10 『サーチライトと月灯り』
高校生になってから、放課後はずっとここで小説を書いてきた。
今でこそ部員が二名という絶滅的な状況だが(いや、実質一名か)、一年生のときは僕を含めて部員は五名いて、まだ部としての体裁を保っていた。しかしそれは、言わばハリボテのような状態に過ぎなかった。
この学校は原則として、部活動への参加が強制されている。そんなわけでほとんどの人間がどこかしらの部活に入るわけだが、なかにはもちろん部活なんてまったくやる気のない人間も一定数いる。ではそんな人間はどうするのかというと、大した活動をしていない零細企業のような部活に、とりあえず籍だけ入れるのだ。たとえば文芸部とかに。
だが、彼らは小説にまったく興味のない人間というわけではなかった。わざわざ数ある部活のなかで文芸部を選ぶくらいだ、ほんのわずかではあるけれど、読書の習慣を人よりは持ち合わせていた。最初のうちは僕が小説を書いているのを見て、自分たちも書こうとしていたくらいだった。
だけど小説を書く──書き続けるという行為は、残念ながら誰にでも出来ることじゃない。
そこには強い意志が必要なのだ。
海に行ってほんのちょっと砂浜で遊ぶくらいの気持ちでは、物語を、世界を作ることは出来ない。
沖に繰り出して、深く、深く潜るつもりでなければ──。
僕の杞憂はちゃんと当たり、彼らは三日ともたず坊主になり、次第に部室に来てはただ遊んでいるだけという状況になった。
幸い、僕と彼らのあいだには見えない壁が生まれたようなので、執筆を邪魔されることはなかった。だが、ひどく居心地は悪かった。文芸部なのに小説を書いている僕のほうがおかしいみたいだった。
時間は進み、文化祭の日。
文芸部は部員が書いた小説を冊子にまとめ、来場者に配布するのが一応の流れだが、彼らは麻雀などに興じてまったく準備に参加しなかった。なので僕は自分が書いた小説を一人で製本し、当日を迎えた。
けどその準備もむなしく、冊子は全然さばけなかった。こんな学校の隅っこまでわざわざ来るような人間はいないからだ。だから僕は廊下や窓の外から聞こえてくる遠い喧噪を聴きながら、部室で一人読書をしていた。当然というか、他の部員は部室に顔も出さなかった。
そして昼を過ぎた頃、空腹を感じたので屋台の焼きそばでも買いに行くかと席を立とうとしたら、急に扉が開いた。そちらを見ると、やたら小さな女の子が一人いた。制服を着ているので中学生なのだろうが、背丈のせいで小学生にしか見えなかった。
女の子は入ってくるなり、僕をじっと見つめた。観察されているようだった。少し怖かった。それはその目が、深い穴のように思えたからだ。僕はその恐怖を拭うために、こちらからコミュニケーションを試みた。
『……よかったら、どうぞ』
冊子を一部差し出す。ホチキスで留めただけの簡単な装丁だが、それは僕が書いた、僕が作った本だった。
女の子は、それをすぐには受け取らなかった。まるで初めて人間に餌をもらう野良犬のごとく警戒心をあらわにしていた。だが最終的には『どうも』と受け取ってくれた。渡したときに見た、その指の小ささに驚いた。掴んだら折れてしまいそうだった。
女の子は踵を返し、部室から出ていった。
また一人になると、いくつも疑問が湧いてきた。
何だったんだあの子は。
不思議な雰囲気を身にまとっていた。
何を考えているかわからない──正直、関わりたくないタイプの子だった。
しかしまさか、後に彼女が自分にとって大切な存在にまでなるなんて、このときは思ってもみなかった。
僕と伊藤のファーストコンタクトは、そんな感じだった。
伊藤は翌年の受験のため、見学も兼ねて文化祭にやってきたのだ。伊藤はその頃も今と変わらずネットで小説を発表していた。だから文芸部を訪れたのは、ある意味運命だったのかもしれない。
文化祭が終わって、とうとう他の部員は部室に来なくなった。
文芸部は、実質僕一人のものになった。
それはそれで気楽だったが、やはりどこか寂しさを感じるときもあった。小説は読むのも書くのも面白い。でもそれをわかってくれる人は、もう世界にほとんどいないのではないかと思ったほどだ。
こうして部室で一人小説を書いていると、伊藤が入部してくるまでのことを思い出す。
もちろん、物理的には一人ではなかった。クラスにはそこそこ話す、橘のような友達と呼べる人間もいた。彼らと過ごした時間が、楽しくなかったとは言わない。こんな人付き合いの悪い僕にも、分け隔てなく接してくれたクラスのみんなには感謝しかない。
でも心理的には、僕は孤独だった。
孤高ではなく、孤独だった。
そこが綾瀬さんと僕の、大きな違いなのだろうけれど──。
気づくと、空が橙色に染まっていた。
●
おにぎりの海苔が、歯を立てるたびにぱりぱりと音を立てた。飲み込むたび胃が満たされていくのがわかる。すきっ腹に炭水化物がよく沁みた。
喉に詰まった。だが慌てずお茶で流し込む。
きっと向かいに伊藤がいたら、彼女がからかってくれるよう大げさに騒いでいたに違いない。
片手でおにぎりを食べながら、もう片方の手でマウスを動かし、今日書いた分をざっと振り返ってみる。
面白い──と思う。少なくとも自分では。
化けた、と思った。それまではいつものようにぱっとしない小説だったのが、今日書いた分からはまるで作者が変わったかのように、まったくの別物に感じられた。
しかも書いた量も尋常じゃなかった。
今日の僕は伊藤に匹敵するくらいの執筆速度を有していた。いや、瞬間最大風速では超えてすらいたのではないだろうか。
心臓が大きく脈打っている。
こんなの首都高を200キロでぶっ飛ばしたようなものだ。
いつも下の一般道を法定速度でのろのろと運転していた自分からしたら、それは狂気の沙汰としか思えなかった。
一体どうしたのだろう。僕は毎日ちょっとずつしか書けない、亀のような書き手だったのに。
……きっと、迷いが消えたからだろう。
僕は自分に巻きついていたあらゆるしがらみを捨て、自分の道を選んだ。その事実が僕の背中を力強く押してくれたのだ。ダムが決壊したかのごとく、キーボードを叩く指が止まらなかった。
電気が点けられないので目が痛かったが、不思議と疲れはなかった。むしろもっと書きたいと全身が震えていた。自分の意識が、肉体が、その先端にいたるまで小説を書くことに向かっていた。
まだ夕方なのにこのペースで書き続けたら、日付が変わる頃にはどれだけの文章が積み上がっているだろう。その少し先の未来を想像して、僕はますます震えた。
今は一秒でも時間が惜しい。
自分はどこまでやれるのか、その限界を知りたかった。
僕はおにぎりを一気に飲み込むと、また小説に戻った。
●
たかが小説、と伊藤は言った。
そして僕はそれを、真実だと思った。
小説では戦争を止められないし、飢えに苦しむ子どもの腹を満たしてあげることも、将来年金が貰えるのかという不安を拭うことも出来ない。
小説は現実の前に無力だ。
多くの人間は、人生に小説を必要としていない。
そんなものより大事なものが、たくさんあるのだ。
ただの一娯楽。たかが──小説だ。
読むのも、そして書くのも、本質的には時間の無駄なのだ。
こんな文化は、衰退していって当然だ。
読まれないということは、存在していないのと同じことだ。本屋に並んでいる本を、誰が端から端まで読むだろう?
書いても、そのほとんどは読まれないのだ。
書いて、読まれず、また書いて……そんな悲しい循環があるだろうか。
そんなの特攻隊と変わらない。
貴重な命を無駄に散らしているだけだ。
誰もが、それが間違っているとわかっている。
誰もが、それが切ないことだとわかっている。
だけど、それでも。
それでも書く理由があるとしたら。
それは──。
●
世界に闇が満ちた。
学校は夜が進むと、闇の気配がいっそう濃くなる。
しぶとく空の上に残っていた太陽もようやく諦めて、その居場所を月に明け渡していた。開けたカーテンのあいだから月が見えた。月のかたちは歪だった。しぼんで捨てられた風船みたいなかたちをしていた。
しかしあんなかたちの月にも、確かちゃんと名前があったはずだ。
それを最初に考えた人は、きっと底抜けに、おそらく世界で一番優しかったのだろうと思う。完全でないものにも名前を与えて、意味を持たせてあげたのだから。君も空にいていいんだよ、と。
そんな人が世界中にあふれたら、きっと戦争はなくなるだろうし、飢えた子どももいなくなるだろうし、年金も払われるだろう。……いや、年金はわからないけど。
画面の右下の数字を見ると、日付が変わっていた。僕はパソコンから顔をそらし、椅子に勢いよくもたれた。背もたれがなければ床に墜落していたかもしれない。
目を閉じる。そのままの体勢で十秒、二十秒、三十秒といる。
息を大きく吸って、長く吐いた。
息をするたびに胸が上下しているのがわかった。
体が痛い。どこかを動かそうとすると、それだけでそこが悲鳴を上げた。
命を削ったという感じがする。
小説を書いていて、ここまで消耗したことはなかった。今日だけで寿命が三年くらい縮んだ気がする。
さっきまで何ともなかったのに、時間を意識した瞬間、痛みがいっせいに襲いかかってきた。
多少のダメージは覚悟していたが、まさかここまで烈しいとは思わなかった。
しかし、痛いだけではなかった。
痛みのなかには、ほんのわずかだけ心地よさもあった。
その心地よさの正体は、達成感だった。
こんなにも書けたのは初めてだった。世のなかには何十年にもわたって毎月本を出しているような化け物が何人かいるが、そんな雲の上の人たちに、僕は今日、限りなく肉薄出来たと思う。
自分の限界を超えた。
はっきりと、違う世界が見えた。
毎日こんな風に小説が書けたらいいな、と思った。
それは想像を絶する、地獄の日々だけれど──。
そして僕は、そのまま意識を失った。




