自由性自己認識障害の解消という矛盾
私は漠然とした不安に駆られていた。その衝動がどうしようもなくこれを綴っている。それで不安が溶けていくからだ。
改善されていく社会。暇だから働いて、生きるためだと言い訳をつけていた過去の時代は終わりを告げた。もはや働かなくても苦労はない。
それは真なる自由であり、束縛されていた時間は消え、多くの人々は過労から一転して暇になった。自由になった私達は最初こそ遊んだり、ただただ話したりしていたが、かつてギリシャの哲学者がそうであったように、持て余した暇は自由や生命、死についての思想へ追いやった。
~するために生きている。つい数年前まで私達が持っていた生きる目的には仕事が必ず絡んでいた。良い家庭をもつために良い仕事に就くとかだ。けれどもそれは消えた。
何もしなくても安泰した生活があるとき、不思議か必然か、皆が自分は何のために生きているのか疑問に思った。自分は一体どんな自己を有し、なにゆえに生きているのか認識できなくなったのだ。いや、もっと明確に言うなれば私達は自分が自分であることを断言できなくなった。
私はこれをある種の病気として、自由性自己認識障害と名付ける。私自身もこの病気に掛かっている。昔から多くの人達が自分をどんな自分であるか認識できていないと言われていたが、皆そのことに無自覚であった。
今発生しているこの精神病はそのことを自覚してしまっているのである。自分を認識できなくなると言っても名前などが分からなくなるわけではない。しかしこの病気に陥った者は例外なく自分はどんな人間であるかを説明する際、名前や出身校などを説明して終わる。
つまりは外的な要因でしか自己を認識できず、外から与えられた称号以外の、精神的な願望や希望、価値観、情熱などが喪失もとい、そういった存在を認知する発想が消えているのである。
あらゆる物事が機械化されたことで子どもは~なりたいと思うことがなくなり、青年たちは夢を潰えて、それより上は忽然といままでの常識と束縛が無くなった。そうして作られたこれ以上良くなることのない最高の状態に不安を抱き、眩暈を覚えているのだ。
人は現状より良い状態を求める性質がありながら、今が最高であるがゆえにより良い何かを求める衝動が叶うことは決してない。
そんな停滞の状態に絶望した人達が自分が自分であることを認識できないこの状態を解決するために自殺を図っていく。
いっそそれで誰かが迷惑を被ることがあれば問題を解決するという目的を持った人達が現れるのだろうが、自殺に関しても完璧に管理された公共施設があるため問題は起こりえない。
そう、いっそ社会に何らかの不自由さや問題が起こればそれを解決するために何か行動と、社会の向上ができるのだ。私達がこの精神病から解決する手段はいくつかある。
一つは自殺。自己の存在そのものを抹消することである。しかし生命本能として死に対し恐怖を覚える以上、これが行なえるのは漠然とした不安が死の恐怖を上回ったときのみだろう。私には無理だった。
もう一つが最高の状態であるこの社会に問題を起こし、機械では解決できない状態にすることだろう。私が今していることもその一環である。
理屈はいかにも単純で、生きる理由、目的が無いのならば作ればいいということだ。かつての人々が仕事を生み出したのと同じだ。だから私は人々の多くが抱える自由への不安が問題であると提示する。
それを解決する試みが増えることを期待して書き連ねる。そうした目的を持っているから、これが解決しない限り私は不自由になれる。
――――実存は本質に先立つという言葉がある。
この世界において人間だけが何のために生まれたかを理解できない。例えばペンなどは書くために作られたという本質がある。けれど人にはない。
生きていくなかで本質を見つけ出さなければならない。だが皆それを見つけることができないからこの不安に包まれたのだ。
だから私はこの不安から逃げ出す道を記述している。つまりは『この精神病を解決するために生きている』と思える人を作ろうとしている。そして思惑通り解決しようとする人がいれば、彼らはこの不安から解放されるだろう。
しかし精神病が解決すれば、再び問題のない最高の状態になってしまう。
だが同時、最高の状態になることで、皆が不安に駆られ再び問題が生じる。そしてそれを解決しようと思考する者が現れる。それを繰り返す。
根本的に自由性自己認識障害が治ることはない。この問題が解決することは問題が生じることであり、問題が生じることで問題が解決する矛盾的なものである。それが解決した状態であると認識するか否かは読者に委ねる。
――――『自由性自己認識障害の解消という矛盾』より抜粋。