13 『約束のアステリズム』
「星崎、お前夏休みに家出したんだってな」
九月一日の朝──教室で会った橘に、笑いながら言われた。
「いや、まあ、その」
僕の歯切れは悪い。その話はあまり掘り返されたくなかった。すると何人かがぞろぞろとやってきた。そして彼らは順々に「よくやるなあ」とか「何でそんなことしたん?」とか「警察って怖かった?」とか根掘り葉掘り訊いてきた。
どこから漏れたのやら。僕としては墓まで持っていくつもりだったが、今の世のなか、人の口に戸は立てられないらしい。
一躍クラスの話題の人になってしまった僕は、しかしサイズの合わない服を着たときみたいな居心地の悪さを覚えた。
高校生にもなって家出とは……。
冷静に考えれば痛すぎる。しかもたった一日で終わってしまったのだ。恥としか言いようがない。
何より、それを綾瀬さんに知られることが一番の恥だった。僕は別の世界にいるように一人静かに本を読んでいる彼女をちらと見た。僕は誰に訊かれても核心は明かさなかった。いや、ちょっと親と喧嘩してさ、とか、一度くらい家出してみたかったんだ、とか、それっぽい理由を並べ立てた。
正直、何週間かの停学は覚悟していた。しかしそうならなかったのは、僕が受験生であることと、大事にはならなかったからということが大きかった。そう、僕が決死の覚悟でしたことは、全然大したことじゃなかったのだ。
だが、それでも余波は確実にあった。
不良など絶滅危惧種のわが校において(不良と無気力は違う)、久しぶりに生徒が警察沙汰を起こしたものだから、学校側から徹底的にマークされるようになった。
他の生徒に比べて、明らかに僕は監視されていた。
これでは、授業中に小説が書けない。
締め切りまでもう一刻の猶予もないのに──。
じゃあ部室に行って書けばいいじゃないかと言われるかもしれないが、それも二学期が始まって出来なくなった。
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授業を終えた僕は、とぼとぼと、まるで会社をクビになったサラリーマンのように廊下を歩き、校門を出る。するとそこに一台の車が停まっている。運転席にいるのは、忌々しくも母親だった。僕は重いドアを開け、車に乗り込む。
母親が荒々しく車を発進させた。それだけで酔いそうだった。
「もっと背すじを伸ばして歩きなさい」
僕はため息交じりに「はいはい」と答えた。その態度が気に食わなかったのか、母親は姿勢がいかに重要か訊いてもいないのに語り始めた。
売られていく仔牛の気持ちを体験していると、いつのまにか塾に着いていた。
「しっかり勉強してきなさい」
背中に刺々しい言葉を受けながら、僕は車を下りて、塾のゲートを通った。
地獄は続く。まだ続く。
家出の前科がある僕を縛り付けておくには、この塾はやはりうってつけらしい。別の塾に通わせるほうがいいのではという父親の援護もむなしく、母親が九月以降も通うことを強制してきた。しかも、毎日母親の送り迎えつきである。
当然、塾でも僕はマークされていた。学校からも、母親からも、そして塾からも要注意人物扱いされ、その圧力に精神がごりごりと削られていくのを感じる。
塾が終わると、レミングスのように駅まで歩く生徒たちを横目に、家という名の監視つき住居に移送される。
もちろん小説は書けない。
部屋に頻繁に母親が突入してくるようになったからだ。
プライバシーも何もあったもんじゃない。
そして何も出来ず床につき、無力感を味わった翌朝、また母親が駆る車で学校に移送される。
そんな日々を過ごすようになった。
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『ボスケテ』
『ネタが古くてわかりません』
『古いってわかってるじゃねえか』
休み時間のトイレ。この十分足らずの時間しか、僕が自由でいられるときがない。その悲惨さをさすがに伊藤も察しているようで、返事を早く返してくれる。
『もぅマヂ無理、リスカしよ……』
『メンヘラにならないでください』
伊藤相手にふざけるくらいしか、ストレスを発散出来る方法がない。僕は自分で思っている以上に、精神的にやばいのかもしれない。やはり締め切りが近いのに、一歩も前に進めていないというのが大きな理由だろう。
授業が終わってすぐに学校を出ないと、母親が怒髪天をつく勢いで文句をつけてくるので部室にもいけない。ゆえに伊藤とは二学期になってから一度も会っていなかった。まあ二年生の教室に行けば普通に会えるのだが──伊藤にも迷惑をかけてしまうことは避けたかったのだ。
『大丈夫ですよ』
しかし僕がどれだけネガティブなことを言おうが、伊藤はそれらをするりと受け流し、そう言う。
『先輩は、大丈夫です』
その根拠は? と思いっきり問い詰めたい。もちろん伊藤が気を遣ってポジティブなことを言ってくれているのはわかる。だからそんな空気の読めない真似はしたくない。したくないのだが──それでも問いたい。
一体、何が大丈夫なんだ? と。
『ありがとうな』
チャイムが鳴る前に、僕は個室を出た。その瞬間、空気がひりつくのを感じた。
……何でもいい、何かがどうにかなってほしい。
こんなにも何かに願ったのは初めてだった。
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すると奇跡が起きた。
母親がしばらく家を空けることになったのだ。
じいちゃんが骨折して入院したというので、お見舞いと身の回りの世話をするため、母親が田舎へ帰ることになったのだ。
じいちゃんには申し訳ないが、これ以上ない絶妙なタイミングだった。じいちゃんが孫のために体を張ってくれたとしか思えなかった。ここはわしに任せて先に行け、みたいな。心配の反面、今はじいちゃんに感謝しかなかった。
僕は書いた。ひたすら書いた。
鬼のいぬ間にとはこのことである。
だがもう時間がなかった。
これでは完成したとしても、ろくに推敲出来ないだろう。
実力を十分に出せないのがわかっていることが、これほど苦しいことだとは思わなかった。
日付も変わった深夜。トイレに行くため廊下に出ると夏海がいた。僕は何も言わず通り過ぎようとしたが「兄ちゃんが何をしたいのか、私にはわからないよ」と言われた。僕は立ち止まる。
「私には、お母さんに逆らってまでやりたいことなんてないから」
僕は答えない。
「正直、兄ちゃんのこと馬鹿だなあって思う。お母さんの言うことを聞いてれば、幸せになれるかもしれないのに」
僕は答えない。
「もちろんなれないかもしれないよ? でもそのときは、お母さんのせいに出来るじゃん。自分で決めたら、自分で責任を取らなきゃいけないんだよ? それって怖くないの?」
僕は答えない。
「でも兄ちゃんは、自分で選んでる。お母さんが望む人間なんかになってやるかって、戦ってる。私は、それがすごいと思う」
僕は答えない。
「兄ちゃんは立派だよ。……頑張って。応援してるから」
「ああ」
僕はようやく答えた。馬鹿な兄でごめんな、と思いながら。
「小説、いつか読ませてね」
「いつかな」
「よっ、未来の大先生!」
「生意気だぞ」
僕は夏海の首すじに手刀を叩きこんだ。夏海が「ぐえっ」と大げさなリアクションをしてくれた。




