3.
第1章の続きです。
チャイムが鈴高全体に鳴り響き、今日という長い日が終わりを告げた。
隼人は怠そうに席を立ち、帰る準備をする。帰る準備をしながら隼人はふと気が付いた。いつもはうるさい奏汰が、今日は朝と一時間目以外は話し掛けてこなかったのである。
顔を上げ教室を見渡す。居たのはお喋りをする数人の生徒と自分、そして目の前の席に座ったままの奏汰だけだった。
おかしな事に、いつもはすぐに帰りの準備をする奏汰が準備はおろか、席から立つ気配さえ無かった。
隼人にはその奏汰の姿が、何かを真剣に考えているように見えた。あまりにも真剣に考えているように見えてしまったので、奏汰の邪魔をしてはいけないと思ったが、いつも一緒に帰っている(ちなみに隼人も奏汰も部活には入っていない)ので、置いて行くのは悪いと、隼人は思い切って声を掛けた。
「奏汰、帰らないのか?」
急に声を掛けたためか、奏汰は小さく肩を跳ねさせた。ゆっくりとこちらを向く。いつもの奏汰の顔だった。
「ごめん、前原先生に呼ばれてるんだ。なんでも、手伝って欲しい事があるんだとか......。悪いけど、先帰ってて。遅くなりそうだから。」
今日来たばかりの前原に呼ばれるなんて、おかしいと隼人は思いつつも、きっと奏汰にしかできない事なんだろうと、無理矢理自分を納得させ、わかったと一言奏汰に告げた。それに答えるように、もう一度だけ奏汰はごめんと言うと、また何かを考え始めた。
今度こそ邪魔をしてはいけないと、隼人は静かに教室を出た。
気付けば教室には、奏汰と自分、そして長いふたつの影だけがあった。
大学を出る途中の廊下で、奏汰の所へ向かうであろう前原にあったのは、いうまでもない。
夕焼けに紅く染まる教室に、似つかわしくないガラッという独特な音が響き、奏汰のいる教室に前原が入って来た。
奏汰は前原が入って来たのだと気付くと、座っていた椅子から立ち上がり、まるで別人のような表情で頭を軽く下げた。前原はさも当たり前だというように奏汰を一瞥すると、奏汰の前の椅子に腰掛け足を組んだ。奏汰は失礼しますと言うと、再び椅子に座り前原へと視線を向けた。奏汰が見た前原の顔には、笑みがこぼれていた。
辺りを包む静寂は、僅か数分という短い時を、数十分にも、数時間にも感じさせるには十分なものだった。
「ねぇ、奏汰。」
そんな静寂を先に破り口を開いたのは前原だった。
「細之隼人、彼は...、面白いね...。」
前原が奏汰へと向けた笑みは、冷たく残酷な笑みへと変わっていた。奏汰の手が、無意識の内に自分の制服のズボンを握っていた。手は汗で湿り、ズボンには皺がつくられている。再び、前原が微笑む。
空気が、凍った気がした...。
さて、今からほんの数分前。
隼人はそんな事を前原に言われているとも知らず、2年C組へと向かっていた(ちなみに2年C組は四階である)。殆どの生徒は部活に行っているか、もしくは各々の家へと帰ってしまい、校舎はやたらと静かだった。隼人の重い足音が、その静けさを裂きながら響く。時折、グラウンドから聞こえる部活をしているであろう生徒の声が、まるで違う色の絵の具を混ぜるように足音と合わさり消えていく。
ではなぜ、隼人がわざわざ教室へと戻っているのかというと、明日提出のレポートを机の中に忘れてきてしまったからである。仕上がっているのなら良かったのだか、生憎レポートは全くといっていいほど出来ていなかった。
鈴高はエリート高校なので、一日でも提出が遅れれば将来に響きかねない。
どちらかといえば、隼人は将来など自由に生きられればいいわけで、将来に響くのはかまわなかった。
だが、出さなかったら出さなかったで、今度は父に怒られる。レポートの提出者チェックをしている上野とかいう男性教師だけならまだしも、父にだけは怒られたくなかった。
別に父が怖いというわけではなく、ただ単に説教される時間が長いのだ。それはもう、これでもかというくらいに説教され続ける。今までで一番長かった説教は約四時間。よくもまぁそんなにいう事があるなと、尊敬してしまうほどだった。
そして、いつの間にか隼人の頭の中では、方程式が出来ていた。
「父の長い説教=自由の剥奪」
自由が奪われるのは許せない隼人は、心の何処かでめんどくさいと思いつつも、わずかながらの自由の為にと、教室に向かっているのである。
幸い、レポートに気付くのが早かった為、隼人はすぐに教室に着く事が出来た。
そして、教室に入ろうとドアに手を掛けた時だった。
教室内から、あの前原の声が聞こえてきた。その言葉は、隼人の耳に入り、脳へ行き、全身を駆け巡った。
「細之 隼人、彼は...、面白いね...。」
ドアを開けようと伸ばしたした隼人の手が、止まった...。