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12 『Ready Steady Go!』


「愚かね」


 言われ、僕は立ち止まった。その声を聞いた瞬間、体が固まってしまった。

「自分が何をすべきかわかっていない人間ほど、愚かな存在はいないわ」


 あと五分で授業が始まってしまう。さすがにもう遅刻するわけにはいかない。だが声の主を振り切れなかった。

「……おはようございます」

「あなた、小説家になりたいの?」


 体に続いて、心臓まで止まるかと思った。

「なりたいのね」

 南先生は僕の答えなど聞かないまま続けた。


「あなたくらいの年なら、そんなことを思うのも無理はないわ。子どもは夢を見るのが仕事だもの。でも断言してあげる。あなたの夢は叶わない。あなたは小説家になれない」


 ジェットコースターの頂上から落ちたときのような気持ちになった。内臓がふわりと浮いて、容赦ない吐き気が襲ってきた。


「ああ、文章が下手とか、そういうことじゃないわ。むしろ文章は──まあ高校生にしてはよく書けているほうだと思うわ」


 どうしてこの人は、今僕が一番言われたくない言葉を、こんなにも的確に選べるのだろう。


 それは誉め言葉のようで、まったく誉め言葉ではない。

 むしろ貶されるよりダメージが大きい。

 努力賞をいくら積み上げたところで、何の意味もないのだから──。


「でも問題はそこじゃない」


 彼女が声を発するたびに、体がびくっと震える。彼女の声に恐怖するよう、体の深いところにスイッチが出来てしまったようだ。


「あなたは勘違いをしている。それも大きな、ね。その勘違いを正さなければ、あなたの夢は叶わない」

 南先生の声には、僕を地獄の底へ叩き落とすだけの力があった。


「わかっているのかしら? それとも、何もわかっていないのかしら? それとも、わかっているのに、わかっていないふりをしているのかしら?」

 彼女は挑発するように言った。いや《ように》ではない。彼女は何も言わない僕に対して、はっきりと挑発の意思を持っていた。


 しかし僕は、それでも何も答えない。

 ここで何か答えることは、そのまま僕の敗北になってしまうから。


 愚かな僕にも彼女が何を言いたいのかは薄っすらとわかる。彼女は今から、とても良いことを言おうとしているのだ。


 あと数秒もしないうちに、僕は正論をぶつけられる。言い返すのも恥ずかしくなるくらい、絶対的な正義でもって屈服させられる。

 それはきっと心地よい体験になるだろう。

 完膚なきまでに敗北させられるというのは、一種の快感ですらあるから。


 けれどそれは、すべての終わりを意味する。

 屈服して、敗北して、認めてしまったら、僕が僕でなくなる。


 正しいのは大人で、間違っているのは子どもの僕だ。

 そんなことはわかっている。


 だけど僕にも意地があるのだ。ここで折れたら、今まで張ってきた意地がすべて無駄になってしまう。

 過去の自分を丸ごと否定することになってしまう。


 だから受け入れがたい。

 僕は僕のやり方で、正しさを証明したい──。


「あ、あの」

 僕は力を振り絞って言った。

「もうすぐ、授業が始まるので、失礼します」

「そう」

 立ち去ろうとする僕に、後ろから絶対零度の声が突き刺さった。果たして興味のない人間から告白されたときでさえ、人はここまで平板な声が出せるだろうか。


 僕はやめておけばいいのに、恐怖のあまり振り向いてしまった。

そこには南先生の、冷たい眼差しがあった。


 僕は慌てて目をそらし、敗走した。逃げるが勝ちという言葉があるが、これは逃げて負けるというどうしようもない結果だった。


 干からびそうな精神の端っこを何とか掴み、教室へ駆けこんだ。チャイムが鳴る直前にやってくるような生徒は僕くらいのようで、教室には生徒が勢ぞろいしていた。みんな僕が入ってくると汚いものを見るような目線を向けたが、僕にはもはやそんなものを気にしている余裕もなかった。


 ぽっかりと空いている自分の席に座る。

 その瞬間、この刑務所みたいな空気を、懐かしいと感じてしまった。


      ●


 一週間ぶりの塾だった。

 あの日、家に帰った瞬間、僕は高熱を出して倒れてしまった。

 限界を超えた代償だろう。普段家の周りしか走らないような人間がいきなりフルマラソンをしたようなものだった。


 小説は書けなかった。

 ずっと寝込んだままだった。前に進めないのが歯がゆかった。


 そして何とか体調を戻し、母親に車で送られてきた僕を待っていたのは、愚かね、という南先生の言葉だった。


 夕方になっても、彼女の言葉が消えない。

 むしろ捻挫したように、どんどん心のなかで痛みが広がっていく。


『あなたは小説家になれない』


 言われっぱなしで、本当に悔しい。

 僕のことなんか、何も知らないくせに──。


 しかし一方で、屈しかけている自分がいた。


 誰かが言っていた。夢ではなく、目標という言葉を使いなさいと。

 夢だと曖昧だが、目標なら現実感があるから、そこに向かって確実に進めるのだと。


 なるほど、それは正しい。理にかなっている。

 表現一つで物の見方は大きく変わるらしい。


 だがそれを踏まえても、小説家というのは僕にとって、どうしても夢としか思えなかった。


 いつか叶うだろうと思う。

 でも、いつだろうとも思う。

 まったく未来が見えない。


 刻一刻と締め切りが迫ってきている。

 いよいよ時間がない。しかし、思うように書けない。何をどうすればいいのかわからなかったし、誰のせいにすればいいのかもわからなかった。


 自分のせいだとは、思いたくなかった。


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