは。

 小説を人生の中心に据えていないと何も出来ない、底抜けの小説馬鹿なのだ。


「何か、湿っぽくなっちゃいましたね」

 伊藤が恥ずかしそうにはにかんだ。

「こんな話をしに来たわけじゃないのに」

 そうだった。小説の感想を言うために、伊藤は今日来てくれたのだ。


「……どうだった?」


 僕は、恐る恐る切り出した。

 運命の瞬間だ。

 体のどこかに汗が浮かんだのがわかった。

 かつて僕は、この瞬間を判決を待つ被告人のようだと表現したが、やはりそれは的を射ていると思う。


 死刑か、無罪か。

 作者に下される判決は、その二種類しかない。

 果たして──。


 伊藤が息を吸った。

「先輩はこの小説を、誰に読んでもらって、どんな気持ちになってほしいんですか?」

「え?」

 誰に?

 どんな気持ちに?


「い、伊藤のために……」

 伊藤に読んでもらって、楽しい気持ちになってほしくて──そう喉の奥からひねり出そうとして、しかしそれは途中で遮られた。

「嘘ですよね」

 伊藤は僕が冗談でも言ったみたいに、くすくすと笑った。

「先輩が見ているのは、誰ですか?」


 体と心が固まった。

 言葉が繋げなかった。


 なぜなら僕は、誰のことも見ていなかったからだ。

 誰のために小説を書いているのか?

 ──自分のためだった。


 自分が気持ちよくなりたいがためだけに、僕は小説を書いていた。


 これまで伊藤に読んでもらって、もちろん励みにはなっていた。だがそれは、決して伊藤のために書いたという意味ではなかった。


 初めからわかっていたはずなのに、僕はずっと目をそむけ続けてきた。


「先輩が何をしたいのか、わかりません」

 世界中の誰に言われるよりショックだった。

「……一番の読者が自分じゃ、駄目なのか?」

 僕は苦し紛れに言い返す。まず自分が面白いと思えるものを生み出す。それの何がいけないのだろう。


「駄目ではありません」伊藤はきっぱり言う。「ですが、それだけじゃ駄目なんです」

「どういうことだよ」

 伊藤が何を言いたいのか、まったくわからない。

 そんな自分が、本当に情けない。


「じゃあ、お前は誰のことを見てるんだ?」

 伊藤は誰のために小説を書いているのか──。


 しかしその問いに対する答えも、また予想外のものだった。


「私も、自分のことしか見ていません」

「はあ?」

「私は、私が読みたい物語を、私のためだけに書いています」

 ますます混乱する。

 今自分で、それでは駄目だと言ったじゃないか。

「言ってることと違うじゃないかよ」

 声を荒げる僕に、しかし伊藤は冷静だった。


「当然です。さっきのは、プロになろうとしている先輩に向けての言葉なんですから」


 そして伊藤は一呼吸おいて、意を決してという風に言った。

「実は、夏に出版の話が来たんですよ」

「え?」

 思わず身を乗り出してしまう。

 だが伊藤に近づいた気がまったくしなかった。

「ぜひ書籍化しませんか、って」


 伊藤の小説は個人サイトで黙々と連載され、その量は膨大の一言に尽きる。そのすべてが書籍化されるのだとしたら──。


「……何て答えたんだ?」

「断りました」


 驚きのあまり言葉を忘れた。

 賞を取らずに自分の本が出せるのだ。こんないい話、小説書きなら一も二もなく飛びつくだろう。

「私はあの子たちの物語を書ければそれでいいんです。わざわざお金儲けに使いたくありません」

「……お前、自分が何をしたかわかってるのかよ」


 せっかくのチャンスを。

 多くの人間が喉から内臓を吐き出すくらい欲しているそのチャンスを。

 こいつは、ドブに捨てたのだ。


 僕は言った。応援してくれるファンは大勢いる。きっと売れる。様々なメディアミックスも望める。一攫千金のチャンスだったんだぞ、と。しかし伊藤は動じない。

「先輩は、お金のために小説を書いてるんですか?」

「そこまでは言わないけど……でも、売れなきゃ居場所はないだろ」


 商業ベースで生き残るには、売れなければいけない。売れなければ消えていく。売れなければ、消えていかなくてはいけない。

 僕は綺麗ごとを言うつもりはない──。


 と、そこで気づく。

 伊藤が何を言いたいのかを。


「……そういうことか」

 僕は椅子に、もう一度腰を下ろした。

 だから、なのか。


「そうです」

 伊藤が神の言葉を人々に伝える巫女のように言った。

「私は自分のためにしか小説を書けません。だからプロになる気はないんです」


 仕事ではなく、趣味として──いや、ライフワークとして小説が書ければいい。

 プロは読者のことを考えて書かなければいけないが、それなら自分の好きなように書けるわけだ。


「小説家になんてなったら、面倒くさいじゃないですか」

 そこには迷いや後悔といったものは、微塵も感じない。


「でも先輩は違いますよね?」

 伊藤は僕の目をまっすぐ見る。

「プロに、なりたいんですよね?」

「ああ」

 僕はその眼差しを受け止める。

「じゃあ、先輩は私と違う道を往かなければいけません」


 本当に、この後輩は、どれだけ先輩泣かせなのだろう。

 僕じゃなければ泣いているところだ。まあ伊藤の前で泣いたりしたら一生いじられそうだから、絶対に泣かないけれど。


「もう投稿しちゃったんですよね?」

「ああ」

「でも、まだ出来ることはありますよね?」

「……ああ」

「ファイト、です」


 伊藤が拳を突き出した。小さな五本の指が折れ曲がり、グーの形を作っていた。僕はその拳に、自分の拳を軽くぶつけた。彼女の拳が、ダイヤモンドより硬く感じた。


 伊藤に出会えてよかった。

 心から──そう思った。


      ●


 もう夜も遅いし、泊まっていくことを勧めたのだが、伊藤は『ご厚意はありがたいですが、まだ貞操は守っておきたいので』と慇懃に辞した(僕を何だと思ってやがる)。なので僕は、せめて駅までは送らせてくれと頼み、伊藤はそれを了承した。


 一緒に歩きながら、色々な話をした。

 出会ってから今までの、色々を──。


 気づいたら駅に着いていた。

 僕は伊藤が終電に乗り込むのを確認すると、帰路についた。


 大通りを外れると、音が消えた。僕は急に走り出したくなり、その欲求に逆らわないことにした。僕は走った。走って、走って、止まらなかった。止まりたくなかった。汗が噴き出てきた。心臓が痛い。腕が上がらない。脇腹がつった。ふくらはぎがしびれてきた。でも止まらなかった。


 家に着く頃には、全身ぼろぼろだった。

 でも人生で一番頭がすっきりしていた。


 汗を拭きながら廊下を歩いていると、夏海が部屋から顔だけ出して言った。

「お母さんには黙っといてあげる」

 夏海は小悪魔のように笑い、モグラ叩きのモグラのようにさっと部屋に引っ込んだ。


 ……ばれていたのか。

 僕は言い訳したいのをぐっとこらえて、自分の部屋に戻った。


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