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あるゲイシーの亡霊

作者: 涅槃寂静

川野の母は、十六年前自殺した。

世間が令和になる頃、街は大分様変わりした。

長らく続いていた区画整理がようやく終わり、新しい建物ができ、飲食店も増えた。そして川野の住む街にも、ついに全国展開しているハンバーガー屋が出来た。

川野は自分が受け持つビルの完成を見て、物思いに更ける。

「どうですか、川野さん」

現場監督が立ち会いに来ていた川野に声をかける。

「悪くねぇな」

彼は、一階の、まだ開業していないハンバーガー屋を見ながら、溜め息混じりに言った。



川野はそのハンバーガー屋が大嫌いだった。

ハンバーガーが別段嫌いというわけではなく、買ってあるものを食べたりすることはある。だが、彼のハンバーガーに対する評価は、世間一般的には"あまり好きではない"という部類に入るのだろう。

そもそも、その店に入ることが出来ないのだ。川野にとってその店は、世界観に飲み込まれそうなリアルなお化け屋敷や、廃れた墓地、落書きすらない山奥の心霊スポット。そのようなものだった。現実的に考えれば命に関わるような危険はない、とはいえ、わざわざ足を踏み入れる必要もない……そういう場所だった。

だが任侠の世界に身を置く者としては、怖いものがある、などと大声では言えない。

時代は変わり、街も変わった。そして川野も、変わろうとしていたのである。


一週間後。

ことの発端は、若頭に昼食を買ってこいと言われたことだ。

「マック……ですか」

「そうだよ。ウチに来てお前、何年経った。お前のピエロ嫌いの噂が広まってみろ。恥さらしだぞ」

この業界での鉄則の一つ、"沈黙は金なり"。表の世界の常識が通じないが故に、情報一つ、噂一つで命取りになる。恥さらし、どころでは済まないだろう。それは、川野も十分に理解していることだった。

若頭はタバコの煙をくゆらし、「そろそろ克服してこい」と付け足した。

「う、うす」

躊躇う様子を見せる川野。

若頭はタバコを灰皿へ押し付け、乱暴に立ち上がった。

「なにビビってんだ!あぁ!?」

「すっ、すんません!」

怒鳴る若頭に、すぐに頭を下げる川野。

「ガキじゃねぇんだ!自分の始末くらい自分でつけろ!」

若頭は、川野が何故恐怖症を患ったのかを知っている。しかし、あえて怒鳴っている。荒療治を仕掛ける気なのだ。

「俺とピエロどっちが恐ぇよ。言ってみろ」

「それは……」

答えに困る質問だった。ピエロと答えれば怖じけていることになるし、あなたは恐い人間です、などとはいくら何でも言えない。

「うるせえな、そう怒鳴んな」

川野が黙っていると、しゃがれた声が二人の間に割って入った。見かねた頭が声を掛けたのだ。

「川野、お前もわかってんだろ。俺ァ、お前がそういう病気だって分かって受け入れた。それは、お前に克服してく気概があったからだ。そうだろ?いつまでも甘えてんじゃねぇ」

低くどすの効いた声は、確かに怒鳴り声ではなかったが、若頭のそれより戦慄するものがあった。だが、頭の凄味は、川野の背筋を見事に正させた。

「はい」

一間置いて、川野は返事をする。

川野の顔つきは、まるで敵対する事務所に単身乗り込むようなものになっていた。



恐怖の始まりは、サーカス団でピエロをやっていた父の死だった。休日中に起きた、交通事故だったという。彼は、居眠り運転で歩道へ突っ込んできた車に撥ね飛ばされた。

日本中を駆け回っていた父の代わりに川野を育てていたのは、母親だった。しかし、川野の母は粗暴な性格で、「本当は子どもなんかいらなかった」などと口癖のように言っていた。幼少期の彼は、手作りのご飯すら、食べたことなどなかったのである。

そして、父の死後、川野は暴力を受けるようになる。酒とタバコに溺れるようになった母は、いつしかドラッグに手を染めるようになっていた。注射器を打つ母の姿を、川野は今でも覚えている。

父の死から約二ヶ月、川野と母の住むアパートと連絡が取れなくなり、心配になった母方の祖父母がやって来たときには、もう手遅れだった。川野の祖父母がその日見たのは、ピエロのメイクをしたまま首を吊っていた娘と、怯え、震える孫の姿だった。

川野はその夜から、ピエロの姿をした母が、追いかけ回してくるといった夢を見るようになったという。

深い深いトラウマが、彼の心に刻まれてしまったのだ。



ハンバーガー屋の前には、今まで目を逸らしてきた看板がある。イメージキャラクターのピエロが、子ども用ランチセットのおまけの展示ケースに、肘をついて笑っている。

普通の人には興味を惹くものかも知れないが、川野にとっては恐怖を招くものでしかなかった。

早速冷や汗をかいている自分に、はっ、と気が付き、いけないいけない……と思い、川野は冷静な精神でもって、店内へ入る。

揚げ物と油の匂いが香る。昼時とあって、やはり人は多い。ざわつく店内。彼は注文の列へ並び、スーツの襟を正して、誰に向けるわけでもなく、緊張していない素振りを見せる。

(大丈夫だ、モスと似たようなもんだろ)

と、ピエロのキャラクターのいない、別のハンバーガー屋のことを思い出して、自分を安心させようとする。

列が少し前へ進んだ。

店内を見渡すが、ピエロの絵や看板は見当たらない。アプリケーションの紹介や、新商品の宣伝ばかりである。曲も、メジャーな邦楽が流れていて、大した恐怖はなかった。

列が少し前へ進んだ。

川野は目立たない程度に大きく息をつき、メニューを見上げる。しばらく見ない内に、メニュー表に新商品を宣伝する液晶画面が増えている。

時代も変わったものだなぁ、そう思いながら、また列が少し進んだので、前へ一歩踏み出した。

そのとき。

じんわりとした悪寒が全身を包み、再び冷や汗が滲んだ。まるで列を形成する集団から急にはずれてしまったかのように、ざわめきが遠くなる。視線を感じる。でも、見てはいけない。そう思いながらも、呼吸を整えつつ、視線をゆっくりと左側へ向けた。

ピエロが立っている。

先程まで、そこには誰もいなかったはずなのに。

心臓の音が、やけに大きく響いた気がした。

赤と白のストライプの服を纏い、口には大きく裂けたかのようなべに。目元は青く塗られ、目玉は虚ろ。帽子をかぶっている。そしてそれら全ては、川野の恐怖の対象でしかない。

川野はすぐに目を逸らし、前を向いた。並ぶ列の、次は自分の番である。注文し、受け取れば帰れる。

彼はいつしか不可抗力で見てしまった、ピエロが出てくるホラー映画のポスターを思い出す。ポスターのピエロはこちらを睨んでいたが、今自分の横にいるそのピエロにも、そのときと同じような印象を受ける。

しかし何故、あのピエロは立っているのだろう。風船を持つわけでもなく、笑っているわけでもなく、何かサービスをしている様子もない。

疑問に思った。恐怖がある故か、奇妙な興味が産まれてしまったのだ。

きっと勘違いだった。恐怖から、変に見えてしまっただけだ。もしかしたら、風船か何かを持っていたかもしれない。

息を飲み、勇気を振り絞って、すっと視線を左に向ける。

しかし、先程と変わらぬ様子で、ピエロは突っ立っていた。だが、先ほどと違うところが一つ。その手には五歳くらいの、小さな男の子の手が繋がれていた。

あまりの非現実さに、つい、視線を外し、もう一度見てしまう。やはり、間違いではない。

徐々に呼吸が荒くなるのが分かった。

誰かが自分に声をかけたような気がしたが、緊張していて何も分からない。五感の全てが、ピエロに集中していた。

子どもはピエロと同じように虚ろな目で直立し、それと手を繋いでいる。

あれは一体何なのか。人間が二人、自分の気付かない間に増えるなどということがあるだろうか。

そんなことを頭の端で考えながら、今更ながら、おかしなことに気が付く。

何故、誰もアレに関心を払わないのか。ピエロの立っている真横の席の家族も、近くに座る一人きりのスーツの男も、騒がしく笑う大学生であろう集団も、誰一人見向きもしない。

おかしい。これはおかしい。自分だけに見えているとしたら、アレは本当に人間なのか。

迫り来る焦燥感とは裏腹に、ただ突っ立っているだけのピエロが余計に不気味に感じられる。さっさと注文をして、早く帰ろうと思った。しかしその瞬間、手を繋がれていた子どもの目がすうっと開いて、血の気を取り戻し、当たり前なのだが、普通の人間の子どもの様になった。

怯えた表情を見せる子ども。どうやら手を繋いでいるピエロから、手を引き離そうとしているようだった。その目には、徐々に涙が浮かび、やがて泣き叫び始めた。

暴れる子ども。しかし、ピエロはまるで置物のように微動だにしない。子どもの手をしっかり掴んだまま、全く動かない。

ピエロと目が合った気がした。

もう呼吸を整えるとか、昼食とか、それどころではない。今すぐここを立ち去らねばならない。しかし、「ママー!」「パパー!」と助けを呼び、泣き叫ぶ子どもの事がどうにも気にかかった。

両親はこの店内にいるのだろうか。どうか助けに入ってくれ、と願うも、相変わらず誰一人見向きもしない。

ピエロがゆっくりと動き始めた。

思わず、体がビクッと震える。

ピエロは、自分が入ってきた出入口とは、別の出入口から出て行こうとしているようだった。子どもの手を引いたまま……。

子どもは、必死に手を引き剥がそうとしている。幻覚だと考えたいが、彼を助けなければ、一体どうなってしまうのか。

そういえば、若頭にも同い年くらいの息子がいた。そんなことを、ふと思い出した。若頭には、沢山世話になったなぁ、と。ホストをやっていたから、商売柄ヤクザについてはよく知っていたけれど、義理人情なんか廃れた現代で、一から十まできっちり教えてくれた。何度も何度も怒鳴られたけれど、それでも何かと気にかけてくれた。

まるで走馬灯のように……川野は過去のことを思い出した。



高校を出た川野は、年齢を偽り、ホストクラブで働くようになった。齢十八にして、浴びるように酒を飲み、毎日のように吐き、女性を喜ばせることに自分の全てを捧げていた。

そして二年後のある日、彼は怖いものについての話をすることになる。客の一人が心霊作家か何からしく、そういう話を集めているというのだ。曰く、よりリアルなものが好ましいという。そこで川野は、身の上話をすることにした。正直な所、誰かに打ち明けたいという思いもあったかもしれない。とはいえ、話してしまおうか、と思った心にブレーキをかけるのは些か難しく……川野は、ぽつりぽつりと、語り始めた。

思い出してみれば、拙いながらも何とか怪談調に話すことが出来ていたと思う。まるで自分は恐怖症を克服しましたよ、と言わんばかりに。

だが、何がいけなかったのか。

川野の話を聞いていた客の一人に、今、籍を置いてる事務所の元組員がいた。その男の行動により、後日、川野の運命は変わってしまう事になる。

彼の話の何を聞いてそうしようと思ったのか。男は、ピエロの姿でドッキリを仕掛けたのだ。

後ろから静かに近付き、川野の肩を叩いた男。振り返った途端、川野は持っていた酒を盛大に溢した。

割れるグラス。響く女性の悲鳴。悲鳴は歓喜に近いものもあったが、混乱した彼には、あの日の祖母の悲鳴を想起させるものに他ならなかった。

震えながら逃げる川野を見て、男は面白がって追いかけ始めた。一心不乱に逃げていた彼は、あろうことか女性客を突飛ばし、そのまま夜の町へ消えてしまった。

後に聞いた話では、女性は足を強打し、全治1ヵ月の怪我を負ったという。当然、川野は職場の事務室へに呼び出され、酷く叱責された。否、叱責というよりは、それは法外な金銭の請求に過ぎなかった。つまり、「とにもかくにも、まず慰謝料を払え」というものだ。迷惑をかけたのは事実だが、勿論、川野に金を払う気などない。それに、そもそも会社としてあるまじき請求である。

オーナーは、川野が年齢を偽って働いているのを脅しに使っていたが、酒を飲ませていたのは店であるし、彼はこういうときの為に、聡明な先輩から色々と教わっていた。

川野は口を開きかけたが、すっと黙った。まだ開店前だというのに、店内がざわついていることに気が付いたのだ。川野を脅していたオーナーも、段々近付く足音に、扉の方を見る。

川野も振り返った。すると、扉から、スーツ姿の男が数人入ってきた。

「オーナー、お久しぶりですね」

その内、一番ガタイの良いサングラスの男が声をかける。

「あぁ、若頭!すみません!うちのモンが迷惑かけて……」

息巻くオーナーを手で制し、若頭は語る。

「いや逆ですよ。家内から話聞きました。こちらこそ、人のトラウマほじくりかえすような真似したみたいで」

そう言い、頭を下げた。他の人間も、揃って頭を下げる。

組の若頭に頭を下げられ、オーナーは動揺し、必死に頭を上げさせようとする。

オーナーの弁明をよそに、自然と頭を上げた若頭は、それまでどうしたらいいものかと、一足下がっていた川野に対し、声をかけた。

「川野くんだったね。うちのバカが本当にすまない。これは全然関係ないんだけど……ま、アイツ、怒られたことに逆ギレしてどっか行っちゃったからさ」

そう言って、若頭は笑う。

これは後日聞くことになるのだが、"どっか行っちゃう"とは、この世から去ってしまった、ということだった。それも当然のことで、組に反発してただでは済むわけもない。

しかし、その反発のほとんどは今回の件には関係ない。ただあのドッキリ男が、常日頃から勝手にふつふつと溜め込んでいたものを、『あってはならない方向』へ爆発させただけなのだ。

「あ、はぁ……それはなんか、ありがとうございます」

『全然関係ない』と付けられた手前、川野はどう返していいか分からず、微妙な返答しかできなかった。

混乱する彼をよそに、若頭はオーナーに話しかける。

「オーナー、川野くんがよければなんだけど、この子うちで預かれんかね」

「えっ」と声を上げたのは川野だった。

「それは……いや、私としては別に構わないのですが……」

事件のあった日、オーナーは店を空けていて、少々誇張された表現で、後からその内容を聞いていた。ピエロを相手に半べそかきながら怯え回るヤクザ……そんなものをオーナーは想像できなかった。

「だそうだが、どうするね、川野くん」

「いや、俺は……」

口ごもる川野。

「別にいいんだけどね。ウチのもんが迷惑かけたし、もう歌舞伎町では働けねぇだろうからさ。手近に就職先紹介したってだけ」

川野は一度口を開いて、閉じ、唇を嘗め、考え、唇を固く結び、もう一度口を開いた。

「……俺、ピエロが怖いんです」

「そうだな」と頷く若頭。

「でも、このままじゃ絶体にいけないと思って、東京に飛び出してきました。

でも……今回みたいなことになっちまって……多分、今のままじゃ何やってもうまくいかねぇ、って思います」

全員が黙って聞いている。

「だから……もしチャンスをもらえるなら、同じこと二度とならないように、死んでも頑張らせて下さい」

頭を下げる川野。

噛み締めるように頷く若頭。そして川野を見て、笑い、肩を叩いた。

「男じゃねえか」と。


若頭の妻というのは、あの日川野から話を聞いた、心霊作家兼、怪談師の女性だった。

たった一度話しただけだったが、何かを感じ取ったのか。彼女は、事務所で川野の面倒を見てやってもいいんじゃないか、と打診していた。

きっと恐怖症を克服できるから、と。



連れていかれたら、きっとあの少年は死ぬ。

川野はその時、何となくそう思ったという。

「待てやァ!」

そして、川野は腹の底から地鳴りよような声を張り上げた。

ピエロの顔がこちらを向く。その目は、左目が前を向いたまま、右目だけがこちらを向いている。口元は大きく裂け、笑っていた。

ここに来て感じる、ただ純粋な恐怖。首を人形のように動かし、ケタケタと笑うピエロ。足がすくんで動かない。ピエロは少年を離さぬまま、浮いているかのようにじわじわと近づいてくる。

死ぬ。死にそうだ。死ぬかもしれない。一体誰が?

この危機的状況で、川野は自らを俯瞰する。

この家業に就いてから、死にかけた場面はいくらかあった。それは勿論、普通の仕事をしているよりかは、生死に関わる場面も多いだろう。それを5年も続けてきたのだ。彼の生死観には、多少なりとも恐怖に対する慣れが見え始めていた。しかし、それにも関わらず今自らを襲っている恐怖は一体何なのだろう。

そんな疑問が沸いたと同時に、川野はピエロの胸元をぐっと掴んでいた。

『な……なずぉえ……』

ピエロは、何故、と不気味な声を上げたように聞こえた。

川野は答えた。

「何にビビってんのか、俺は知ってるからな」

相変わらず心臓はバクバクと速く鼓動を打っているし、呼吸は途切れ途切れ。冷や汗は出ているし、目眩もひどい。

途切れそうな意識を必死で繋ぎ止め、それでも彼はピエロを睨み付けていた。

突如、ピエロの左手が川野の顔面目掛けて飛んで来る。

川野はそれを受け止め、

「子どもを解放しろ……」と、息も絶え絶え、ピエロに向かって言った。

ピエロの右手には相変わらず子どもの手が握られていて、泣き叫んでいる。

ピエロの左手に力が込められていく。

その顔は、目をひん剥き、裂けていた口元をぱっくりと開き、牙を覗かせるという、悪魔のような表情になっていた。

ピエロは嗤う。

しかし、川野はその意識が途切れる最後まで抵抗した。少年の為、最後まで戦ったのだ。

「いいから……家にいる子どもを解放しろ!!」

自分でも、"俺は何を言ってるんだ?"と疑問が浮かんだその瞬間、川野は病院のベッドで目を覚ました。



「若っ!目ェ覚ましました!川野さん!」

聞き覚えのある声が、若頭を呼んでいる。

不思議と、頭がすっきりとしていた。

「おう、災難だったな、川野」

「若頭……」

川野は若頭の顔を見て、何故か安心した。

だが、記憶を辿ると、ハンバーガー屋に行ってからの記憶がない。

「すんません、俺、何があったかよく覚えてなくて」

そう言うと、若頭は少し驚いた表情を浮かべて、笑った。

「そうだったのか……それでそんな怪訝な顔してんだな」

若頭は事の顛末を語った。

川野が殴り倒したのはピエロなどではなく、川野から注文を受けようとしていた、アルバイトの青年だった。青年は川野に声をかけたが、呼吸を荒げ、冷や汗をかく彼に対し、どうにも様子がおかしい、と感じたという。そして青年は、救急車を呼ぶ為、事務室へ駆け出そうとした。

そこに川野は「待て」と一喝。

近づいてきた青年の胸ぐらを掴み、「家にいる子どもを解放しろ」と叫び、そのま倒れた。

その後、誰が呼んだのか、救急と共に訪れた警察から、青年は事情聴取を受けた。念の為に、と調査された青年の家には、本当に監禁された少年がいたのだという。

青年は、監禁罪により逮捕された。

だが、川野には覚えはなく、一つ唸ってよく思い出そうとしてみると、はっ、とあのピエロの形相が浮かんだ。ただ立ち尽くすピエロの姿が。恐ろしい形相でこちらを見つめる、ピエロの姿が。おぞましい記憶がフラッシュバックする。

「何か思い出したのか」

若頭が問うと、「いえ……」と、川野は首を横に振った。

「でも何か、ピエロとか……何が怖かったのか、忘れちまいました」

最後に、川野はそう続けた。震えたり、呼吸が乱れてりしている様子は、もう見られなかった。


きっと怖かったのは、最初から自分の命を失うことではなかったのだ。

ピエロのメイクで首をくくった母の姿を見たあの日から、大切な誰かの命をピエロに奪われたように思えて。それがただただ、ずっと怖かったのだ。


後に新聞で、助けられた少年の顔を見て、川野は安堵した。それはあの日、ピエロと手を繋いでいた少年と同じ顔をしていた。



自称霊媒師のゼロは、知り合いの刑事である都築に依頼され、誘拐犯である男と面会を果たしていた。

男は精神鑑定の結果、『ある精神異常』と判断され、『ある独房』に閉じ込められている。


男は、独房の中で叫び回っていたが、ゼロの姿を見るなり、ピタリと静かになった。

ゼロは一息つき、

「この国で悪魔を見ることになるとはな」

と、英語で男へ語りかけた。

男は意味不明な言語をぶつぶつと喋ったかと思えば、勢いよく強化アクリル板に張り付いて、目を剥き、やはり英語でゼロへ返した。

「うるせぇ、この裏切りもんの血族が。てめえが俺に何をできる?」

男は笑っていた。

ゼロはひとつため息をついて、「あのな」と、口を開いた。途端に、アクリル板がカタカタと音をたて始める。

「でけえ口叩くんじゃねえよ」

ゼロが男を睨めつけると同時に、アクリル板にひびが入る。男は金切り声を上げ、気を失った。

「都築、ジョン・ゲイシーって知ってるか?」

ゼロは、後ろに立っていた都築刑事に声をかける。

「あれだろ、アメリカのピエロ殺人鬼だ」

ゼロは頷いた。

「死後、悪魔と呼ばれる存在になる霊魂っていうのが存在する。ああいう人並み外れたサイコパスのものは特にな。土地柄なのか日本じゃあんまり見かけないんだが……」

話を区切って考え込むゼロに、都築は訝しげな顔をする。

「考えすぎなのかもしれねぇけど、近々デカい事件が起こるかもしれん。今回みたいに、怪しい事件が起こったらまた報告してくれ」

「ああ、留意しとくよ」

ぶっ倒れている男を後に、二人は面会室から出て行った。

その後すぐ、倒れた男の口から声が漏れる。

「あうあ…ま」

何を言っているのか、誰も聞いている者はいなかった。

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