1 『アイマイモコ』
綾瀬さんは小説家だ。
小説を書くことを許された人間だ。
それを僕が、いや世界が知ったのは、冬休みが明けて少し経った、一月半ばのことだった。
細かな変化はあっても、基本的にはいつもと変わらない一日だった。
部室で小説を書いて、駅まで伊藤と帰って、途中で行きつけの古本屋に寄って、前から欲しかった本を百円コーナーで見つけて買って、小躍りしながら家に着いて、冷えた体をいつもより長く風呂に入って温めて、夕食の準備をしていた母親に、これからご飯なんだからアイスは止めなさいと言われても無視して冷凍庫からアイスを出して舐めて、リビングのソファーに腰を下ろし、点きっぱなしのテレビに目をやって、大物政治家の不倫がバレたとかどこかの町で山から猿が下りてきて一時パニックになったとか、そんなトピックスを眺めていたら、キャスターが今回の芥川賞と直木賞の受賞作が決まったことを伝えてきた。
もうそんな季節か、と思った。夏休みの前と冬休み明け、いつもその頃に両賞のニュースが飛びこんでくる。時間の流れの速さに驚く。しかしそれ以上の思いはこのときまでなかった。
どちらも自分には関係のない、大物政治家の不倫相手が五十歳も年下の女子大生だったとか、猿が民家から奪ったパンティを頭にかぶっている姿とかと、同じレベルの話だったからだ。
もちろん受賞作をいくつか読んだことはある。
だが読んでみて、正直あまり面白いとは思えなかった。つまらなかったわけではない、あれらが好きだという人はそれなりにいるのだろう。だから今回も一応小説書きとして、プロを目指している立場として、今のところ読む気はないが最低限、受賞者の名前くらいは知っておこうと思った。
しかし今回の受賞者が画面に現れたとき、僕は目を疑った。
そこには見覚えのある女の子が、見覚えのある恰好で椅子に座っていたからだ。
彼女は大勢の記者を相手にしても、緊張している素振りさえ見せず、実に堂々と受賞の言葉を述べていた。
キャスターの声が入り、彼女について説明がなされた。
『──綾瀬花さんは現在十七歳で、都内の私立高校に通う二年生です。十七歳での受賞は、歴代最年少となる快挙です』
綾瀬花。
僕は彼女を知っていた。
なぜなら同じ学校に通う、同じクラスの人間だからだ。
昨日も見たし、今日も見た。おそらく明日も見るだろう。綾瀬さんが着ている制服は、どう見てもわが校のブレザーだった。
くわえていたアイスが落ちた。三秒以内に拾わなければ埃やダニが付着して食べられなくなってしまう。まだ半分も食べていないのに。
しかしどうしても、僕はアイスを拾う気になれなかった。
そのまま五秒、十秒とテレビに釘付けになった。
小説を書いていたのか?
まったく知らなかった。教室ではいつも本を読んでいるから読書が好きなんだなとは思っていたが、まさか自分で書いてまでいるとは。文芸部部長として色々思うところはあるが、いきなりこんなものを見せられては、言葉が見つからない。
下腹のあたりがむずむずする。何かが暴れ回って、皮膚を食い破って外に出ようとしているみたいだった。
もう片方の受賞者は禿げたおじさんだった。質が良さそうなスーツに身を包んでいたが、その表情は複雑そうだった。自分と比べて、明らかに注目度が違うからだ。会場にいない僕にもわかる。キャスターの説明も、すぐに終わってしまった。
やがて天気予報になり、東京は明日も冷え込むことを伝えられた。しかし今の僕にはどうでもいいことだった。今見たものがいったい何なのか、僕にとってどんな意味を持つのか、それを考えるのに精いっぱいだったからだ。
同級生が、自分が得意だと思っていたことで世界に認められた。
僕は後塵を拝し、見事に置いていかれたというわけだった。
しかし今回の場合、その置いていかれたのレベルが違う。
僕など綾瀬さんから見れば存在すらしていないレベルだろう。
二階から降りてきた妹が「兄ちゃん、アイス落ちてるよ」と言った。僕はそれを無視して、車や美容整形のⅭMを眺め続けた。
後ろを振り向く。テーブルの中央に鍋が鎮座されていた。どうやら今日も鍋のようだった。これで三日連続で夕食が鍋だ。
鍋がぐつぐつと煮えていた。中身はいつもの白菜や豆腐やえのきや肉団子やモヤシや人参や油揚げやその他もろもろだろうが、それらを今までと同じようには味わえそうになかった。
●
次の日いつものように学校へ行くと、校門の前が騒がしかった。
車が何台も停まって、大量の人間が詰めかけていた。テレビカメラを持った人もいた。
こんな光景、テレビでしか見たことがない。この学校の生徒が連続殺人事件を起こしたとしても、果たしてこれだけの人間が集まるだろうか。
みんな知りたいのだ、綾瀬さんのことを。
綾瀬花という小説家のことを。
そしてそんな報道陣を横目に通りすぎようとしたら、急に飛び出してきた二人組の男に呼び止められて、マイクを向けられた。大きなカメラが僕を捉えていた。
突然のことにうろたえる僕に、マイクを持った男が聞いたことがあるようなないような番組名を早口で言い、今回の受賞についてどう思うかを問うてきた。
どうして僕なんだ。他にも登校している生徒はたくさんいるのに。
しかしそう言ってもどうしようもない。僕は真っ白になった頭で「す、すごいと、思います」と言った。小学生並みの感想しか出てこなかった。
マイクを持った男は神妙な顔になり「それだけですか?」と言った。僕はうなずくことしか出来なかった。男はそれ以上のコメントは拾えないと判断したのだろう、取りつくろうように礼を言って、他の生徒にインタビューをしに行った。僕は何もなかった風を装って、早足で校舎へ向かった。
教室は、予想通り綾瀬さんの話題で持ち切りだった。
綾瀬さんの偉業は一夜のうちに知れ渡っていた。当の綾瀬さんは、まだ登校していないようだった。
自分の席に座り、一番後ろの端っこの、綾瀬さんの席を見る。そのタイミングが何人かと重なった。教室にいる誰もが、彼女の登場を待ち望んでいた。
そんな緊張感の満ちる空間に、ついに綾瀬さんが現れた。
一瞬、教室から音が消えた。
さっきまであれだけうるさかったのに、誰も言葉を発しなくなった。
綾瀬さんはいつものように後ろの扉から入り、そのまま真っ直ぐ自分の席へ向かった。そして彼女が座り、鞄を机に引っ掛けた瞬間、みんながいっせいに彼女のもとへ押しかけた。声がねずみ花火のように弾けた。
みんなは一日餌を与えられなかったライオンのように目を血走らせていた。
しかし綾瀬さんは、その矢継ぎ早の質問をにこやかに、昨日の記者会見のように受け流していた。
その笑顔は、どこか冷たく感じた。
そう感じるのも、いつも通りだった。
綾瀬さんはいつも一人でいる。もちろんクラスメイトと話しているところは見たことがあるが、昼食をともにしたり、一緒に帰ったりというところは見たことがない。
でも決していじめられたり、無視されているわけではない。
むしろ綾瀬さんのほうが壁を作っているように感じる。
どうしてそんな風に生きているのかは知らない。きっと何か理由があるのだろう。
立ち入らず、立ち入らせず──本の世界に没頭する彼女の領域を、これまで何人も侵すことはなかった。
僕も話しかけたかった。
みんなと同じように質問をぶつけたかった。
けれど席を立たなかった。
今あそこにいる連中は、普段小説なんてまったく読まない、ただ綾瀬さんという物珍しい存在に群がっているだけの、いわゆるミーハーに過ぎない。
僕は物書きの端くれとして、彼らと同じ土俵には立ちたくない。
チャイムが鳴り、先生がやってきた。浅野先生は着席を促したが、みんなはまだ綾瀬さんを囲んでいたいらしく、口々に文句を言った。
いつも通りのホームルームだった。いくつかの連絡事項を先生が伝え、みんなが気のない返事をした。
窓の外を見る。
空は薄い灰色で、太陽はどこにも見えなかった。
そして最後に「綾瀬はこのあと職員室に来てくれ」と先生が言った。それでまた教室がざわついた。
綾瀬さんは小さく「はい」と答えた。
二人が教室から出て行くと、くすぶっていた話題の火種がまた燃え上がった。
学校側も彼女が小説を書いていたことを知らなかったのだろう。きっと職員室もここと同じかそれ以上にパニックになっているに違いない。これから学校関係者を交えて、色々なことが話されるのだろう。その色々なことが僕には想像もつかなかった。
一時間目の、現代文の授業が始まった。
しかし僕は上の空だった。問題が読めず、意味が頭に入ってこない。
ふと教科書の一番後ろのページを開いた。そこには歴代の芥川賞と直木賞の受賞者の名前と作品名が、戦前から現代までおよそ数百名にわたって列記されていた。僕はそのページをじっと見つめた。
1935年に菊池寛が友人だった芥川龍之介、直木三十五の死を悼むために創設した両賞は、時代とともに今日まで連綿と続き、数多の才能を世に送り出してきた。文学賞に明るくない僕でも、何人かの名前はすぐに出てくる。
でもその受賞者のほとんどは、本屋でも、ましてや古本屋の百円コーナーでも見たことがなかった。もう彼らの作品は、どこにも残っていないのだろう。彼らの作品を読もうと思ったら、大きな図書館へ行って地下の書庫から埃のかぶった全集でも引っ張り出してこなければいけないのだろう。
わざわざそんなことをする物好きが、現代にどれほどいるやら。
何十年も前の受賞者なんて、きっとそのほとんどが亡くなっているだろう。
当時はそこそこ有名だったかもしれないが、今では誰も、何も覚えていないだろう。
諸行無常。
万物流転。
兵どもが夢の跡。
──しかし、残っている。
その名は歴史に刻まれている。
死してなお輝いている。
彼らの偉大なる功績は、現代に生きる僕まで届いた。
忘れられても、なくなるわけではない。
残り続けるのだ、永遠に。
そしてその永遠に、綾瀬さんも加わった。
僕はあらためて震えた。
その震えをうまく表す言葉を、僕は持ち合わせていなかった。
だから僕は、どうにもなれないのかもしれない。
綾瀬さんが戻ってきたのは、二時間目の途中だった。しれっと戻ってきた彼女は、何事もなかったように教科書とノートを出して、風景の一部になった。
いつも通りの綾瀬さんだった。
どんな話をしたのだろうか。気になるが、おいそれと聞ける雰囲気ではない。
それほど綾瀬さんは超然としていて──儚げだった。
●
朝のインタビューはどうせ使われないだろうと思っていたら、夜のニュースでがっつり使われて、僕のうろたえっぷりが全国に流されてしまった。たった数秒のこととは言え、ものすごく恥ずかしかった。そのせいでしばらく伊藤にいじられたのだが、それは僕の名誉のために割愛したい。
そして時間は過ぎていき──綾瀬さんと僕は、高校三年生になった。